とらんあんぐる組曲   作:レトロ騎士

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『愛情は麻薬に近い。
 愛を失う事による恐怖。失ったときの絶望。
 愛を得る事による快楽。得られたときの希望。
 どちらも人が狂うには十分過ぎる原料だ。
 もし愛により狂気に堕ちた人を救う物があるとすれば、皮肉にも、それすら愛であるに違いない。』



第五章

         ◇

~八月三日~午前一時。

 

 喉が焼けそうに乾いている。頭がガンガンと鳴る。自分の奥底から湧き上がる衝動を押さえようとするだけで体中がギシギシと痛む。

 体の中の何かがささやく。「その衝動に全て任せよ」と。

 黙れ――。

 耕介は自分に巣食うそいつに心の中で怒鳴る。

 いつからこうなっているのかはわからない。だが必死にそれに抵抗しながら、体はゆっくりとその場所へと歩んでいく。見なれた景色に、たかか数日離れていただけなのに懐かしさがこみ上げて来た。その誘惑に思わず走り出しそうになるが、僅かに残る理性がなんとか足の動きを押さえた。だが、ゆっくりとではあるが、確実にその場所へ進んでいく。

 彼女の待つ、さざなみ寮へ。

 

 

 

         ◇

同時刻――さざなみ寮

 

「どういうことじゃ!」

 

 薫の怒鳴り声が寮に響く。

 

「どういうこともない。もし耕介さんが影蜘蛛に乗っ取られていた場合、最悪のケースを防ぐ為その媒体――耕介さんを封印、消滅させるという事。こう言う事は、裏の薫姉のほうが判っているじゃろ」

 

 薫に対峙して座っている和馬が、至極冷静に言う。

 

「くっ……」

 

 夕方になり、和馬がさざなみを訪れて彼に今までの経緯を話した。もともと今回の事件を理由に薫と十六夜に会いに半分遊び気分で来ていた和馬は、とんでもない大事になったことにしばし慌てていたが、さすがに神咲の表を継ぐ予定の者だけのことはある。すでに現状を分析して落ち着いた様子だった。

 夕食時はこの大人数とは思えないほど皆黙って静かだったが、ちょうど夜中から始まった寮内での会議に――美緒とみなみは半分眠っていたが――あたりは騒然とした。知佳はリスティを呼び出してこの緊急時を伝えようとしたが、山の方へキャンプに出かけていたため連絡がつかなかった。そんな距離では念話で話すこともできない。

 

「おい、勝手なこと言うなよ小僧。一応あんなんでもうちには大切なヤツなんでね。簡単にそんなことされるわけには行かないんだ」

 

 真雪が半眼で数馬を睨む。霊力の少ない和馬にとって、己の能力は剣技である。しかし、目の前の女性が少なくても自分と同じかそれ以上の実力があることに気付き、彼は少しだけ臆した。

 

「わ、わかってませんね。耕介さんの意識がやられれば、それはもう耕介さんじゃない。ただの肉体だ。そうなったら覚悟はしてもらいますよ」

 

 そう答える少年に真雪は「ふん」と息巻いて、煙草に火をつけた。和馬は吹きかけられる煙を嫌そうに顔をしかめながら、

 

「どちらにしろ、耕介さんと影蜘蛛を探しましょう。全てはそこからです」

「っへ、お前も何もわかってね―な。耕介が影蜘蛛ってのにかちあってなきゃ、あいつは必ずここに帰ってくる。……んでもし取り憑かれてその欲望ってヤツを満たそうとしてんのなら――」

 

 真雪の後方で、ずっと無言で窓の外の様子を感じ取っている十六夜に煙草の先を向けて、

 

「結局、十六夜さんのところに来る。どっちにしろ、ここで待ってりゃやってくるさ。だから十六夜さんはああやってんだ」

 

 自分が耕介の事どころか十六夜すら理解していないと言われ、和馬はむっとする。こんなヤツに、十六夜の何がわかると彼女を睨むが――

 十六夜が目を閉じ、庭へのガラス戸に寄りかかったまま呟いた。

 

「――来ました」

 

 

 月明かりがぼうっと庭先を照らす中、一人の青年が虚ろな表情で仁王立ちしている。薄汚れた包帯を左手に巻くその青年は――

 

 

「耕介!」「耕介お兄ちゃん!」

 

 仁村姉妹が同じに彼の名を呼ぶ。その声に反応したのか、彼の体が震え出した。

 

「み、みんな……逃げろ……。俺の意識があルうちニ、十六夜サンを連レて……早く!あ、ああああああ!」

 

 絶叫し耕介が倒れた。そして震えが終わったかと思うとゆっくりとたち上がった。

 あらためて女性達が呼びかけるが彼は微動だにせず一点を見つめている。まるで、彼女以外は何も目に入らぬように――

 

「……十六夜……俺と同化して一つになれ。そうすれば、俺達はずっと一緒になれる」

「耕介……様……」

 

 耕介の抑揚のない声。だが、それでも彼女の愛しい人の声に代わりはなかった。思わず涙がこぼれそうになる。

 

「なーるほど、それがアイツの望みか。隠してた欲が金やら殺戮なんかじゃなくて十六夜さんだとか、ほんとどこまでいっても悪人にはなれないヤツだね」

 

 真雪が薄く笑った。

 薫は対照的に顔をしかめて、

 

「同化……影蜘蛛め、耕介さんの望みを利用して、十六夜の力をも奪う気でいます。なんとしても、十六夜を守らんと、そのときが最後じゃ」

 

 そのとき、和馬が耕介を指差した。

 

「薫姉、あれ!」

「!」

 

 和馬の指し示す先。耕介の背中の下方に、不自然に盛り上がったこぶのような部分――

 

「影蜘蛛か!あれを耕介さんから切り離せば何とかなるかもしれん。十六夜は下がって!行くよ御架月!」

 

 薫がガラス戸を引き、外に飛び出る。それに次いで二人も飛んだ。

 

「和馬……、仁村さんまで!何しよるとですか」

 

 二人が薫の後方で構えている。

 

「耕介さんの本当の実力、俺も見てみたくてね」

「アイツがあたしより強いなんてやっぱり実感わかねーからな。こうするのが手っ取り早い」

 

 煙草を足でもみ消し、真雪はそう嘯いた。

 

「それによ、あの二人に幸せになって欲しいのはお前だけじゃねぇんだ。見ろよ」

 

 促され、薫は動かない耕介に警戒を怠らずに視線をずらす。

 さざなみ寮の中で、みなみがバットを、美緒が威嚇するように爪を出して臨戦体制をしている。知佳もゆうひと愛、そして十六夜を守る形でサイコバリアの準備をしていた。

 

「皆様……」

「へっ、十六夜さん、これが無事終わったらまた宴会しましょう。……それから、ここまでみんな巻き込んでおいて、耕介と別れるようなことがあったら十六夜の刀身に落書きしますからね!」

 

 そう毒づいて、真雪は手にした木刀で、耕介に打ち込んだ。すると、が、と鈍い音を立てて切っ先が地面にめり込む。彼は僅かに半身をずらし回避したのだ。

 

「くそ!」

「邪魔……スるナ」

 

 耕介が軽くはたく様に真雪を押しのける。ただその動作だけで、真雪の体が大きく吹き飛んだ。

 

「あう!」

「お姉ちゃん!」

「心配すんな……ちょっと油断しただけだ」

 

 姉妹が会話を交わす間に、目の前では姉弟が剣を振るっていた。

 

「はぁぁぁ!」

「せええぇぇ!」

 

 ギン、キンと金属音がリズミカルに鳴る。凄まじいほどの二方からの剣撃を耕介は気を纏った腕で軽くいなしていた。解けた包帯ですら体の一部のように、二人をけん制して動く。

 

「神咲一刀流、長月の突き、時雨!」

「神気発勝……真威、楓陣刃ぁ!」

 

 和馬から無数の突きが、その九十度方向から気の光弾が飛んでくる。耕介は無表情のまま上方に軽く三メートルほど跳躍してそれをやり過ごす。しかし、まだそれで終わりではなかった。

 

「弥生の切り、桜月!」

「真威、緑円刃ぁ!」

 

 広い範囲で剣跡の残像を残して、和馬の刀が下段から一気に跳ねあがる。そして、薫の持つ御架月からいくつもの神気が円形に発生して、落ち行く葉のように耕介の周りを舞った。これで逃げ場は完全に封じて――

 

「かぁ!」

 

 ビクン、と腰が跳ねあがるような声を耕介が上げたかと思うと、彼を取り囲む気弾が消し飛んだ。そして、あっさりと体を捻って剣をかわして着地する。

 

「そ、そんな……」

 

 今の攻撃は、前のように力をセーブしたものではない。急所以外なら力いっぱいの攻撃でも耕介には致命傷にならないと判断して、渾身の力をこめた技である。それを――

 

「ちっくしょう!俺のとっておきを見せてやる!」

 

 寝かせた刀の刃を上に向け、上段に構える。

 

「オリジナル技の実戦テストだ……文月の烈、雷!」

 

 袈裟切り――切っ先が一本の線を描く。耕介はそれを詰まらなそうにひょいとよける。

 ヒュッ――ニ撃目。円の動きで刀が切り返される。腕ではなく手首によって返された刃は、止ることなく常に「活」の状態で標的に逆袈裟に向かう。耕介が少しだけ興味を覚えたように、後ろに飛んだ。そこで――耕介の心臓の位置で和馬の剣が止まり、柄に両手を添えて、

 

「はああああ!」

 全体重を乗せて、突いた――!

 

「!?」

 

 刀は止まっていた。いや、止められていた。耕介の腕に僅かにめり込んでいたが、それだけだ。血の一滴すら流れてはいない。さらにその姿が突如かき消えて、

 

「な――が!」

 

 残像すら捕らえる事が出来ないスピードで和馬の後ろに回りこんだ耕介が、和馬の首に左手をかけた。きっとこのまま力を加えれば小枝を折るように和馬を殺せるだろう。ひっ、と少年が軽い声で鳴く。

 

「あ……ぐ」

 

 和馬の体から力が抜けていく。耕介の手から、影蜘蛛が和馬の霊力を吸い取っているのだ。もともと彼の霊力が少ない為ある程度奪うと興味を失ったらしく脱力した彼から手を離す。

 

「げ、ほ……格が――違いすぎる!」

 

 半ば悲鳴のように和馬が叫んだ。

 薫の頬に冷や汗が流れる。耕介はゆっくりとではあるが十六夜に近づいていく。

 

「お兄ちゃん!ごめん!」

 

 ドウン、と爆炎が耕介の背中から上がった。見れば知佳が美しい羽を具現化させ、息をついている。彼女の能力で影蜘蛛を撃ったに違いない。真雪が思わず手を叩いて、

 

「ナイスだ知佳!」

 

 今の一撃なら、影蜘蛛だけを撃ち、耕介の方にはそれほどの被害はないはずだ。真雪がほっと息を吐いた瞬間、立ち上る白煙の中には――

 

「そんな……影蜘蛛の本体の部分を気の盾で守ってる。しかも知佳ちゃんの力の直撃を受けて傷一つついてないなんて」

 

 薫の嘆くような呟きが闇夜に溶けた。

 とてもではないが勝てる気がしない。しかも、今はその力の大半を影蜘蛛に吸われ続けている状態でこの強さである。もし、これで本当に同化してその必要がなくなったら、久遠の時の二の舞ではすまないかもしれない。

 

「耕介さん……正気に戻ってください!」

 

 薫が絶叫した。微かな希望は、やはりそれだけの意味しか持たず耕介に変化はなかった。

 

「無駄だ薫姉!耕介さんは体を完全に操られている」 

 

 その耕介が、薫に近づいて手を伸ばした。いつのまにか獣のように肥大した腕。そこからは禍禍しい気がうねり、爪先が薫の胸を狙っている。

 

「薫様!」

 

 御架月の言葉にはっとなって、薫があわてて霊剣で止める。胸の寸前で刃が交錯し、バチバチ、と火花を散った。

 

「うわああ!」

「御架月!?」

 

 圧倒的な霊力に押され、その力を失っていく。そして御架月は遂に気絶したらしく、その人型が霊剣に吸いこまれた。そして同時に御架月から神気の光が消えた。完全放出型霊剣の霊力が途絶えた――つまりそれは、薫の霊力がもうほとんど使い切ったと言う事である。全身で息をする度、薫から力が抜けていく。みれば和馬も満身創痍で膝を突いていて、真雪も始めの攻防で足をやられたらしく、助けを求めるのは無理だ。

 

「……耕介……さん」

 

 これまでか、と薫が目を伏せた瞬間、

 

「神咲先輩!」

 

 みなみの声に振り向くと、彼女がえい、と何かを投げる。思わずそれを受け取って――

「十六夜!?」

「薫、私を使ってください。私の霊力を、少しあなたに回します」

「なにをゆうとる!耕介さん――影蜘蛛の目的はおまえを取り込み耕介さんの精神を安定させてその肉体を奪う事じゃ。そうなれば、どうなるかはわかるじゃろ!」

「……大丈夫ですよ、薫。耕介様を信じてください」

 

 十六夜の強い表情。

 それを見ていた和馬が驚いている。

 

「止めるんだ十六夜!薫姉!」

 

 しかし、そんな彼の言葉が聞こえたのか聞こえていないのか、

 

「……わかった。うちも、十六夜と耕介さんの絆に賭ける!」

 

 渾身の力をこめて、薫はたち上がった。膝が笑ってまともに構えられない状態だが、十六夜の決意を無駄にしたくない。

 

「十六夜、それでどうすればいい?」

「私を構えたまま、耕介様の方に向かってください。後は私が話をします」

 いまさらそんな、と言いたいが、どちらにしろ自分にはもう限界がきている。なら、全てを十六夜に託すことにした。

「わかった」

 

 みなが見守る中、薫は十六夜を携えて耕介に近づく。

 するとうれしそうに唇を曲げて、耕介が腕を広げた。

 

「オオ、イザヨイ。ワレノモトニキテクレタカ」

「耕介様、聞こえますか?」

「アア、キコエテイル」

「あなたじゃありません、私が話すのは、耕介様の心です」

 

 ビクリ、と耕介が止った。ゆがんだ笑顔が消える。

 

「耕介様。あなたが今望んでいる事が本当に私を取り込む事だとしても、私はそれを望みません。私は、あなたと他愛のない話をして、一緒に花を愛でて、私の点てた茶をおいしそうに飲んでくれるあなたを見て、共に肌を重ねて……。私が望むのは、そういう小さな幸せの積み重ねです」

 

 無表情の耕介の手が動き、静かに十六夜の刀身を取る。薫は渡すものかと力を込めようとするが、十六夜が小さく彼に渡すよう訴えた。

 

「もし、あなたがずっと私と共にいる事を望むなら、あなたが死んだ後私も自らの呪縛を断ち切り天に帰ります。私が一番悲しいのは、今の耕介様が耕介様でなくなる事。今までたくさんの悲しい事があり、それを乗り越えてきましたが、きっとそれだけはたえる事ができないでしょうから」

 

 耕介が柄に手を当てて掲げると、月の光が滑らかな金髪の聖女をそこに写しこんだ。

 

「だから、さざなみに帰りましょう。そして、私のそばにいてください。貴方に残された時間を、私にください」

 

 十六夜の手が、そっと耕介の頬に添えられた。そこには、熱い液体が流れている。見えなくても、それが涙である事は間違いようがなかった。以前私を好きだと言ってくれたとき、彼が流していたものとなにも変わっていない。

 

「耕介様……」

「十六夜……キミは、どうしてそこまで俺なんかを……」

 

 ふるふると、十六夜は笑顔のまま首を振って、

 

「あなたは、暗闇しか知らない私が、唯一光を感じれる存在なのです。だから……『俺なんか』などと言わないで……」

 

 

 「私などに――なんて、言わないでください、十六夜さん」

 と。

 

 それは、以前十六夜に向けて、耕介が綴った告白の言葉。

 それを今、自分に返されて、彼女がその台詞を忘れないでいた事が嬉しくて――。

 

「すまない、十六夜……」

 

 大粒の涙をぬぐうことなく、耕介はその愛しい人を抱きしめた。

 

 

「なんかすっごい、いい話になってきましたね」

「ううう、うちこういうのに弱いんや……」

 

 愛とゆうひがハンカチを取り出している。

 

「あはは……でも、ちょっと恥かしいかも」

「わ、わー、わー」

 

 知佳とみなみは顔を赤面させている。

 

 そして真雪と美緒はと言うと――

 

「なーんか、さんざん耕介が暴れたわりにゃ、いいとこだけアイツが持ってってやがるな。あとでたっぷりいじめてやろう」

「お詫びとして、ばーげんなっつとかいう高ーいアイスを一ヶ月分買わせるのだ」

 

 にひひ、と意地悪く笑った。

 

 

 十六夜が、耕介の胸に顔をうずめ、手を青年の腰に回す。

 幸せな空気が生まれ始めた、そのとき――

 

「きゃあ!」

 

 何を思ったのか、耕介が十六夜を突き飛ばした。

 

「何をしてるんです、耕介さん」

「薫……十六夜を連れて離れろ。こいつが、無理やり体を乗っ取ろうとしている」

 

 ぜは、と息をつく耕介。それを見て、薫が気付いた。

 

「しまった!まだ、影蜘蛛が憑いたままじゃ」

 

 耕介の背中のこぶが蠢いている。欲望に取りつくその妖魔は、強い負の欲求がなくなれば依り代の体を操る事が困難になる。だがいちかばちかの賭けに出たのだろう。必死で抵抗する耕介の動きに合わせるように、その胎動が大きくなっていく。しかしそれも一時の事で、力を使いだんだん小さくなっていくが――

 

「きゃああああああ!」

 

 十六夜の悲鳴があがった。耕介がなにごとかと見ると、十六夜からどんどん霊力が抜けていく。そのスピードは凄まじく、その姿が徐々に薄らいでいった。

 何故――?原因は、すぐにわかった。耕介の持つ霊剣である。

 傷ついていた左手一本の支配にかろうじて成功した影蜘蛛が、己の霊力吸収能力を耕介からだけではなくその手に持った霊剣十六夜からも吸い取っているのだ。それは、霊力の塊である十六夜にとっては、生命を削る行為に他ならない。

 

「十六夜ぃぃぃ!」

 

 耕介の絶叫が響く。和馬と薫が剣と符術で影蜘蛛を引き裂こうとするが、影蜘蛛の周りだけ発生している耕介の力を利用した気の盾の前にまるで歯が立たない。耕介も自由の利く右手で何とか握り締めた左手を取るが、腕や手首は動いても指先だけはガンとして柄から放れない。地面に右手を打ちつけて拳から血が吹き出ても指は動かない。そしてそうしている間にも、消えていく――。十六夜が、自分の目の前で――。

 

「うわあああ!十六夜ぃ!」

 

 半狂乱で耕介が叫ぶ。目の前の彼女は苦しそうに、それでも笑顔を向けている。そう。あのときの少女と同じだ。全てを終えようとしたものだけが得られる、悟ったようなその笑顔――。

 

「だめだ!諦めるな十六夜。俺はまだ、君になにもしてあげていない!」

「泣かないで……耕介様。私は、……幸せでしたから」

「俺と共に生きてくれるんだろう?残された時間を精一杯生きるんだろう!約束したじゃないか十六夜……」

 

 ぽたぽたと涙が落ちて、十六夜の頬を濡らす。しかし、その涙の向こうに見えるのは、契りを交わしたときに見た白い肌ではなく好けて見える土気色の地面――。

 

「薫……切れ!俺の腕を切り落とせ!」

 

 僅かなためらいもなく耕介が叫んだ。

 

「そ、そうだ薫姉!それなら最悪の事態は――」

 

 その言葉に、和馬は、はっと顔を上げて姉を見るが――

 

「だめじゃ……」

 

 だが薫は悲痛に答えた。

 

「駄目じゃ!そんなことをして失血で耕介さんが意識を失いでもしたら、影蜘蛛は貴方の体を完全に支配します! もしそうなったらここにいるうちらは皆殺しじゃ。……今のままなら十六夜が消えて耕介さんの霊力が尽きた後、影蜘蛛を封じれる……」

「そんな……こんなことって……こんなことってありかよ!」

「十六夜……すまん」

 

 なすすべなく息をついて地面にうなだれる和馬と薫。自分の無力さと消え逝く十六夜に、彼らも――そしてそれを見つめる寮内の女性達も、また涙していた。

 ふと、先ほどまでの耕介の絶叫が消えた。彼は不思議と落ちついた顔をして、手のひらの霊剣を見ていた。

 

「こう、すけさん?」

「薫、十六夜を、頼むな」

 

 いきなりの言葉に、その真意がわからず思わずあっけに取られる薫。

 そして、青年はいつも寮内で皆に見せていたいつもののほほんとした顔で十六夜に笑う。

 そのとき、十六夜は本能的にその予感が駆け抜けた。今までの諦めからの笑顔が消えて、それは恐怖に染まる。

 

 

「だめ、耕介様!」

 

「十六夜……愛してる」

 

 

 たったひとつの言葉を告げて――

 

 ドシュっ。

 

 

 霊剣十六夜が耕介の腹から背中に、そして影蜘蛛を貫く。

 

「神気、発勝……」

 

 霊剣が主の力を受けて光り輝き、その矮小な妖魔を燃やす。きぃぃ、とか細い声を上げ、それは土塊になり活動を停止した。誰しも呆然とする中で和馬がいち早く現状を把握した。

 

「薫姉、封印を!」

 

 弟の声に弾かれたように、薫が急いで封印の術を施す。それを半分閉じた目で確認して、耕介は内臓から逆流した血を口から垂らしながら微笑む。そして、正座をするように足を曲げたまま横に倒れた。刺さった霊剣をそのままに――

 

「耕……介様?」

 

 霊剣に注がれた霊力により力がある程度戻った十六夜が、聞こえた音を頼りに倒れた耕介に駆け寄る。触れた手に伝わる耕介の体。愛しい彼の体から自分の化身が生えている。そして、その反対側からも。

 

「いや……です……」

 

 水よりも粘着質のある液体がその手を汚す。それが、耕介の体から流れ出ているものであることが信じられない――。

 

 

「ぁ…い……いやああああああああ!」

 

 

 十六夜の叫び声が、漆黒の闇と星たちの中で、ただ悲痛に響き渡っていった。

 

 




う、く……俺の左手に眠る闇の力が……!
静まれ、しずまれ、シ・ズ・マ・レ……

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