とらんあんぐる組曲   作:レトロ騎士

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 ――。
 と、誰かが言った。
 それは、遥かか過去のことだったのかもしれないし、遠い未来のことなのかもしれない。
 
 ――。
 と、誰かが答えた。
 それは正しかったのかもしれないし、間違っていたのかもしれない。

 ――。
 と、誰かが願った。
 それは叶ったのかもしれないし、叶わなかったのかもしれない。

 ただ、それでも。きっと。


その獣、人の身に焦がれ、遠吠えを哀歌に。
序章  「始まりの草原」


         ◇

 野原を走る。

 

 やわらかい、草。

 踏みしめるたび、土の温かさが足を伝う。

 弾む体に風が当たり、己の肌が感じる感覚が強くなる。

 そんなことの繰り返し。

 ただそれだけの行為が、彼女にとっては楽しくて、夢中になって走っていた。 

 頭が空っぽになるまで走る。別に忘れたい事があるわけでなく、といっても、特に覚えていたい事があるのではなく。

 『無意味』である事の意味など考えもしない。しいて言えば、楽しいからという事だけ。

 生きるために必要な知識以外、「学ぶ」という事に興味はなかった。

 

 彼女が生まれて初めて「疑問」を持ったのは、不思議な生き物――「人間」と出会った時からだった。

 

 初めての出会いでは、命を狙われた。

 とても硬い石の付いた木を飛ばす道具で追い掛け回され、この生き物は敵だと判断した。

 

 二度目に出会ったのは、冬の食料の乏しいときだった。

 空腹になりながらも威嚇をしていると、その生き物は手にしていた野菜を一つ、自分のほうへ投げてよこし、去っていった。他の生き物から、食料をもらう事など初めてだった。

 

 三度目では、何匹かの小さな人間に、石を投げつけられた。

 

 そして、四度目。

 そのときの自分は、人間の匂いのする鋼の牙にかかりかけ、足を怪我をしていた。

 怪我から来る熱で意識を失い、気が付くと足に白い布が巻かれ、ぬるまった芋粥が置かれていた。

 そして数日間世話をされ、自分は命を助けられた事に気付く。

 

 どんな生き物であれ、今まで出会ったものは同じ種類なら個体が違えど同じ反応があった。

 無視するもの、襲い掛かるもの、逃げ出そうとするもの。

 しかしこの生き物だけは、そのどれにも当てはまらず様々な反応を返してくる。

 それが不思議でたまらず、いつのまにか、この生き物の事を良く知りたいと思った。

 

 ある日の事。

 彼女がいつものように水を飲むために川に行くと、人間が一人倒れていた。

 匂いをかぐと、まだ生きてはいるようだが、かなり弱っている。あちこちに擦り傷があるので、崖から落ちたのかもしれない。

 ふと思いつき、彼女は、気まぐれに人間の真似をしてみる事にした。

 不思議な生き物である人間の真似をしてみれば、人間の気持ちがわかるかもしれないと思ったのだ。

 そして何枚かの大きな葉っぱを見つけると、銜えて運び、血で赤くにじんだ部分にそれをかける。そして、野いちごや木の実、きのこを見つけては人間の口元に落とす。それを繰り返した。

 なんとなく――本当になんとなくだが、この人間は、雌なのだろうと彼女は思った。

 女は黒髪の美しい少女であったが――彼女には人間の年齢はわからない。ただ大きさからして、それほど年老いてはいないのだろうと思った程度だ。

 小一時間もたつと、その人間は目を覚ました。目覚めると同時に、すぐさま自分の様態を確認し、女は驚く。

 葉っぱをかけられ、野草を供えられている。寝ているところを子供にいたずらをされたような、そんな自分の様子。

 それでも、それは間違いなく『善意』なのだと感じさせる。

 大きな葉の幾枚かは、傷口から落ち、その上に転がった食物が、まるで祝宴のために盛り付けたかのようにそこにある。

 

「……こ、れは……」

 

 そして、女は彼女を見る。

 

「狐、これはお前がやったのか?」

 

 もちろん、彼女に人間の言葉の意味がわかるわけではない。

 だが、なんとなく「くーん」と鳴く。

 

「くっくく…、狐に聞いてもわかるわけないか」

 

 上体を起こすと、女は野苺を口に含む。

 

「すっぱいな…。しかし、余命あと半月と言われた私を、狐が助けようとする、か。縁とは不思議なものだな」

 

 立ち上がる。まだふらついていたが、歩けないほどではないらしい。

 

「礼を言うぞ、狐。何もしてやれることはないが…そうだな、これをやろう」

 

 女は、小さな麻紐を取り出す。なんと読むべきか、無数の文字が墨で彩られているが、狐には、ただの模様としか思えない。

 

「獣に装飾品はいらぬかも知れぬが、お前が危険に陥ったとき、きっと助けになろう」

 

 獣は不思議そうに匂いを嗅いだが、特に暴れもせずにそれを首に通した。

 一度だけ、くぅん?と鳴いた。

 

 女が笑う。

 

「ああ、では縁があればまたな」

 

 

         ◇

 そしてその「縁」は、それからわずか半月でめぐり合わせることになる。

 彼女――狐は、弓矢を持った人間から逃げていた。

 

 油断していた。

 忘れていた。

 

 そもそも、人とは、自分たちにとってそのような存在ではないか。

 キュウンと、自分の泣き声のような音を立てて、弓から放たれた矢が空を裂く。それは、何の障害もなく彼女を襲ったが、首の麻紐が一瞬大きく輝くと、見えない何かがそれを弾いた。

 驚いた人間――猟師は慌てて何度か矢を放つが、不可視の壁が、そのことごとくを防ぐ。だが、数発目の矢を防いだ時、麻紐は、砂に変わるかのようにサラァ…と崩れ、同時にその役目を終える。

 もう、あの障壁は生まれない。

 そうと気付いた訳ではないだろうが、猟師が最後の矢を撃ち、それは彼女の脇腹を掠めた。

 最後の力を振り絞り、狩りの手段を失った人間から、できる限りはなれる狐。

 そのかいあってか、人間から逃げ出す事は成功したが、走るうちに傷口が開き、体の自由が利かなくなった。

 なんとか川辺にたどり着き水を含むが、体が受け付けない。

 

 死――。

 

 動物全てに等しく宿る感情――恐怖が生まれる。

 震えて――、それは体の痙攣か、孤独ゆえに死を甘受できない事の恐れか――。

 葉のすれる音が鳴った。

 

「…おお、やはりお主はいつぞやの…」

 

 草を分けいって、現れたのは。

 人間。あのときの人間だ。

 

「山道を通る途中、光が見えたのでな。もしやと思ったが…。すまなんだ、どうやら守り手の紐は、お前を助けきれんかったようだな」

 

 死相が見て取れる狐を痛々しく見つめる。その顔には、不思議と獣に浮かんでいるそれと同じ――いや、それよりも強くすらある相がある。

 彼女もまた、死期が近い。

 

「まったく――魂を食らう呪い、か。村を救うためとはいえ、妖術なんぞに手を染めた報いよの。おかげで桁外れに強い妖力は得たが、とんでもないものももらってしまったか…」

 

 息を荒げている狐の頭を、優しくなでる。

 

「おそらくは、この力を野放しにしないためなのだろうがな。まったく、良くできている。お前とここで、死に逝くのも一興か――」

 

 狐が、己をなでる女の手を弱々しく舐めた。

 女の手がぴたりと止まる。その長さの分だけ、女は考える。

 

「……おまえ、生きたいか?」

 

 返事はない。だが、獣の目に宿る光は、肯定しているように思えた。

 女は続ける。

 

「生きたい、よな……」

 

 しばし目を瞑り――

 

「…ふっ。どうせ滅するなら、恩人……恩狐に我が身を託すか」

 

 立ち上がる。

 腰から取り出した匕首で手のひらを切り、つぅ…っと流れ出た血液を狐の口元にたらした。

 こくん、と狐の喉が鳴り、飲み込んだ事を確認して印を切った。

 

「今はまだ、我の体と今のお主の体が不規則に変化するかも知れぬ。本来のお主の寿命を十と七回繰り返す年月を経て、体はお主の意のままとなるであろ」

 

 そして、呪を紡ぐ。

 

「私の分まで生きて――いや、違うな。お前はお前のあるがまま、生きろ。呪いが消えたこの体は、妖力が満ち、年老いることもなくなるだろう。おそらく、多くの権力者が望んで止まないこの世を支配し、『久遠』に生きる力をおまえは手に入れる。――だが、おまえであれば、きっと、間違った道には進む……まい……」

 

 徐々に、女の体から力が抜ける。

 

「なぁ……? 人よりもやさしき獣よ……」

 

 その言葉を最後に――彼女は狐の横に倒れた。

 一人と一匹の体が溶け合うように重なるのを、誰も見ることなく。

 

 

 

         ◇

 

 川辺に、『一人』の狐が居た。

 姿は人。だが心は狐。

 それでも、体が人である以上、心もだんだんと人間に近づくことだろう。

 

 目を覚ました彼女は、いつのまにか居なくなってしまったあの人間を思い、「くーん」と鳴いた。

 思うように動かない体を使い、河に近づき水を飲もうとする。

 

 狐は知らない。

 その女がどんな道を歩んできたのかを。

 

 狐は知らない。

 女が、最後に自分に何を望んだのかを。

 

 狐は知らない。

 これから自分にどんな数奇な運命が待ち受けているのかを。

 

 

 手にいれたのは、老いによる死を克服した命と、イカズチを呼ぶ力。

 また、それよりも価値のあるのは、憧れた生き物の体。

 そして――その生き物である、人の持ちうる人としての業。

 

 

 そして、河面に映る自分の姿を見、彼女は声なき悲鳴を上げる。

 

 それが、全ての始まり。

 


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