とらんあんぐる組曲 作:レトロ騎士
序章 「秋の季節にも側にいる春」
◇
ある日の学校からの帰り道で、少年はなんとなく公園を突っ切ってみた。
特に意味があったわけではない。
理由を探すとすれば、気分を変えてみたかったからとか、鳥がその方向に飛んでいったからとか、そんなちっぽけなことだ。
公園を横切ることで家路には多少遠回りになるのだから、本当に気まぐれだとしか言いようが無い。
だが、実際に歩いてみると、夕日に染まった木々の景色が驚くほど綺麗で、踏みしめる土の香りが清々しかった。
以来、彼はその道を使うようになった。
彼が彼女を選んだ訳も――きっと、似たようなものだろう。
◇
落葉樹に色が付き始めたのは、つい先日の――十月上旬のことだった。
通年に比べて、やけに遅い紅葉の兆しである。
テレビでも、気象予報士がその「異常さ」を取り上げていたが、冷静に考えればむしろ当然のことだといえる。
今年に限らず、今までのどの年であれ、それなりの「異常」を持っていたのだ。ある年は集中豪雨に、ある年は気温の高低の大きさに。
一年を通した気象が、今までの平均値を取りつづけるほうがよほど気色が悪いのではないか――。
そう考えれば、その「異常」だという事がかえっていとおしく思えてしまうのである。
「ひねくれてるかな、俺」
自分の意見を述べた相川真一郎は、その少女のような整った顔立ちにそぐわない台詞で最後にポツリと毒づいて、朝日の差し込む窓から自分の正面で座る彼女の方へと視線を動かした。
赤毛の少女は、少しキョトンとした顔で真一郎を見ていたが、咥えていたストローを唇から放し――
「そうですね、ちょっと捻くれてるかもしれないです」
それから可笑しそうに口元を押さえて、
「でも、嫌いじゃないですよ。そういうの」
微笑んだ。
純正の日本人にはまずありえない彫の深い顔は、自然な赤さの美しい髪とマッチして、言いようの無い美しい容姿である。釣りあがった目が多少きつく思えなくも無いが、幼さの残る表情が、それをチャームポイントに変えていた。
花で彼女を喩えるとしたら――
『さくら』
ちょうど、彼女の名前と同じ樹木が思い出されるだろう。
綺堂さくら。
真一郎の恋人である。
出会いから、様々な事件に巻き込まれながらも、いまではこうして、登校前の朝食を共にする仲にまでなった。
ちなみに――ここは真一郎の家のリビングルームである。
真一郎が一人暮しをしていることを良いことに、さくらは時々こうして半同棲のようなことをしている。付き合い自体は相互の両親公認であるが――
「さすがに、毎日はまずいかな……」
と、思わないでもないが、朝起きた時に彼女の笑顔があるという誘惑に、勝てずにいる。
一年前のさくらを知るものには想像もつかないほどの弾んだ表情。
そんな彼女を見て、真一郎は、「ああ、可愛いな」と素直に思う。
人は、彼女のことを『美人』とか、『綺麗』と評価するが、真一郎がそう感じたことは、ほとんどない。
過去に思いをはせてみても、猫や鳥と戯れる姿や、保健室のベッドで恥ずかしそうに布団を被っているところなど、どう考えても微笑ましいとしか言えないような光景しか、思い出せないのである。
真一郎の幼馴染の一人、野々村小鳥に言わせると――
「それだけ、真くんの前でしかそういう姿を見せていないってことだよ」
ということらしい。
まあ、正直なところ、恋人が自分だけにしか見せない表情があるというのは嬉しいことである。男特有の身勝手な独占欲とはいえ、やはりそこは譲れないところである。
そのこともあり、もし他の男がさくらのことを「綺麗だ」といっても、真一郎はあまり気にしない。それはある意味、その男がいかにさくらを理解していないか、というように思えるからだ。
だからこそ、彼女を「かわいい」という男は要注意である。
もっとも要注意どころか――すでに、そう言ってさくらに近づいてきた後輩の一人を校舎裏に呼び出し、
「手ぇ出したらコロスよ♪」
と、笑顔で釘を指していたりする。
言われた少年は、「相川先輩の綺麗な顔の奥底に、鬼を見ました……」と、友人に証言したらしい。
小柄な体と中性的な顔により誤解している人が多いが、真一郎はそれなりに喧嘩には強い。
小さいころから空手をしていたので、そこいらのチンピラから女性を守る程度の心得はある。
そうは言っても小鳥意外の知り合いの女性は、皆往々に真一郎より強いのだが……まあ、これは彼の特異な環境のせいなので、彼を攻めるのはかわいそうかもしれない。
なにしろ、護身道の有段者が数名に、忍術使いが一人、暗殺術の使い手に、幽霊などという反則者までいる。
悪友の端島大輔曰く、
「おまえが守るっていうより、おまえがみんなに守られてるっていう図の方が、絵になるような気がする」
とのことだ。
「まあ、良かったじゃないか。彼女はか弱い女の子で」
と続いたのだが、ここにも、大きな落とし穴がある……。
「どうしたんですか?先輩」
「あ、いや、ちょっとぼーとしてただけ」
まさか、他の女性のことを考えてましたとは言えない。
さくらは、少し訝しげな顔で真一郎を見つめていたが、特に変には思わなかったらしい。またすぐに微笑を浮かべ、食器の片づけを始めた。
キッチンで軽く洗い物を済ませ、再びリビングに戻ると、自分の椅子に座――らずに、後から真一郎の首に手を回して、抱きしめる。さくらはそのまま甘えるように、自分の頬を真一郎の顔に擦り寄らせる。
少年は少し困ったように――嬉しくないわけは無いので、少し照れた感じでお互いの顔を寄せ合う。
カップルの熱い抱擁――には違いは無いが、二人の場合少しだけ異なることがあった。
「先輩……お腹すいた」
「……はいはい」
苦笑をしながら、常備しているウェットティッシュで首筋を拭い、少年は差し出すように首をかしげた。
少し湿った跡の残る首筋の血管は、トクントクンと生命のリズムを刻んでいる。そこに少女は軽く息を吹きかけ、真一郎がくすぐったそうに体をゆすると、「クスッ」と小さな笑みをもらしてから――牙を刺した。
プツっという音と共に、小さく鋭い痛みが真一郎を襲う。しかしそれも一瞬のことで、コクンコクンと少女が喉を鳴らすのに合わせて血液が抜けていくと、意識を失う時の独特の快感が続いていた。
(少し……癖になるかもしれん)
血を吸われることに、初めこそ違和感を感じていたが、慣れてしまった今、新しい感覚が目覚めつつある気がする。
そんなどうでもいいことを考えていると、すっと、さくらの唇が離れた。
そして、牙を突き立てた場所に子犬のように何度も舌をはわす。ぴちゃりという少し卑猥な音に、真一郎はともあらば襲い掛かってしまいそうな自分を必死に押さえていた。
「……ふう」
ほうっと、さくらは息をつく。顔が僅かに昂揚していた。
「おいしかった?」
「……はい」
飛び切りの笑顔で、さくらが答えてくれた。
夜の一族と呼ばれる、人ではない血を紡ぐ一族。
そして、祖父に人狼の、父に吸血鬼の血を引くハーフ。
それが相川真一郎の恋人、綺堂さくら。
物語は、そんな二人の夢のような幸せな日々と――決して消えることの無い冷たい現実が形を作る。