とらんあんぐる組曲 作:レトロ騎士
それは色にほとんど影響を与えないが、取り除こうとすれば色は崩れていく。
濁りを見つけようと必死になっていたのなら滑稽だが、ふと気づいてしまった彼は辛辣だ。
純粋な彼は純粋であるがゆえ、濁りを無視できずに色を壊すだろう。』
「ふんふん…。ふふんー…。おーれーはー…。こうっすけー…。きみのーなかーまだー…」
午後のさざなみ寮。
昼間は騒がしかったここも、学生達はそれぞれの休日を満喫するため出かけており、住人達の姿はあまり見受けられない。もっとも、そう言う事に関係の無い職種もあるわけで、そう言う者たちは普段と変わらない生活を送っている。
そんな者達の一人である耕介は、いつもの日課に取り組んでいた。
浴室の脱衣所の横でガタタン、ガタタン、と、だいぶ寿命の悲鳴を上げるようになった洗濯機を前にして、耕介はぽんぽんと衣類を投げ込んでいく。2メートル近い身長と引き締まった筋肉を持つ青年が、楽しそうに鼻歌を歌いながら洗濯機に向かう姿はそれなりに異様ではあるのだが――
「どーしてそれが嫌になるほど似合うのかね、あんたは」
「いきなりなんですか、真雪さん」
火のついてない煙草を咥え、後ろから声をかけてきた女性――仁村真雪のある意味感心したような声に、耕介は唇を曲げて答えた。
「いや別に―。あたしがひいひい言いながら原稿の仕上げを終わらせたって言うのに、あんたがムカツクぐらい機嫌よさそうだったから、からかってみたくて」
にひひ、とイタズラが成功した子供のように真雪が笑う。
耕介は残っていた衣服を片付けながら、呆れた顔で彼女を見た。
「それで、何のようですか。まさかそれだけってわけじゃないでしょう」
「いや、それだけ」
「……」
「怒るなよ。十六夜さんにはあんなにやさしいのに、えらく態度がちがうじゃないか」
「なっ……」
探るように横目で除く真雪の言葉に、耕介の顔が真っ赤になる。
あの事件――薫が御架月を霊剣として使うことを決め、それと共に、耕介と十六夜が寮内で公認の中になって一年。なんどとなく寮生に冷やかされてきたが――最もその大半は、『さざなみお笑いコンビ』として耕介の相方である音大生の椎名ゆうひ、そして真雪の二人であるが――、いまだにこの手の免疫が出来ていないらしい。
「やれやれ……。やるこたやってるくせに何でここまで純情なんだか。ま、いいや。さっきのは冗談はともかく、病院に知佳を迎えに行ってくれないか?」
「洗濯も終わりますからいいっすけど……それなら最初から言ってくださいよ」
「わーたって。じゃ、あたしはこのまま風呂入って二日ぶりに寝るからよろしく~」
ふああ、と大きなあくびを一つすると、真雪は半分目を閉じ酔っ払いさながらに浴室の前へ入ってくる。耕介がいるにもかかわらず服を脱ぎ出した彼女に、青年はあわててそこから出た。ところが自室へ向かう廊下の前で、再び真雪の呼ぶ声が聞こえ、振り返ると彼女はドアから顔だけ出してこちらを見ていた。
「真雪さん、今度は何ですか」
「ああ、言おうか言うまいか悩んだんだけど、やっぱり言う事にした」
「だからなんです?」
「あの変な歌はやめておけ」
「……」
日差しに関して言えば六月というのは微妙な季節で、太陽の強い光が暗い雲によって遮られて辺りに大きな明暗を分けさせる。
耕介は木洩れ日も似たその空間を、従姉弟でありさざなみ寮のオーナーである牧原愛から借りた彼女の愛車、通称「ミニちゃん」に乗って突き抜けていった。
海鳴駅を通り過ぎると見えてくる大きな建物――海鳴大学病院に、真雪の妹「仁村知佳」は通っている。このあたり、それなりに複雑な事情があるのだが――まあ、今は特に触れないでおこう。
駐車場にミニを停め、病室へと出向いた耕介だが知佳の担当主治医である矢沢医師に「もう少し検査に時間がかかる」と告げられ、彼は中庭のベンチで一休みする事にした。
手近な自動販売機から冷たい緑茶を買い、ほっと息を吐いてのんびりと辺りを眺め、鳥達の囀りと街の喧騒に耳を傾ける。
「のどかだねえ……」
ポツリと彼は呟いて、耕介は美味そうにお茶をすする。
「くすくすくす……」
「?」
鳥達に混じって子供の笑い声が聞こえた。
人影は無かったはずだと訝しがりながら辺りを見回すが、変わった様子は無い。当たり前だ。さきほど述べた通り、声は鳥達と聞こえてくる――すなわち空から。
耕介は上を見て、ああ、と納得した。
彼の視線の先にいたのは白いワンピースを着た、十四、五くらいの少女だった。木の枝に腰掛けるように浮かんでいる。
「何がそんなにおかしいんだい」
耕介がそう彼女に声をかけると、少女は小さな体をびくっと震わせ、驚きというより
は不思議そうな顔をして、青年の元へ降りてくる。
「えっと……もしかしてあたしのこと……見えるの?」
「ああ、一応そういう関係の仕事もしてるから。で、どうして俺を見て笑ってたんだい?」
目を細めて話し掛ける彼に安心したのか、少女は耕介の隣にちょこんと腰掛けた。
「うん、だっておにーさんが、まるでお爺さんみたいなことしてるんだもん」
そう言って屈託なく笑う少女はとても元気に見える。だが、今この場でそれを見ることができるのは強い霊力の持ち主である耕介だけだった。それはつまり、彼女がこの世の存在でない事の証明――。
ひとしきり笑った少女は、僅かに俯いた後、何か決心をしたように耕介に向き直った。
「あーあ、久しぶりに笑ったな~。ね、おにーさん、そういう仕事してるって、もしかして御払いとかできる?」
十六夜を使った霊の強制的な浄化と違い、符や印の術――神咲の裏の技はまだ習い始めたばかりであるが――
「あ、ああ。まだ見習みたいなものだけど」
「じゃあ……あたしを成仏させてくれないかな?」
「キミが望むならそれは構わないけど……いいのか?」
我ながら、祓い師としての自覚を欠いた発言だとは思う。
「……うん、あたし、三ヶ月前にこの病院で死んじゃったんだ。どうしても、気になる事があって残ってたんだけど……それもすんじゃったし」
「わかった……じゃあ、そのまま目を閉じて」
ん、と口をあけずに返事をして、少女は瞳を閉じた。耕介は彼女の正面に立ち、常に持ち歩いている符を懐から出す。右手で印を組み、左手で構えたそれに精神を深く移していく。
「あたしね、彼氏がいたんだ」
少女は目を閉じたまま、静かに語り出した。耕介はそれにかまわずに次の印を組む。
「去年の春に告白して、あれだけつまらなかった毎日が、どんどん楽しくなって……」
ぽうっ、と、符が淡い光に包まれる。
「夏休みにはいっしょに叔父さんの所に旅行にいこう、って約束したんだけど――いろいろあってあたしは死んじゃった」
符は変わらずに燐光を放ちつづけている。すでに準備は整っていたが、耕介はそのまま彼女の紡ぐ言葉を聞き続けた。
「それで彼の事が気になって、こっちに残ってたんだけど――そいつね、最近新しい彼女ができたのよ」
一瞬――本当にほんの一瞬だけ耕介の手が震える。
「わかってるんだ。俊君は私のこと忘れたわけじゃないし、今でも好きでいてくれている。それにその女の人もすごくいい人で、あたしが死んで泣き崩れていた俊君に、本当に優しくしてくれている。でも、彼のそばに別の人が寄り添ってる姿を見ると、悔しくて悲しくて――」
少女の閉じられていた瞳から、あふれるように一筋の雫がこぼれた。
「あたし、このままここにいても、どんどん自分が嫌な奴になりそうで――」
「もう、……大丈夫だから」
耕介の呟いた言葉が合図となり、符がすっと少女の胸元に吸い込まれた。と、同時に、彼女の体が浮かび上がり、徐々に耕介の目からも、薄らいでいくのがわかる。
「あ……」
「大丈夫、キミは嫌な奴なんかじゃない。とってもいい子だよ。俺が保証する」
「ありがとう……。おにーさん、あたしね、さっき笑ったとき久々に幸せな気分になれたんだよ……」
「そか……。……あの、さ。一つだけ聞いて良いかな?」
「スリーサイズ以外なら」
涙も拭かないでおどける彼女に、耕介は合わせて笑顔を作る。
「キミはさ、なんで……(嫉妬はしても、その女の人を恨まないんだ?)」
言いかけて途中で止める。それは禁句にも近い質問のはずだ――今から消えていく彼女には。最後の瞬間は、そういう負の感情とは無縁で送るべきだろう。
「……いや、なんでもない」
「そっか……」
不可解な彼の様子にも、少女は満足そうに笑う。それは、全てを終えようとしたものだけが得られる、悟りの表情だった。
薄らいでいく少女の体は、美しくも儚い。思わず耕介は手を伸ばそうとするが、意味のないことだと気付き、代わりにぐっと握り締めた。
そして――少女は消えていく。
「おにーさん、あたしが……を……たのは……」
姿と共に掠れていく声。彼女の泣き笑いの顔の向こうに鳥達が舞っている。
「……でいる彼を……れた……だよ……」
届かない声。意味にならない音節。それでも彼女が最後に青年に伝えようとした言葉。聞こえないのなら、せめてその唇の動きだけは忘れまいと――
「……さようなら」
完全に何も無くなった空間に向かって――名も知らない少女に耕介は別れを告げた。
◇
「……ちゃーん。おにいちゃーん!」
結んだお下げを揺らしながら、知佳が転がるように走ってきた。
「知佳……」
「ごめんね遅くなって。検査が長引いちゃって。……どうしたの?」
「いや、何でもないよ。夕食の準備もあるし帰ろうか」
「うん……?」
耕介の様子はいつもと変わらないように見える。それでもどこかが違うと、知佳の中に眠る何かが告げていた。その感覚は、車を走らせている間も続く。目に見える変化と言えば、今日の耕介は妙に無口だと言う事ぐらいか。
心を読んでみたいという感覚にとらわれる。
変異性遺伝子障害という病気を持つ知佳は、その影響でいくつかの、いわゆる超能力といわれるものが使えた。普段は耳につけたピアスで制御しているのだが、彼女はそっとそれに手を伸ばし――やめよう。いくら親しいとはいえ、彼が隠しているのなら触れずにいるべきだろう。
でも、ほんの少しだけ――
知佳はそっと耕介の肩に手を乗せる。ピアスのスイッチは入っているので思考は読めないが、感情くらいならうっすらとわかる。
耕介は、運転しながらも何か考え込んでいるようで、知佳のそんな様子には気付かないまま、溜息のように独りごちた。
「俺は……許せるんだろうか……」
その呟きと共に彼女に届く感情。それは以前知佳が抱いたものと同じ――激しい自己嫌悪だった。