とらんあんぐる組曲 作:レトロ騎士
◇
いつ崩れてもおかしくないような廃ビルで、美沙斗は瞑想をしていた。
深く意識を広げていた空気に動きを感じ、彼女は剣に手を伸ばし、油断なく構える。
「よう、元気か?」
現れたのは、兄の士郎だった。
「兄さん……お酒飲んでませんか?」
「ああ、ちょっと気が合った奴と一杯ね。別に、酔うような呑み方はしてないよ」
「それは、信頼していますが」
士郎は持っていたビニール袋を彼女に渡す。中には途中のコンビニで買った、食料が入っている。
「なあ……ここに来るたびに言うが、止める気は無いのか?」
「たとえ、兄さんの頼みでも、それだけは」
士郎はため息をつく。
だが、それはあきらめや気だるさゆえのものではない。自分にも彼女の気持ちが理解出きるからこその、やるせなさだった。
「それに……やっと手がかりをくれる組織と繋がることが出来たんです。そこもかなりの非合法集団ですが、今回の依頼を達成すれば、正式なメンバーとして向かい入れてくれると約束してもらいました」
そうか、と士郎は興味無さげにそれだけ言うと、座った。病院へ桃子を迎えに行くにはまだ時間に余裕がある。しばらく、彼女と近況の報告でもしよう。
先ほどの青年のことを伝えようと思ったが、「なんで名前くらい聞かなかったのか」と怒られそうなので、黙っておくことにする。
俺の人生、つくづく女には逆らえないらしい、と心の中で苦笑した。
◇
あたしは、昔の夢を見ていた。
まだ自分が「龍」と言われる組織に組していた時の、一時の思い出の夢だった。
物心つく頃に蒸発した両親に代わってあたしを育てた親戚は、お世辞にも『善人』とは言えない人達だった。
毎日のように続く折檻に嫌になったというより、命の危険を感じて逃げ出したのは、そこで暮らしてからそう長い時じゃなかった。
当ても無く、自分の生まれた香港の町を歩いていた時、転機は訪れた。
『龍』という組織の一員だったある男に拾われ、あたしは特殊情報調査員になるべくと、ありとあらゆる訓練を受けることになる。
訓練はきつく、辛いものではあったけど、命に関わる折檻はなかったし、暖かい食事も出された。優秀な成績を残せば、誉められることもあった。
少なくても、あの理不尽な家庭や硬い道路よりは、温かかった。
十数年も過ぎると、スパイの腕を見こまれ周りから一目置かれる存在となれた。
ある日、二ヶ月ほどの休暇を申請し、もとから組織に貢献の厚かったあたしはそれを許可される。一度仕事で来た時に気に入った日本で、あたしはその余暇を楽しもうとしていた。
そして、あたしは――彼に出会った。
◇
恭也は、悩んでいた。
腰に下げた巾着は、まだ光を失ってはいなかった。
もう、すべきことは無いはずである。だが、未だに彼はこの世界を徒歩していた。
なにか、条件みたいなものでもあるんだろうかと思い首をひねるが、薫にもわからなかったことを自分がわかるはずも無い。
少し途方にくれるが、仕方なく彼は、昔の海鳴の町を楽しむことにした。
「あれ……」
恭也の時代にも残っている公園。まだ六時を過ぎたばかりのその場所は、まるで人の気配が無かった。
だが大きな木の下にあるベンチに、高町家の前で見かけたあの女性が、ぽつんと……一人座って眠っていた。
恭也は、その女性に近づくと、起こさないようそっと横に座った。
特に用があったわけではない。
ただ、なんとなく誰かと話したい気分だったのだ。
そして、どうせ話すのなら――些細なこととはいえ、縁があった人がいい。
その程度の理由だ。
だが、正直な気持ちを言えば――とある「予感」があったのかもしれない、と、恭也はあとからそんな風に思うことになる。
ただ、今、彼女を起こすことは、なんだかとんでもなく悪いような気がして、彼女が自分から起きるのをただじっと待つことにした。
風が、少しだけ寒くなっていた。
◇
おそらく、それは一生の不覚だったに違いない。
仕事で、自分の体を武器に情報を集めることは茶飯事だったし、良い男を見つけて遊ぶことも、いつものことではあった。
だから、その士郎と言う男に興味を持って、抱かれたのはそれほど不思議なことではなかった。
ただ、いつもと違ったのは――本当に士郎を好きになってしまったことだった。
どこにでもいそうな優しいだけの男のようで、同時に危険な血と鉄の匂いがあって、それなのに、なぜか心が安らぐ。
今までにいないタイプだから、と言えばそれまでかもしれないが、あたしにとってそれは、間違い無く恋だった。
組織のことを言うわけにはいかないが、素性を偽装して家庭を持っている者がいないわけではない。組織の中には、家族にばれない様に裏工作をする為の課もあるぐらいだ。きっと――うまくいく。
あたしは、これからのことを生まれて初めて信じてもいない神に願った。
士郎が『龍』と対立する御神流の使い手だと知ったのは――その二週間後のことだった。
組織に予定より一週間早く戻り――あたしは士郎を忘れようと躍起になって仕事をしていた。
訳を話して士郎と逃げることも考えたが――それは逃亡者として追われる自分に、彼を危険に巻き込むことになる。それに、自分が士郎と長く関われば関わるほど、組織が士郎のことを調べる可能性が増えていく。
どんなことになっても、それだけはさせるわけには行かなかった。
そしてしばらくが経ち、全てが仕事の中で埋没して、己の精神が擦り切れそうになる頃、あたしは自分が身篭っていることを知った。
普段のあたしの性格が幸いして、父親が誰か追求されることはなかったが、代わりに子供を持つことを、組織は許さなかった。
子供を育てるとなると仕事に関わるのは不可能になる。
下っ端ならともかく、それなりの重役であるあたしは、そうなることが許されない。
赤子の育児をする機関はさすがになかったし、組織が父親となる人物に預けようとするにも、あたしがそれを明かさなかった為だ。
このままでは、おそらく堕胎を強制させられかねない。でも、始めて自分の中に感じたあの人との命を失うことは、あたしにはどうしても出来なかった。
だから――あたしは「龍」から姿を消した。
『龍』の持つ御神の情報の中から、彼のデータだけを抹消して――。
◇
「あの……」
薄い声に起こされる。
彼女が目をこすり瞼を開くと、逆光に晒されて顔が見えない青年が、目の前に立っていた。
寝ぼけた頭は、その人物の顔の造りや雰囲気が、ある人物と似ていると判断し、その名を呼んでみる。
「……士郎?」
青年は驚いて固まるが、その呪詛が解けると同時に首を横に振った。
「あれ……」
「目、覚めましたか?悪いとは思ったんですけど、風が強くなってきたので」
「あ……ありがとう」
言われてみれば、少し肌寒かった事に気付いて、彼女は上着を直す。
「こほ!こほっ!」
彼女が咳き込んだ。この風が運ぶ埃にやられたのだろうか。
「あの……士郎と言いましたが、お知り合いですか」
「え……ええ、ちょっとね」
記憶がよみがえり、彼女は彼が士郎の家で会った青年だった事を思い出した。太陽の高さで判断すると、あの時から二時間は経っているのだろうか――。
「間違っていたらすいませんが――もしかして……夏織さんですか?」
「!……どこでその名を?」
彼女――夏織は、偽名とはいえ自分の名を知るこの青年に、警戒の眼差しを向けるが、初めて会った時に士郎の知り合いだといっていたことを思いだし、安堵する。
「俺は、恭也と言います」
青年の言葉は、何かを確かめるように夏織の表情を見ていた。
「恭……也?」
夢の続きを見るように、思い出す。
田舎町で、記録の残らないように産婆の経験のある人に取り上げてもらった息子。
その子を、この世でもっとも安全だと思える場所、士郎に預けた時に彼に伝えた名前。
夏織が呆然としていると、恭也は確信を得たように表情を落とした。
「……たまたま、士郎さんの息子さんと同じ名前なんですよ」
恭也はそう言って……黙った。
夏織も無言でいたが、顔を挙げて
「知ってるんだ。あたしのこと」
「はい。……だいたいのことは」
「……酷い女だと思っているでしょ?」
「……」
恭也は、答えなかった。
静かな空間に、雀の鳴き声が上空で流れている。
それが鳴り止むのを待ってから、彼女は再び語った。
「でもね、言い訳にしか聞こえないかもしれないけど――あたしは、あの子を士郎に預けて逃げたことが、最良のことだったと信じている」
「何故、なんです」
恭也の声は、少しだけ怒りが混じっていた。
夏織は、彼の方は見ずに空を仰いで、
「あたしはね、ちょっとヤバイ奴等と関わってて、ああしなければ――あたしの周りの環境下に絶えられず、あの子は死んでいたと思う。そうなれば、きっとあたしも生きていく気力が無くなってたわ。だから、一番信頼できる人に、あたしはあたしの全てを預けたの」
「それを……士郎さんには伝えたんですか」
「……言えない。言ったらあの人は、絶対にあたしを守ろうとするから。それは、士郎と恭也を危険な目に合わすことになるから」
夏織は気付かないうちに、拳を握り締めていた。
恭也は、なんと言っていいかわからず、ただ自分の疑問だけを口にした。
「あの、その時苗字を変えるようにといったのは、何故です?」
「あまり、意味は無いのよ。そう言えば、あたしのことを忘れて良い人を見つけてくれるかな、って思ったのと――」
不破でなくなれば、名前だけで組織から狙われることが無くなると思ったから、と、夏織は口に出さず、静かに言葉をつぐんだ。
「……どうして、俺にその話をしたんですか?」
「ふふふ……なんでだろうね。死ぬまで秘密にして持っていくつもりだったのに。でも、君は内緒にしてくれそうだし。それに息子と同じ名前だからかしらね」
彼女は悲しげに笑った。
「あたしは、もうすぐこの地を離れないと行けない。会いに行こうと思ったけど、あの人はもう、新しい幸せをつかんでいる。だから、あたしが現れればそれを壊してしまう。でも、あたしを恨んでいるかもしれないけど、せめて最後に、恭也の元気な姿が見たくて――。お守りまで買ったけど、駄目だった見たいね」
ぽろぽろと、表情を変えずに涙だけが夏織の目からこぼれる。見ていて痛々しいほどに――
ふわっと空気がゆれた。恭也が、夏織を抱きしめていた。
「え……?」
「……大丈夫です。恭也は、あなたを恨んでなんかいない。きっといつか真実を知って、あなたに感謝するときがきます」
「あ、あの……」
「大丈夫ですよ。同じ名前の、俺が保証するんですから」
すっと離れる。恭也は少し涙を浮かべ、顔を赤くして笑っていた。夏織も、少しだけ顔をほころばせた。
(父さんを、呼んでこよう……父さんが生きているこの時が、彼女の――母さんの望みをかなえる最後のチャンスだから……)
それなら、きっと未来の世界が消滅することは無い。
子供の自分を夏織と引き合わせることは、その記憶の無い出来事を行使する、つまり過去を操作させることになるが、この時、士郎が誰と会ったかを自分は知らないのだから、歴史が変わることにはならないはずだ。
それは、単なる自己満足に過ぎないのかもしれない。二週間後に士郎は死に、夏織の存在を知ることなく、自分は成長するのだから。
自分は今、この女性を母親だと思えているわけではない。
彼女は間違いなく自分の母親なのだろう。そして、自分や父から去っていったのは、彼女にとってもどうしようもない何かの訳があったのだろう。
だが、そうと知ってなお、自分にとっての母親は桃子以外にありえない。だから、恭也が彼女に感じ入り、そうしようと思ったのは、母親への親愛の情ではなく憐憫であった。
だけれども。
そんな傲慢な自己満足が理由であっても。
そのぐらいの救いは彼女にあっても良いんじゃないかと、恭也は思った。
「すいません……ちょっと失礼します。あの……すぐ戻りますから、ここで待っていてもらえませんか?」
「こほっ……ええ、良いわよ」
一度咳き込んでから、夏織は答えた。
恭也は、先ほど永遠の別れを決めたはずの、士郎のいる高町家へ、その足を向けた。
見送ろうと、夏織はその後姿をなんとなしに見て――目を見開いた。
「そっか……」
彼女の呟きは、安らかな寝息のようだった。
◇
美沙斗のターゲットは、そこにいた。
写真で見せられた人物。日本人としての偽名は『柴村 夏織』。なんでもその女は『龍』の元情報工作員であり、生け捕りにすれば依頼者になるその対抗組織にとって、かなりの利益になるということだ。
この仕事を依頼した組織は、成功時に組織に入ることを認めた上に、彼女から得た情報にあの事件に関わりのあることがあれば、全て提供すると約束をしてくれた。
だが、たとえその約束が無かったとしても、彼女はその依頼を受けていただろう。
「『龍』の一員……絶対に許さん」
美沙斗は隠れていた路地裏から、小太刀を握り締める。
復讐に燃える彼女の目は、暗く濁っていた。
彼女に依頼した組織こそが、彼女の追う『龍』そのものだとも知らずに――
◇
その視線に、夏織は気付いていた。
もし、美沙斗が本来の心で気配を絶っていたら無理だったかもしれないが、長い逃亡生活で鍛えられた気配の探り方は、強い殺気を放つ彼女を、いやがおうにも感じ取っていた。
「ゲームオーバー、か」
もう逃げられないだろう。
先日調べた情報で、『龍』が自分に対して玄人の捕獲者兼殺し屋を雇ったことは知っていた。捕まってしまえば、自分が抹消した『御神の一族の一人』に対するデータとその理由を、薬を使って聞き出すことぐらいは簡単にやってのけるだろう。
それは、避けなくてはならない。
百数十メートル先の路地裏から、黒い死神は現れた。
己の余裕を知ってだろう。悠々と歩いてくる。
だがそれも――霞む。
こほっ、と咳き込んだ拍子に、乾いた血が舞った。
どうやら、騙し騙し酷使してきた体も、限界が近いようだ。外からも、そして体の中からも、死神は歩いてくる。
夏織は、前々からの決心とともに、懐から愛用の銃を取り出す。
『AMTモデル・バックアップⅡ』
重量わずか五百十グラムの、護身用の小型拳銃である。
諜報員の夏織が、それを使う機会など皆無に近かったが、整備だけは毎日欠かさなかった大切な相棒だった。
それを見た黒い殺し屋は、警戒を強めるが、銃を恐れている様子は無かった。歩調を変えず、ゆっくりと歩きつづけていた。
夏織はゆっくりと深呼吸をした。
数十秒で、全てが終わる。やり残したことはいろいろあるが、今すべき事は一つしかない。
目を閉じ、人生を思い返すことだ。
初めに思い出されるのは、虐待された子供時代。次に、犯罪に手を染めざるを得なかった組織の時代。そして……士郎との出会い。息子の誕生。
「なんだ……あたしの人生、意外と良かったじゃないか。女の幸せを、ほとんど達成してる」
負け惜しみではない。
夏織は、本心から自分の人生を憂いていた。
「なにより、息子の成長した姿を見れたんだ。ちょっとぶっきらぼうだったけど、父親よりいい男になって……あたしが若ければ放って置かないのに」
青年が消えた道を、横目で追った。抱きしめられたときから、いや、初めて会ったときからなんとなく感じていたこと。
(あの露天商から買った怪しいお守り……ちゃんと効果あったんだ)
会いたい人に会える縁結びの石と言われ、藁にもすがる思いで買った小さな石。
吐血と咳を繰り返しながら、上着の内ポケットに入れてあるそれを上からなぞる。
青年の後ろ姿を見送った時に見えた、首筋に並ぶ二つのほくろと、その横にあった小さな火傷の跡――。それは、恭也を士郎に預ける前に見つけたものと、彼女が誤って付けてしまったものと同じだった。
それは、病気で霞んだ目による勘違いではないと、心から信じる。なにより、自分の息子を見間違うわけがない。
未練があるとすれば、息子との最後の約束を果たせそうもないことくらいか――
「あたしは、死神なんかに負けない……今まで生きていて、神様になんか裏切られっぱなしだ。最後ぐらいは、自分の望んだ運命を作ってやる」
彼女は、銃口を『そこ』に向けた。
だが、少しだけ考え直して――それは、死神が女性だったせいもあったのかもしれない――その位置を下のほうへ移した。
結果はどうせ同じことだ。なら、女としてのプライドを貫こう。そう夏織は思った。
彼女の意図を読み取り、その死神は初めて慌てたように駆け出した。
だが、もう遅い。引き金には、すでに指が絡んでいる。
「残念だったね、死神。あたしの人生は幸せだったよ。だから……あたしの、勝ちだ!」
その音は、誇り高い獣の遠吠えのように……。
◇
銃声が聞こえ、恭也は振りかえった。
「まさか……まさか!」
再び公園へ――引き返す。
数十秒かけてもどり公園が視界に入ると、遠くの路地に黒い人影が消えたのが見える。
そして、ベンチには横たわる人の姿。
凍るような背筋の震えに負けないように、近づこうとした瞬間――
「そんな、なんでこんな時に――」
巾着の中の石が、激しく輝き出していた。
そして、体も同じような発光を始め、動けなくなった。伸ばした手の先は、倒れている彼女にどうしても届かない。
「なんで、なんで……」
まるで、あの夢のような――
「なんでなんだよ!」
絶叫と共に――恭也の意識は闇に落ちた。