とらんあんぐる組曲 作:レトロ騎士
春先の爽やかな匂いのする朝。
雨が嫌いなわけではないが、それでも日曜日はこういう日がいい、と青年は思った。今日は毎年恒例の花見の為に、早朝の美由希との鍛錬を早めに済ませ、シャワーで汗を流した後、恭也は一人庭先で茶を楽しんでいた。
「美味い……」
ほう、と息をつく。親友の忍や勇梧あたりに見られたら、年よりくさいやら枯れてるだとか言われそうだが、なんと言われてもこの楽しみを奪われるわけにはいかない。
庭を見とおせば、ウグイスが塀の上で踊りを楽しみながら、つぼみを着けた花へ喜びの歌を奏でている。
暖かな日差しが地を這う昆虫たちを呼び起こし、風の音が耳元でさわさわと囁いている。
それは、彼が望み続ける大切な平穏だった。たとえこのまま何もしていなくても、心安らぐ誰かがそばに居てさえすれば、きっと退屈することのない柔らかな世界。
だが――
「これで、夢さえ静かなら、な……」
湯呑を置いて、恭也は空を仰ぐ。そこに答えを探すように。
意識が陰る。思い出したくもない昨日の夢の景色が、青年の心を締め付けるように浮かび上がっていった。
◇
始まりは、いつもと同じだった。
血の匂いだけが現実的な、存在感のない風景と倒れている父。
だが、そばに立つ自分が違った。
少年ではなく、成長した今の自分だ。手には使い込んだ愛刀が二本。
そのことに気づくと、物語は急速に動いた。今までとは異なるそのイレギュラーから逃げるように、本来の過程のシーンを飛ばして、父が遠のく。
思いがけない展開に一瞬呆けていた恭也は、自分に叱責するように舌打ちして走り出した。
(俺は何をしている!昔の無力な俺じゃない。今の俺がここに居るんだ。たとえこの世界が夢だとしても、現実が何も変わらないとしても、今の状況を無視してどうする!)
距離が詰まる。当然、子供の体よりも運動能力が高いので、そのスピードが今までよりもはるかに遅い。
あと数メートル。
追いつける。そう思った。だが――
「!?」
体の動きが鈍る。振り向くと人を象った黒い影が、恭也の肉体に羽蟻のようなおぞましい感触でまとわりついていた。
「これか!今まで俺が動けなくなった原因は!」
今までの夢――少年の頃の自分が不意に前へ進めなくなり、父を救えなかった夢。だが、今回は違う。こいつを倒せば変わるはずだ。その後、士郎を救えればきっとこの悪夢は終わる。何も根拠はないが、そう思った。
愛刀の小太刀――八景を構える。この世界の空虚な空気を吸いこみ、息を止める。そして、怒号の声を発すると同時に切りかかった。
「おおおおおっ!」
凍てつくような刀身の輝きが、歪曲な線を描き影を切り裂く。確かな手応え。だが同時に襲う右面からの殺気。
「はあ!」
己の感覚を信じてその場を飛びのく。瞬時に、今まで恭也が立っていた場所を暗く冷たい刃が凪ぎ、地面に打ち付けられた。
ガァン!という轟音。地面と刃、どちらの材質もわからないが、少なくともその威力を物語るには十分なメロディ。
「なんだ……こいつらは」
間合いを取り見まわすと、そこには先ほど一太刀で切り裂いた影と同様の者達が数十人、手にはそれぞれ形状の違う武器らしきものを持って、体をゆるがせながら恭也を取り囲んでいる。
しかも、今の攻撃されたときのスピードや威力は、一般人の比ではない。
冷や汗が頬を伝う。その心の萎縮を、膝の古傷の疼きが教える。だが、簡単ではないにしろ、決して勝てない相手ではない。
「奥義の連発を……覚悟か」
人ではない以上、手加減をしなくて良いのは助かることだが、あまり救いにはならない。それに、今は時間が惜しい。こうしている間にも、ゆっくりとはいえ父の姿は離れ続けているのだ。
「スゥゥゥ……」
再び息を吸う。そして――
「はあぁぁぁぁ!」
「!?」
数体の影を蹴散らした、その、『鬨の声』をあげたのは恭也ではなかった。
彼の無骨な声とは違い、高く澄んだ、そして普通ならばおそらくは血生臭い戦いとは縁遠いはずの――それは、少女の声。だが、恭也はそれが戦いに身を置く者の声であることを知っている。なぜなら――
「美由希!?」
「恭ちゃん、手伝うよ!」
『徹』
御神流の基礎技のひとつ。だが、その効果は絶大だ。外部からの威力をそのまま内部に伝える、広くは『鎧通し』と呼ばれる技の御神流変異技。
美由希が繰り出したその技が、影の一体を吹き飛ばした。
何故おまえがここに――と、恭也は問いたかった。だが、今はこの場を片付けることが先である。
確かに、不意の美由希の登場で自分の負担は楽になった。だが、それはあくまで戦力として、である。恭也は、一層の気合と共に剣を振りながらも、美由希が劣勢になったときいつでもフォローに入れるように、彼女の状況に気を配る。
「恭ちゃん!ここは私に任せてとーさんを……っく!」
ガッ!ギッ!
左右からの同時攻撃を、小太刀を一本づつ使ってなんとか防ぐ美由希。
「美由希!……おおおおおお!」
声と共に恭也が駆ける。そして――
「っりゃあああぁぁ!」
御神流・奥義之六、『薙旋』
本来は抜刀の形から繰り出す、高速の四連撃。恭也が最も得意とする――そして要と言える技。その餌食になった三つの影が、「おぉぉ」と怨のような音を立てて霧散した。
「馬鹿!無理するな。俺を背後に背負って確実に前の敵を倒せ」
「う、うん……」
美由希は叱責からか、悲しそうな顔をして頷く。
「気を抜くな!来るぞ!」
再びの剣劇幕。
恭也たちが全ての影を滅したのは、それから数十秒後だった。
ふう、と息をつき、美由希を促す。
「よし!早く父さんのところへ行くぞ!」
「……うん」
彼女は、まだ悲しそうにしていた。本来なら、練習でどんなに怒られたとしても、いつもの美由希には見られない反応。何故――
しかし、それを聞いている場合ではない。
まだ僅かに見える父の姿に向かって走る。その姿は徐々に大きくなり、表情まで見えてくるほどに近づいた。だが――
「なっ!?」
士郎のそばに、今まで倒してきたのと同じ形の――ただ大きさだけがふたまわり大きいそれが、父の体にまとわりついている。
ニヤリ。
顔があったわけではない。だが、人間で言えばちょうど口にあたる部分に、恭也は確かに歯のような白いものを見て――そいつが笑ったように見えた。そして同時に――
ドォオン!
爆炎がおこる。風圧が青年を襲い、黒髪が踊った。
「なんで……」
剣を離し、虚空に手を伸ばす。落ちた二本の小太刀が、跳ねることなく闇に沈んだ。彼は膝を突き、拳を地面に打ち付ける。
「なんで……」
もう一度同じ言葉を。
だがそれに答えるものはいない。父の体は炎になっている。そばにいたはずの美由希は、いつのまにか消えている。
この世界は再び彼だけとなった。
(これは夢なんだ。わかっているそんなことは。だから理不尽で、無茶苦茶で、矛盾だらけで。だから自分は気にする必要はない。夢から覚めれば、きっと今回の新しい悪夢に辟易するだけだ)
でも、それでも――
「なんでなんだよ!」
カシャアアン、と――最後だけは、今までと同じように絶叫と破壊音と共に――
「たとえ夢でも――いや、夢だからこそ、か。あの焦燥感は本物だ」
日曜の晴れ上がった空を見上げながら、恭也は唇を噛んで呟く。
目が覚めれば、肉体的なもの――夢で負った傷や疲労は当然無くなっている。だが、精神的なものは別だ。一度感じてしまえば、それは思い出すという行為だけで簡単に追体験できてしまう。
繰り返されると思われた夢の内容が変わった。そして、夢の中の自分が意のままに動けるようになった。
悪夢に意味などあって欲しいものではない。だが、悪夢がその中での自分の行動により結末を変えるのならば――
「いったい、俺に何をさせようって言うんだ……」
言葉を口に出してから、青年は自分がほとんど狂気じみた考えをしていることに気づき、隣の木柱に頭をぶつける。
誰が、何の為にだと?そんな者がいるはずがない。
少し……疲れてるのだろうか。
部屋の中で鳩時計が時を告げる。さざなみ寮での約束の集合時刻には、まだかなりの余裕があるが、どうせ晶と美由希あたりが準備に追われることだろう。
本日の宴が、少しは自分を助けてくれることを祈り、恭也は皆を呼びに立った。