とらんあんぐる組曲 作:レトロ騎士
◇
「高町君の、大泣きしているところって見たことある?」
『……はあ?』
運転席に座り、腰まで伸びた艶やかな長髪を、耳元で少しかきあげながらそう言った女性――月村忍の言葉に、城島晶と鳳蓮飛は声をそろえて息を吐いた。
「だからさ、高町君が大声で泣いてる姿を、二人は見たことあるのかな~、て」
聞き返された煩わしさを感じた様子もなく、忍は繰り返した。
彼女は自分の車がコーナーに近づいてきたことを確認すると、ハンドルを軽く一回転させることで車体を横滑りさせて、絶妙のアクセルワークでドリフトを決める。キキィ、とタイヤの悲鳴があたりに響くが、彼女は気にした様子もなくギアをシフトアップさせた。
二人の反応がないので、しばらく直線コースが続くことを確認して右手でハンドルを支えながら、忍は後ろを振り向いて顔を覗かせた。
彼女の間違いなく美人だと言える容姿は、良い意味で幼さが残っている。年のころは十代後半のようだが、彼女の雰囲気と細やかなしぐさは、晶と蓮飛が息を呑むほどに大人びていた。
二人はまだ十代前半。少女としては一番輝く年の頃ではあるが、女としてはこれからの期待になる。もっとも、その素質は体の節々に微細に表れ始めてはいたが、本人達にその自覚が生まれるには、まだ幾許かの年月を必要とするだろう。その彼女達が、同年代の女性と比べても明らかに抜きん出た『色』を持つ忍に、憧憬の念を持ったとしても無理からぬ事である。
その忍が言った『高町君』というのが、少女達が共に師と仰ぐ青年、高町恭也のことであるのは分かりきったことではあったが――彼女達は質問の答えよりも、質問そのものの意味がよく把握できずにいるらしく、少し呆けた顔で忍を見つめていた。
「え~と、そういえば俺は見たことないですけど……って忍さん、前、前!」
ショートカットの髪に手を当て、外見に相応しい少年のような口調でそう返した晶の声に、忍が再び前を見やると、運送会社のロゴが入ったトラックの車体が自分の車のすぐそばまで接近していた。両手でハンドルを握りなおすと、アクセルを深く踏み込んで一気に距離を離す。時速二百五十キロあたりで慌ただしく動いていたスピードメーターが止まり、マシンの限界速度を訴えていた。その様子に特にあせるでもなく、今度は視線を動かさず忍が続ける。
「そう。じゃあレンちゃんは?」
レン――そう愛称で呼ばれた蓮飛は、独特のゆったりとした動作で頬をかくと、愛嬌のある苦笑いをしながら答えた。
「う~、おししょーの泣いとるとこですか。笑ってるところだってめずらしーゆうに……美由希ちゃんの泣いてるところなら見たことあるんやけど。でも忍さん、なんでそないなこと急に聞くんですかー?」
「うん、前に高町君と一緒に映画見たとき、彼、感動して涙流してたんだけど……なんかあの朴念じ……クールな高町君も、子供の頃にわんわん泣いた時があったのかなって、そのとき思ったのよ」
忍の運転する朱色のスポーツカーは、いつのまにか対抗車線を逆走し始めていた。相対速度により今までとは比べものにならないほどに、前方からの対向車が迫ってくる。それに少しだけ真剣な面持ちになった忍はアクセルを緩めるが、それでもブレーキに足をかけることなく微小にハンドルを動かして、網の目を縫うように車と車の間をすり抜けた。
そんな忍の手綱さばきを、蓮飛は感心したというより、少しあきれたように見据えた後、だぼだぼの袖口を脇に抱えるように腕組をして、
「確かに、テレビのヒューマンドラマで涙をこらえてるーいうんは、うちらも見たことがあったんけど。うーん……やっぱり想像もつかへん。なあ、晶」
「そうだな……俺も考えられないです。というより、できれば俺はそういう師匠は見たくないのかもしれないですね」
蓮飛に促され、晶が答えた。
そのような場面を見たとき、晶が恭也を幻滅してしまうと言う意味ではない。彼への尊敬の念が失われるというわけでもない。だが、師と仰ぐ青年のそういう弱いところを、自分は見てはいけないと漠然と思うのである。
それは例えるのなら、自分が恭也に勝ちたいと思う反面、いつまでも一歩先行く存在であって欲しいと願う感情に似ている。多分、少女は彼を追い抜こうとしているのではなく、追いつきたいと思っているのだろう。その考えこそが、恭也に追いつくことの出来ない最大の理由であるのだろうが――。
「なるほど、ね」
実際そこまで読み取れたわけではないのだろうが、真摯な瞳を向けて語るこの少女の言葉に、意味以上の深さを感じて忍は納得する。
そのとき、その頷きを合図にしたかのように、けたたましいサイレンの音が響き始めた。
日常的に聞くことの出来るものではないが、見かけたからと言って驚くほどのものでもない。だが、それが自分に向けられたものでなら、話は別である。
「おお~、ついにパトカーのおでましや~」
蓮飛は関西弁の独特のイントネーションで呟いた。
パトカーに忍の車が追い抜かれた瞬間、ドップラー効果によるサイレンの音程変化が起り耳を楽しませる。ここからが勝負どころである。
「さ~て、いくわよ!」
忍の興奮した笑みが輝きを増した。
◇
「もうちょっとでしたね」
「あのコーナーリングでギアチェンジ間違わなければね~。スピード持て余して最後は民家に突っ込んじゃったし」
ん~、と伸びをして忍。
「まあ、ガソリンスタンドにぶつかるよりはよかったんとちゃいますか?」
えらく物騒なことを言う蓮飛に、忍は少し乾いた笑いを返した。
忍が最新のレースゲーム――街中をタクシーが問答無用で暴走するらしい――で新記録を樹立させた後、三人がゲームセンターから出ると、時計の針は五時を回っていた。
蓮飛がなんとなしに時計から視線を上げると、正面から入った西日に目をふさがれて、反射的に手をかざす。しかしそれも一瞬のことで、目が慣れてくると、夕焼けが街路樹と人々を茜色に染め上た様子が、網膜に映った。
きっとそれは、今までに何度も見てきたはずの――見なれた風景。それでも、決して見飽きることはない景色。それを眺めて、素直に美しいと感じられる。そして、そう感じる自分が今ここにいられることを、蓮飛は感謝する。
死の危険を孕む病気を患っていた時、生きて欲しいと望んだ家族同然の人達。そして手術に向かう勇気をくれた――
「な~に馬鹿みたいな面して浸ってやがるんだ、このミドリガメ」
……ついでに今の気分を台無しにしてくれた少女、晶に。
「ふっ。おサルにはとーてい理解できん人間様の感性や。気にせんでええで」
「なんだとこらー!さっきの格ゲーの続き、実戦でやるかー!」
「おお!やらいでか!」
威嚇するように歯をむく晶に、小馬鹿するように半眼で笑う蓮飛。いつもの構図となった少女達に、忍はやれやれと肩をすくめた。
まったくの他人から見れば一触即発の気まずい雰囲気だが、ある程度付き合いの深いものにとっては、これが彼女達同士における不器用な愛情表現であることは、理解に苦しくない。
忍も慣れたもので、苦笑しながらその様子を見守った。
「くらえ新技、孔波連山!」
「琥王掌!」
そしていつものように――
ドン!
「うわああぁぁぁぁぁ……」
飛び込むような踏み込みからの連続の正拳づきを、柳のように受け流しながらの蓮飛の掌底が、晶の鳩尾に決まる。彼女は四メートルほど後方に吹き飛ばされて、飛び石のように二、三度跳ねて地面を転がった。
「きゅう……」
「おー、今日は思ったより飛ばんかったなー」
気絶、とまではいかないまでも軽く目を回した少女に、蓮飛はえげつない台詞をかける。
忍は嘆息しながら、
「毎度毎度思うけど……よく死なないわよね(夜の一族のわたしが言うのもなんだけど)」
と、呟き自分のことを考えた。
バンパイア、狼人間など『人間ではない血』の流れを汲む忍の一族は、吸血と言う行為と引き換えに不老長寿、自己治癒、変身能力など普通でない力を持っている。だがどうやら、一年ほど前からできた高町家がらみの交友関係を思い浮かべると、自分が一番普通じゃなかろうか、と思わないでもない。
「それじゃ、そろそろ帰ろうか?」
忍が言う。
「そうですね。ああ、うちはおサルを引きずって買い物してから帰りますんで――。次は、今週の日曜のお花見で」
「うん。たしか前に行った……さざなみ寮のオーナーさんの所よね」
「そうです。また、わいわいやりましょー」
「じゃ、また。晶ちゃんも……」
忍が視線を落とすと、彼女は襟を引っ張られ首吊りのようになりながらも、なんとか手を上げて、
「……お~す」
と答えた。
その滑稽さに、忍は少しだけ吹き出した。
◇
その日の高町家の夕食は、いつもと変わらず賑やかだった。山菜をメインに、甘辛い煮付けや味噌汁がテーブルに並べられ、それらは談義に花を咲かせながらも、皆の胃袋に収まっていく。
料理担当の蓮飛と晶は、どちらの料理が美味いかで口論し、高町家の末妹、なのはに怒られていた。
「もー、どうしてご飯のときくらい仲良くできないんですか!」
栗色のツインテールの髪を揺らし、顔を膨らませて、なのはが叱る。
「だってカメが……」
「この馬鹿サルが……」
二人は反論をしようとするが――
「ケンカは駄目です!」
『はい……』
一言で小さくなった。
「相変わらず二人は、なのはに弱いな……」
「そうね……。発言力ならうちで二番目じゃない?」
なんとなしに、彼女達を眺めながら思わず呟いた恭也に、美由希がおかわりのご飯を手渡してそう言った。剣を扱うとき以外かけ続けている眼鏡が白米の湯気で曇り、無意味に怪しさが増している。手が空いてから、彼女はポケットティッシュを取り出してそれを拭い取り、兄に向き直る。
「かーさん、なのは、フィアッセ……この三人には恭ちゃんだって勝てないでしょ」
「まあ、そうだが……」
義母の桃子と、姉のように慕っていたフィアッセはともかく、妹のなのはに甘いことは、自他共に認めていることだった。
なのはは、士郎と桃子の間にもうけられた子で、士郎の連れ子である恭也にとっては唯一の二親等の血縁であった。彼の妹への甘さは、そのことだけが理由になっているのではもちろんない。だが、彼女は生まれたときにすでに父がなく、自分も剣士としての修行に美由希共々あまりかまうことが出来なかった。
本来なら父親に甘えたい盛りであるのに、我侭で――それは普通なら、我侭などとは言えない無邪気な思いであるのに――家族を悲しませまいと我慢しているこの子のことを思うと、彼女の小さなお願いくらい全てかなえてやりたいと、心の底から思うのである。
妹として接してきた時間でいうなら、一番長いのは美由希だが、彼女は正確には従妹である。ものごころがつく境目くらいの時に士郎に預けられ、以後妹として恭也と一緒に暮らしてきた。
御神流本家の、最後の正当伝承者にあたる美由希。士郎は、彼女がいずれ御神流を再建することを考えて、戸籍上は本来の御神の姓をそのままにしておいたらしい。もっとも、さすがの士郎も、息子が美由希と恋人になるとは思ってもいなかっただろうが。
「ん?どうしたの」
「いや……なんでもない」
恭也は無意識に見つめていたのだろう。その視線を感じた美由希は彼を振り返り、少しだけ顔を赤らめながら不思議そうな顔をしていた。
「なんか……美由希、雰囲気変わったね」
少し離れた席で桃子と店のことを話していたフィアッセが、遠巻きにその様子を見ながら、囁くように桃子に告げた。
「そう?いつもと変わらないように見えるけど」
なのはにも受け継がれた栗色の長い髪を揺らして、桃子は美由希を見る。フィアッセは唇に人差し指を当て、コバルトブルーの瞳を軽く上方に移し、
「ん~、なんて言うのかな。前は剣の稽古ばかりで少し無理してるみたいなところがあったけど……時々ぼうっとして考え事してたり、急に赤くなったり……」
「でも……あの子元々ぼーっとしてるわよ?」
「そうなんだけど……例えば、恋でもしてるとか」
やさしく微笑んで、美由希を見つめるフィアッセ。
「あの子が……?そう言われてみれば、少し女らしくなってきた……かな?」
「本当のところはわからないけど……でも、良いことだと思うよー」
「う~ん、桃子さん、複雑」
血縁がないとはいえ、美由希は、そして恭也は間違いなく自分の子供であると思っている。いや、思っていると言うのは語弊があるだろう。思うまでもなく、それは当然のことなのだから。
幼少から大人以上の責任感と意思を持った恭也を追うように、美由希も少しづつ一人で歩こうとし始めた。それは喜ばしいことと同時に、少し寂しくもあることだった。
昔を思い、少し切なさがこみ上げてくる。
「でも、それならそれで、士郎さんに報告するのが楽しみね」
笑う。強がりではなく本当の笑顔。辛い過去だ。でも、今はそれに負けないだけの幸せがある。そして、きっとこれからも。
「今日は飲もうか?桃子」
フィアッセの、グラスを持つジェスチャー。
「うん!朝までがんがん行くわよ~」
おー、と拳を振り上げる桃子。だが――
「おかーさん、フィアッセおねーちゃん。明日もお店でしょう!それに、飲みすぎはよくないです!」
『……はい』
なのはに怒られた。
高町なのは――本日、高町家最強を襲名。