とらんあんぐる組曲 作:レトロ騎士
『日常。
恐らくこれほど容易く得られ、守りつづける事が難しいものはない。
変わっていくことは、日常にとって忌むべき事であるが、
変化しない日常は止った空間であり、存在価値が無くなる。
永遠に近く齢を重ねて来た彼女は、きっとそれを経験と共に理解しているのだろう。
だからこそ、今のこの日をだれよりも大切に思えるのだ。』
序章
「……百九十九、っ五百!」
ふおん、と空気の分かれる音が、最後の掛け声と共にやむ。代わりに、はぁはぁと呼吸を整える声がわずかに残り、それもまた小さくなっていった。
うららかと言うには少し強めの日差しが、庭の木陰で一心に剣を振っていた大柄な青年の、肩から額にかけて滑り込む。うっ、と眩しさに負けた時の独特のうめき声をあげ、その青年は左手を顔の上にかざした。
光から目を逸らそうと下を向くと、素振りを始めた頃には頭が隠れる程度あった木の影が、太陽の角度が変わりほとんど無くなってしまっている。
影が垂直に落ちると言う事は、真昼に近づいていると言う事だ。と、なればそろそろ彼女達が騒ぎ始める頃合だろう。
「こーすけー!お腹すいたのだ!」
「耕介さん、ごはん、ごはん~」
二つの少女の声とドタドタと走る音が、白地の壁をした建物――彼の現在の家であり、職場でもある――さざなみ寮から聞こえてきた。
あまりに予想どおりの展開に、青年は苦笑しながら剣を鞘に収め、一度大きく伸びをする。手足をほぐすようにブラブラと間接をまわして、ゆっくりと寮に歩いていく。
「さて、それじゃ昼食の準備に取り掛かりますか」
体は疲れていても、これだけは休むわけにはいかない。といっても、決してそれが嫌ではなく、むしろ楽しみであった。
自分を含めて八人分の食事――実際には何人かの大食いのため十人分以上――を作るのは確かに重労働ではあるが、自分の料理で喜んでくれる人達を見るのはそれ以上の幸福であると、彼は感じるからだ。
リビングに入ると、すでに待ちきれない様子で少女達がソファーに座っている。その様子は、さながらお腹をすかせた犬猫――少なくても一人は間違いなく猫だったが――のように見えて、青年は楽しそうに笑った。
「はいはい、美緒にみなみちゃん。そんな顔しなくてもすぐに出来るよ。だから、皆を呼んで来てくれないかな。おいしいデザートつけてあげるから」
ピクンと猫耳と尻尾を立てて美緒が、目を輝かせてみなみがソファーから跳ね起きる。
「らじゃったのだ!」
「わっかりましたー」
同時に叫んで、二人は寮内をかけて行った。
「やれやれ。まったく元気だなぁ、あの二人は」
刀を汚れない場所に立てかけてから手を洗い、早朝あらかじめ仕込んでおいた鍋に火をかけながら彼は呟いた。
すると、立てかけておいた刀から、しゅん、と何かが飛び出し、それは瞬時に一人の女性の姿を形取った。金色の髪をなびかせて、天女のような着物を着た彼女は、この世のものとは思えないほどの美しさであり、それは本来なら見るものにある種の恐怖感すら与えかねないものだ。
だが不思議と、彼女は柔らかく温かい。例えるのなら陽光のような雰囲気に満ちて、恐怖などと言う事からは無縁の存在であることが感じられた。
その美女は微笑みながら、桜のような唇を開く。
「ふふ……あのくらいの齢の頃は、それが一番大事ですよ。耕介様」
「そうですね……でもあの二人の場合、どんな年齢になっても、あまり変わらない気がしますけど」
耕介と呼ばれた青年は、いきなり現れ話し掛けてきたその金髪の女性にいささかも驚いた様子も見せず、むしろ愛しさをこめた瞳で彼女を見つめながら答えた。彼のそんな姿が彼女の藍色の瞳に映し出されているが、その映像が彼女自身に届く事は決して無い。そのことは耕介も理解しているが、彼は彼女に話し掛けるとき、必ず彼女の目を見て話すことにしていた。盲目であろうとも、彼女の目は何かを伝えたり受け止めたり出来るはずだと、彼は信じている。
「それでは、私は薫の様子をうかがってまいります。部屋で勉強していましたから、一区切りのつくまでは騒がしく呼ばれる事を望まないでしょう」
「そうですね。美緒だと無理やり連れてきてしまって、ケンカになるかもしれないですし。お願いします」
耕介がそう相槌を打つと、彼女はふわっと床から浮かび上がり、二階の薫の部屋へと向かった。
彼女は人間ではない。
寮生の一人である神咲薫、その神咲家に四百年に渡り仕えてきた、神咲一灯流伝承『霊剣十六夜』に宿る魂の具現した姿であり、そして耕介が契った存在である。
その名を、霊剣の銘に等しく『十六夜』といった。