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「うぅ……あぢぃ……」
だらだらと暑い、初夏の日差しが降り注ぐ。木漏れ日が降り注ぐテラスで、ミーシャはテーブルに突っ伏して亡霊のような呻き声を上げていた。
黒いローブに包まれた体は蒸し暑く火照り、額には汗が滲んでいる。はりつく髪を掻き上げて、暑さにうなされる黒魔女はもう一度深いため息をついた。
「何でこんなに暑いのよ……この前まで春じゃなかったの……?」
脇に置いた三角帽子に手を突っ込み、買ってきたアイスをぺろぺろと舐めながらミーシャが項垂れる。ラムネの混じったソーダ味を味わいながら、ミーシャは木々の隙間から見える途切れた青空を見上げた。
既に三本目に突入したアイスをぺろりと平らげて、ハズレの木の棒をぽい、と放り投げる。魔法が宿った木の棒はひとりでにぴょこぴょこ跳ねると、隅にあるごみ箱へ飛び込んだ。
「ああ暑い! もうこれ以上耐えられないわ!」
とローブを脱ぎ捨て、黒のワンピースに着替えたミーシャが魔法の杖を取り出す。そしてテラスの柵からよいしょと身を乗り出し、草木の生い茂る地面に降り立つと、その大地に杖を突き立てた。
魔法陣が浮かび上がり、周囲を重たい空気が包み込む。目を閉じて魔力を流し、ミーシャはその言葉を紡いだ。
「おいでませ! コキュートス!」
魔力が一瞬だけ晴れ、次の瞬間、周囲を吹雪が包み込む。
吹き荒れる豪雪に、ミーシャの金髪が揺れる。辺り一面は瞬く間に銀に包まれて、緑の生い茂る大地は純白の絨毯へと姿を変える。そして見上げた先には、一人の少女がまるで儚く舞い落ちる雪のように、その銀世界へと舞い降りた。
かの名をコキュートス。氷獄に棲み、全てを氷雪で包む氷の化身である。
足先まで届く銀髪を広げ、コキュートスはミーシャへ視線を向ける。その青色に灯された色はミーシャを捉えた瞬間に歓喜に染まり、ゆったりとした白色の衣装をはためかせながら、コキュートスは雪の上を駆けだした。
「きゅーちゃーん!」
「ミーシャさまー! 呼んでくれてありがとなのです!」
両手を広げて、ミーシャがコキュートスを受け止める。ひんやりと冷たい彼女の肌は、ミーシャの火照った体を十分すぎるほどに冷やしてくれた。夏の暑さは既にどこかに消え、銀の世界が二人を包む。
「は~、きゅーちゃん冷たい! 来てくれてありがと~」
「はい! ミーシャさまのためなら、コキュートスはどこでも行くのです!」
ミーシャの腕の中で胸を張りながら、コキュートスがふんすと鼻を鳴らす。そんなコキュートスにほっぺたをくっつけながら、ミーシャがごろんと雪の上に転がった。ふかふかでひんやりとした雪の枕に沈み、ミーシャがきゅ、とコキュートスを抱く力を強くする。
「ミーシャさま、涼しいですか?」
「うん、すずしー……最高……!」
「よかったのです! もっとコキュートスで涼んでほしいのです!」
にぱ、とコキュートスが微笑んだ瞬間、あたりに霧が立ち込める。ひんやりとした冷気は周囲の木々を包み込み、太陽の日差しを遮った。あたりは暗くなり、はらはらと白い雪が舞い落ちる。
喜びを増すコキュートスとは正反対に下がっていく気温に、ミーシャの体が少し震えた。少し寒くないか。いやでもこれ止めると暑いし。けどさすがに下がりすぎじゃないこれ。鼻水が出てきた。
だんだんとミーシャの顔が寒さを耐えるそれへと変わっていく。それとは真逆に、目の前で笑顔を見せるコキュートスへ、たまらずミーシャがおずおずと口を開く。
「そのー……き、きゅーちゃん? ちょっと寒いかな~……って」
「ですっ!?」
そう呼び掛けた途端、変な声を上げながらコキュートスの体が跳ねて、周囲の景色が戻っていく。降り注ぐ日差しは熱いまま、積もった雪の上に座り込んだコキュートスは、うるうると瞳に涙を溜めてミーシャの事を見上げていた。
「コキュートス、またやりすぎちゃったですか……?」
ぽろり、とコキュートスの頬を小さな結晶が転がる。氷の涙が、雪の上に落ちた。
「あーいや、違うの! きゅーちゃんは悪くないよ、ただ私が薄着すぎただけで!」
「うう……ごめんなさいです……ミーシャさま、捨てないでください……」
「捨てないよ! 大丈夫だから、ほら、抱っこしてあげるから!」
雪の上に散らばる氷晶を見て、ミーシャが慌てて両手を広げる。しかしコキュートスは動く様子を見せず、うつむいたまま青色の瞳から氷の結晶を吐き出していた。
「あわわわわ……きゅーちゃん、落ち着いて! ほら、今だと全然平気だから!」
「ほんとですか……? コキュートス、今の方がいいですか……?」
「そうだよ! だから、この調子で涼しく――」
そうミーシャが言葉を続けようとした瞬間だった。
白の雪原にぽつりと立つ黒杖から、ひとりでに魔方陣が浮かび上がる。突然のことに驚いたミーシャとコキュートスが視線を向けると、そこからは黒杖を囲むようにして、六本の火柱が昇っていた。
「うわぁ!? きゅーちゃん、隠れてて!」
「は、はいなのです!」
コキュートスの冷たい体に背を向けながら、ミーシャが火柱へと視線を向ける。周囲の雪は全て溶け、荒々しい大地が火柱の周りに広がっている。冷えたミーシャの体を急激な熱が遅い、頬をぬるい風が撫でた。
そして見上げた先には、一人の少女が舞い落ちる火の粉のように火柱を背に降りてくる。ミーシャ達の目の前に立つその少女の瞳は、燃えるような赤色だった。
名をイフリート。炎獄に棲み、全てを灼熱で包み込む炎の化身である。
「ふ、ふーちゃん? どうしたの、急に」
「ごめんね、ミーシャさま。ボクの妹が迷惑をかけたみたいだから、連れ戻しに来たんだよ」
申し訳なさそうにミーシャへ頭を軽く下げながら、イフリートが呟く。そうしてその後ろに隠れているコキュートスを見つけると、イフリートはすぐさま顔をしかめて叫んだ。
「コキュートス! またミーシャさまに迷惑かけたでしょ!」
足先まで届く金髪を揺らして、イフリートがミーシャの後ろのコキュートスへと指をさす。当の本人のコキュートスは、頬のあたりについた氷の結晶を指で取りながら、頬を膨らませた。
「イフリートこそまた勝手に出てきたですよ! それこそミーシャさまの迷惑じゃないのですか!?」
「ボクはキミの世話役なんだよ! 何かあったらキミをこっちに戻すためにこうして出てきてるんじゃないか!」
「そんなこと言って、本当はミーシャさまと二人になりたいだけです? 私を引きはがす気です!」
「ち、違うに決まってるだろ!? なんでボクがミーシャさまと二人っきりにならないといけないんだよ!」
板挟みに続けられる会話に、ミーシャが交互に視線を泳がせる。しかしそんなミーシャなぞつゆも知らずに、姉妹の口喧嘩は続けられた。
「そもそもイフリートは呼ばれた時以外でてくんなですー! 勝手に出てきて恥ずかしくないですか?」
「なにおう!? 未熟なキミがミーシャさまに色々失礼をするよりは恥ずかしくないさ!」
「言ったですね!? ほんとはミーシャさまと二人っきりになりたいだけのくせして、ワガママです!」
「キミこそミーシャさまを独り占めしたいだけじゃないか! このおませさん!」
最早全てをあきらめたミーシャは、ああやっぱり姉妹なんだなとか適当に思っていた。
それと体の前から熱い空気が吹いてきて、後ろには冷たい空気が漂っているので真ん中に立っているミーシャの気温はちょうど良かった。最初からこうすればよかったらしい。
「こうなったらミーシャさまに決めてもらえばいいです!」
「そうだな、そっちの方が分かりやすいさ!」
などと考えているうちに話があらぬ方向へと進み、何やら大変なことに巻き込まれたらしい。それに気づいた時には遅く、ミーシャの目の前にはコキュートスとイフリートが、それぞれミーシャの顔を覗き込むように立っていた。
「ミーシャさま、こいつとコキュートス、どっちの方がいいですか!?」
「こいつって何だ! ボクの方がお姉ちゃんなんだぞ!」
「勝手にしゃしゃり出てくるお姉ちゃんなんて、妹として恥ずかしいです!」
「なんだとぅ!?」
「あー待って待って! 二人とも、そろそろ落ち着いてっ!」
再び始まった二人の口論に、ミーシャが慌てて引き留める。そんな彼女らの後ろでは、炎と氷とが乱れる壮絶な光景となっていた。
それを知らないコキュートスとイフリートにこちらを向かせ、ミーシャが目線を漂わせて口を開く。
「その、私は二人とも大事だと思ってるよ! きゅーちゃんは素直でいい子だし、ふーちゃんは妹思いのしっかり者だし! どっちかってよりは、ええっと……!」
ふらつく言葉をなんとか探しながら、ミーシャが苦し紛れに手をばたばたと泳がせる。左右に揺れる手を不思議そうに目で追いかけながら、コキュートスとイフリートは次の言葉を待っている。
「ごめん! 私は二人とも大好きだから、どっちかなんて決められないよ!」
手をぱんと合わせて、ミーシャが目をつむって頭を下げる。ヘタレ野郎のような完全な逃げの姿勢にミーシャは顔が赤くなったが、彼女にはこれしかできなくなった。それと少しだけ男の気持ちが分かったような気がする。
そうして恐る恐る目を開くと、そこにはぽかんと口を開けている二人の顔があった。地雷を踏んだかもしれない。既に覚悟はできていた。
「ミーシャさま……」
「はい……っ」
「やっぱり大好きですぅー!」
「ぬはッ」
下腹部に飛び込んできたコキュートスに、ミーシャが汚い悲鳴を上げる。なんとかして受け止めると、コキュートスはとてもうれしそうにミーシャの胸へ頬ずりを決め込んでいた。
「ふふっ、やっぱりミーシャさまって優しいんだね」
「そうなの?」
「そうだよ。だって、ボク達のことを大好きって言ってくれるの、ミーシャさまだけだもん」
「うーん……私にはよく分からない……」
よく分からないが、最悪の事態は免れたらしい。少し寂しそうに視線を逸らすイフリートにミーシャはふと思いつき、右腕でコキュートスを撫でながら、もう片方の腕をイフリートの方へと差し出した。
「ふーちゃん、こっちおいで?」
「……いや、ボクはいいよ。ミーシャさまの手を煩わせちゃうから」
「む、これくらい平気だし。そんなに体弱くないもん」
ほっぺたを膨らませるミーシャが、イフリートに手招きを続ける。
「それじゃあ、頭撫でるだけ。ホラ、これなら別に私も疲れないでしょ?」
「だ……だったら、そうしよう、かな。」
そろそろ寒くなってきたので、イフリートは恥ずかしそうに寄ってくるのではなく、それこそ全力ダッシュでこっちに来てほしい。あとちょっとで鼻水が垂れるしもう少しで凍え死んでしまう。
などということは口に出すことはせず、ミーシャはイフリートの金の髪へと優しく触れる。そしてさらされと流れるような髪を撫でると、イフリートはくすぐったそうに目を細めた。心なしか、頬が赤く染まっているような気がした。
「丁度いい……」
「ミーシャさま? どうしたですか?」
「なんでもないよ。きゅーちゃんも、ふーちゃんも、二人とも大好き!」
風呂の湯加減を調節するのに似てるな、なんてことを思いつつも、ミーシャが晴れやかに笑う。
「二人とも、この後どうする? 何ならお茶でも飲んでく?」
「はい! ミーシャさまと一緒に!」
「ボクも、そうする」
かたや笑顔で、かたやちょっと恥ずかしそうに、応えが返ってくる。この前買いすぎたケーキがまだ残っているのでそれを手分けして食べてしまおう、とミーシャが用意を始めるために二人を撫でる手を離す。
しかしその両手は、暖かい手と冷たい手に握り返された。
「ふーちゃん? きゅーちゃん?」
「……も、もう少しこのままがいいな」
「私もです! もっとミーシャさまに撫でられたいです!」
向けられる二人の視線に、ミーシャがわざとらしく息を漏らす。
「まったく、二人とも甘えんぼなんだから! ほら、もっとこっち寄って?」
「やったです! いっぱい撫でてほしいです!」
「ふふ、嬉しい」
微笑む氷と炎の化身へミーシャの細い手が触れる。
氷雪と獄炎、相反する二つを手中に納めし黒魔女は、その顔に笑みを浮かべながら、灼熱と氷冷に包まれた静かな時間を、今しばらく過ごすことにした。
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書き溜めこれで尽きました。次回の更新は多分二週間後くらいだといいなって思ってます。実際は知らないですけど