黒魔女にっき。   作:宇宮 祐樹

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『アイリス』


「純粋」「思いやり」「あなたを大切にします」

 ――――「希望」




『花畑にて』

 

 

 

 ――あなたは、黄色の花畑に立っていた。

 

 視界を埋め尽くす花々は地平線の向こうまで続き、あなたの心を懐かしい幸せで包み込んだ。吹き抜ける風は頬を撫で、花を揺らし、あなたの心に一筋の悲しさを呼び起こさせる。突き抜けるような青空はあなたの記憶の空白を映しているようで、ぽつんと佇むあなたは、優しい孤独を感じていた。

 悲哀と追放。追想、追懐。そして追憶の果てに、あなたは此処へ辿り着いた。

 

「……ここ、どこ?」

 

 ぴたり、と風が止む。虚ろだったあなたの瞳に、光が戻る。

 

「みんな? どこ行っちゃったの?」

 

 きょろきょろと周りを見渡すあなたを包んでいるのは、変わりなく咲き誇る黄色い花たち。そこには紅の魔女も、自らの眷属も、誰も存在しない。隔絶された世界に、あなたは一人で立ち竦んでいた。

 微かな孤独と懐かしい色褪せた感情が、あなたの心に思い浮かぶ。そして、あなたは彼女の姿を思い(えが)いた。

 

「アイリス?」

 

 満開の黄色に差し込んだ、一筋の純白。心に浮かぶその笑顔は、彼女の目の前に姿を現した。

 流れるような白のローブに、可憐さを感じさせる佇まい。緑のある艶やかな黒髪は空の青に解けていくようで、その瞳はまっすぐとこちらを見つめている。まるでこの世の闇を知らないような、その闇の中にいるにもかかわらず、それを受け入れているような、そんな笑顔だった。

 

「アイリス? どうしたの? てか、こんなとこで何してるの?」

 

 あなたの声に応えることも無く、彼女はこちらへと歩み寄る。

 いつも通り、何も変わらない彼女の笑顔に、あなたの心に少しの暖かな光が灯った。

 

「……って、なに無視してるのよ! ちょっとアイリス!? なんとか言いなさいよっ!」

 

 何も話さない彼女にあなたはそう言い放ったけれど、返ってくるのは静かな足音だけだった。だんだんと無言で近づいてくる彼女にあなたは少しの恐怖を覚え、その唇は少しだけ震えていた。

 心に差し込んでいるのは、光を覆う黒い陰。あなたにとって、彼女は信じるに値する人間だった。けれどあなたはそれを裏切られた。紛れもないその事実が、あなたの心に僅かな漆黒を感じさせた。

 

 そして――あなたの横を、彼女が通り抜ける。

 すれ違う彼女の横顔は、なおも儚げに笑っていた。

 

「アイリスっ」

 

 思わず振り返ったあなたは、目の前の光景に言葉を失った。

 

「アイリス、遅いわよ? まったく、私がどれだけ待ったと思ってるの?」

「ごめんなさいね、ミーシャ。でもほら、お菓子を持ってきたわ。二人でいっしょに食べましょう」

「わあ! これ、私が好きなお菓子! ありがとうアイリス!」

「ええ、どういたしまして。ふふ、ゆっくり食べるのよ」

 

 いつものように、アイリスが笑う。その隣に座っているのは、()()()ではなく、()()()だった。

 その手に握るのは、全てを統べる魔法の黒杖。身に纏うは、夜空を切り取ったようなローブ。頭の上には深淵よりも黒い三角帽子。その下の肩口まで届く髪は、夜空で瞬く星のような金だった。

 

「ぇ……、あ……?」

 

 手が震える。見てはいけない。けれど、心のどこかでそれを望んでいた。消えた記憶の中、あなたはそれを求め続けていた。ずっとアイリスのそばに居たいと、そう願い続けていた、彼女の名は。

 

「ミーシャ」

 

 暗闇の底から響くような声が、あなたを呼びかける。

 

「これが、貴様の望んだ景色なのだ」

 

 かけられる声にゆっくりと振り向くと、あなたは黒の花を見上げた。

 全ての生き物をバラバラにして、無理矢理組み合わせたような、異形の花。見上げるほどに大きなそれは、所々に古ぼけた樹々や蟲の足が見せて、それがあなたの親しい者たちを思い起こさせた。ゆらりゆらりと蠢くその花は、あなたに言葉をかける。

 

「これは、夢だ。貴様が一番に望んだ願い。目に映る全てが、貴様の幸せそのものである」

「あな、たは?」

「貴様はもう理解しているはずだ。この夢も、私も、自らの本当に成すべきことも」

 

 そして、その黒い花は、告げる。

 

 

「私の名はフリティラリア。貴様の望みから産み落とされた、ミーシャ=エリザベートのそのものである」

 

 

 

 

 

 

 花びらが散る。黒塗りの泥が、黄金を塗り潰す。

 

「ううぁあああああ!! アイリスうううぅぅっぅううううう!!!!」

 

 数多に広がる黒い腕が、銀の剣を伴ってアイリスへと向けられた。幾多もの剣閃が白の魔女を襲い、絶叫と共にその祈りを果たそうとする。そんな彼女を、アイリスはただただ受け入れていた。

 剣閃を弾く雷光はだんだんと勢いを落とし、吹き荒れる風がアイリスの髪を揺らす。既に手足にはいくつかの切り傷がにじんでおり、その刃の嵐の中でアイリスは笑っていた。

 

「そう……そう! ミーシャ、もっと……もっと私を……!」

 

 がぎん、とアイリスの額を剣が弾く。打ち上げられた白魔女の体が、花畑に紅の池を作り出した。

 額から溢れる赤い液体を手で拭い、アイリスが立ち上がる。握る白杖には赤いまだら模様が浮かぶ。

 

「足り、ない……まだ、私には、何も――」

 

 そう小さく呟く彼女の体を、風の獣が凪いだ。

 

「フェンリル」

 

 吹き荒れる風が体を引き裂き、地面を抉りながら進んでいく。当たりに瓦礫と血飛沫を散らしながら、嵐の化身が全てを喰らいつくす。打ち付けられた壁から、まるで赤い薔薇のように、どろりと血が滴り落ちた。

 そして、雷光が爆ぜる。巨大な風の獣の体が、弾け飛んで宙に溶ける。

 

「……げ、もので……私は、殺せない」

 

 破れた頬から血を流し、アイリスが立ち上がった。

 

「私は、あなたに……あなたに、殺されなければならない。そう、でしょう?」

 

 白光が肌を包み、傷を塞ぐ。にっこりと満面の笑みを浮かべたアイリスは、異形と化した唯一の友へと白杖を向ける。瞬間、雷鳴が轟いて、真後ろで牙を向けていたフェンリルを貫いた。

 溢れる血飛沫が、彼女を赤く染め上げる。黄色の花道を、アイリスが歩む。

 

「――コキュートス、イフリート」

 

 黒魔女の唇が紡ぐのは、地獄を支配する二柱。埋め込まれた蒼と赤の瞳には、広がる炎獄と氷獄とが映っていた。燃え盛る焔はアイリスの体を焼き尽くし、穿たれた氷の楔は進もうとする彼女の足を地面へ縫い付ける。

 けれど、彼女は笑っていた。体中を焼かれながら、足から夥しい程の血を流しながらも、彼女はミーシャへと笑みを浮かべていた。

 

「ま、だ。ミー、シャ。あなたが、ころして」

 

 杖を振るうと、黄色の花畑がその世界を塗り替える。少女たちの見た原風景が、二人を包み込む。

 

「……それは邪魔ね」

 

 白杖が宙を舞うと、アイリスの背後に幾多もの魔法陣が連なり、そこから光の槍が放たれた。溢れ出す光の奔流は闇を振り払い、花畑には暖かな光がもたらされる。ぼろぼろと腕の欠片が散り、あたりを黒い泥が埋め尽くす。

 背負う花を散らし、残ったのは彼女のみ。握る黒杖が魔法陣を描いたと同時に、ミーシャの腹を龍の牙が裂いた。

 

「ファフニール!」

 

 黒の血に(まみ)れた龍が、その咢を白魔女へ向ける。迫る幾多もの牙にアイリスは憶する事も無く、白杖をかつん、と床に着けると、そこから広がるように魔法陣を刻んだ。

 迅雷が鳴り響く。龍の体は二つに裂け、溢れ出る血の道をアイリスが歩んでいく。

 

「あと三つ」

「う、あ、あがががぎぎぎぁぃぃ――ぃぃぎぎぎ!!」

 

 がぢん、と黒杖を突きたてて、ミーシャが千切れるような悲鳴を叫ぶ。そして左腕から顕現するのは蠅の王。自らの卵を食い破るようにして、黒い蟲達がミーシャの左腕から産まれていく。食い散らされてぼろぼろになった左腕をだらんと垂らしながら、ミーシャが叫ぶ。

 

「ベ、ルゼ、ビュートぉおおぉぉぉおお!!」

  

 蟲の河がアイリスへと放たれる。流れる暴食の奔流が、アイリスの腕を、髪を、足を食い荒らした。

 自らの躰を喰われる痛みに屈することも無く、アイリスはただただ前へと進む。皮膚は所々が破れ、全身を爛れるほどの血で濡らしても、彼女は足を止めなかった。

 白い光が魔女を包む。全身を一から作り直す激しい痛みが、アイリスを襲う。その痛みに顔色一つ変えずに、アイリスが魔力を放つ。描かれた魔法陣から顕現したのは、光輝。迸る閃光が、蟲の河を切り裂き、その先にあるミーシャの右腕を撥ねた。

 

「……羽虫も落ちたわ。残りは、ふたつ」

 

 手の内に光をくすぶらせながら、アイリスがミーシャを睨んだ。

 

「……エリクシア」

 

 どぼどぼと零れ落ちる黒の泥に、ミーシャが紡ぐ。その瞬間に色とりどりの花々と伸びる蔦がが彼女の周りに浮かび、千切れた右腕とぼろぼろの左腕を包み込む。そうしてミーシャが黒杖を握ろうとした瞬間、彼女の視界を閃光が埋め尽くした。

 光輝による灼熱。花々はぼろぼろと体を崩し、ミーシャの半身が焼き払われる。

 

「ごめんなさいね。でも、あなたが成さなければならないもの。それ以外はいらない……あなただけが、欲しいから」

「あ、が、がぎ、がぎぎいいいいぎぎあああぁああっぁぁぁあああ――!!」

 

 ずぶずぶと、失われた半身の断面が蠢く。溢れ出る泥はミーシャの躰を補うように形を作り、そこからゆらゆらと揺らめく蛇のような刃を露わにさせた。暗闇が黄色い花畑を駆ける。宙を裂く黒刃はアイリスの四肢を貫き、その体を持ち上げて地面へと叩きつけた。

 

「古き、森の災厄よ!」

 

 掴んだ白魔女のの躰を何回も叩きつけながら、ミーシャが告げる。ぱきぱきと全身から生え始める枝はアイリスとミーシャを広く包み、花畑の世界を樹々の暗い世界で覆う。ぼろぼろの床に叩きつけられたアイリスは全身から血を流しながら、その昏く広がる世界を見上げていた。

 

「これで……よう、やく」

 

 手に握るのは、黒の杖。心に抱くのは、作られた憎しみ。

 背中に樹々を背負いながら、黒魔女が自らを裏切った白魔女へと杖を向ける。彼女を包む泥は握る杖を刃へと変え、その刃を鈍く煌めかせた。

 

「ヴヴうううああぁぁぁ――――あああああ!! アイリスぅぅぅぅううヴヴヴヴヴッヴ!!」

 

 慟哭と悲願が彼女たちを支配する。

 振り下ろされる刃に、アイリスは両手を広げ、まるで愛おしい誰かを呼ぶように、叫んだ。

 

 

「やっと、やっと私を殺してくれる――来て! 私を殺して! ミーシャ!」

 

 

 

 

 

 

「我らは貴様の望みである」

 

 黒の花は、あなたにそう告げた。

 

「孤独だった貴様は生まれ育った世界を亡ぼそうと願い、災厄を望んだ」

 

 伸びる枝があなたを包み込む。思い描くのは、いつも木の実をくれるあのひとだった。

 

「飢えた貴様は喰らいたいと願い、暴食(ベルゼビュート)を望んだ。世界を呪った貴様は、氷獄(コキュートス)炎獄(イフリート)を望んだ。そして、やがて訪れるはずの希望を願い、花々(エリクシア)そよ風(フェンリル)を望んだ。けれど辿り着かない自らの無力さを呪い、人を殺すための(デュラハン)を望んだ。そして、再び世界の終焉を願い、竜の翼(ファフニール)を望んだ」

 

 黒の花は形を変え、あなたにいくつもの姿を見せた。色とりどりの花々に塗れる、龍の翼。それを切り裂くように顕れる数多の銀剣は、焔と薄氷に包まれている。そよ風があなたの頬を撫で、あなたの視界をいくつもの蟲たちが埋め尽くした。

 

「しかし、我らとは別に、貴様の望みを叶える者が現れた」

 

 黒の花が示す先にあるのは、純白の彼女だった。同じ孤独の中で手を取り合った彼女は、あなたの望みを果たしてくれた。

 

「彼の者は貴様に望みの結末ではなく、希望をもたらした。人の温もりを与え、優しさを諭し、約束を告げた。もう一人にはしないと、彼の者は貴様に言った。光だ。彼の者は、貴様を抱擁する白き光となったのだ」

 

 彼女の笑みがあなたの脳裏に浮かぶ。思い描いた笑顔は現実となってあなたの目の前に現れた。それにあなたは手を伸ばす。けれどもう二度と届かない。掴もうとした指先が、宙を抱いた。

 約束が消える。世界を暗黒が包み、あなたの視界には燃え盛る炎と、その中で咲く黒い花が見えた。

 

「そして、貴様は裏切られた。そうして、一人になった貴様は復讐を願い、黒の花(フリティラリア)を――私を、望んだ」

 

 広がるのは災禍。世界を殺戮と破壊が支配し、混沌が全てを呑む。笑っていたあなたと彼女の姿は消え、残ったのは裏切りに泣き叫び、黒の花に成り果てるあなた自身だった。

 黄色の花畑は漆黒によって埋め尽くされ、ただ一つのフリティラリアが咲く。血を散らし、肉を裂き、骨を砕く。繰り広げられる暴虐を、あなたはその瞳に映していた。

 

「あの忌々しき紅の魔女に捕らえられた時でも、貴様は私を望んでいた。もはや貴様にはそれしかなかったのだろう。白魔女への渇望だけが、貴様を支配していた。故に、二度目の邂逅は引き起こされた」

 

 昏きが支配する世界に、一筋の白光がもたらされる。純白の魔女は黒の花と対峙し、その白杖を振るう。

 

「彼の者は私を消すことによって、貴様を助け出そうとしていたのだろう。けれどそれには届かなかった。貴様を助けることのできなかった白魔女は、愚かなことに貴様の記憶を消したのだ。そうすれば、貴様の望みによって生み出された私も姿を消す。けれど貴様は全てを失い、再び孤独へと還ったのだ」

 

 叫び声が聞こえる。空を覆う漆黒は晴れ、そよ風と花畑があなたを満たしていた。 

 

「一人になった貴様を動かしているのは我々だった。貴様から生まれた我々は、貴様の望みを果たすために貴様の心に生まれた空白を埋めようとした。全ては、我が主の望みのままに。命を司る樹々、花畑に吹く風、突き抜けるような青空、そして――白の彼の者への復讐も、全て」

 

 あなたの心に、少しだけ影が産まれた。

 

「そして、それはようやく果たされる。貴様の望みが、現実と成るのだ」 

 

 その言葉と同時に、あなたはぼろぼろになった白魔女を見た。

 

「見よ、これが貴様の望んだ光景だ。自らを裏切った白の魔女は、ようやく貴様の意志で殺される。もう二度と、貴様は裏切られることはない。永遠の安寧と、恒久の平穏を約束しよう」

 

 今ここで見ているはずもないのに、その映像は鮮明にあなたの脳裏に浮かんでいた。そこに映っているのは、今にも白の魔女を殺さんとしている黒い魔女と、それをただ受け入れるように、まるであの時に届かなかった手をもう一度伸ばしているような、白の魔女の姿。振り下ろされる黒の刃が、彼女の額を貫かんとしている。

 

「全ては、我が主の望みのままに……」

 

 これが、あなたの望んだ結末だった。あなたは自分を裏切った彼女を、殺したいと願った。

 

 

「……ち、がう」

 

 

 虚ろになった唇から、言葉が漏れる。

 

「なに?」

 

 沈黙を置いて、返ってきたのは疑問だった。するとその時、黒い花を構成する肉の花弁が、ぼろぼろとその形を崩していく。自らの躰が崩れ落ちていくと同時にフリティラリアが感じたのは、強い拒絶だった。

 あなたの望みが崩れていく。裏切りの化身が消えていく。

 

「なぜだ? 貴様は私を望んだのではなかったのか? 私は貴様の望みを果たせなかったのか!?」

「そうじゃない。あなたは、私の望みを叶えてくれた」

「では、貴様は私に何を願ったのだ? あの白の魔女に、何を求めただというのだ?」

 

 世界が崩れていく。彼女を見たいしていた黄色の花畑は裂け、突き抜けるような青空はガラスのように欠け落ちていく。吹き抜けたそよ風は嵐の様に巻き上がりながら消えてゆき、太陽は蝕まれるように昏きへと堕ちていく。

 

「あ、ああ、消える……消える!? 私が!? 貴様は私を望んだはずだ! なのに、どうして」

「消えないよ。あなたは、私自身なんだから。消えちゃうのは、私の望みだけ」

「望みが、消える!? どうして、私は……貴様の、ために……貴様の望みのために、彼の者を殺して……!」

 

 あなたの望んだ景色は消えてゆき、また再び世界を暗黒が包み込む。

 けれどそれは、白に染まるための黒。塗り替えられるための、孤独な世界。

 

 

「私はアイリスを殺したいんじゃない」

 

 

 夢から覚める刻が来た。

 

 

「私の、望みは――」

 

 

 


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