黒魔女にっき。   作:宇宮 祐樹

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『追懐の果て』

 

 窓から差し込む西日に照らされて、ウイスティが目を覚ます。

 まずはじめに見えたのは、鮮血のように紅に染まった天井だった。痛む頭を押さえながら体を起こすと、かけられていた上質な毛布がはらりと落ちる。その下にはよれよれになったいつもの白衣が見えて、ぼさぼさに垂れ下がった前髪を片手でかき上げながら、ウイスティはおぼろげな頭を動かそうと試みた。

 

「……あ?」

 

 思い出されるのは、透き通るような空白。まるで誰かから抜き取られたように、ウイスティの脳内は虚無に埋め尽くされていた。かろうじて思い出せるのは、ぼんやりとしたアイリスとローザの姿。何かを語らっている紅の魔女の顔には、吊り上がるような笑みが貼り付けられていた。

 そして、頭の奥底から響くような痛みがウイスティを襲う。

 

「あらウイスティ、ようやく起きたのね」

 

 そんな声とともに、白の魔女がウイスティの前へと姿を現した。ずきずきと重たい鐘を鳴らしている頭を動かして、ウイスティがアイリスへ問いかける。

 

「……わ、私、何して……?」

「あら、忘れちゃったの? 昨日の夜から今まで、あなたずっと眠っていたのよ」

「昨日の夜……?」

「ええ。ほら、窓見てごらんなさい」

 

 そうしてウイスティが向いた視線の先には、今にも沈まんとしている太陽があった。寝起きに夕日を見るという珍しい体験をした彼女に、アイリスが呆れたように声をかける。

 

「あなた、いつも研究所に閉じこもってるからそうなるの。心配したのよ?」

「あー……ごめん?」

「はい。でも体調はだいぶ良いみたいね。これなら夜会にもすぐに出られるわ」

 

 まったくもう、と肩をすくめているアイリスを、ウイスティはただ見つめることしかできなかった。昨日の夜も何も、それに関する記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっているのだ。頭の中を支配する奇妙な虚無に、ウイスティは背中をなぞられるような恐怖感を覚えた。

 自らを認識するように、ウイスティは自らの手のひらへと視線を落とす。かさかさになった手のひらには何もなく、ただ自分の意思に従って指が動いている。今の彼女は、その当たり前の事にすら奇妙な感触を覚えていた。

 

 その空虚な手を、純白の手が包み込む。

 

「ウイスティ」

「……あい、りす?」

「あなたは大丈夫。何も心配はいらないわ。これはその……私の、ことなのだから」

 

 首元へと回された腕に、ウイスティが手を寄せる。

 

「全て私に任せて。あなたの謎も、ミーシャちゃんのことも、全て教えてあげる」

「あ、ん? それって、どういう……」

「すぐにわかるわ。ええ、賢いあなたなら、すぐに……だから、私に全てを……」

 

「ーーアイリス?」

「へっ?」

 

 唐突に聞こえて来たその声に、アイリスが素っ頓狂な声を上げた。そしてそんな彼女の退路を塞ぐように、ドアを閉める音が小さく響く。

 果たして、アイリスの視線の先にいるのは信じられないものを見て立ちすくんでいるミーシャだった。どうやら身支度もほとんど済ませたらしく、袖を通しているのはいつものローブではなく、多くのリボンで飾り付けた漆黒のドレス。長めのスカートから見える足は、苛立ちをおさえるように一定のリズムを刻んでいる。

 

「なにしてるの」

「あ、ぇ、んと、ええと、ミーシャちゃん、もう準備は終わっ」

「なにしてるの」

「それは、そうね、ウイスティがいつまで立っても起きないから。少し心配になっちゃって」

「なんか距離近くない?」

「そ、そうかしら? でもほら、髪の毛が崩れてるし直さな」

「…………ふんっ」

 

 わたわたという擬音が聞こえるほどに狼狽するアイリスに、ミーシャはぷい、と頰を膨らませる。

 

「……ばか」

「おあぁぁぁっ……!?」

 

 長年付き合っているウイスティが初めて聞く、アイリスの野太い絶句だった。そのままアイリスは地面へと崩れ落ちてゆき、そんな彼女へミーシャは侮蔑の視線すら向けずにウイスティへと口を開く。

 

「ウイスティさん、用意できたら下で集合ね。そろそろ夜会も始まるから」

「ん、わかった。すぐに向かう」

「あんまり時間ないし、そこのアイリスも連れて早く来てね?」

 

 少し心配するような声色で、ミーシャが閉めたドアへと手をかける。そして部屋から出ようとした時、ふともう一度だけウイスティの元へと振り向いて、思いつめるようにその唇を動かした。

 

「あ、あと! ウイスティさん!」

「……どした?」

「わ……わたしだってアイリスの友達だもん! だから……あんまり独り占めしないでよねっ!」

 

 ばたん! と力強くドアが閉められて、その向こうの足音が遠ざかる。いきなり惚気に巻き込まれたウイスティはしばらく呆然とドアを見つめていたが、ふと聞こえてくるうめき声に視線を地面へと動かした。

 

「違うの……違うのよ、ミーシャちゃん……そんなつもりじゃ……」

「おーい、戻ってこーい」

「あいたっ」

 

 先ほどの怪しげな雰囲気はどこへ行ってしまったのか、床に寝そべってぶつぶつと呟くアイリスにウイスティがげし、と蹴りを入れる。そうしてようやくベッドの上から這い出ると、凝りの固まった肩をこきこきと鳴らして、夕日を前にうん、と一つ伸びを済ませた。

 

「と、とりあえずウイスティ、早く用意済ませて降りて来なさい。私はミーシャちゃんに謝り倒してくるから……」

「ほいほい。ま、頑張りなよ」

「ええ…… そうね……」

 

 ふらふらとした足取りで部屋を去るアイリスを横目に、ウイスティが洗面台へと足を踏み入れる。ぼんやり目に映るのは、鏡に反射する自分の姿だった。白衣の内のポケットに入れたままの眼鏡をかけると、やつれたような表情が目に飛び込んでくる。

 いつまで経っても変わらない。目の下のクマも、伸ばしっぱなしの癖っ毛も、猫背になったまま固まった姿勢も、なにもあの時から変わらない。もし変わるとすれば、それは今日なのだろう。探す人から、知る人へ。それだけしか、ウイスティは変わることができないようだった。

 

「……ああ、そうだ。長かった。まったく、どれだけ待たせるんだ……でも、これで、ようやく」

 

 自らを律するように、ウイスティがひとりごちる。

 

「ようやく、辿り着いた」

 

 その口元は、これ以上にないほどの笑みが浮かんでいた。

 

 

「ねえ、ミーシャちゃん」

「なに」

「その、あれは違うのよ? ただウイスティが心配だっただけで」

「へー」

「ちょっと顔でも覗こうかな、って思ったらミーシャちゃんが来て」

「ふーん」

「だから別に他意はないのよ。ほんとよ?」

「ほーん」

「ミーシャちゃん……!」

 

 目の前をすたすたと歩いていくミーシャに、アイリスが崩れ落ちる。どうやら今だに許してもらっていないらしく、前を行くミーシャはぷんすか怒りながら北館へと続く渡り廊下を進んで行った。足元でうずくまっているアイリスの背中を撫でながら、ウイスティが声をかける。

 

「仕方ないって。ミーシャちゃんも時間が経てば許してくれるよ」

「でも……でもぅ……!」

「それに、今は夜会に集中した方がいいんじゃない? 私にはあんまりわかんないけど、あんた(魔女)達にとっちゃ夜会ってのは特別なもんじゃなかったの?」

「……そうね。それもそうだったわ」

 

 ウイスティの言葉に、アイリスの顔つきがすぅ、と変わる。まるで感情を押し込んだようにその瞳は冷たく、別人のように落ち着きを取り戻した白の魔女の変わりように、ウイスティは感じたことのない不信感を覚えた。

 呆気にとられているウイスティに、アイリスが少しだけ目を伏せて返す。

 

「ごめんなさいね、取り乱してしまって。それじゃ、行きましょう」

「……ああ」

 

 かくして、たどり着いたのは二人の背をゆうに越すような大きな扉だった。遠目からでもわかるその異質な大きさにウイスティは驚いたままだったが、アイリスはさほど興味を示さず、扉の前でこちらを睨んでいるミーシャの方へと一直線で歩いて行った。

 よく見るとジオラとソフィーの二人も揃っているようで、ウイスティがアイリスの後を追うと、待ちくたびれたようにジオラが口を動かす。

 

「よし、三人揃ったね! 時間ギリギリ!」

「……ごちそう、いっぱいよういしたから」

「ふふ、ついにこの時が来たのね! 今から楽しみだわ! なんたって主賓だもの! ね!」

「はいはい、そうですねーしゅひんしゅひん」

 

 むふー、と胸を張るミーシャには面倒臭そうにジオラが返す。どうやら彼女達もそうとうミーシャの扱いがわかって来たらしく、当の本人はそんなことつゆも知らずに一人優越感に浸っていた。

 

「それじゃあ、時間になったから開場しまーす。はい、ミーシャ様たち一番のりー!」

「のりー」

「いええええええいっ!!!」

 

 喉から声を張り上げて、ミーシャがその扉をくぐる。そして視界に飛び込んでくるのは、輝かしく装飾された大きなステージと、テーブルに盛り付けられた数多の豪華な料理。目に映るその光景にミーシャは目を輝かせながら、飛び跳ねる勢いで一番大きな中心の円卓へと駆け寄った。

 テーブルの上のまっさらなお皿と、銀のフォークを手にとって、ミーシャが盛り付けられた食材へと手を伸ばす。そこにはただの欲望だけが存在していた。今のミーシャは獣すら凌駕するような欲望に支配され、その食指を動かしていた。パスタがうまい。

 

「ごきげんよう、ミーシャ様」

 

 そんな声がステージの方から聞こえて来て、ミーシャはフォークをくるくると回しながらそちらの方へと視線を向ける。そこに立っていたのは、紅色の華美なドレスに身を包んだローザであった。いつもよりもその紅は輝かしく目に映り、それに思い出されるようにしてミーシャが言葉を漏らす。

 

「もーまふぁん、もまもふみまみた?」

「…………は? ええと、うん?」

「ミーシャちゃん、口の中」

 

 もぐもぐ、ごくん。

 

「あれ? ローザさん? 他の人たちは?」

「ああ、それでしたら心配はいりません。すぐに到着いたしますので、お構いなく」

 

 にっこりと笑うローザには、少しだけ曖昧な暗さが見えた。

 

「けれどまだ時間がかかりそうですね。では一つ、お話でもどうですか?」

「お話?」

「ええ。とても短くて、それでとても懐かしいお話を、ひとつ」

 

 

 

 

「昔々、あるお屋敷に一人の娘がおりました」

 

 何かを懐かしむように遠くを見つめ、薄い唇が開かれる。

 

「大きな屋敷の領主とその使用人の間に生まれたその娘に、味方はおりませんでした。いつも一人だったその娘は、誰かの温もりに飢えていたのです。温もりに飢えて、飢えて、そして彼女は天に縋りました。誰でも良い。見てくれるだけでもいい。どんな形でもいいから、他人の温もりを感じられるように、と。十と四歳のその娘は、願い続けていたのです。

 けれど、それが果たされることは長らくありませんでした。周りの人間は彼女を忌み子のように扱い、父親も彼女のことを良しとはしません。母も屋敷を追い出されて離れ離れになってしまい、娘はひとりぼっちになってしまいました」

 

 一つ一つ紡がれるその言葉を、何も知らないミーシャはただ受け止める。

 

「けれど、娘には利用価値がありました。その体も、流れる血統も、秘める魔力も、父親にとってはただの道具に過ぎません。娘は時に交渉材料として、時にただ欲望を満たすだけのものとして、その体と血を余すことなく使われました。何も知らない娘は、それをただ受け入れることしかできませんでした。怯えることも、逃げることも許されず、ただ物のようにして扱われることを、受け入れるしかありませんでした」

 

 そして少しだけ目を伏せて、ローザが言い放った。

 

「その娘の名前は、アイリスと言いました」

 

 ばたん、と。

 大きな扉が閉まる音がした。

 

「アイ……リス?」

「…………」

 

 信じられないものを見るようにして、ミーシャがアイリスの顔を恐る恐る覗き込む。けれどアイリスは黙したまま何も答えることはない。静寂による肯定がミーシャの背筋を凍らせて、震える視線は問いかけるように、ローザへと投げられた。

 そんな彼女を遮るように、追懐が続く。

 

「ある日、とある黄色の花畑で、アイリスは一人の少女と出会いました」

 

 その言葉に、ミーシャの脳裏で淡い光景が描かれる。地平線まで続く黄色の花々に、頬を撫でる優しい風。そしてそこに立っているのは、白魔女と呼ばれたひとだった。

 

「少女には親がいませんでした。産まれた時から一人ぼっちで、誰からも手を伸ばされることもない。孤独に包まれたその少女は、まるでアイリスにそっくりでした。二人はまるで惹かれ合うように邂逅を果たし、そうして彼女はアイリスへと問いかけました」

 

 震える手が、縋るように金の髪を梳く。まるで脳の中を掻きまわされるような得体の知れない感覚に、ミーシャは頭を掻き続けた。何度も何度も、そのある筈の記憶を探し続けた。

 

「私の、友達になってくれる? ――そう、彼女は告げました」

 

 黄色い花が揺れる。ミーシャの頭のどこかで、アイリスが嬉しそうに笑っていた。

 

「二人はずっと同じ時を過ごしました。見たこともない魔法に目を輝かせたり、小さなお茶会を開いて楽しくお話しをしたりする、そんなごく普通のことですら、二人にとってはこの上なく大切なものなのでした。

 二人が集まる時は、決まってその花畑でした。黄色い花畑に包まれているうちは、二人は幸せに満たされていたのです。優しさと温もりを初めて感じながら、二人はこれが永遠に続けばいいと、そう思っていました」

 

 白い彼女の影が、記憶の海へと沈んでいく。暗闇に落ちて、アイリスの笑顔が消えていく。

 

「そして、その時は訪れました」

 

 彼女の見る光景が、漆黒へと染まった。

 

「ある日を境にして、アイリスは少女の前から姿を消しました。たとえ穢れても、腐っても、彼女は貴族の子です。その愚図な男は自らの利益のために、アイリスを無理やり嫁がせたのでした。アイリスは自らの意思にそぐわず、遠くへと飛ばされてしまったのです。

 残された少女は、ただ絶望に突き落とされました。何も知らない彼女は、あれだけ信じていたアイリスに裏切られたと思ったのです。黄色い花畑には誰もおらず、ただ彼女は再び孤独へと還りました。

 そして彼女は全てを憎み、恨み、慟哭の果てに――裏切りの黒い花へ。フリティラリアへと、成り果てたのです」

 

 漆黒の花が咲く。全てを飲み込むような破壊と混沌が、ミーシャの中で広がっていく。

 ずきずきと痛む頭を押さえながら、ミーシャはただローザが紡ぐ言葉を聞くことしかできなかった。

 

「その花は全てを壊しました。アイリスを利用した全ての人間を燃やし、引き裂き、殺し尽くしました。それが、憎しみの果てにたどり着いた彼女の末路です。けれど、彼女にはあと一人だけ足りませんでした。そうして彼女は、ただ一人、いつもの黄色い花畑の中でアイリスを待ち続けました。ただ彼女を殺すために。自らを裏切った、あの憎き白魔女を殺すために、黄色の花畑の中でひとり待ち続けたのです。

 そしてーー」

 

 ローザは、告げる。

 

 

「アイリスを殺すと誓ったその少女の名前は、ミーシャ=エリザベートと言いました」

 

 

 すぅ、と。

 かき混ざっている頭の中が、全てなくなったような気がした。

 

「わたし、が……フリティラリア?」

 

 消え入るようなミーシャの呟きが響く。思わずミーシャが後ろへと振り向くが、アイリスは何も反応を示さない。その後ろのウイスティは、目を見開いて、少しだけ足を退いた。

 

「う……嘘だよね、ローザさん。これもパーティーの演出なんでしょ? まさか、私が……」

「嘘ではありませんよ。あなたはあの破壊の化身、フリティラリアです。アイリスの肉親を殺したのも、帰る場所を奪ったのも、彼女を殺そうとしたのも、すべてあなたです。何たって、そのフリティラリアを封印したのは私自身なのですから」

 

 唇の端を釣り上げながら、ローザが片手を前へ差し出す。指先からほとばしる魔力は紅の魔法陣を描き、その照準をミーシャへと向けた。

 

「全てを破壊したフリティラリアは紅の魔女によって封じ込められ、研究の対象になりました。数々の眷属を召喚するその魔法は黒魔法と呼ばれ、十年前に世に解き放たれたのです。けれどそれを扱える人間は存在しませんでした。たった一人、裏切りに愛された彼女を除いては」

 

 がちゃがちゃと鎧が擦れ合う音にミーシャが周りを見渡すと、そこには紅の鎧を纏った何人もの騎士が、彼女たちを取り囲むようにして立ちはだかっていた。その紅の檻に困惑するミーシャに覆いかぶせるように、ローザが続ける。

 

「……そしてある日、彼女の目の前にもう一度アイリスが現れたのです」

 

 淡々と語るローザの視線の先には、ただじっとこちらを見つめているアイリスの姿があった。

 

「彼女はフリティラリアの封印を解いて、ミーシャをあの黄色い花畑へと連れ出しました。そこから先は私も知り得ないのですが、いつのまにかミーシャは記憶を封じられ、アイリスと共に過ごしていたのです。いつものようにお茶会を開いたりしながら、まるであの日を思い出させるかのように。

 けれど私には魔女の猫がありました。ミーシャの位置はそれでつかめていたので、アイリスが何をする気だったのかを確かめていたのです。ですが、彼女はミーシャの記憶を封じたまま何もする気も起こさない。ですから、今回の夜会にアイリスとあなたを招いたのですよ。あなたを封じてしまうために」

 

 睨みつけるローザだが、それにアイリスは何も答えることはない。紅の魔法陣からは焔が吹き荒れ、ローザの腕を包み込む。

 

「アイリス……違う、よね? こんなの、変だよ。だって私、何も知らないもん! こんなの私じゃない! そうでしょ!?」

「………………」

「ねえ、何とか言ってよ……お願いだから……! 違う! 違うって、言ってよ!」

 

 縋るように項垂れるミーシャに、アイリスはただ冷たい視線を向けたままだった。その顔に映るのは、喪失と壊滅。瞳の色は力つき、項垂れるミーシャを撫でるはずの手は、何もない空間を通り過ぎた。

 

「さあ、思い出ごっこも終わりです。ミーシャ様……いいえ、憎きフリティラリアよ。私の友を孤独へと叩き落とした、愚かな黒の花よ。今ここで、その花びらを燃やしてあげましょう。塵も灰も、屑すらも残らずに、焼き払って差し上げましょう」

 

 爆炎と共に、ミーシャの視界を紅蓮が埋め尽くした。

 

 ローザの右腕から伸びた焔の腕が、ミーシャへと襲い掛かる。眼前に迫り来る煉獄に、ミーシャは打ちひしがれたまま、ただ瞳に揺れる炎をじっと見つめていた。そうすることでしか、アイリスに償うことはできないようにも思えた。

 吹き荒れる熱風が、金色の髪を揺らす。遠くでウイスティの叫ぶ声が聞こえる。けれどそれに振り向けるような時間も残ってはいない。ただ、彼女の心には見知らぬ後悔の念だけが残っていた。

 

 そして、迫る焔はミーシャの体を包みーー縄が解けるようにして、消えた。

 はらはらと木の葉のように落ちていく炎の先に見えたのは、全てを消し去るような清廉の白。

 

「…………何の真似ですか?」

 

 手に燻った炎を振り払い、ローザが不機嫌そうに視線を向ける。

 その先に立っていたのは、純白の杖を握る白の魔女だった。

 

「あい、りす…………!」

 

 足元でうずくまる黒魔女に、白魔女は屈み込む。そうして、伸ばした腕を頭の上に乗せながら、アイリスは言葉をかけた。

 

「ごめんなさいね、今まで黙っていて」

「……なんで……? もう、私、わかんないよ……」

「でも安心して、私が全て終わらせてあげるから。あなたのために、全てを捧げるから」

 

 くすり、とアイリスがいつも通り笑う。けれどミーシャには、それがひどく歪んだものに見えた。

 

「ウイスティ、こっちに来て。あなた、そんなところにいたら死ぬわよ?」

「し、死ぬって……」

「ええ。うっかり手を滑らせて殺しちゃうかもしれないから。できるだけ私の近くにいてね」

 

 眉をひそめながら笑みを浮かべるアイリスに、ウイスティは背筋の凍る感覚を覚えた。これもまた、ウイスティが初めてみるアイリスの表情であった。

 

「さて、ローザ。言っておくけど、私はあなたに協力している気は一つもないの」

「どうしてでしょう? ではなぜ此処へ足を踏み入れたのですか?」

「そんなこと決まっているじゃない。あなたを殺すためよ。ほら、この前も言ったでしょう? あなたのお屋敷をバラで埋め尽くしてあげる、って」

「そう、ですか。あなたはそうすることに決めたのですね」

 

 掲げられた白杖に、雷光が灯る。いくつもの紫電の槍が、周囲の騎士へと向けられる。そこにあるのは、明確な殺意だった。向けられた槍を睨むようにして、ローザが右腕を掲げる。紅の鎧たちは銀色の剣を抜き取って、その切っ先をアイリスとミーシャへと向けた。

 いくつもの視線が交錯する。困惑と、決意とが渦巻いていた。

 

「ミーシャ、私はあなたに謝らないといけない。今まで騙して来たこと、記憶を消して来たこと、全て。もしかしたら私は殺されてしまうかもしれないかも。いえ、それが妥当なのでしょうね。私は、あなたの望み通りに殺されなければいけない」

「……どういう、こと?」

「でも。それでも、私の最後のお願い、聞いてくれる?」

「……なによ」

「私のことを、信じて。そして、力を貸して欲しいの」

 

 その返事をかき消すように、爆発が当たりを包み込んだ。

 

 紅蓮と紫電が嵐を巻き起こす。放たれる雷電と燃え盛る炎とがぶつかり合い、巨大な空間を轟音が埋め尽くしていた。空気を振動させるその光景に、ウイスティが思わず耳を塞いで地にうずくまる。そしてその隣に立つアイリスは、紅に染まった鎧たちを蹂躙しながら、ただ一人の背中を見つめていた。

 赤と紫に彩られたその空間を、一つの黒が走り抜けていく。飛び交う焔を避けて、稲妻に導かれるようにして、黒の少女が駆け抜ける。こちらへと向かってくるそれに、ローザは信じられないように目を見開き、そしてその手に紅の杖を出現させた。

 

「そんな、貴女……!?」

「うおおおあああっ!!」

 

 がぎん、と、爆音にかき消されるように、金属音が鳴り響く。咄嗟に取り出した紅の杖が、黒い杖を受け止めた。

 

「どうして……どうしてあなたはアイリスに従うのですか!? あなたは彼女に騙された身なのですよ!? 記憶を消され、それを伝えられずに偽りの時間を過ごしてきた! そして、真実を突きつけられてもなお、奴隷のように彼女に動かされるのですか!?」

「それでもいい! 私はアイリスのためならなんだってする! だって、だって……!」

 

 震える声で、ミーシャが呟く。

 

「アイリスは、私の友達だから……!」

 

 その瞬間、ミーシャの足元に魔法陣が広がった。広がっていく紫の円環はローザを、ウイスティを、アイリスを全て包み込み、その空気を重たいものへと変える。肌がぴりぴりと痛み、視界が魔力によって揺らぐ。尋常ではないその魔力量に、ローザは思わず舌打ちをしてミーシャを乱暴に蹴り飛ばした。大地を揺らすほどの魔力が、屋敷全体を揺らす。

 

「狂っている……あなたは、狂っている」

「それでもいい。私は……私は、アイリスが幸せになってくれるなら!」

 

 壁面にまで到達した魔法陣の中心に黒い杖を打ち付けて、ミーシャが魔力を送り込む。混沌と漆黒が渦巻き、その姿を顕現させる。それに呼応するようにして、ミーシャの口がその言葉を紡ぎ出す。

 

「我が、名は黒の魔女。漆黒に染まり、全ての、暗黒を支配する者」

 

 そうしてミーシャは、震える両手で杖を握る。自らを律するように目を瞑り、全てを捨て切ったような表情を浮かべながら、叫ぶ。

 

「我が眷属よ、ここより彼方へ終焉を! 終わることのない、混沌を!」

 

 世界を、黒が支配した。

 


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