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ころんころん、と古びたベルの音が、朝のケーキ屋に響く。
「こんにちは」
「ああ、アイリスさん。いらっしゃい」
玄関に立ちすくむ白の魔女にケインは少しだけ驚いた顔をして、すぐさまコーヒーを淹れる準備に取り掛かる。そのまましばらくの時間が経ったあとに、ケインは目の前に座ったアイリスへ真っ黒な液体を差し出した。傍に角砂糖を添えるのも忘れずに。
「珍しいですね、こんな時間に」
「ええ、今日は休みですもの。ちょっと早く来ちゃったわ」
迷惑だったかしら? とおどけて言うアイリスに、ケインは目を伏せて首を振る。あの真っ黒少女に比べればどうという事はない。むしろアイリスのような客ならば毎日来てほしいくらいなものだ。
コーヒーに角砂糖をぽとりと落とし、小さなスプーンでかき混ぜるアイリスがふとため息を吐いた。その瞳はどこでもないところを向いていて、ケインはその珍しい物憂げな表情に思わず口を動かす。
「何かあったんですか?」
「……あらやだ、顔に出てたかしら?」
「愚痴なら聞きますよ。今なら誰もいないんで」
閑散とした店内を示すようにケインが軽く両手を広げる。そんな彼を見てアイリスは少しだけ口元に自虐的な笑みを浮かべ、黒い液体を口の中へ流し込む。目の覚める苦みとコーヒーの香りが、アイリスの鼻先へ抜けるように広がった。
かちゃり、陶器の擦れる音のあとに、アイリスはぽつりと語りだす。
「ローザ――いえ、紅の魔女って知ってるかしら」
「紅……ああ、ノールド地方の領主ですか。知ってますよ」
少しだけ考えた素振りを見せて、ケインが首を縦に振る。
紅の魔女、ローザ。この南の大陸でも広範な勢力を持ち、その名を知らない者は居ないという。魔法の腕も随一であり、抱えている兵力も多い。端的に言えば、分かりやすい力を持つ領主だった。
「確かこの前、どこかで表彰されてませんでしたっけ」
「あら、よく知ってるわね。魔力の負荷に比例して硬度が変化する鉱物の開発。変な所で頭がいいのよね、あの人」
「はあ……まあ確かに、あそこはそういった人たちの集まりですもんね」
ここより東に位置するノールド地方は、魔術的に発展した都市として知られている。それはアイリスの勤め先で学ぶ生徒たちにも広く知られており、それこそ憧れの的のような意味合いも含まれていた。
「うちの学校にもあそこに進学したい、って子は多くてね。本当はやめてほしい、って言いたくなるけど」
「はあ……どうしてですか?」
「どうしても何も、あのローザよ? あんな人の近くに、可愛い生徒たちを送り出そうなんて考えたくないわ」
頬杖をつきながら紅の魔女の名を口にしたアイリスに、ケインがカウンターに手をつきながら問いかける。
「それで、ローザさんがどうされたんですか? 何かいざこざでも?」
「いざこざ……まあ、そうね。ちょっとだけ揉めちゃったの」
言葉を濁すアイリスに、ケインの目が怪訝な物へと変わる。相手はあの紅の魔女だ。下手をすればアイリスが原因となって妙な抗争に発展しかねない。紅の魔女とは、そういった点でひどく名の知れた魔女だった。
「そんな心配しないで。これは私とあの人との問題だから。そこまで大きくするつもりはないわ」
「……そうだったとしても、あなたが心配ですよ」
肩の力を抜きながら、ケインがため息交じりに呟く。
「相手はあの紅の魔女ですよ? 一体何をしたんですか」
「んー……ないしょ?」
「はあ」
変なところでおどけて見せるアイリスに、ケインが続けて肩を落とした。そうして軽くからかうような笑みを浮かべ、アイリスは苦い液体を口に含む。受け皿の隣に置かれた砂糖の瓶は、蓋が閉じられたまま動いていない。
そんな触れられていない砂糖の瓶へと目を落としたケインは、ふと思い立ってアイリスへと言葉を投げる。
「それにしても、アイリスさんって紅の魔女と知り合いだったんですね」
「知り合いというよりも、喧嘩する相手みたいなものよ? 仲は良くないし、私も嫌いよ」
「そこまで言いますか」
「ええ、だって嫌いだもの。私の友達を……いじめたんだし」
昔を懐かしむように、アイリスが空になったカップの中を覗き込む。その瞳はどこか虚ろになっていて、それに気づいたケインはすぐにカウンターの下へと手を伸ばした。
「ローザさんと知り合いってことは、もしかしてアイリスさんもノールド地方の出身だったんですか?」
「ええ、そう。あんまり言いたくはないのだけどね」
「なるほど、確かにアイリスさんがノールド出身って聞いても、あんまり驚きませんし」
「そうかしら。でも生まれはここよ、私。あっちには勉強しに行っただけ」
湯気の立つコーヒーが、再びアイリスの前へと差し出される。白いカップに包まれた黒い液体を見て、アイリスは一度だけ目を伏せてため息を吐いた。
「それで……友達って言うと? その人もまた有名どころなんですか?」
「あら、言わなかったかしら。私の唯一の友達って――」
その言葉を遮るように、店が少し揺れるほどの轟音が鳴り響く。聞き覚えのあるそのドアを蹴破る音に、ケインは頭を掻き毟りながらも玄関へと苛立つ視線を向けた。
「ぜぇっ……はぁっ……」
真っ黒に染まったとんがり帽子。朝陽に輝く金髪を揺らしながら、彼女は蹴破ったドアに脇目もふらず、一直線に店内をどたどたと駆け抜ける。
そしてまるで待っていたかのように手を広げているアイリスの胸へ収まったかと思うと、ミーシャは震える唇を開く。
「ゔあああん!! アイリスぅぅぅ!! どうしよおおおおおおお!!」
入店からガン泣きというありえないプロセスを踏んだアイリスの友達に、ケインが思わず後ずさった。しかしそんな事実に目も向けず、ミーシャはアイリスの豊満な胸に顔を埋めながらぎゃんぎゃん泣きわめく。
「あらあらミーシャちゃん、どうしたの?」
「もごごもごごががもおごごが」
「ミーシャちゃん、聞こえないわ。おっぱいから離れてくれる?」
割としっかり胸を揉んでいるミーシャをアイリスが引きはがし、そのまま隣の席へと座らせる。その間にもミーシャは涙をぽろぽろ流し、時折それを手の甲で拭いながらアイリスへと悔しそうに言い放った。
「ちくしょう……なんでそんなに大きいんだ……少し私にもくれよ……」
「ごめんなさいね」
「えゔっ……うぅ……ぢぐじょおっ!!」
先ほどよりも二割増しで涙を流すミーシャに、アイリスとケインが同じように首を傾げた。
「ミーシャちゃん、とりあえず落ち着いて? きれいな顔が台無しよ?」
「綺麗じゃないもん……! どうせ私はまな板の女だもん……!」
「どんだけそこ掘り下げるんだよ……とりあえずこれでも食って落ち着け」
そろそろ飽きてきたケインがそう呟いて、食器に乗った苺のショートケーキをテーブルへ乗せる。添えられたフォークに震える手を伸ばし、ミーシャは嗚咽を混じらせながらケーキを口へと運んだ。少しだけしょっぱかった。
しばらくしたのちに一通りケーキを食べ終え、ミーシャがフォークを皿の上へ置く。そうして頬についたクリームを指ですくうと、ミーシャが落ち着きを取り戻してケインへと視線を向けた。
「ありがと……おいしかった」
「そりゃ結構」
呆れた様子のケインに、ミーシャがたまらず肩を落とす。
「それにしてもミーシャちゃん、本当にどうしたの?」
「あぅ……えっと……」
先ほどとは打って変わってしおらしくなったミーシャに、アイリスが思わず首をかしげる。ケーキついでにオレンジジュースを用意したケインも不思議そうな視線を向けて、ミーシャはたまらず小さな唇を開いた。
「ケインもアイリスも……その、笑わない?」
「何をだよ?」
「今から見せるの……」
三角帽子つばを両手でつかみ、ミーシャが恐る恐る問いかける。いつもなら絶対に見せないようなおずおずとしたその様子に、アイリスとケインは思わず顔を見合わせた。
じっと三角帽子の下から瞳を覗かせるミーシャに、アイリスが優しく声をかける。
「大丈夫よ、ぜったい笑わないわ」
「ほんと?」
「ほんとよ。ケインさんもそうでしょ?」
そう向けられたアイリスの視線に、ケインが肩をすくめて首肯する。
「だから、見せてみて? ミーシャちゃんが見せてくれないと私も何もできないわ」
「うん…………じゃあ、行くよ?」
そう言った後にミーシャが息を吸い、三角帽子から手を離したその瞬間だった。
ぽいん、と滑稽な音を立てて、三角帽子がミーシャの頭から跳ねる。そうして自分の目の前へ飛んできた帽子をつかむと、それで自分の顔を隠すように両手で抱きしめ、頬をかぁっと熱くさせながら、ミーシャはアイリスへと俯いて口にする。
「……その、変なの……生えてきちゃった」
ぴこぴこ、と。
ミーシャの頭の上で元気に跳ねたのは、黄色い猫の耳だった。
「あらかわいい」
「かわいくないっ! 変でしょっ!」
アイリスの言葉にミーシャがうがー、と吠える。その間にもネコミミはじたばた騒ぐミーシャの意志に呼応するようにぴこぴこ動いており、それにケインは終始興味のない目を送っていた。何ならミルクでも出す心意気だった。
そんな冷めた反応の二人に、ぜえはあと息を切らしたミーシャがぽつりと語りだす。
「朝起きたらいきなりこんな風になってたの。別に昨日はお風呂に入ってから早く寝たし、研究とかもしてないから私の魔法じゃないと思うんだけど……」
「そうねえ。見る限り、誰かの魔法以外に考えられないわ」
「……それにしても、ずいぶんヘンテコな魔法なんだな」
未だにアグレッシブに動くその黄色い耳に、ケインがぽつりと呟く。それを聞いた瞬間ミーシャはケインの方に向き直って、びし、と音が鳴りそうな勢いで細い指を突き出した。
「甘いわケイン! これは魔女にとってこの上ない屈辱なのよ!」
「と、言うと?」
ケインがミーシャの言葉を受け流し、アイリスへと問いかける。
「『魔女の猫』ね。刻印の一種で、重要なのはただの猫じゃなくて『魔女の猫』だということ」
「魔女の猫……黒猫とか、そういう?」
「いえ、もっと広範な意味合いよ。魔女にとって猫っていうのは、簡単に言えば都合のいい奴隷みたいなものなの」
爪に毒を仕込ませれば暗器に。目を抉りだせば宝石に。毛を毟れば服飾に。尻尾を切り落とせば贄代わりに。
使い捨てるところはなく、骨の髄まで余すことなく使われる存在。搾取され、その命を魔女へ捧げる便利な道具。魔女にとっての猫とはそういうものだと、アイリスはケインに語って見せる。
「そして、そういった猫の刻印を刻むのは、行ってしまえばただの侮辱よ。『お前なんかいつでも私の奴隷にできる』ってのを直接言ってるようなものね」
「はあ……そんなことするんですか、魔女ってのは」
「昔はね。でも今はそんな事をする魔女なんて全然よ。やってる方が珍しいくらい」
呆れたように息を吐き、アイリスがカップを手に取った。その瞳はどこか冷たく、いつもは見せない凍った表情にケインは口を開くことができなかった。隣でごきゅごきゅ喉を鳴らしながらオレンジジュースを飲んでいるミーシャのことなど、目に入ってこなかった。
ぷは、と息を一つついて、ミーシャが空になったグラスをケインへ突き出す。
「ジュースおかわり! あとイチゴのケーキもちょうだーい」
腕をぶんぶん振りながら元気に言うミーシャに、ケインが冷めた視線を送りつけた。確かにこんなジュース一個で機嫌を取り戻す魔女なんて、それこそ甘いものでもチラつかせれば簡単に釣れそうな気がする。そう考えると、ミーシャの頭の上で動く耳がえらく似合っているような気がした。
イスの上でぱたぱた足を振るミーシャの頭の上に、アイリスが優しく手を乗せる。そのまま金の髪を梳くように指を動かすと、ミーシャはくすぐったそうに目を細めた。
「んー……アイリス? なにしてるのー?」
「この魔法を調べてるの。犯人を捜さないと、ミーシャちゃんも納得できないでしょ?」
そのままアイリスの細い指はミーシャの頬を撫で、顎の下へと運ばれる。軽く爪を立てながらくすぐると、ミーシャが口元をにんまりと緩ませながら、抜けるようなだらけた声を漏らした。
「ぅにゃー、くすぐったいぃ……」
「うーん……これは……」
ぴこぴこ嬉しそうに動くネコミミに、アイリスがぼそりと呟く。するとアイリスは何を思ったのかミーシャの脇腹へと両手を伸ばし、小さな身体を抱え上げると、すとん、と自らの膝の上へと腕を降ろした。
無駄のない一連の動きに、ケインが目を見開く。余りにも早いその動きと、アイリスのにやけきった表情。何より今の動きに気が付かず、アイリスの手の内でごろごろと喉を鳴らしているミーシャを見て、さすがにバカすぎると思っていた。
「ミーシャちゃん? どう? 気持ちいい?」
「うん、さいこー……にゃ~」
「……感覚まで猫になってるのね。ほんとに趣味が悪いわ」
「んにゃー?」
やけに慣れたような手つきで、アイリスがミーシャの両頬を撫でる。対してミーシャはアイリスの白い手を求めるように、顔だけを動かしてすりすりとアイリスの手に頬ずりを続けていた。
そろそろ尻尾でも生えそうになってきたころ、ミーシャが笑みを浮かべたままで問いかける。
「ねーねーアイリス~、何かわかった~?」
「ミーシャちゃんが可愛いってくらいね」
「そっかー……ってそうじゃないでしょっ! 撫でるのやめてよっ!」
ぷんすか怒りながら、ミーシャが手足をじたばたして声を荒げる。対照的にアイリスはのほほんと微笑みながら、それでもミーシャの頭の上で手を動かし続けていた。
ほっぺたを膨らませながらも撫でられる感覚が気持ちいいのか、ミーシャがむすっとした顔で出されたイチゴのケーキへと視線を落とす。既に右手にはフォークが握られていた。
「それでアイリスさん、犯人ってのは分かったんですか?」
「……まあ、アテはあるわ。ええ。こんなことをするなんて、その人くらいしかいないもの」
「もんほ!? もえっみゃあはまむもみまめ」
「ミーシャちゃん、口に食べ物を入れたまま喋らない」
言われるがまま、もぐもぐと黙ってケーキを頬張るミーシャの頭に手を翳し、アイリスが手のひらへ魔力を込める。すると淡い光と共に魔方陣が現れて、ぷにぷに動くネコミミを覆うように形を変えた。
アイリスが手を翻し、魔力を弾けさせる。ミーシャの頭に刻まれた魔方陣が魔力の加重によって砕け散り、ぽん、とコミカルな音を立てて爆ぜた。
「わぷっ! け、ケーキ!」
「あらあら」
バランスを崩したミーシャの身体を、アイリスの腕が支える。落ちていくケーキと皿は地面に追突する瞬間に動きを止めて、アイリスの魔力に導かれるままにテーブルの上へとふよふよ動いていった。
ほっと胸をなでおろすミーシャの前に、アイリスがどこからか取り出した一枚の紅い手紙を見せた。
「なーに? これ」
「さっきの刻印と一緒に刻まれてたものよ。ミーシャちゃんの可愛いお耳はこれが変化したものみたいね」
「刻印に手紙……? そんなの、聞いたことないけど……」
訳も分からず首を傾げたまま、ミーシャが手紙の封を切る。その中に入っていたのは、たった一枚の小さな紙だった。ケインもそれに興味を示したのか、ミーシャと同じように机の上に置かれた紙を覗き込む。
そしてミーシャの口が、綴られた文字を読み上げたとき、アイリスの表情が一瞬だけ曇りを見せる。
「『親愛なる黒魔女、ミーシャ様へ。
此度に開かれる『魔女の夜会』へ、あなた様を招待いたします。次の満月の夜に、どうぞ私の屋敷へと足をお運びください。あなた様の参加を、心よりお待ちしております』……?」
「……なんですか、これ」
「ただの招待状」
つん、と返す不機嫌なアイリスに、ケインが首をかしげる。するとミーシャはぷるぷると震えだし、その招待状を天に掲げたのちに、思いっきりテーブルへと叩きつけた。
「なにこれ! 意味わかんない! なんで私にネコミミ付けたあげく魔女の夜会に招待するの!? ぜんっぜんわけわかんないんだけどっ! この人頭おかしいよっ!」
「ミーシャちゃん、落ち着いて。もっとよく読みましょう?」
「落ち着けないわよ! なんなのこいつ、バカじゃないの!? 良いわよ夜会に行って顔見たらボコボコに殴りつけてやるんだから!」
怒声を吐き捨てながら、ミーシャが手紙の裏へと目を通す。するとさっきまで喚き散らしていたミーシャがすぅ、と落ち着いた様子を取り戻し、ただただその裏に書かれている文字を黄色い瞳で追っていた。
「ミーシャちゃん、差出人は誰?」
一瞬の静寂を破り、アイリスが問いかける。
そのアイリスの言葉に応じるように、ミーシャは静かな呟きを放つ。
「……紅魔女。紅い魔女の、ローザ」
そう綴られた名の後ろには、深い紅のバラが、咲いていた。
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