黒魔女にっき。   作:宇宮 祐樹

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『追放』

 

 ちりんちりん、と呼び鈴の鳴る音がする。

 

「んぁー……?」

 

 よだれのついた口元をこすり、半裸になった体を起こしながらミーシャが寝ぼけた頭で声を上げた。窓から差し込む光はまだ弱く、朝陽も満足に顔を出せていない。眠たげな瞳に青い空を移しながら、ミーシャはのそのそとベッドから這いずり出た。

 机の上に置きっぱなしだった短い杖を振ると、ミーシャの体を紫色のきらきらした光が包み込む。身を包むものは黒の寝間着からいつものローブへと変わり、頭の上には三角ぼうし。ふわぁ、とあくびを一つして、ミーシャは寝室のドアを開けた。

 

「こんな朝からなんだろ……?」

 

 寝ぼけた頭を必死に働かせるが、ミーシャの思い当たるようなものはない。アイリスはまだ寝ている頃だろうし、それ以外にわざわざこんな森の奥の湖まで足を運び入れる人間も少ない。さて誰か、とぐだぐだ考えているうちに、ミーシャの足は無駄に大きな玄関の前へと辿り着いた。

 錆びかけのドアノブを握り、ミーシャが外へと顔を出す。

 

「はーい、どちらさま?」

 

 朝焼けの広がるミーシャの眼に映ったのは、(くれない)に染まった三つの鎧だった。

 頭部を全て覆い隠すルビーのような兜に、ゆったりとした白の服装。通された袖から覗く緋色の手甲と、所々に装飾されている赤いバラの刺繍が、ミーシャの目に印象に残っていた。

 朝イチに見るにはあまりにも異質なその光景にミーシャがぽかんと口を開ける。それを見かねたように、中央の鎧が兜の下の重たい口を開いた。

 

「失礼ですが、こちらが黒魔女の館ですか」

「うん、そうだよ」

「それではあなたが、黒魔女のミーシャ様で?」

「えっと、私がミーシャだけど……」

 

 立て続けに問いかける男の声に、ミーシャが困惑しながら首を縦に振った。すると赤い鎧たちは何かを話すようにして身を寄せ合い、赤い手甲に包まれた指をせわしなく動かし始める。

 ひとしきり話し終わった後に、再び赤い鎧がミーシャへと向き直った。

 

「実は私達、旅をしている者なのですが……偉大なる黒魔女であるあなたに、頼み事がしたくて参ったのです」

「……いだいなる、くろまじょ……ふふ、いいわ! 何でもやってあげる!」

 

 調子に乗ったミーシャがにやついた顔をなんとか隠しながら高らかに叫ぶ。

 

「それにしても、こんな朝にどうしたの?」

「ええ。何分火急なものでして。あなたにしか頼める方がいないのです」

「そっか、それなら仕方ないわね! それで、その頼み事ってのは?」

 

 ふんす、と無い胸を張りながら、ミーシャが上機嫌になって問いかけた。すると赤い鎧の男は腰に着いたポーチに手を入れて、小さな時計のようなものをミーシャの目の前へと差し伸べる。

 

「こちらの魔道具を直してほしいのですが」

「魔道具?」

「はい」

 

 ごつごつとした鎧から受け取ったそれに、ミーシャが不思議そうな視線を向けた。

 

「記憶した座標を示す魔道具です。それがないと私達は旅を続けられなくなってしまうのです」

「なるほど、それが動かなくなったのね」

 

 手の内の時計を眺めながら、ミーシャは顎に手を当てて呟く。確かに同じ方向を示し続ける筈の赤い針は黙りこくって、ミーシャが手を傾けてもぴくりとも動かない。

 

「私、あんまり道具とかは分かんないんだけどなぁ……」

「そこを何とかお願いします、黒魔女様」

「うーん……ま、やるだけやって――」

 

 みよう、とミーシャが呟こうとしたその瞬間。

 ばちん! と何かがはじけ飛ぶような音が鳴り、ミーシャの掌から閃光が広がった。

 

「うおあぁぁーーーっ!?」

 

 野太い悲鳴を上げながら、ミーシャが手の内の魔道具を放り投げ、腕で視界を覆う。焼けつくような痛みをこらえながら、ミーシャがゆっくりと目を開くと、そこにはぼんやりと揺らぐ紅色があった。

 突然の強い光でおぼつかない視界を頼りに、ミーシャが恐る恐る声を上げる。

 

「あっぶなー……旅人さん、大丈夫だった?」

 

 まどろみにも似た視界の歪みに、ミーシャは目を擦りながら続ける。

 

「たぶん、魔力がはじけたんだね。どっかの回路が詰まってたみたい」

「……か、なら……ぅ」

「あれっ、旅人さん? 私ちょっと目をやられちゃったから、分からないよ」

 

 目の前のぼやけた赤い影に手を振りながら、ミーシャが不思議そうな声を上げるが、帰ってくるのは沈黙ばかり。ミーシャがきょろきょろと見えない視界を泳がせるたびに、耳鳴りの音が頭を揺さぶった。

 

「うぁ、耳も痛い……まいったな、これしばらく治りそうにないや」

 

 突然の事態に戸惑いながらも、とりあえず落ちている魔法具を拾おうとミーシャがぼやついた視線を地面に向かってひざを折る。そうして地面をまさぐるミーシャの景色が、ふと少しだけ暗くなったような気がした。

 

「あれ? 旅人さん」

 

 眼前に立つ赤い影に、ミーシャが気付いて顔を上げる。見上げた視界に映るのは、紅に染まった重たい鎧と、その上で輝く銀色の光だった。焼けついた瞳へ差し込む閃光に、ミーシャが思わず目を瞑る。

 

 そうしてミーシャは――風を切る音と、飛び散る血の音を聴いた。

 

「……ぁ……え?」

 

 手に感じる生暖かい感触に、ミーシャの困惑が小さな声になって漏れる。流れ出した血はミーシャの黒いローブをさらに赤黒く染みわたり、それがにじむと同時に全身を切り裂くような痛みが覆った。

 

「うわあぁぁっ!! いだ、痛っ」

 

 引き裂くような絶叫は、剣閃に遮られる。ミーシャの頭の上の三角帽子が、ぽすりと地面に落ちた。

 間一髪でうずくまったミーシャの体を、強い衝撃が稲妻のように走る。ごろごろと小さな体は無残に転がっていき、ミーシャが蹴られたのを理解したのは、古ぼけたドアに体が打ち付けられた直後だった。

 

「げほっ、うぇ……っ、がはっ」

 

 口元からこぼれる涎を拭い、ミーシャはようやく戻ってきた目を眼前の鎧へと向ける。

 朝陽に輝く銀の剣は、真っ赤に染まった血が雫を垂らしていた。

 

「しかし……るのか? 俺は反対……ず……だが」

 

 耳鳴りの音はだんだんと止み、男たちの会話がミーシャの耳へと流れ込む。しかしそれを気にする余裕もなく、ミーシャは鋭く痛む身体を何とかして立ち上がらせた。

 刀身に着いた血を振り払い、赤い鎧が腕を構える。それに応じるように、後ろに控えていた二人の鎧の男たちも、それぞれ剣を抜き放つ。

 

「ぅ……い、たい……」

 

 かすれた声で毒づきながら、ミーシャが魔力を集中させる。流れる紫の魔力は長い杖を象って、ミーシャの手のひらへと収束していく。

 そうしてミーシャが杖を握ろうとした瞬間――黒い杖は、溶けるように消えていった。

 

「あぇ……? なん、で」

 

 それを合図に、ぎらぎらと光る銀の剣がミーシャへと向けられる。赤く磨かれた鎧に映ったミーシャの顔には、焦りと恐怖が入り混じったような、ぐちゃぐちゃの表情が張り付けられていた。

 再びミーシャが手のひらに魔力を込めようとするが、集められた魔力は無残に溶けていく。ミーシャは信じられないような表情で自分の掌を見つめ、なんで、と何度も呟いていた。

 

 ずんずんと近づく赤い鎧に、ミーシャは壁に手を突きながら血を吐き捨てる。

 やがて近づいた赤い鎧が、銀の剣を振り下ろそうとしたその刹那、ミーシャは右手を掲げて叫んだ。

 

「えん、まくっ!」

 

 紡いだ言葉と同時に、ミーシャの手のひらから黒い煙が巻きあがる。黒魔法の初歩の初歩に位置する、光の裏である暗闇を生み出す魔法。今のミーシャには、その魔法を現象させることすら難しいように思えた。

 突如として視界を覆う黒い煙に、赤い鎧は一瞬だけ身を屈め、すぐさま闇雲に剣を振り始める。振り払われる剣を身体を低くして躱しながら、ミーシャは傷だらけの体を動かして煙の外へと逃げ出した。

 

「畜生、どこだ!? 逃げられたか!?」

「なんでとっとと仕留めなかったんだ! とにかく追うぞ!」

 

 怒声がミーシャの傷口へと染みるように響く。軋む体を動かして、ミーシャは立ち上がる。後ろから迫る剣閃の音に、ミーシャが表情を凍り付かせながら駆けだした。流れている黒い血が、細い脚へと伝わって地面に落ちる。

 

「いいか、絶対に逃がすんじゃない! 必ずあの黒魔女を殺すんだ!」

 

 後ろから聞こえてくる叫び声に、ミーシャは夢中になって足を動かした。 

 

 

 差し込む木漏れ日は薄く、暗い森の中をミーシャが走り抜ける。背後から聞こえるのは魔法が放たれる風切り音と、土煙の舞う錆びついた音。赤い光弾がミーシャの顔の横をすり抜けて、古ぼけた木へと当たって爆ぜた。

 巻き起こる熱がミーシャの体を横に凪ぎ、飛び散る破片が肌を裂く。頬についた血を拭い、涙を堪えてミーシャは逃げる。

 

「なんで……なんで、っ!」

 

 吐き捨てる言葉は大地の弾ける音に消え、ミーシャの体は前方へと吹き飛んだ。急いで起こそうとするが、重い体はミーシャの言うことを聴きそうにない。短い腕を必死に動かしながら、ミーシャが前へ前へと進みだす。

 そのミーシャの右足に、飛来した鉄の釘が突きたてられた。

 

「ひぎゃっ!」

 

 引きちぎれたような悲鳴が鳴り、ミーシャの右足が地面に縫い付けられる。どくどくと赤い血は流れ出し、地面を紅の液体が染め上げる。なんとかして突き刺さった鉄の釘を引き抜こうとするが、肉に深く刺さった釘はぬるぬるとミーシャの手をすり抜けてしまう。

 突き刺すような痛みに、ミーシャの目からぽろぽろと涙がこぼれた。

 

「い、たい……いたい、よぉ……」

 

 とすとす、と。

 そう呻くミーシャの左腕に、立て続けに釘が撃ち出された。

 

「あゔっ!」

 

 ミーシャの肌を穿った釘は地面に突き刺さり、赤い液体を土の上に散らす。貫かれた腕からは溶けるように力が失われてゆき、ミーシャの身体の支えを失わせる。既に限界を越した身体をなんとかよじらせながら、ミーシャは自らの脚に突き刺さったままの釘へと腕を伸ばした。

 無理矢理に肉をこじ開けた釘はようやくミーシャの脚から離れ、ふらふらと体を揺らしながらミーシャは立ち上がる。視界は暗くなりはじめ、身体は水に沈むように重くなっていくのも構わず、ミーシャは傷だらけの脚を動かした。

 

「にげ、ないと……しん、じゃう……」

 

 口元から血を垂らし、ミーシャがずるずると体を前へと引きずる。いつの間にか目の前にはまっすぐな並木道が広がっていて、後ろにも前にも人影は見えない。しかしそれに気づく素振りすら見せず、ミーシャは血の足跡を付けながら前へ前へと逃げてゆく。 

 ひらり、と木の葉が落ちる音。

 

「ゔぁっ! ひ、があぁっ!」

 

 真上から降り注ぐ剣の雨が、ミーシャの身体へと突き刺さる。身体は無残に投げ出され、ミーシャの周りには赤い水たまりができていた。それでもまだ、ミーシャは前へと這いずって進む。剥がれた爪が、地面に赤い線を描いた。

 立ち並ぶ樹の一つにたどり着き、ミーシャが幹へと手を伸ばす。そうして左脚を地面につけて、樹の幹へ血糊を塗りたくりながら、ミーシャはふらふらと立ち上がった。頭から流れ出す血が、ミーシャの視界を紅く染め上げる。

 

「…………ぁ……いや……」

 

 呟かれる言葉に返ってくるのは、がちゃがちゃと響く鎧の音。ミーシャの背後ですらりと剣を抜く音がしたかと思うと、ミーシャの身体は地面を転がっていた。ぼやけた視界に、赤い鎧が映る。

 

「全く、手間取らせやがって……」

 

 赤い液体が銀の刀身をつたう。苛立った声と共に足音が近づいていき、ミーシャは夢中になって体を動かした。

 ずるずる、と粘ついた液体が擦れる音を立てながら、ミーシャは並木道を這い進む。背後から迫る影は三つ、バラの色をした重たい鎧が深緑でかしゃかしゃと音を立てる。

 

「うぅ、げほ……か、はっ」

 

 口に当てた手が、赤色に染まる。皮膚はぼろぼろに裂かれ、鋭く切り開かれた傷口に涙が垂れる。染み入る痛みをこらえてミーシャは地面を這って進む。続く並木道の果てはそこにあり、ミーシャの伸ばした手は差し込む光の渦に飲み込まれた。

 

 そして、ミーシャの瞳に光が訪れる。

 視界に広がったのは、見覚えのある、一面の黄色い花畑だった。

 

「……ぁ、れ?」

 

 爽やかな風がミーシャの頬を撫で、さらさらと花の踊る音が耳に流れ込む。広がる景色は青と黄色に染め上げられて、太陽のように輝いて揺れ踊る花は、血だらけのミーシャを優しく包み込んでいた。

 唐突に視界へ入り込んだ光景に、ミーシャがぽかんと口を開ける。唇の端から垂れた血が、黄色い花の上にぽたりと落ちた。

 

 そして動かないミーシャの身体に、銀の剣が深々と突き刺さる。

 

「がはっ……!」

 

 ミーシャの身体がびくんと跳ねて、全身の力が抜けていく。血塗られた銀の剣は掲げられ、ミーシャの小さな軽い体は天へと仰がれ、ずぶずぶとミーシャの身体を銀色が犯していく。

 視界には突き抜けるような青空が広がり、そのままミーシャはわずかな浮遊感と鈍い痛みを感じ取った。

 びちゃ、と水音が花畑に広がる。流れ出す赤色が、眩しい黄色に溶けていく。

 

「あ……うぅ……」

「まだ生きてるのか。ただのチビだと思っていたが、存外しぶといな」

 

 降り注ぐ言葉に返ってくるのは、ミーシャの途切れ途切れに呻く声。剣についた血を振り払うと、赤い鎧の一人はは剣を両手で構え、ミーシャの首元へと剣をあてがった。

 かしゃり、と鎧がこすれ合う音がする。振り上げられた剣は、太陽に反射してぎらぎらと輝きを増した。

 

「これで、終わりだ!」

 

 そう赤い鎧が腕を振り下ろしたその瞬間だった。

 ごちゃ、と金属と肉とがつぶれ合う音が、花畑に鳴り響く。一瞬の間を置いて、とす、と宙を舞う剣が地面に突き刺さった。

 

「あが……? なにっ……!?」

 

 失われた両手を目の当たりにして、赤い鎧が信じられないような声を上げる。後ろに控えていた二人はすぐさま剣を抜き放ち、もう片方の手に魔方陣を展開させる。ぼたぼたと流れる血が地面で跳ねて、ミーシャの頬に飛び散った。

 男の絶叫する声が木霊して、花畑に一陣の風が吹き荒れる。

 そしてそれに流されるように姿を現したのは、白色に染まった魔女だった。

 

「ごきげんよう」

 

 艶のある黒髪を揺らし、右手には純白の長い杖。黒に染まった瞳は冷たく輝き、ふわりと舞い降りた白魔女は、目の前の赤い影へ向かって言葉を紡ぐ。

 

「紅いバラの騎士様方ね。こんな辺鄙な地までご苦労さま」

「白魔女……? どういうことだ!」

 

 返ってくる怒声に、アイリスは抑揚のない声で続ける。

 

「閃光魔弾で視覚と聴力、魔力を奪って殺そうとしたわけね。まったくあのバラ好きの思いつきそうな狡い考えだわ」

「な、何を……?」

「あら、まだ気づかないの? 私、いま怒ってるのよ」

 

 貼り付けられた表情をそのままに、アイリスは語る。

 

「あなたたちは私の友達を傷つけた。だから私は、あなたたちに同じことをしてあげる」

「なッ……貴様、自分が言っていることを理解しているのか!?」

「ええ、もちろん。そうでなければ、私はここにいないもの」

 

 そうしてアイリスは虚空を睨みつけ、初めて表情を作り出す。整った顔は忌々しく歪み、唸るような低い声でアイリスが口を開いた。

 

「ローザ、あなたは赤いバラが好きだったわね」

 

 白魔女が杖を振るう。その直後に肉の潰れる音と絶叫が響き渡り、赤いバラが黄色の花畑に咲き乱れる。

 

「今度あなたの立派なお屋敷を、沢山のバラで飾ってあげるわ」

 

 肉が転がり、血がまき散らされる。目の前に広がる沢山の赤色を睨みつけながら、アイリスは杖を地面に突き立てた。白い魔方陣が広がって、動かないミーシャとその後ろの赤いバラを包み込む。

 淡い光に包まれながら、アイリスがミーシャのそばへと腰を下ろす。そうして小さな頭を膝の上に乗せると、血まみれの髪を優しく撫でた。ぱりぱり、と乾いた血の剥がれる音が微かに聞こえる。

 

「ミーシャ……ごめんなさい……」

 

 血まみれの顔のなか、僅かに覗く涙の痕に、アイリスが静かに呟く。その頬を撫でると、ミーシャの体は光に包まれ、傷はだんだんと塞がれていった。

 ミーシャの体を包む癒しの光輝に、アイリスは悲しそうな目を伏せる。

 

「私がもっと早く気づいていれば。私が、ずっとあなたのそばにいてあげたなら」

 

 懺悔を聴く者はおらず、独白は青空へ消えた。そしてアイリスは淡い光に包まれるミーシャの頭に手を置いて、静かに魔力を込める。

 かちゃ、とどこかで鍵を閉める音がする。その金属音がなったあとに、アイリスは静かに唇を動かした。

 

「……全てを光へ。夢幻へ、消してしまいましょう」

 

 

「んぅ……?」

 

 爽やかな風が頬を撫で、ミーシャはゆっくりと瞳を開く。おぼろげに浮かび上がった意識にはかすかな花の香りと、頭の後ろに感じる柔らかな感触が感じられた。

 そして真上から降ろされるのは、漆黒に染まった黒の瞳。うっすらと細くなるその双眸は、よだれを垂らして呆けたミーシャの顔へと向けられる。

 

「あいりす……?」

 

 ぼやけけた視界に映る見慣れた顔に、ミーシャはゆっくり呟いた。

 

「おはよう、ミーシャちゃん」

「ん、おはよ」

「よく眠れたかしら?」

「だいぶ……」

 

 と答えた時点でミーシャがはたと目を覚まし、がばりと体を起こしてきょろきょろとあたりを見回す。ミーシャとアイリスと包んでいるのは、黄金の一色に染まった花畑だった。

 

「あれ、なんで!? ベッドは? ってかここどこよ!」

「あらあら、ミーシャちゃんってば起きたばっかりなのに元気なのね」

「元気とかそういう問題じゃないっ! いつもの帽子もないし!」

 

 あたまの上をぺたぺた触りながら、ミーシャが目をつむって叫ぶ。しかしアイリスは不思議そうに首をかしげるだけで、ミーシャは頬を膨らませながら地団駄を踏みたくなった。

 

「それにしてもミーシャちゃん、気持ちよさそうに眠ってたわ」

「勝手に人の寝顔を見ないでよ! あーもう、なんでこんなことに……」

 

 と、うずくまって頭をかかえたミーシャの動きがぴたりと止まる。そうして恐る恐る顔を上げたかと思うと、ミーシャは驚きとも恐怖ともとれるような混沌とした表情を張りつけながら、その口を動かした。

 

「なんで、私はここにいるの?」

 

 黄色の花畑に包まれて、ミーシャの呟きが木霊する。

 

「ミーシャちゃん、覚えてないの?」

「うん、忘れちゃった……」

「あらあら……もしかしたら、疲れてたのかもしれないわ」

 

 そう口にしたアイリスが、ぽんぽんと自分の膝を軽く叩く。にんまりと浮かんだアイリスの笑みに、ミーシャが訝し気な視線を流した。

 

「ほら、ミーシャちゃん」

「……なによ」

「もう一回ひざまくらしてあげる。ゆっくり休みましょ?」

 

 じりじりと間合いをつめながら、ミーシャがアイリスへと近寄っていく。さながら小動物のようなその様子にアイリスは普段通りの笑みを浮かべて、飛び込んできたミーシャを優しく受け止めた。

 膝の上でごろごろと転がるミーシャの頭を、アイリスが優しく撫でる。

 

「でも変ね。ここまで来たこと、まったく覚えてないもの」

「それは仕方のないことよ。忘れるということは、避けられないものだから」

 

 頭からふにふにとした頬へと手を伸ばして、アイリスが続ける。

 

「忘れてしまったということは、それで終わりということ。けれど、本当に大切なものはずっと覚えているものなの。ミーシャちゃんにも、ずっと覚えているものはあるでしょ?」

「ずっと、覚えてるもの……?」

 

 アイリスの言葉に、ミーシャはふと思考を巡らせる。黄金の花びらが舞って、ミーシャはどこかで見たその光景をゆっくりと思い出した。

 やがて、ミーシャがぽつりとその言葉を口にする。

 

「……うらぎ、られた」

 

 アイリスの瞳を覗き込み、ミーシャは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。

 悲しみとは違う。どちらかというと、怒りのような、不思議な気持ち。どろどろになったそんな何かを心に浮かべて、ミーシャが首を傾げたままアイリスへと視線を向ける。

 

「裏切り? 誰に?」

「だれだろう……わかんない。忘れちゃった」

 

 ぼんやりと浮かぶその感情に、ミーシャは曖昧な答えを返す。その瞳には涙が浮かび上がり、ミーシャの頬を伝って小さな雫が花びらへと落ちた。

 それに気づく素振りも見せず、ミーシャはだんだんと感じるまどろみへと体を預ける。

 

「でも、覚えているのなら、それがミーシャちゃんの大事なことなのかもしれないわ」

「……それが、誰かもわからないのに?」

「ええ。それが分かったとき、ミーシャちゃんがどうするかが大切なのかも」

「どう、するか?」

 

 その誰かに会った時、どうしてしまうのだろう。裏切った相手を問いただすのか、そのまま怒りに任せて殴りつけるのか。あるいは、全てに目をつむって許してしまうのか。今のミーシャには、それすら分からないようだった。

 だんだんと暗闇をミーシャの視界が支配していく。うっすらと見えるアイリスの表情は、どうしてかとても悲しそうなものに見える。

 

「どうして、そんなに」 

 

 悲しいの、という言葉は届かずに、暗闇へ消えていく。

 渦巻く疑問に身を任せながら、ミーシャはゆっくりと眠りに落ちていった。

 

 

 黄色の花畑に包まれて、あなたは全てを失った。

 


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