ある夜のことだった。
塾が終わって帰宅していたとき、実家の近くの住宅地を通っていたら不穏な喧騒が耳に入った。
「いいから車に乗れ!」
「やめてください!」
遠くから男女の言い争う声が聞こえてくる。どうやら自分の帰り道の先のようだった。
「やめてください。離してっ!」
「逆らいやがって!」
「いやぁ!」
怒鳴り声で叫ぶ男と嫌がる女性が見えた。
怒った男は女性の胸倉を掴み上げ凄い喧騒で迫っている。
「あ? ふざけやがって…俺を誰だと思ってやがる」
男が拳を振り上げた。
――まずい!
「危ないっ!」
「なにっ!?」
俺は酔っ払った男と女性との間に割り込んだ。
男の拳を手で掴む、結構な衝撃だった。
「何をしているんですか、女性に手を上げるなんて!」
「チッ…なんだおまえは?部外者がしゃしゃり出てくるな!帰れ、見世物じゃねぇんだよ」
「なっ!?」
あまりの傲岸不遜さに俺は驚愕した。
「警察を呼びますよ!だからその手を離せっ!」
「おう、呼べ呼べ! 警察なんて俺の犬だ。相手にもされないだろうがな」
男は俺の発言を鼻で笑った。
「車に乗れメスブタ!」
「いやっ…やめて…!」
こいつには言葉は通じない。急いでスマホで警察に通報する。
「てめえ!なに通報しようとしてやがる!」
「ぐあっ!」
体に衝撃が走る。どうやら俺は男に蹴られたらしい。
「なにをするんだ!暴行罪ですよ」
「はっ、知るかよ馬鹿が。良いことを思いついた、俺みずからが警察に通報してやる」
もうめちゃくちゃだった。何を言っているのかさっぱり分からない。
「もしもし、警察ですか? 助けてください! 今、私は不良に暴行を受けてますっ!」
「あなたはいったい何を――」
「――あ、不良が女性を殴りました。早く来てくれ! これ以上は抑えられないっ!」
そして男と口論している内にパトカーのサイレンの耳障りな音が近づいてくる。それは俺の身の破滅を告げる晩鐘の音のようだった。
「俺様に逆らった罰だ。然るべき報いを受けるが良い」
そこからは一方的だった。流れるかのように警察署の留置所にぶち込まれ、問答無用で有罪にされたのだ。
俺の証言は全て聞き流されるか、鼻で嗤われた。弁護士も刑事事件に強い私選弁護士など雇えるはずも無く、みるからにやる気の欠如した無料で雇える国選弁護士しか選べなかった。
そして――
「ではこれより被告人『来栖 暁』の裁判を始める。まず罪状認否からですね、あなたは罪に対して否認しますか? 罪を認めますか?」
裁判官が問いかけてくる。
俺は悪いことなど何一つとしてしていない。
もちろん答えは『いいえ』だった。
「そうですか。否認しますか」
周りの傍聴席がざわつく。周囲の視線が痛い、人間の屑がとばかりに殺気のこもった蔑む視線を感じた。
あるものは面白いショーをみるような好奇の視線を。
あるものは塵屑をみるような蔑みの視線を。
あるものは囃し立てるかのような愉悦の視線を。
傍聴席に座る人が全員、俺を悪意ある眼で見ていた。
「ひっ!」
頭がおかしくなりそうだった。
「あっ…違う。やったのは俺じゃない、俺じゃないんだ…」
どうして俺がこんな目に…
なんで? どうして?
「ではこれより被告人質問を始める。検察官は質問を」
「はい。来栖さんにお聞きします、あなたは暴行をしていないと証言しているようですね。それは本当ですか?」
「間違いありません」
「ではなぜ女性の方は暴行を受けたと証言しているのですか?」
「――は?」
意味が分からない。なぜ庇った女性がそんな証言をしているのだ?
「あなたに暴行を振るわれた女性の方は確かに証言していましたよ。あなたに何回も殴られたと」
「全部ちがっています。私はそのような事はしていません!」
神に誓って自分はそのようなことはしていなかった。
「しかし、女性の方の服にあなたの指紋がついていましたがね」
「そんな馬鹿な…」
「まあいいです。証言者を呼びましょう。川口さん」
「はい」
女性が検事に呼ばれて証言席に座った。
頼む、俺の無罪を証明してくれ。そうすれば俺は――
「――こいつが、私を殴ったんです! 執拗に何発も何発もっ! 私は怖くて逃げられなくて…それでっ、うぅっ…」
――は?
「もういいですよ、辛い記憶を思い出させてしまいましたね。申し訳ありませんでした」
「はい…うっ…」
「その後に偶然通りがかった獅童 正義さんが彼女への暴行を止めたというわけです。被告人や弁護人は何か反論はありますか?」
「嘘っぱちだ! 俺は無実だ!」
「被告人はあくまで容疑を否認しますか…ならば弁護人。あなたは何か言うことはありますか?」
弁護士はこちらを蔑みの眼で見て――
「――被告人、観念して罪を償いましょう。あんたが全て悪い、女性に手を上げるなど言語道断だ。助けになる気にもなれない」
それから弁護士は何一つ弁護をしてくれなかった。
そして刑事裁判は終わり、俺は前歴持ちになった。暴行罪で犯罪者になったのだ、しかしそれだけではすまなかった。
「暁。お前がそんな子だとは思わなかった」
「父さん、母さん! 聞いてくれ俺は――」
「――勘等だ。どこにでも行くがいい、おまえの事などもう知らん」
「そんなっ!?待ってくれ!!」
「お前のせいで家にマスコミが押しかけてきた。俺達の生活はぐちゃぐちゃだ、どこにでも消えろ親不孝息子がッ!!!!!」
「――!?」
俺はあの男に女性と大物政治家に暴行を振るった通り魔に仕立て上げられたのだ。ハメられたと気づいた時には全てが手遅れだった。警察は本当に獅童の駒で、女性は金を詰まれて言いなりに、弁護士は最初から勝つ気など皆無だったのだ。
そうして獅童 正義は通り魔から国民を救ったヒーローになり、来栖 暁は女性に暴行を振るった犯罪者になった。
悪名が広まった俺はこれから先の人生が破滅したことを悟った。
この先は嘲りと罵倒に満ちた暗い夜同然の人生で、もう二度と希望なんてないと思っていた――あの月光に出会うまでは。