三葉とのデート当日、瀧はアラームを設定した時間よりもだいぶ早くに目が覚めた。朝食をしっかりと食べ、いつもより入念に髪をセットした。昨日のうちに美容院にも行った。時計を見ると約束の11時までまだ時間がある。一番お気に入りのジャケットをはおり、せっかくだから早めに行って待っていようと考え瀧は家を出た。
勇気を出して送ったデートのお誘い。三葉は快く了承してくれた…と思う。やっぱり文字から人の意思を読み取るのには限界がある。しかし、添えられた『楽しみにしてるね』の文字に瀧はつい口元が緩んだ。
休日の朝にも関わらず、総武線は思ったほど空いてはいなかった。少し混雑した電車の中で、ふと斜め前に立つ1人の高校生くらいの女の子に目が留まった。顔はよく見えないが、眼鏡をかけ、髪をサイドテールにまとめている。瀧が目を留めたのは彼女の髪を束ねる組紐である。基本的にこういうものには興味を示さない瀧だが、彼女のそれはなぜか瀧の心を掴んだ。確か三葉も似たようなのを持っていたような。そういえば俺も昔…。
その時、その少女の隣に立つ男の不審な動きを瀧は見逃さなかった。男の手は、明らかに不自然に彼女のほうへ伸ばされている。「痴漢だ」と瀧は思った。そして男の手が彼女のスカートに触れたのを確認すると同時に、瀧は男の手を勢いよく掴んだ。男の身体が一瞬ビクッと震えたのが分かる。その時、ドサッと何かが落ちる音がしたと同時に彼女が振り向いた。その目に激しい怒りをこめて瀧を睨んでいる。えっ? 俺? 彼女の拳が固く握られ、腕はスッと後ろに引かれている。その瞬間、瀧はとっさに空いている左手でみぞおちをかばった。
瀧は中学生までバスケットボールをやっていた。背は高い方ではなかったが、それを生かした低いドリブルと、手の器用さを生かした正確なシュートで、チームのポイントゲッターとして活躍していた。高校でやめてしまったが、今でも自分の運動神経には少し自信がある。それがこんなところで発揮されるとは思いもよらなかったのだが。瀧が防御の構えをとったのと、彼女の拳が瀧の腕に直撃したのはほぼ同時だった。「痛っ!」と思わず声に出た。「女子高生のパンチってこんなに強力なのかよ。ていうか俺無罪なんですけど。」左手を出すのが少し遅れていたらと思うとゾッとした。
「あんた、痴漢?」
彼女に小声でささやかれ、さすがに瀧も焦った。このまま痴漢の冤罪を着せられたらそれこそ取り返しがつかなくなる。瀧は慌てて釈明する。
「違うよ。俺じゃない。犯人はこいつ!」
瀧は先ほど掴んだ男の手を高々と上げた。男は先ほどからまるでヘビに射すくめられたカエルのように怯えた表情で声も出なくなっている。事の真偽は誰が見ても明らかだった。
「じゃあ、あんたがぁ!?」
「ひ、ひい…す、すみませんっ」
結局瀧は彼女とともに捕まえた痴漢を連れて次駅で降り、駅員に突き出した。簡単な事情聴取の後、「お嬢さんには後日こちらから連絡させていただきます」と言われ二人は解放された。彼女は本当に申し訳なさそうに瀧に謝罪した。
「ごめんなさい。助けてくれた人を私の勘違いで本気で殴ってしまうなんて。けがはありませんか?」
「ああ、うん。気にしなくていいよ。それにしても、すごく良い一撃だった。」
「本当にごめんなさい。実は私、空手部に入っていて。つい…、手加減できなくて。」
「ああ、なるほど。納得した。」
「あの、あとでお詫びとお礼をしたいので連絡先を教えてくれませんか?」
「そんな、気を使わなくてもいいよ。」
「いいえ、させてください。」
食い下がる彼女に根負けし、瀧は名刺を彼女に渡した。
「ありがとうございます。必ずお礼します。今日はちょっと急いでいるので、失礼しますね。」
そう言うと深く頭を下げ、彼女は走って行ってしまった。時計を見ると、10時を少し回っていた。余裕もって家を出て正解だった。瀧は中央線快速のホームに向かって歩き出した。
「うーん…どうしよう」
瀧とのデート当日、三葉は悩んでいた。今日は早起きして、髪のセットもメイクもいつもより頑張った。しかし、何を着ていくかが決められず、姿見とクローゼットを行き来してかれこれ30分が経っていた。
「お姉ちゃん、さっきからなに1人で騒いでるん?」
「何着ていくか決められんの!」
「友達と出かけるだけなのに、そんなに気にすることないに。」
「え…えと、今日来る中に男の人もおるんよ…」
「ええ! お姉ちゃんまさか狙ってる人おったの?」
やけに大げさにはしゃぐ四葉に、「しまった」と三葉は思った。ていうかもう本当のことを言ってもいいかなと思えてきた。どうせそのうちバレるんやし。今日のデートが無事成功したらにしようと三葉はそう考えた。
「じゃあ、あとで聞かせてもらうわ。行ってきまーす。」
「ちょ、ちょっと四葉!」
三葉の声を聞き終える前に、四葉は部屋から出ていった。制服を着て、道着を入れた袋を持ち、ツインテールを揺らしながら。
「それで…どれを着ていけばいいんやさ!」
三葉の苦悩は、もうしばらく続く。
10時40分、瀧は四ツ谷駅に到着した。待ち合わせは11時なのでまだ時間がある。さすがに三葉はまだ来てないか。もっとも三葉を待たせまいと早めに来たのだが。「そういえば、奥寺先輩とデートしたときの待ち合わせ場所もここだったな。」瀧はふと昔のことを思い出した。「あのデートは散々だったな…。そもそも何でデートなんて話になったんだ? バイト先のアイドルだった奥寺先輩をどうやって誘ったんだっけ? ていうか、そんなこと当時の俺は出来っこないし、した覚えも無いんだよな……」。いつもの感じだ、と瀧は思った。何かを思い出そうとすると、まるで靄がかかったように記憶が遠くなる。
「立花さん?」
急に名前を呼ばれ振り返ると、先ほどの女の子がニコニコしながら立っていた。しかし、さっきまで持っていたはずの袋は持っていないし、制服も着替えていた。
「あれ? 君、さっきの。急いでるって言ってたけど、四ツ谷に用事があったんだ。」
「ええ、まあ。そしたらたまたま立花さんをお見かけしたので。」
瀧は改めて彼女の顔を見る。眼鏡をかけてはいるが、端正な顔立ちに、少しあどけなさの残る、端的に言って美少女だ。きっと学校ではさぞモテるのだろうと瀧は思った。
「もしかして、デートの待ち合わせとか?」
失礼だとは思ったが、もしかしたら自分と同じ口ではないかと思い好奇心で聞いてみた。
「えと…待ち合わせというか、待ち伏せというか…」
「…え?」
言っている意味がよくわからなかったが、今日初めて会った女の子にこれ以上聞くのも野暮だと思った。
「そういえば、まだ君の名前聞いてなかった。」
「あっ、申し遅れました。私は、宮水…」
「四葉!?」
瀧は一瞬状況が呑み込めなかった。目の前の宮水四葉の表情を見ると、さっきまでのニコニコ顔は失せ、恐怖におののく表情に変わっていた。
「お、お姉ちゃん…?」
あれ? 今三葉の声が…そう思って瀧も振り向く。
「よーつーはぁ!」
そこには不気味なほど満面の笑みを浮かべた三葉が立っていた。
三人は、とりあえず駅前のカフェに場所を移した。四葉が重々しく口を開く。
「ごめんなさい。その…つい出来心で……」
「もう! 本当にびっくりしたんよ。瀧くんがまさか、デートの日に若い女の子と喋っとるって思って……ああ、悲しんで損したわ」
「私だって、まさかお姉ちゃんの彼氏が瀧さんだったとは思わなかったもん。」
「か、彼氏って……、まだ今日が、は…初デートやよ。ていうか、私が今日デートに行くって知ってたん?」
「当たり前やさ。お姉ちゃん分かりやすすぎやもん。別に邪魔するつもりはなかったんよ。お姉ちゃんをここまで惚れさせた男を一目見たら帰ろうと思ってたんやさ。」
「……あ、あほ! ……だからって、変装まですることないに。」
瀧は宮水姉妹の口論を、コーヒーをすすりながら聞いていた。四葉の直球発言に何度か吹き出しそうになるのを必死にこらえた。瀧も三葉も顔が赤くなっている。
話が落ち着いたところで、改めて三葉が四葉を紹介した。
「本当にごめんね、瀧くん。私の妹の四葉です。」
四葉もぺこりと頭を下げる。先ほどトイレで変装を解いており、眼鏡をはずし、髪はツインテールに結び直していた。着ていった制服は、道着袋に入れて四ツ谷駅のロッカーに入れてきたらしい。顔を上げた四葉を見て、なるほど、眼鏡をはずすと改めて三葉に似ていると瀧は思った。
「さあ、四葉。それ飲み終わったら帰りなさい!」
「ま、まあいいじゃないか。四葉も今日色々大変だったんだし。」
「色々って何なん?」
瀧と四葉は、今日電車の中で起こった一部始終を三葉に話した。
「ええ!? 四葉、大丈夫やったん?」
さっきまで「あほ」だなんだと言っていた三葉が、本気で心配した顔つきに変わった。なんだかんだで妹思いなんだなと、瀧は温かい気持ちになる。一人っ子の瀧は、兄弟姉妹というものに少し憧れていた。
「うん。瀧さんが助けてくれたから。それに瀧さんすごいんやよ。私の正拳をとっさにガードしちゃったんだから。」
「あほ! ちゃんと謝ったん?」
「ああ、あとでお礼させて下さいとまで言われたよ。」
瀧は2人の言い合いを止めようと割って入った。それにしても、三葉ってコロコロ表情変わるよな。分かりやすいってのもなんとなくわかる。そんな彼女をかわいいと思ってしまう自分も間違いなくいるのだが。
「本当にごめんなさい、瀧くん。」
まるで学校で問題を起こした子供の母親のように、三葉は四葉の後頭部を抑えて一緒に頭を下げた。
「いや、大丈夫だよ。それより、今日は三葉がしたがってたカフェ巡りをしようかと思ってたんだけど、せっかくだし四葉も行くか?」
「行きたい! やったあ! ありがとう瀧さん。」
「ちょっと瀧くん……」
「2人で会うことはこれから何回でもできるんだし。今日だけなら。」
「うーん……まあ、瀧くんがええなら、それでええよ。」
三葉は少し不満げながらも、やがて納得したようにうなづいた。
それから、3人は瀧おすすめのカフェを回った。カフェ巡りは瀧の高校時代の趣味の一つだ。親友の司や高木真太と一緒に様々なカフェに入っては、内装の感想などを交わし合っていた。そのころから瀧は建築分野、特に建物の内装に興味を持っており、今は(散々苦労した就活の末)インテリアデザイナーの卵として働いている。もっとも三葉と四葉の興味は、お店ごとに異なるバラエティに富んだスイーツにあるのだが。メニューを見ながら目をキラキラさせる2人を見て瀧は微笑ましくなった。こんな三葉を見られたんだし、今日はいいか。
日も暮れ始め、宮水姉妹のお腹も満たされてきたところで、瀧は、なぜか瀧と三葉の間を並んで歩く四葉をそろそろ帰そうと声をかけた。
「四葉、そろそろ帰らないか? もうけっこう回ったぞ。」
「そうやよ。いい加減帰りなさい。」
「…はーい。今日は本当にお邪魔しました。じゃ、お姉ちゃん、無理に今日中に帰ってこなくていいんやからね。」
「ちょ、四葉ぁ!」
顔を赤くする三葉。つられて瀧も赤面する。
四葉の後ろ姿を見送り、瀧は三葉の方に向き直った。
「三葉、今そんなにおなか空いてないよな?」
「え? うん。けっこう食べちゃった。明日からダイエットやね。」
「今日はずっと四葉もいたし、その…俺、三葉ともっと話したいから……」
瀧が選んだのはこじんまりとした個室の居酒屋だ。もちろん瀧に下心はない(数日前に出会って、間違いなく自分の好きな人で、でも不思議と2人きりの時はあまり緊張しない。高校生のころ、奥寺先輩を前にした時とは大違いだ。彼女に好かれるとか好かれないとか以前に、この人ともっと話したいという思いが瀧の根底にあった。
「うん。いいよ。」と三葉が嫌な顔せず了承してくれたことに瀧は安堵する。そのまま彼女は言葉を続けた。
「実は、ちょっと嬉しかったんよ。瀧くんが四葉も一緒に行こうって言ってくれて。もちろん私は2人で行きたかったけど、それ以上に瀧くんが私の妹にも優しくしてくれて少しホッとしたというか…」
「まあカフェ巡りなんて人数多い方が楽しいからね。それに…四葉の顔を見た時、初めて三葉に出会ったときと似たような感覚になったんだよな。どこかで見たことあるような…、それでなんかほっとけなくて。まあ…だからこそ2人きりの時間も作りたかったっていうか…」
思えば、瀧がこんな思い切った申し出を切り出せたのは四葉のおかげかもしれない。今日1日、3人で過ごした時間は楽しかったし、たくさん話ができた。そして、今改めてお互いに2人きりの時間を欲している。2人の間の距離は、今日1日で確実に小さくなっていた。
現在所用で千葉に滞在しているため更新が遅くなってしまっていることお詫び申し上げます。さてオリジナル設定も登場する第5話は、2人の仲の進展への布石です。次話では急進展があるかも。お楽しみに。