階段の上に彼女がいる。息を切らしていて、それでもその目はしっかりと俺をとらえている。心臓の鼓動が早い。でもこれはきっと、今の今まで走ってきたからではない。彼女を目の前にして、嬉しいとかそういう感情を通り越してしまっていて、ただ胸が高鳴っている。俺は一段一段ゆっくりと階段を上る。しかし顔を上げられない。胸の高鳴りは一向に収まる気配がない。このまま彼女を見たら、自分でも整理できていない感情があふれ出てしまいそうだ。俺は間違いなく彼女を知っている。しかし俺たちは赤の他人だ。名前を知らないどころか、初めて会う人なのだから……。
そして、俺は彼女とすれ違う。
そして、私は彼とすれ違った。
私は階段をゆっくりと降りていく。彼と目を合わせられない。決して合わせたくないわけじゃない。むしろ、彼と目を合わせて話がしたい。彼に聞きたいことがたくさんある。いや、この先一生出会うことがないとしても、どうしても聞いておきたいことがある。それは、ずっと前に忘れてしまったこと。忘れたくなかったのに、どうしても思い出せなかったこと。だけど私は顔を上げられない。だって、彼にとって私は何者でもない。私たちは今日初めて、偶然電車で目が合って、偶然この階段で出会った、赤の他人なのだから……。
ーーそんなわけない!ーー
俺は顔を上げて振り返る。彼女の黒髪を束ねる夕焼けのように赤い組紐が俺の目をとらえてはなさない。俺たちが赤の他人なわけがないと、そう確信した。きっと彼女もそう思っている。でなければ、満員電車で偶然目が合っただけで息を切らしてまでお互いを探し合う、そんな衝動に駆られることなどないはずだ。これが俺の導き出した精一杯の理屈。でもそんなことはどうでもよかった。俺が声をかけなきゃ、何も変わらない。
「あの、……俺、君をどこかで…」
「……私も。」
彼の声は私の胸の中にすっと入ってきた。油断すると目から涙が溢れそうだ。そして私は気づいた。きっと私は嬉しくて泣いているのだということに。私は階段の上にいる彼の方へ振り向く。彼の真剣なまなざしに私の表情が綻んだのが分かった。抑えきれない感情がどっと押し寄せてくる。だけど心は不思議と落ち着いていた。まるで何が起きても乗り越えられるような、そんな気持ち。もうためらうことはない。ほとんど自然に、すっとその言葉は出てきた。その瞬間、彼の口が開くのが見えた。
まるで小さな子供が、「いっせーのっ」と呼吸を合わせるように、二人は声をそろえる。
――君の、名前は――
「俺は、瀧、立花瀧。」
彼の名前の響きは、前から知っていたかのように私の中にすっと入ってきた。まるでずっとなくしていたものがようやく見つかったというような感覚。
「立花……瀧君、瀧くん、瀧くんや。」
彼の名前を繰り返しつぶやく。「瀧くん」という響きが、なぜか私にはとても心地よく感じられた。
「私は、三葉、宮水三葉。」
彼女の名前を聞いたとき、不思議と懐かしさを覚えた、というか初めて聞く気がしない名前だ。いつどこで聞いたのかは思い出せない。もしかしたら俺の思い込みかもしれない。ただ、「みつは」という響きは、すとんと俺の中に抵抗なく落ちてきた。女性をファーストネームで呼ぶだけでも俺にとってはハードルが高い。ましてや初対面の女性になんてなおさらだ。でも、「みつは」と、そう呼んでみたくなった。
「たき……立花君って、もしかして新社会人?」
「え…ええ、そうですけど、どうしてわかったんですか?」
「うーん、なんていうか、スーツがあんまり馴染んでないから…かな。」
「それ、いろんな人に言われるんですよ。そんなに似合ってませんか?」
「あ、いや、決して似合ってないわけではなくて。ただ、瀧くんからはうちの会社の新人君たちと同じにおいがしたんよ。」
「新人君」って言ったということは少なくとも彼女は新社会人ではないのだろう。確かに洗練された雰囲気で、俺みたいな新社会人には見えなかった。少し違和感を感じるのは気のせいか。それにしても、このちょっと独特の訛り…どこか懐かしく感じる響き。俺は生まれも育ちも東京で、田舎の友達なんていないはずだけど…。そんな思案も束の間、彼女のふわりとした笑顔に俺は思わず見とれてしまった。
三葉は自分でも驚いていた。電車で目が合っただけで衝動に駆られて彼を探してしまったこと、そして、基本的に異性とのコミュニケーションが得意ではないのに、それなのに今、今日初めて会った、しかも年下の男の子と普通に会話している。彼との間には、他の男との間に作ってしまうような壁を感じなかった。まるでずっと前から気心の知れた仲のような、不思議な感覚だ。普段は隠している訛りが無意識のうちに出てしまっていること、そして、「瀧くん」と呼んでいることに、三葉はまだ気づいていない。
「それにしても、新社会人はやっぱり真面目やね。私、今朝いつもより早く目が覚めて、早めに家を出たのに。瀧くんはいつもこの時間なの?」
「はい、やっぱり新人なので、余裕をもって出社しようかと……って、あれ、やばい、もうこんな時間!? み…宮水さん、時間大丈夫ですか?」
何気なく時計を見て、瀧は焦った。普段ならもう会社に着いている時間だ。
「うそ! もうこんな時間! え、えっと……」
「あ…あの、これ俺の名刺です。あと、スマホの連絡先も。」
「うん。私も。」
2人は互いの名刺と連絡先を交換し別れた。階段を登り切ったところで瀧は振り返った。同時に三葉も階段の下で振り返っていた。そのとき瀧は目を奪われた。この世界の教科書のような彼女の笑顔。瀧はただただ会釈することしかできず、足早に駅まで向かった。
「えへへ、瀧くん…かあ」
会社での昼休み、三葉はひどくふにゃふにゃな笑顔で、今朝登録したばかりの連絡先の名前を眺める。瀧と別れた後、三葉は時間ぎりぎりで出社した。幸い普段の勤務態度が良かったことや、ギリギリ出社は今日が初めてだったこともあって上司からの叱責は免れた。瀧くんはちゃんと間に合っただろうか。新入社員だからもしかしたらこっぴどく怒られたかもしれない。しかし三葉自身もデスクについてスマホを開くのはさすがに気が引けた。そうして午前中いっぱい我慢した結果がこの有様である。
「みっちゃん、なんかいいことでもあったの?」
覗き込むように話しかけてきたのは同期の
「ふぇ!? 理沙かあ、もうおどかさないでよ」
奇妙な叫び声と一緒にあわててスマホを隠す三葉である。
「おどかさないでって、普通に声かけただけじゃん。みっちゃん今日ぼーっとし過ぎ!」
「そ、そんなに?」
「でも、すごく幸せそうな顔してたよ。もしかして彼氏できたとか?」
一瞬周りからすごく視線を感じた。
「えっと…い、いや、彼氏とかじゃなくて……」
三葉は、しどろもどろに弁明した。実際に彼氏ができたわけではないし。それに、瀧との出会いを下手に話したら面倒な追及を受けそうだ。何より三葉自身が、瀧との出会いの余韻にもう少し浸っていたかった。
「ふーん、まあいいや。お昼一緒に食べよ」
壬理沙は、しっかり者のできる女性というタイプだ。プライベートでも人の嫌味とかは滅多に言わない。そういう意味でとても信用できる。仲良くなったのは、新人研修で彼女の落とした手帳を拾ったときだ。
「あの…えっと…みずのえさん、これ落としましたよ。」
「あ、ありがとうございます。あの、同期の子だよね? よく私の名前1回で読めたね。私高校の時のあだ名ジンさんで中国人と間違えられたこともあるのに。」
「そっか、壬申の乱の壬か。あれって干支の壬申(みずのえさる)から来てるんだよね。」
「ずいぶん詳しいのね。もしかして文学部出身?」
「まあね。あと、家が神社だったから。」
最初の会話はこんな感じだっただろうか。こういうお喋りな一面もあって、けど秘密はしっかり守ってくれる。三葉は同僚の女子社員みんなと仲良くやっているが、理沙はその中でもただ1人といってもいい本音を話せる仲だ。眼鏡をかけているが、素顔は端正な顔立ちの美人である。現在彼氏はなし、恋バナには相当敏感だ。そんな彼女とのお昼のお弁当は毎日の日課のようになっている。
「ねえみっちゃん。今朝遅かったのって、彼氏じゃないって言ってたけど、でも男ではあるんでしょ?」
「まあ、理沙には話す。今朝…出会ったの。」
「出会った? つまり隠してた彼氏とかじゃなくて、初対面!?」
「彼氏なんて今までできたことがない、じゃなくて作ったことがないよ。」
「みっちゃんすごい人気あるのにホント作らないよね。もったいないよ。かわいいのに。」
「別に、普通だよ。」
「それで、今朝とびっきりのいい男に出会って、逆ナンしたと。」
「逆ナンって、そんなんじゃなくて……。ねえ、初めてあった人なのになぜか懐かしい気がするって、やっぱり変かな?」
「いや、別に変じゃないよ。私もすれ違う人を見て、この人どこかで見た気がするって感じることあるもん。」
「でも、見たことある気がするってだけじゃなくて、もっとこう…この人だ!って全身が叫んでる…みたいな。」
「私はそこまではなったことないかなあ。でもさ、なんか運命って感じじゃない?」
「う…運命って。で、でも、相手の方も私に気づいて、それで途中で電車降りて、走り回ってお互いを探したりして。」
「で? その彼のこと好きなの?」
「そ、それは…。」
時計を見ると、もう昼休み終了の時間だ。2人は急いでお弁当を片付け、それぞれのデスクに戻った。
「うーん…どうするか」
昼休み、今朝登録したばかりの連絡先を眺めながら、瀧はうんうん唸っていた。電車の中で偶然目が合い、そして出会った女性。端的に言ってすごく美人だ。そして、黒髪ロングで俺の好みだ。だがそれだけじゃない…、外見や話し方とか以前に、宮水三葉という女性の存在に俺は強く惹かれた。けど世の中そんなに甘くはない。これほどの美人に彼氏がいないわけがないだろう。それでも気が付けば彼女のことを考えている自分がいた。生まれてこの方、瀧は彼女がいたためしがない。そんな瀧にとって初対面の気になる女性にどんなメッセージを送ったらいいのか、これほど難しい課題は無かった。正直に一言で言えば「また彼女に会いたい」のだが、そんなシンプルな言葉だからこそなかなか送る決心がつかなかった。ーー面と向かってだったら普通に話せたのになーー今悩んでいるのがウソみたいに、今朝あの階段で出会ったときは、彼女と普通に話せていた。年上だと知ったときはなぜか違和感を覚え、敬語を使うのも変な感じがした。
「なにスマホとにらめっこしてんだよ」
不意に後ろから声がした。驚いて振り向くと、同僚の
「いや、別に……なんでもねえよ」
「だってお前が今までに見たこともないような顔してじっとスマホの画面を見てたもんだから」
「えっ、俺そんな変な顔してた?」
「ああ、なんか難しいこと考えてるような目してるのに、口だけはニヤついてるみたいな。」
「え、まじ!?」
一体どんな腑抜けた顔してたんだ俺は。
「お前、もしかして好きな女でもできたのか?」
「はっ!? そ、そんなんじゃねえよ」
くっ、感の鋭いやつめ。
「冗談だろ。なにむきになってんだよ。もしかして図星か?」
「……」
「おいおい、黙るなよ。まあいいや。飯行こうぜ」
橘多喜生は、瀧と同じ新入社員だ。入社式で席が隣になり、同じ部署、しかも名前が1文字違いということもあってすぐに打ち解けた。整った顔立ちに浅黒く焼けた肌は、彼がスポーツマンだったことを容易に想像させる。子供のころからテニスをやっていたようで、高校生のころは関東大会に出場するほどの実力であり、東京ではかなり名うてのプレーヤーだったらしい。社交性に富み、リーダー肌の一面もある彼は、たいそうモテるのだろうと瀧は思ったが、意外にも(と言ったら失礼だが)過去に付き合った人数は1人だけだと新歓飲みのときに聞いた。本人曰く「俺は一途な性格なんだよ」とのこと。そんな彼に、瀧は今朝三葉と出会ったことを話した。「初めて会った気がしない」とか、話がややこしくなるようなことは話さず、なるべく簡潔にまとめたのだが、それがまずかった。
「おいおい、そういうのナンパって言うんじゃないか?」
「はっ!? ちげーし」
今まで頭の片隅にもなかった言葉が突然飛び出してきて、瀧は動揺した。
「まあ、なんにせよお前はその子に会いたいんだろ。だったらそのことを伝えればいいじゃん。ストレートに言うのがあれなら、今夜食事に誘えばいい。大丈夫。すんなり連絡先教えてくれたってことは少なくともお前のこと嫌いではないってことだろうから。それからどうなるかはお前次第だろ。まあ、せいぜい頑張れよ。」
確かにこいつの言うことは的を射ている。瀧は素直にそう思った。そして、昼休みの終わりが近づき2人はそれぞれのデスクに戻った。
「瀧、今度その子の写真見せろよ」
「まだ誘ってもねーだろ」
多喜生をあしらって、メッセージアプリを起動した瀧は宮水三葉へメッセージを送信した。
『今朝はゆっくり話せなかったので、今夜、夕食一緒にどうですか?』
前話に引き続き読んでいただいた方、ありがとうございます。オリキャラも登場し、前話の2倍ほどの長さになってしまいましたが、引き続きお付き合いいただければ幸いです。