――また会いましょう。
いつものように目覚めた体は、今日は変にふわふわして、落ち着きが無かった。
今日という日が来てしまった。胸にざわつく不安と、空っぽになった部屋の壁に掛けてある新しい制服が、もう時の進みを遅らせられないことを私に告げてくる。
ベッドから起き上がり、いつものように、いつものように、支度をしませていく。一番最後に制服に袖を通し、駅員の証である帽子を被った。部屋の扉を開けて嗅ぎ慣れた朝一番のホームの匂いを嗅いだ瞬間、もう泣きそうになってしまう。
この日が来ることを望んでいたはずなのに、どうにも一歩踏み出せない自分がいた。心残りが無いといえば嘘になる。やり残したことはいっぱいだ。
――それでも、私は自分で"今日"と決めたんだ。それを覆すことは、もうしない。閑散とするホームを歩くと、無駄に静かなせいか自分の足音がよく響いた。よく聞いた音だ。朝の見回りの時は、いつも一緒だったのだから。これからも聞くだろうが、同じ音はきっともう聞けない。
私は……私は今日、この駅を離れるのだから。
努めて大体三年だろうか。0……というよりマイナスからのスタートだった。思い出は、辛いことの方がいっぱいあった気がする。それでもたまに楽しい事があったらそれで幸せだった。いいことが一つあったら、続けて嫌なことが三つくらいやってくる。そんなもんだと、今では思う。
「あら、遅かったわね」
016ホームまで足を進めると、待ち合わせの相手がすでに到着しており、ホームのベンチに腰掛けていた。小さな顔に収まった大きな瞳がこちらに優しさの混じった視線を向けている。ベンチから立ち上がると腰まであるブロンドの髪が僅かに揺れ、細い手足はまるでモデルのようだ。いつもの派手な格好とは打って変わって、今日は落ち着いた紫の長袖ワンピースを着こなしている。
「寝坊したかと思ったわ」
「昨夜はよく眠れませんでしたけど……今日が来るのが怖くて」
「決心が揺らいだ?」
「……どうでしょう」
ここまで来て目の前の白線へ一歩踏み出せない自分にため息をつきそうになると、彼女はそっと私に歩み寄って、包むように手を背中に回す。彼女の暖かさと、柔らかい匂いがふわり香る。
「誰しも、慣れ親しんだ場所を離れて、新しい場所で何かを始めるのは怖いものよ」
「……そうですね」
「でもアナタは一歩踏み出すと決めたのでしょう? 諦められない夢があるから」
「……は……い」
不味い、本格的に泣けてきた。
こうなってしまうと、もう止める手立てを私は知らない。あれやこれや思い出が頭を巡って、懐かしさに目がどんどん熱くなっていく。
――やっぱり、寂しいな。
「なら胸を張って旅立ちなさい」
そういって彼女に背中を押され、私は白線に足を踏み入れた。
すると線路の向こうから、ガタン、ゴトン、と音を立てて列車がホームへ入っていく。舞い込む風が涙が伝う頬を優しく撫でると、列車が動きを止め、空気の抜けるような音とともに扉を開いた。
「私にとって、ここは大切な原点です」
「……そうね」
「絶対忘れません、絶対に」
なんとか涙を止めよう、目を擦っていると、彼女が私に何かを指しだした。一つは「記録」と書かれた一冊の本。そしてもう一つは――「名前」だった。
「これからアナタが持つ自分の駅、その名前よ。これからも夢の案内人、現実発幻想行きの駅員として頑張ってちょうだい」
「……はい!」
彼女からの贈り物を受け取り胸に抱きしめる。かけがえのないものが、また増えた。
「いい加減泣き止みなさい、一生の別れでも無いでしょう。門出は笑って」
最後は自分で行かなきゃ。抱きしめる両腕に力がこもる。結局のところ涙は止まらなかったが、精一杯笑って見せた。
「――――行ってきます」
今度は自分の足で列車に乗り込む。それと同時に扉が閉まり、列車はゆっくりと加速を始めた。車窓の向こうで小さく手を振る彼女に手を振り替えすと、次の瞬間には列車はホーム抜けだし、何処か遠くに向かっていた。
向こうに着くまで一体どれだけかかるだろうか。私は適当な席に腰を下ろし、受け取った二つのも物を膝の上に広げる。始めに手が触れたのは「記録」の本。ページを捲って見ると、そこにはこれまで私がお客様に案内した世界が事細かく記載されている。
ああ、こんなこともあったのか。
これは覚えてる。大変だった。
初めて褒めて貰えたな。にやけちゃう。
たった三年と思っていたが、私が思っているよりずっと長く、私の後ろには道ができていたようで――知らぬ間に随分遠くまで来たみたいだ。
車窓から見える景色は、これまで見たことも無い世界。待ち構えるのは初めての事ばかり、正直今この瞬間も不安や恐怖は消えない。でも、それと同じくらい。いや、それに勝るほどの胸の高鳴り。私の瞼の裏に見える美しい世界は、ここから広がっていく。
「終点――――です」
記録を巡っている内に、どうやら目的地までたどり着いたみたいだ。
列車を降りると、初めて見るホームに少し息を呑む。そして白線の外側から一歩、内側へ。靴底の弾ける音が、ホームに響いた。聞き慣れない音だ。けど、耳によく馴染む。
新天地、新しい居場所、新らしい挑戦、新しい世界。楽しんでいこう。できるだけ楽観的に、分からないことは想像力でもっとらしくして。できるだけ面倒な道を進んで、たまに下を向いては、新しい何かを見つけよう。たまに道に迷ったら、気が晴れるまでその場に寝そべって。夏の雨のように過ぎていく日々と、春の雪のように静かに降り積もる時間を眺める。そっちの方が、きっと面白い。
まだ名前の無い駅に、私は腕に抱えた名前を渡した。
「私の駅、Parallel Station」
――また会いましょう。