一定の周期で顔にかかる微かな風。感じる森の匂いと暖かい体温。
意識を取り戻した俺が初めに感じたのはその2つだった。
「……?」
自己否定ーー動揺を否定しました
自己否定ーー羞恥心を否定しました
目を
そして何故だろうか、
自己否定ーー疑問を否定しました
それに頭の中で区切りをつけ、寝起きの微睡みから完全に意識を覚醒させる。ここは世界一安心と幸せを感じられる場所ではあるが、同時にいるだけで気恥ずかしい場所でもある。
「よいしょっと」
だから、コッソリと抜け出した。けれどそれじゃあ悪いから、俺の代わりにいつも纏っているコートを置いておこう。そう思った時のことだった。
「んぅ……もろは、さん?」
自分はやはり隠れ忍ぶ術は得手ではなかったらしい。眠っていたはずのエウリさんを起こしてしまった。情けない。
「いかない、で。おいてかないで、ください……」
寝惚けている状態ではあるが、エウリさんはそう呟いてこちらに手を伸ばしてきた。その言葉に、心が軋みを上げた。
そうだ、俺は今回ディラルヴォーラを殺すために、どれだけ無茶を重ねた? どれだけ自分を削った? どれだけ死に浸って、そんな状態で紙一重を続けた?
『ソウダ』『ソウダヨ』『オマエニイキテルカチハナイ』『オレタチヲスクワナカッタクズガ』『ユウシャノハジサラシガ』『ジンゾクゴトキガ』『キサマモシンデシマエ』『『『キャハハハ』』』
自己否定ーー不快感を否定しました
自己否定ーー怒りを否定しました
「煩い」
魂魄回路ーーSearch
魂魄回路ーーmulti lock-on
魂魄回路ーーExecute
自己否定ーー死の実感を否定しました
俺を嘲り嗤っていた死霊を、チートが消しとばした。同時にズキンと頭が痛み、けれどその分声と姿が減少した。別にもうどうでもいいと切り捨てたものだが、邪魔ではあるのだ。集中も乱されるし、煩いのは迷惑である。
「ちょっと、花を摘みに」
「そう、ですか……」
そう言い残して、エウリさんは再び眠りについてくれた。何も理由がなかったのに咄嗟に出した答えにしては、上出来だったんじゃないだろうか。
頭痛を堪えながら周囲を見渡すが、フロックスさんの姿はない。現在位置は森の中らしく、それであればさもありなんといった感じだディラルヴォーラの
「さて、と」
であれば、俺も身体と記憶に残る違和感の解消に気兼ねなく出ることができる。といっても、十分に槍を振り回せる空間があれば良いのだが。
そう思って足を踏み出した森の外は、やはり異様な静けさに包まれていた。鳥の鳴き声も、虫の鳴き声も聞こえない、半分の月だけが見下ろす夜。そして何故か、そんな空気が今までよりもひじょうに心地良かった。
「……もう、ほぼ人間じゃないってことか」
自己否定ーー吸血欲を否定しました
疼いた牙がチートによりその活動を抑えられ、それが以前よりもかなり強かったことから確信した。正確な数値は分からないが、残りの人間である部分は1割2割あるかないかだろう。
今更吸血鬼になることに嫌はないが、少しだけ寂しくもあった。
『ナニヲイッテイル』『コノジンガイガ』『キュウケツキガ』『ヒトヲクラウオニガ』『イヤ、リュウカ?』『オレタチヲコロシタリュウガ!!』
「煩い!」
魂魄回路ーーcomplete
自己否定ーー死の実感を否定しました
死霊を昇天させる。
こんな一々係っていては、あの経験がなければきっとすぐに心を病んでしまっていただろう。待て、あの経験? なんだそれは。俺はこんな状況に慣れるような経験なんてしていないはずだ。
自己否定ーー疑問を否定しました
だからきっと、今のは気のせいか何かなのだろう。咄嗟に出てきたというやつに違いない。であれば、これ以上気にする必要もあるまい。本来やろうとしていたことを実行するのみだ。
「《排出》」
予備として携帯している槍の一本を手の内に排出した。
自己否定ーー懐疑を否定しました
「シッ!」
そんな疑念を振り払い、槍で仮想の敵を突いてみた。
その突きも、素人目で分かるくらいに別ものへと昇華していた。明らかに、技量が上達している。
自己否定ーー不快感を否定しました
薙ぎも、払いも、打ちも、何もかもが気持ち悪いほどに上達して、それになぜか違和感を感じることがなかった。これはたしかに自分のものであるという自負が何処から湧いてくる。
そのことが、心底気持ち悪かった。
自己否定ーー嫌悪感を否定しました
けれど、これを自分のものにしなければいけないという自覚はある。そうでなければ、今度こそ保たない。きっと自分が全て燃え落ちるまで戦ってしまう。だからこそ、今のうち強くならねばならない。最低でも、エウリさんと、エウリさんを背負った自分を守れるくらいには。
一振りする毎に、身体が馴染んでいく。
一振りする毎に、死霊が昇天していく。
一振りする毎に、義足が馴染んでいく。
一振りする毎に、音が遠ざかっていく。
一振りする毎に、霞みがかった記憶が晴れていく。
一振りする毎に、死霊の姿と声が遠のいていく。
一振りする毎に、自分が先鋭化されていく。
そうやって、何時間槍を振るい続けたのだろうか。空が僅かに白み始めた頃、自分に向けて何かが投げられたのを感じた。幸いながらさして速さのないそれを槍で絡め取ると、それはなんて事のないタオルだった。
「よっ、休みもしねぇでどうしたよ」
「フロックスさん……」
気楽に話しかけてきたその姿を視認した途端、身体にドッと疲れが押し寄せてきた。気がつけば俺は汗だくで、膝は笑っており、腕もプルプルと震えていた。
緊急避難としてストックしてあった血を飲み干し、飢えと渇きをどうにかする。そうして俺が落ち着くのを待って、フロックスさんは話しかけてきた。
「随分と槍捌きが見違えたけど、なんかあったか?」
「さぁ……それが、俺にもわからなくて」
だけど必要だと思ったから、とりあえず槍を振るっていたのだ。そのお陰か、今はもう違和感なくこれは自分の技だと誇れるくらいにはなっている。とはいえ、あの記憶で見た英雄には遠く及ばない。まだまだ研鑽が必要だった。
「そうか。にしても、随分とアマにぃに似た槍の動かし方すんのな。確かにオレが教えた基礎はそうだったけどよ、今はもうそれを踏まえた我流になってなかったか?」
「そうでしたっけ? まあ、上手くなったんなら嬉しいです」
強くなることは嬉しいし楽しい。何せ、何をするにもこの世界では“強さ”がなければ話にならないから。だから待て、なんだこの考えは。確かにそうだけれど、今まで俺はそんなことを考えたことはなかったはずだろう。
自己否定ーー嫌悪感を否定しました
これもまた、自分が人外へ変わっている事の証左なのだろうか。力こそ全て、そんな考えが頭の中の何処かに、いつのまにか住み着いていた。
「まあ、強くなったんだしいいじゃねえかそれで」
「それもそうですね」
自分の技量が上がって強くなった。この件に関しては、これが全てだ。悪い感じはしないし、これでいい。これでいいのだ。
「ならよ、1回どうだ?」
そう言ってフロックスさんは、腰に佩いた2刀に手をかけた。同時に殺気が俺に向けられ、準備万端といった様子だ。
「いえ、今はやめておきます。凄く疲れてるので」
けれど、一晩中槍を振ってた人にそれは無理だ。血を飲んだことで少しは回復したが、既に限界ギリギリである。更にそろそろ日の光も出てくるので、正直なところ遠慮したい。
「チッ、つまんねぇの。じゃあ今度な、約束だぞ」
「ははは……分かりました」
今ならフロックスさんに一太刀浴びせるくらいは出来るかもしれないし、まあいいか。
「それよりも……なんかあったんですか? 俺、結構見つけやすい場所でやってたと思うんですけど」
「ん? うん? ああ、そうだった! 脚出せ脚」
「はぁ」
とりあえず言われた通り、投げ出していた義足を差し出す。すると、間髪入れずに義足に木の根が巻きつき動きを拘束した。えっ。
「よーし、そのまま動くなよ?」
「ちょっ」
硬直していた俺の目の前で、フロックスさんは赤熱した金属の棒を取り出した。そしてそれを、義足に押し付けようとしている。
自己否定ーー困惑を否定しました
自己否定ーー疑問を否定しました
自己否定ーー諦めを否定しました
いつになく荒ぶるチートと俺の心を尻目に、動かせない義足に敢え無く金属の棒は押し付けられた。ジュウという焼ける音に、独特の臭い。数秒だけそれが漂い、すぐに金属の棒はフロックスさんの持つ袋の中へ消えた。
「うし、歪みもねぇ。これで問題ねぇな」
「満足してるところ悪いんですけど……これは?」
結局残されたのは、焦げ跡が謎の文様を描く義足だけ。ただ俺の知識がないからかもしれないが、説明が欲しかった。
「見るよりやる方が速えだろ? 立って『偽装』っつってみな」
「えっと……『偽装』」
瞬間、義足が生足に変わった。感覚自体は無いままなのだが、見た目は完全に元の足に戻ったように見える。
驚愕したままフロックスさんを見れば、それはもう見事なドヤ顔をこちらに晒していた。ああうん、でもこれを見たら確かにドヤ顔しても良いと思える。
「モロハの排出を参考にしてな。俺が持ってる魔法の袋の中身に直結して、瞬間着脱できるようにした。でもって人形の脚みてぇな外装に、モロハもよく使う幻術の術式を刻み込んで……まあ細けぇことはいいや。2日は補給無しでも偽装が保つぜ。どうよ? ヤベェだろ」
「ヤベーです」
触っても、感触は人のそれとなんら相違ない。更に魔力がある場所なら距離は関係なく偽装できるらしい。本来なら語彙を尽くすべきなのだろうが、素直にやべえとしか言いようがない。それくらいのものだった。
「それとほれ、代わりの防具」
「え?」
「竜との戦いで全部ぶっ壊れただろ? だからあの竜を素材にして一式作っといた。今度のはそう簡単に壊れねぇぜ?」
そうして手渡されたのは、黒一色の地に所々赤いラインの走る手甲と脚甲だった。そのどちらもが、あの黒い魔力を纏っているのが左眼で確認できた。それだけで、竜の防御力を再現した恐ろしい防具と言えよう。
「その代わり、驟雨の修復はまだだな。全員の武装の更新もあるし、もうちょい待ってくれ」
「了解です。まだ、時間はあるわけですし」
俺たちが王都に帰るリミットまでは、まだ何ヶ月もある。トラブルに巻き込まれることを考えるともう少し少なくなるだろうが、一月くらいの猶予なら余裕である。
「ああ。暫くは竜を加工しつつ療養だろうな」
「何もなければですけどね」
「ハ、違いねぇ」
そうして笑っていて、1つ気がついたことがあった。
死霊が、1匹も近くに存在していない。かなり遠くにチラホラとその姿が見えるだけで、近辺の死霊はその姿を完璧に消していた。代わりに、自分の中にあの黒い炎が呆れるほど溜め込まれているのを感じた。
無意識の演武で、これだけ溜め込んだのだろう。溢れるようなことはなさそうだが、少しだけ不安な気持ちになった。
自己否定ーー不安を否定しました
「そろそろエウリが起きるぞ。水掛けてやっからさっさと汗流して戻ってやれ。起きた時にモロハがいないと、多分大変なことになるぜ?」
「そうですね。それじゃあ宜しくお願いします」
そんなことをやっているうちに、俺の頭の中から謎の違和感のことはすっかり抜け落ちていたのだった。
装備更新回
(こっそり昔書いた短編の匿名解除した人)