短い休暇は、瞬く間に過ぎ終わりを告げた。その時間で何が変わったかと聞かれても、何も変わっていないと答えることしかできない。正確にはエウリさんとの距離感だけは変わったが、それだけだ。
師匠とフロックスさんという2人の達人と散々稽古はしたが、所詮新兵に毛が生えた程度。何が変わるということもない。
そんな状態ではあったが、俺たちは古樹精霊の森を超え次の戦場へと向かっていた。しかし今回は、ボロ馬車でも俺単独の出撃でもない。これから行く最前線には姫さまの陣営の人たちがおり、俺たちはそこへの増援という扱いだ。故に俺・エウリさん・フロックスさんの3人に加え、他の増援の人や物資、それらを運ぶ馬車が結構な数揃っている。
「まあ、というわけでオレたち
揺れる馬車の中、対面する席に座ったフロックスさんが呆れたように呟いた。
「あたりまえじゃないですか」
勿論聞いている。過去、古樹精霊側は蜥蜴族の雄を、蜥蜴族は古樹精霊の雌を無理やり奪い合ってたから、結果双方不可侵だけど手出したらぶっ殺すぞテメェとなったらしい。
お婆さんの若い頃の話だったんだとか。後、フロックスさんの家系の父親のどこかに蜥蜴族がいるとも。
「それなら良いけどよぉ、真面目に聞いてるようには見えねぇからよ」
「それを言われると弱いです」
あははと力なく笑う俺の膝では、エウリさんが頭を乗せて寝息を立てていた。そして、俺の右手とエウリさんの左手は繋がれている。これでは確かに、真面目に聞いてるようには見えないだろう。
「でも、エウリさんは昨日夜番でしたし」
「それはお前もだろ?」
「俺には、そんなに暇がありませんから」
嘘だ。俺はただ、寝たくないだけである。どうせ真面目に寝たとしても、あの悪夢に叩き起こされる。そんな状態じゃ仮眠だけ取って寝ない方が遥かにマシだ。だったら眠気もチートで打ち消せるし、少し疲労が取れなくても肉体的疲労は魔術で回復できる以上、仮眠で十分。
けれど、エウリさんはそうもいかない。睡眠とは、本来無視して良いものではないのだ。成長にも休息にも回復にも使われる時間なのだから。
「へいへい、勤勉なこって」
「いえ、怠惰ですよ」
何処で聞いたのかは思い出せないが、『休まず働き続けること』も怠惰であるのだという。正確には『それを他者に誇り押し付けること』だった気もするが、今となってはどうでも良いことだ。
「そうかい。まあなんでもいいけどよ、エウリを泣かせるような真似はするんじゃねえぞ?」
「分かってますって。俺が俺である限り、そんなことはしませんよ」
そんなことを言った、直後のことだった。一瞬だけ左の視界が真っ白に染まり、秒と経たずに元に戻った。そして、微かに……本当に微かに、吸血鬼でもないと分からないような薄さではあるが、どこからか血の匂いが香ってきた。しかも、これは獣のものでなく人のものだ。
「フロックスさん」
「どうかしたか?」
「人の血の匂いがします。凄く薄いですけど」
ここ最近、非常に襲ってくる魔物や獣の数が多かった。もしかしたらそれ系統の何かかもしれない。戦場まではまだ2〜3日の場所らしいけど、警戒しておくに越したことはないだろう。
「俺には何も感じられねぇけど、モロハが言うならそうなんだろうな」
「6割吸血鬼ですからね」
自己否定ーー吸血欲を否定しました
血の匂いには敏感なのだ。釣られて目の前の2人の血を吸いたい欲が湧いてきたが、チートで黙殺する。一度不可抗力でフロックスさんの血を吸ったことはあるが、エウリさんにはしたくない。
けれど、もし血を啜ればどうなるのだろうか?
どんな味がするのだろうか? どんな匂いがするのだろうか? その前の柔肌の味は? 匂いは? それを牙で突き破り血を啜るとき、どんな声を出してくれるのだろうか?
自己否定ーー吸血欲を否定しました
自己否定ーー吸血欲を否定しました
そんな邪な妄想を振り払い、舌を噛むことで自制する。しかし収まりは付かないもので、後で収納内の血液を飲まねばなるまい。このチート、微生物も完全に死滅する分腐敗はしないから便利だ。
「違いねぇや。まあ何か起きてんのかもしんねぇし、次の休憩ででも他の奴らにも伝えりゃいいんじゃねえの?」
「そうですね。何だか、嫌な予感はしますけど」
あの夜ファビオラが言っていた『このままでは、次の戦いで俺は死ぬ』という予言が、喉の奥の小骨のように引っかかっていた。
施設や待遇は、一から十まで前回より遥かに上。
強さは……まあ、少しはマシになった。
技術も、通じるかはともかく結構良くなっただろう。
1人じゃなく、3人だ。
なのに、死ぬ。100以上のチートに未来を見通すものは確実にあるはずだから、無視するなんてことはできない。それこそ死ぬことになる。
「頑張らないと」
エウリさんを守る為にも。例え俺が死にかけても、五体満足でいてもらうことが幸せだ。壊れるのなんて、俺だけで十分なのだから。
「ん?」
「なんでもないですよ」
こびりつく不安の影が消えることはなく、それはすぐに現出した。
◇
馬と御者を休ませて、序でに昼食をとる休憩中。心の内の不安を誤魔化すように起きたエウリさんとイチャついていると、一部の集団が騒がしくなっているのが耳に届いた。
「それが……いないんです、1匹も。魔獣に野生動物、それに、虫1匹たりとも」
「馬鹿な、そんなことがあり得るか! ここの近辺は魔族領、魔物なんて掃いて捨てるほどいるはずだ!」
そんな口論から意識を外し、周囲の環境に全力で耳を澄ませる。食器の音。火の音。会話。衣擦れの音。足音。呼吸音。その他色々と音は聞こえるが、森の中で聞き慣れた自然の音は1つとして存在していなかった。
こういう時相談したいのはフロックスさんだが、今は「砂糖吐きそう」と言ってどこかへ行ってしまってるので出来ない。となれば、エウリさんに頼る他ない。頼りすぎるど自分が蕩けて駄目になる自信があるのであまりしたくないが、今は是非もない。
「エウリさん。突然で悪いんですけど、ここから森の音って聞こえますか?」
「えっと……きこえない、ですね。おかしいです!」
「森があるなら、鳥の声くらい聴こえていい筈ですからね」
なのに、それが一切ない。かと言って魔物がいるわけでもなく、血の匂いも人間と嗅ぎ慣れないものの2種類が大半で獣のものはない。
異常だ。明らかにこの空間は異常だ。その事実に気がついたエウリさんが杖を持ち出し始めたのに合わせ、俺もいつでも驟雨を排出出来るように準備する。
とりあえずご飯を食べ終えた頃、真剣な面持ちのフロックスさんが戻ってきた。そして小さな声で話し始めた。
「おいモロハ。やべぇぞ、ここ」
「生き物が何もいないことですか?」
「ああ。しかも、明らかに
何かから逃げ出した。つまり、魔物が逃げ出す何かがこの先にいるということだ。しかも最近ということは、戦争しているからということが理由ではない。逃げ出す必要がある何かが最近現れたということだ。
「少なくとも到着してからじゃないと、逃げるわけには行きませんもんね……」
「だよな。エウリは?」
「ちょっとお花を摘みに行ってるそうです」
幾ら心配でも、そこまで付き纏う訳にはいかない。本当はフロックスさんにでもついて行ってもらえれば安心なのだが、プライバシーは大切にしなければいけない。
「もどり、ました」
そうして少し考えを話し合い整理していると、エウリさんが戻ってきた。よし、これで何かあっても自分たちだけで動く準備は整った。
そんなことを思いながら、エウリさんを交えて会話を再開させてすぐのことだった。
「一応オレん中じゃ結論は出てるが、モロハは何が出てきたと思う?」
「そうですね……もしかしたら、ドラゴンとか竜だったりするんじゃないですか? 圧倒的な強者っていうと、それくらいしか──」
なんてことを、口にした途端だった。
自己否定ーー██の感情は消去されています
自己否定ーー威圧感を否定しました
全身に悍ましい程の悪寒が走り、全身の毛が逆立つような感覚がした。同時に、どこか遠くから何かの生物が放った雄叫び……いや、
被害はそれだけに留まらない。
まず、人が気絶した。
馬車を操っていた御者、戦準備をしていた人、食事をしていた人etc……その大半が、今の咆哮を聞いて気を失っていた。僅かに残っている人達も、顔を真っ青にして呆然としている。
次に、馬が暴れ出した。
まるで発狂したように、何もかもを引きちぎってここから逃げ出そうとし始めた。抑える人がいないから、次々と逃げ出していく。
そして最後に、気配を感じた。こちらに迫る、強大な気配を。
「ははは……」
その光景に、もう笑うしかなかった。切り替えなければいけないのは分かるのだが、そう簡単に割り切れるものか。
自己否定ーー動揺を否定しました
チートさえなければ、の話だが。一度自分の頬を叩いて、本格的に気持ちをリセットする。
「フロックスさんが予想してた敵って、なんだったんですか?」
「そりゃ勿論竜だったが……まさか、ここまでのやつとは思ってなかったぜ」
「ですよね」
本来なら逃げ出したいところだが、そのための足がもう無い。幾ら魔術の強化を入れたところで。逃げ出すには圧倒的に時間が足りない。故に、ここで戦わねばならなかった。
自己否定ーー動揺を否定しました
覚悟を決めて、驟雨を排出し短剣を佩く。手甲と脚甲を排出して装備し、曇りなのでコートを脱いだ。フロックスさんも双剣を抜き、臨戦態勢を整える。
そんな俺たちを見て、なんとか馬を確保した人達は全力で駆けて行った。特に感慨は湧かないが、一応姫さまの私兵なわけだしむざむざ死なせたいわけでもない。
だからまあ、死ぬ気で頑張ろう。こんなざまでも一応勇者なんて呼ばれてるのだから、惚れた人と救ってくれた人の助けになることくらいは出来るだろう。
「も、モロハさん。にげましょう?」
自己否定ーー甘えを否定しました
眼帯を外した俺に、震える声でエウリさんがそう告げた。目には██……よく分からない感情が見て取れる。顔色も真っ青だ。
「あんな、あんなのに、かてるわけないです。だから、にげましょう? いまなら、まにあうかもしれません」
「それはちょっと、無理な相談ですね。相手方の狙いは俺みたいですし、俺たちが逃げたら全員死にます」
自己否定ーー甘えを否定しました
俺が知ってる限り、こんな気配の奴を倒せると思うのはファビオラくらいのものだ。だがそのファビオラは、前回と違って手助けしてくれることはない。前回助けてもらえたのは、お婆さんの存在あってこその例外だったのだ。
「でも!」
「別に、エウリは逃げてもいいんだぜ?」
冷汗をかくフロックスさんが、優しくそう言った。
「オレもモロハも、エウリがここに残るのを強制はしねぇさ。どのみちあんなのに目ぇ付けられてんだし、ほぼほぼ生き残る可能性はねぇしよ。けどオレは、どうせ死ぬなら最後に一花咲かせたいね」
ニィッと笑うその姿は、いつか村で見たそのものだった。誰も死なせない、それは欲張りだとは分かっていても手放すことのできない理想だった。
「もう、ばかです。ふたりとも、おおばかですよ!」
涙を拭いたエウリさんが、意を決したように杖を構えた。
そして、絶望が舞い降りた。