戦場に陣を構える姫秀は一人高い所に椅子を置いて己の立ち回りを模索していた。初手に取る行為を考えている。問題は近くの軍とどうやって足並みを揃える――揃わせてやるか、が問題だ、
近場で言えば曹操軍、そして少数である劉備軍。一番遠いのは官軍で二番目が袁紹軍。官軍が一番遠いのはこの上なく彼にとって有難いことであった。しかし、劉備軍と同じくらい近い袁術軍に彼は少し悩まされている。
「さて、どうしたものか」
袁術とは殆ど顔を合わせたことはない。だが一度だけあった時に見せた手品で姫秀は彼女に懐かれてしまった。最悪それは置いといてもいいが、問題はその側近である張勲である。袁術を溺愛している女だが、袁術の為にはどんなこともする悪女である。故に姫秀と袁術の仲が良いことを利用して、戦の為ではなく袁術の為になるようなことをしてくる可能性がある。それは戦という理を乱す例外だ。その不確定要素に姫秀は心底頭を悩ませていた。
「七乃め……」
それは他でもない張勲の真名。なぜ彼がそれを知っているか、それは疑問ではあるが、彼の興味はすでに張勲から他の対象へと移っていた。
「出てきたらどうかな?虎ちゃん」
「あら、驚かし甲斐のない人ね」
赤の衣装。そして少し褐色かかった肌。鋭い獣のような釣り目、凹凸の激しい体。そしてうり二つのその顔。見なくとも雰囲気でわかる。
「炎蓮の娘、孫伯符か」
「ご名答。あなたが姫秀ね?」
「如何にも」
姫秀は右手をあらかじめ用意してあったもう一つの方へ向けた。すとん、と何の遠慮もなくそこに孫策は座ると、笑みを浮かべて彼の方を見続けていた。
「そんなに見つめてどうした」
「結構好みの顔」
「……ふふふふ、ふははははは」
戦場であるこの場で姫秀は高らかに笑い声をあげた。不快よりも驚きが勝った孫策は彼女らしくもなく見開いた眼をそのまま、姫秀が笑い終わるまでそのままだった。
「いやあ、すまぬな。気を悪くしたか」
「いや別に、ただ驚いたわ。そんなに私の言葉が面白かった?」
「そうといえばそうであるな」
もう一度姫秀は「ふふ」と笑ってその場に置いてあった冷めた二つの茶のうち一つを啜った。
「ところで聞くが君の主人を君は制御できないものかね」
「無理ね」
「だと思った」
「聞いていた通りに掴みどころのない男ね、ますます好きになっちゃうわ」
「言っておくがさっきの言葉も今の言葉も自分の母親と同じことを言ってるぞ」
「げえ」
凄く苦みのあるその表情はまたもや姫秀の口元が綻ぶのを誘った。流石に大笑いはもうしないが、彼の心が少しずつ豊かになっていくのは彼自身感じていることであった。
「ひとつ突破口を作る。そこだけでいい、足並みをそろえたい」
少し真面目な声で話す姫秀の落差に孫策はまたも少し頬を紅潮させたが、彼女も長の一人、そこはわきまえている。
「そこだけでいいのね?」
「構わない。後は好き勝手にやっても問題はないだろう」
「ちなみにどんな作戦なの?」
「君の所の軍師に聞けばいい。周公瑾、元気か?」
「はい、元気にやっております」
姫秀の後ろの茂みから出てきた少し露出の多い恰好をしたメガネの美女。彼女こそが周瑜である。姫秀にとっては流浪時代にとった弟子のひとり、夏侯淵と並んで彼が認めた才人の一人だ。
「そうか、それは何よりだが。二人とも露出が激しいな」
「動きやすいからね」
「同上です」
「そうか」と呟いて姫秀は再び茶を啜る。だが二人はその場から去ることなく姫秀の言葉を待っていた。
二人とも孫堅から彼についてよく言われているのだろう二人は他でもない自分の故郷のために今ここにいるのだ。
「二人は……孫家は家族のために戦うのかい?」
「もちろん」
「はい」
青と緑、その両者は他でもないこの天下という世界に平和をもたらすために戦に身を投じている。始まりと進む道が大きく違えど、望む理想は同じだ。現段階で曹操はそれを現実として捉え行動し、劉備は理想を追い求めている状況だろう。
しかし、この目の前にいる赤き意思を継ぐ者達はどうだろうか。家のため家族のため、故郷のため。果たしてそれは大義があるか。
簡単な事だ、視点を変えればいい。
「またそれも真理だな」
この国全土を治めた時、孫家にとってこの国と民が故郷であり家族となるだろう。それは曹操や劉備の言う平和と変わりはない。
「一つ忠告をしておこう。袁術は蔑ろにするな、七乃――張勲を活用すれば自ずと道はひらけるはずだ」
すでに姫秀は二人の姿を視界には入れていない。しばらくして足音が聞こえ、そして遠くなっていく。
「孫文台の娘、美周郎、そして孫武の末裔か……」
思いを馳せるのは、遠き遠き己の血、その始まり。
♢ ♢ ♢
三十万と十五万。数だけ聞けば確かに相当なものだろう。だが中には後方部隊もいれば、諜報部隊もいる。必ずしも全員が戦闘行為に直結するわけではない。それにだだっ広い草原でドンとぶつかるわけでもなく、決戦といえども部隊分けは必要である。特に劉備軍は数が少ない、曹操や袁紹からすれば一部隊程度ともいえる。
だがそれを下回る姫秀軍千という数は些か少ないだろう。銅鑼と夏侯惇の突撃により始まった大戦、その姫秀の動向に曹操は不安と期待を織り交ぜて部隊を動かした。
「始まったか」
姫秀は久方振りの戦を思い出して閉じていた瞼をゆっくりと開いた。寝ていたわけではない。しっかり陣の中で部隊をまとめ上げている。
だが他と違いまだ姫秀軍は一歩たりとも動いていなかった。それは己達が小兵であると共にまだ機でない事を重々承知しているからだ。それに荒事に巻き込まれてきた者たちとは言え賊上がり、ここまで大きな戦は体験したことがない。誰もが得体の知れない恐怖と不安を抱いているだろう。それでもそれを一切外に出さない彼らは戦場に立つ資格を持ち合わせている。
「福、緊張しているのか」
優しく撫でる姫秀の手にだけ徐庶の震えが伝わる。
「不安がないといえば嘘になります。ですが己の死に対する恐怖ではなく、己の手によって死にゆく者に対する恐怖です」
「それが理解できているならこの場にいる資格がある。誇れ、鏡里」
「!……はい、邑文様」
「福さん、俺たち福さんの為にも死にませんよ!」
「俺たちの命預けます!」
徐庶の姿にすでに家族のように過ごしてきた姫秀軍は更に士気を高めていく。だが盧植と望は徐庶ではなく、姫秀自身を最も心配していた。彼らだけが感じ取れる彼の違和感、彼の隠しきれていない恐怖がその違和感の正体である。
「みんな聞いてくれ」
姫秀の声に姫秀軍千人が一斉に反応する。
誰も彼もが覚悟を決めていた。
「戦というものは死が纏わりつく。それは何かを犠牲にしなければ我々が何かを手に入れられないからだ。それが小さいものならば犠牲も死という大きなものを払うことはない。だが、我々の望むものはこの国の安寧。それはどのような形であっても、構わない。漢が無くなろうとも、私が王にならなくても。故に、我々は生を賭して平和を手に入れなければならない。
だが、忘れるな。死に飛び込んではならない、死に飛び込む前に考えろ、我々が賭したのは生でありその見返りは平和であることを。決して死を軽はずみに選ぶな」
姫秀のこれまでにない低く、そして現実と真剣実を帯びた演説はあの日以来ない。故に姫秀軍は彼の言葉に沈黙をもって頷いた。頭ではなく、心にその言葉を刻み込むために。
「それでは作戦を伝える」
♢ ♢ ♢
兵力差で言えば負け、だが練度で言えば圧倒的な勝ち。優勢であった連合軍であるが、ここにきて兵力差、そして連携の悪さが少しずつ黄巾党の兵に流れを作らせていった。
唇噛むのは頭の良い人間で志を持つものならば誰でも当たり前。その中でも曹操は唇から血を垂らしてこの現状を嘆き、そして悔やんでいた。
「華琳様、血が……」
「黙りなさい」
荀彧は何も言わずそこで首を垂れた。
部下の言葉に下らない怒りを覚える自分に憤りを感じる。それが許せない。勢いが流れつつあるだけで決して負けていない今、だがそれを短時間で一から治せるほど袁紹を使い切れていない。せめて足並みを揃えられるのは劉備くらいか、と曹操は考えてある男の事を考える。戦場で彼を見ていない、何故か。
「失望させるつもりかしら」
ドっと黒い何かが自分の心を覆う気がした。姫秀、あの男が期待外れであった場合、曹操の心の中にあった一つの留め具が壊れるだろう。
男は駄目だという根付く偏見が彼女のすべてを満たすだろう。
「桂花!」
「は、はい華琳様!」
「立て直すわ、一度引いて劉備と帳尻を合わせる。麗羽を囮にするわ、それくらいでくたばりもしないでしょう!」
曹操は一度思考を止め、そして自らの道から彼という幻影を捨て去ろうとした。
すると「止まれ!」という怒声と共に一頭の馬が本陣へ突入してきた。
「ご無礼申し上げる!こちらは曹孟徳殿の本陣か!」
「貴様何者だ!」
楽進は曹操の盾となる様に前に出てその騎馬の上に乗っている女に対し、拳を向けた。
「控えなさい――如何にも私が曹孟徳。悪いけど時間がないの、伝令ならば手短に」
「引いてはなりませぬ!好機はそこに在ります。このまま推し進め、そして陽鏡様に合わせていただきたい。それでは!」
見事な馬さばきで少女は戦場にかけていく。一瞬の出来事に唖然とするものも多かったが曹操は右手を戦場へ向けると一声「引くな!進め!」と声を張り上げた。迷いのないその声は必然的に曹操軍の士気を高め、前方にいる夏侯惇や夏侯淵にまで伝染していく。
曹操はあの少女に見覚えがあった。
「陽鏡様!流れが変わりつつあります!」
いくつかの小競り合いを経た姫秀軍、徐庶も顔や服が砂だらけになっていた。恐らく転んだのだろう。数名怪我を負っている者もいるが、いまだ死者は出ていない。
「機はそこに在るか」
「後は帳尻を合わせられるかどうかね……」
盧植と徐庶、二人は顔を合わせた。二人とも同じことを思っているのだろう。
しかし姫秀はそこに触れることなく二人に移動を命じた。
「邑秀様、いけますか」
「……これは賭けさ、天が私を試し、そして私が天を試している。お前は本当にやれるのか、と」
姫秀は笑った。
「ならば言わせてもらおう。高いところから見ているがいい、見せてやろう」
劉備軍、もとい趙雲は「やれやれ」と前線で多忙を極めていた。もちろん関羽も張飛もいるが小難しい戦になることを予測した軍師二人が指揮官の適性を持つ彼女を指名した。その判断は全く間違っていない。将冥利にも尽きる。
「しかしまあ、これは些か私の冗談も通用しなくなりますぞ」
槍を振るう、槍を振るう。敵は死ぬが、減りはしない。
一度引いて立て直す、間違っていない戦法、袁紹を盾にして曹操軍と足並みを揃えて再攻撃すれば打ち崩せる。だが曹操は引かないし、諸葛亮も撤退を指示してはこない。その理由を趙雲は薄々勘付いていた。
「少々遅い登場では?」
趙雲の前方に千の軍勢、そしてその先頭にかの二鏡、筆頭名士、聖人、并州の引きこもり。
この世界において姫秀が表舞台に立ち始めた最初の戦、そして後に語られる「姫秀啖呵」である。
「聞けええええええええい!」
あの男が出したのか、と黄巾も連合軍もその手が止まる。そしてそれが伝染していく。
「この混沌極めし乱世。その始まりともいえるこの戦、後世の歴史において後漢の末期を表すのにふさわしいだろう!」
姫秀ははち切れんばかりの声量で兵を圧倒していく。
「我が名は姫秀!この天下に轟く大名士陽鏡である!」
陽鏡の名はこの国全土に渡り知られている名士の名。特に民衆にとっては皇帝と同じように聞く天上人の名である。
「この戦、この乱世を断ち切るため我は立ち上がった!」
黄巾の者は多くが農民である。
故に識が低く、そして踊らされやすい。それがこの黄巾の乱の結果だろう。だからこそ、姫秀という名前が黄巾軍に伝染していくとそれが影響もされやすい。
張角などという者よりもよっぽど彼のほうが扇動家に向いているだろう。
「だが!貴様らは私一人で何ができると考えているだろう――笑止千万!抱腹絶倒とはこのことか!
貴様らは勘違いをしている、私は大名士、聖人などという小さい器に入る様な男ではない!全軍旗を掲げろ!」
たった千の軍勢。たった千の軍勢が旗を掲げたところでどうということはない。相手は三十万から数を減らした大軍。一万の兵で囲めば容易くつぶされる。だが、姫秀軍のいるところは劉備軍の前方、そして軍勢六万を従える袁紹軍の前方に位置していた。
金色で統一された袁紹軍そして官軍は当たり前のように自軍の旗を大量に掲げていた。袁と漢の文字である。
日が落ちかけつつある西日、それに照らされた袁紹軍とその大軍は一瞬にして姫秀軍として神々しくも黄巾軍の目には大軍として映る。
そして連合軍も絶句する旗を姫秀は掲げていた。
「――周――ですって?」
呟いたのは曹操だが、一体何人がそれを呟いたかはわからない。
だがその場で唯一微動だにしなかったのは姫秀軍だけだった。
「我の姓は姫、名は秀、字は伯道。その血筋は堯舜三代である武王の血を引く周の末裔!殷を滅ぼし、国を築いた我が先祖が我を三十万からの攻撃を防ぐ!
見よ!我を後押しする太陽の光!堯舜三代だけではなく、天とこの地を今支配する霊帝のご加護、そしてこの百万の軍勢!
我に敵なし、我が軍に敵なし、我の行く手を遮るものなし――!」
全身全霊をかけた演説を終えると姫秀は愛馬である嵐兎を蹴った。向かう先は敵本陣、そして行く手を阻むは十万を超える大軍。
無謀、蛮勇、無知、無能。時が時ならばそれがもっとも似合うだろう。
だが、目の前にいる男はあの姫秀であり、そして伝説ともいえる堯舜三代の末裔でありその加護を受けている、そしてその男の後ろに控えるは百万の軍勢と天。
黄巾党という農民集団の士気を零まで下げ、そしてたった一騎でこちらへ向かう男に対して最大限の恐怖を思い浮かべるのは容易だ。
仮に嘘だと信じ込む者も、仲間が姫秀に斬り殺されていく様を見て誰もが思う。
「逃げろ、駄目だ」
と――
「どけえい!我の行く手を阻むものは我の加護によって灰と化すだろう!」
一際図体のでかい馬で兵を踏みつぶし、その剣で兵を斬り殺す数はたかが知れている。
だが、姫秀の行く手を遮ることができる者は一人もいなかった。
「ええい、何をしている男一人ではないか!」
軍を指揮している男は途轍もない焦りを覚え、言動とは裏腹に姫秀に怯えながら叫んだ。ここまで来るはずがない、来れるわけがない。堯舜三代などありえない。
だがどこか信じてしまったのだろう。彼はそこから動くことなく、いつの間にか自分の目の前にいたその男の顔を見てしまった。
姫秀、その男の名であった。
「敵将、この堯舜三代の末裔である姫秀がとったぞおおおお!」
その姫秀の轟声と共に一つの号令が響き渡る。
「全軍突撃」
見たこともない後姿、黒鎧を纏い、黒い馬を操る少女。背中にある旗にはただ二文字「司馬」の文字があった。
「全軍蹴散らしなさい」
「突撃ですな」
「突撃ですわ!」
「総員突撃!」
後世にてその啖呵以外は誇張であると断言された「姫秀啖呵」どのようであろうとも、この戦の決め手であり、そして彼がこの乱世に明確に初登場した記述であった。