恋姫†無双——陽鏡の姫秀——   作:火消の砂

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塚原なんていないよ。




陽の目覚め

 後漢末期、姫秀という男の元を去る少女が居た。仲違いではない、彼女は赤く大きい馬に乗り常人では扱えない程の戟を持って姫秀に見送られていた。朝焼けではなく朝靄、相当早い時間に彼女は出立した。

 姫秀の館から続く道は二つある。右の道を行けば司隷、左に進んで行けば幽州と冀州がある。少女は右の道を進んで行った。

 姫秀は彼女が寝ている間に旅の準備を済ませ、朝ご飯を用意していた為か睡魔に襲われて仕方がない。大きく欠伸をしたところで視線の先では少女がこちらを向いていた。仕方がない――肩を窄めた姫秀は大きく手を振る、そうすると向こうも小さく手を振ってその後少女は振り返らなかった。今生の別れではない、だが一年程いた十も歳の離れた少女との別れは歳をとったと思うだけの衝撃はあった。

 そう思って姫秀は身を震わせながら眠りにつく準備を始めた。

 

 時は後漢末期、漢は衰退の道を隔たりなく進んでいた。今も何家が中心となって騒動が起きていると聞く。後一手あれば漢王朝の崩壊がそこまで来るだろう。

 各地域にて土地を納める勇士達の噂も并州でひっそりと暮らす姫秀の元にもチラホラと聞こえてくる。異民族と暮らす彼にとって刺史の丁原、并州で力を増す張楊は関係が無いとも言えないが、寝床から今日も一度とも動こうとしない彼にとって関係は全くない。三十三になる彼は未だどこに仕官することもなく、ただ名声だけが風に乗っていく様に耳を傾け、そして来るものを阻み、いつか来る時を待っていた。

 彼の名が風に乗ったのは一度きり、大陸の北から南へ西から東へ台風のように名が馳せた。彼の友である司馬徽、またの名を水鏡という女性が彼を働かせるように仕向けたことだった。

 結局、水鏡が認めた逸材として名は通ったが彼が仕官を頑なに拒否した為それは不発ということになった。噂によればその一件が原因で二人の間には亀裂が入ったというが、それは噂を信じ込む者のみが思うことだ。

 そんな彼、来るものを阻むと言ったがもちろん例外もある。

 先程の少女、呂布もここへ迷い込みそして一年も住んでいた。それ以外の友、水鏡や司馬家の長女である司馬朗にその次女の司馬懿、名門荀家の何人かもここへ立ち入ることもある。ようは彼が帰れと言わない限り何にも問題はないのだ。

 

「先生」

 

 姫秀は自分を先生と呼ぶ少数の一人、か細く弱い声の持ち主は司馬懿しかおらぬと考え目を開いた。

 するとすぐそこに彼女の瞳がある。急に開いた姫秀の目に驚いた司馬懿は急いで身を引く。

「俺の顔を覗き込んでなんだ、夜這いか」

 

「ち、違います。それに朝です!」

 

「なんだ、桜那ならば歓迎だぞ」

 

「お、お止め下さい……」

 

 何層にもなっている布団の中でガサゴソと動き、起き上るかと思えばそのまま姫秀は司馬懿に問うた。

 

「なんだ」

 

「恋が私の屋敷へ別れの挨拶に来ました、それで何も言わない先生へ抗議に」

 

 なんだ――と姫秀は朝の寒さと特有の鋭い太陽から逃げるように布団の中へ入っていった。

 

「先生、恋は大丈夫でしょうか、畜生の官臣共に意地悪をされないでしょうか」

 

「あそこには張遼という知り合いがいる。剛は剛でも豪傑の豪が似合う女だ、それの下にいれば大丈夫であろう。俺は恋の準備を徹夜でしていた為、眠いのだ書庫で本を読むか布団に入って寝るかしておいてくれ、夕方には起きる」

 

「あ、先生……」

 

 モゾモゾと奥深くへ入っていく姫秀、五分もしない内に規則正しく布団が揺れ出した。

 残された司馬懿は言われた通りの選択肢である読書に勤しもうと辺りを見渡した、乱雑に積まれている書や棚に押し込まれている書、どれも見識を高めるにはもってこいの代物であるが、まだまだ朝が抜け切れていない風が司馬懿の首筋を撫でて行く。

 司馬懿は「先生?」ともう一度声を掛け、返事がないことを確認すると姫秀から与えられたもう一つの選択肢である惰眠を選び「先生失礼しますよ」と司馬懿はのそのそ彼の居る布団へ入っていった。

 

「暖かい……」

 

 

 

 

 

 

 姫秀という男が表舞台に出てきたのは十年程前の事だが彼が舞台に上がりだしたのは二十三年前の事、十歳の話だ。

 水鏡の下へ送った手紙がその場にいた者を驚かせたのだ。

 

「知識はもう要らぬ、炒たところで何にもならぬので知恵を知りたい」

 

 その場に居たのは若き日の曹崇と袁逢、十つの者が書いたにしては些か大層な物言いであると愚考した。二人は信じなかったのだ。

 水鏡はこれが歳場のいかぬ者が書いたと分かっていたが、二人を納得させる為、会ってみたいという好奇心から彼の住む并州へ向かったのだ。

 荊州から急いで向かうと数日でそこに着いた。山奥、奇襲はかけられない、只の民が持つには些か軍事的要素を持ち過ぎていると水鏡は感じた。

 館の前で三人は考えていると自分たちが来た道とは反対側の方から蹄鉄の甲高い音が聞こえてきた。

 それが姫秀と水鏡の初対面である。

 

「水鏡先生ですか」

 

「いかにも、貴方が姫秀ですか?」

 

「姓は姫、名は秀。字は伯道と申します。まさかお越しいただけるとは……そちらは袁周陽様と曹巨高様ですね」

 

 姫秀は馬から降りると三人に深くお辞儀をした。

 

「歓迎できるものはございませんが、よろしければ昼食でも」

 

 姫秀と三人、その内の二人は彼に対する評価を一新させ、一人はそれを改めた。一方姫秀は二人について評価を改めることは無かったが、水鏡に関しては違う、自分が見定められていると良く感じられている。

 袁逢と曹嵩はすぐに彼の名を広めようとしたが、水鏡はそれを良しはせず、姫秀の望みを叶えてやることに決めた。知恵を高める、彼を連れて様々な所へ旅をしたのだ。

 曹嵩と袁逢の赤子に会わせたり、涼州の馬騰や荊州の劉家、名家の数々。初めて会った時に分かったことだが、姫秀の親は彼が五歳の時に死去している。親の代わりに本と生きてきた訳だが、この旅によって水鏡は彼の親代わりともなっていた。

 

「邑文、曹嵩と袁逢について貴方はどう思いますか」

 

「まずの寸評としてはとても優秀だと思います。それは官臣として、でございますが」

 

「続けなさい」

 

「当たり前のことです。今は戦が世の理ではありません、今は国が――いえ、今は乱が世の理でしょうか。少なくとも二人は乱に属する人ではありませんがね、二人は愚か者ではございませんので」

 

「なるほど……乱の理とはどういうことでしょうか」

 

「今は国と乱の理が重なっていますが、これからは乱の理、つまりは国が乱れます。そして国は――終わります」

 

「なるほど……邑文、何故そう思いますか」

 

「……腐り、乱れる、これは今までもあったことでございますが今は全てが重なり過ぎていると感じています。乱への移り変わり、長くあり過ぎた国、民の不信感、世代の交代、そして――英雄の不在」

 

 水鏡はその言葉ではなくその眼光に漸く彼の評価を形成した。二年旅して結論付けた姫秀という人物、この男は間違いなく千年後の歴史に残される傑物。

 自分の全てを超えていく人物であると。

 

「邑文、これからは好きにしなさい。好きに生きなさい、好きに考えなさい。宿命や使命などに囚われることなく、人の為、国の為ではなく自分の為に全てを行いなさい。もし、人の為、国の為に行うことが自分の為となるならば、恐れることなく進みなさい」

 

 姫秀の固く閉じていた口が少し開いた、言葉を発したいわけではなく水鏡の言葉に驚いたのだ。

 

「名を与えます」

 

「名ですか」

 

「はい、その人物に見合った二つ名、名士を冠る私が認めた者に付けます」

 

 姫秀は初めての感覚に包まれた。

 こちらを試す水鏡ではない、間違いなく姫秀を姫秀として対峙している。

 

「陽鏡――私の名を分け与えます」

 

 姫秀が初めて現在する人物を尊敬したときであった。ここまで人を対等に見据えることが出来るのか、今後姫秀が水鏡と並び人物鑑定家として名を馳せることが出来たのはこの対等な姿勢が要因でもあった。

 

「陽鏡」

 

「はい」

 

「これから私たちは友です、そして私は貴方の母でもありたいと思っています」

 

 水鏡が姫秀に見せた笑み。

 姫秀の初恋であった。

 

 

 

 

 

 

♦  ♦  ♦

 

 

 

 軽い金縛りから覚めた少女、司馬懿は隣に自分が先生と呼ぶ姫秀なる人物が居ないことに気が付いた。昼を過ぎた夕、ここが姫秀の館なので起きてどこかへ行ったのだろうとただ彼女は思った。

 外に出てみると案の定姫秀は風に当たっていた。

 

「先生」

 

「おはよう桜那。来てごらん、寝起きの夕焼けは普段とは違って感じ取れる、風も良い」

 

 司馬懿はそんな彼を見てすぐに異変を察知した。姫秀も察知されたことを感じとる。

 

「水鏡から書簡がね。どうやら私はあと三年で動かなくていけないらしい」

 

 司馬懿はその一言で悟った。ああ乱れるのか――姫秀の背中は表情が見えない故に寂れて見える。

 姉の紹介で司馬懿は姫秀の下へ学びに来た、もうかれこれ三年。十五になる彼女は世界で三番目に彼の事を理解していた。一番は水鏡で二番は姉の司馬朗、一番弟子を自負する身として三番目というのは些かいただけないが、姫秀の悲しみについては一番理解できていると彼女は思っている。

 司馬懿は言う、姫秀という男は人が死ぬことを嫌う。だからこそ彼は乱を望んだ――

 死を嫌う者が何故乱を好むのか。

 乱が起こり、人が死ぬ、そしてそこに生まれるのは英雄である。乱を終わらせ最も早く天下を統一できる人物、彼はその者を待っているのだ。

 いくら自分が天を統べる器を持つと言われようとも、姫秀は自分が統べる方ではなく役に立つ方が向いていると考えたのだ。自分が国を変え統一したとしてもそれが長続きするとは思わない、恐らくこれから起こる乱よりも死というものがこの国に蔓延する。

 司馬懿は言う、姫秀という男は愛馬が老衰死した時、付きっきりで一晩泣き続けるような男であると。

 

「君はどうする?」

 

「私は先生に付いていきます」

 

 司馬懿は即答した。それ以外いう言葉を持ち合わせていない。

 

「そうか。では一度家に帰りなさい、一ヶ月後に私はやるべきことの為にこの地を去る、準備をしてきなさい」

 

「はい」

 

 司馬懿はすぐに立ち去ろうとした。今すぐにでも家に戻って書物を纏めたい、そんな衝動に駆られながらも彼女は一つだけ聞かずにはいられなかった。

 

「先生」

 

「ん?」

 

「誰の所へ?」

 

 振り向き司馬懿の隣を過ぎる姫秀は彼女の頭に掌を乗せポンポンと叩いた。司馬懿もまた歩く姫秀を視線で追従した。

 

「それを探しに、定めに行くのだよ」

 

 姫秀の表情は好奇に満ちていたという。

 

 

 

 

 

♦  ♦  ♦

 

 

 

 

 

 

 一ヶ月後と言われたが司馬懿は馬を飛ばし、屋敷に着くとすぐに支度を始めた。持っていく服の選定、旅用の道具、買い出しに行く物の一覧を作った。

 しかし、ある段階から司馬懿は作業を止めていた。重大な難題に直面していた。

 

「姉上、どうされました?」

 

 棚の前で唸る自分の姉を司馬家長男で司馬懿の一つ下である弟は訝し気に見ていた。

 

「……」

 

「……書物がどうかしましたか?」

 

 司馬懿は自身が持つ書斎兼自室にあるまるで書庫のような棚の前で唸っていたのだ。旅に嵩む書物の厳選をしていたのだが、全く決まらず彼是三時間は経過している。姫秀の所から戻りずっと作業をしていたので既に朝を迎えている。

 

「姉上、もう朝ですよ。朝ご飯の用意が出来てますよ」

 

「え、朝ですか。これは驚いた、そんな時間が……」

 

 漸く司馬懿は弟の存在に気が付いた。言われて気が付くが唐突に空腹感が襲ってきた、すぐに立ち上がり恐らくもう集まっているだろう姉と妹弟達が居る食堂へ向かう。

 そこには母である司馬防、長女の司馬朗、弟の司馬孚、妹の司馬旭、司馬恂 司馬進、司馬通、末の弟である司馬敏が集まっていた。父は司馬防の副官であったが匈奴との戦で彼女の代わりとなって命を落とした。司馬敏が生まれてすぐの事であったらしい。

 その後の司馬防は心労と無理が祟り体をすっかり壊している、今は司馬防の代わりに司馬懿の姉である司馬朗が代わりとして朝廷に仕えている。

 

「桜那、遅かったな」

 

「すいません母上、本の選別に少々時間がかかっておりました」

 

「本?」

 

 そこで疑問を呈したのは姉の司馬朗であった。

 司馬懿と瓜二つ、艶やかな黒髪が長く胸まで垂れ、少しきつめな目が司馬家の品格を表していた。違いは背の高さと胸である。勿論、司馬朗が上であるが。

 

「ええ姉上、実は一か月後に先生が旅に出ると、その準備の為に本を選別していました」

 

 食にありつくと作法はしっかりしているがそのペースは戦後の将のようである。姫秀との旅の話をする彼女の誇らしげな感情がそれを押している。

 だが、相対的に司馬朗は溜息をついて箸を置いた。司馬防もまた箸を置かずとも落胆している様子だ。

 

「桜那、伯道の所からはいつ帰った」

 

「昨日の昼頃ですが?」

 

「伯道の所はいつ出た」

 

「……一昨日の朝方です。それがどうかいたしましたか?」

 

 司馬朗はもう一度大きく息を吸って、隣にいた司馬防と共に息を吐いた。

 

「三十分後にこの家を出て姫秀の所へ行きなさい」

 

「……母上?」

 

 司馬防は侍女を呼び、必要な路銀と司馬懿の部屋にある荷物を取りに行かせ、自分は食事に戻った。

 種明かし――と言わんばかりに司馬朗が司馬防の言葉を続けた。それは司馬懿にとって生涯忘れることも出来ない言葉となる。この先どんなに戦に負けようとも、謀略に屈しようともこの時の出来事を忘れない限り司馬懿は憤慨することは無かった。

 

「伯道が一か月後まで待つわけがないでしょう、今頃彼の屋敷は炭になっていると思いますよ」

 

 はっ!と司馬懿は電光石火の如く準備をして疾風迅雷の如き足で并州へ向かった。

 

 そこには焼かれた後の姫秀邸があったされる。

 

 

 陽鏡曰く「私を見つけろ」司馬懿は屋敷に帰ると司馬朗から延々と姫伯道という男の考察を聞かされ、彼を探すたびに出るのは一か月後の事となった。

 

 

 




真剣で一振りに恋しなさい!の方を楽しみにしていただいている方には申し訳ないですが、違うのを投稿してみました。

反応が良くなかったらそっちに戻ります。

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