盟友   作:ろっくLWK

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・「黄前久美子、最後の夏(以下、本編)」の登場人物、東中幸恵の視点で綴られるスピンオフ短編。
・性質上、原作および本編のネタバレ、オリジナルキャラクターの複数名登場、独自の設定などがあります為、本編読了後に本作品をお読み頂くことを推奨いたします。








前編

 憧れ。

 それは幼い頃には、とてもぼんやりとして掴みどころのないものだった。例えばアイドル。テレビの画面の向こうでスポットライトを浴び、きらきらと輝く彼女達の姿を見て、『私もアイドルになりたい!』などと思ったりする。例えば学校の先生。教壇に立つ先生の凛々しい、時に面白おかしい姿に『いつか自分も教師になって、こうして人に何かを教えたい』と夢を抱くようになる。憧れの形は様々で、それは時に将来とは全く関係の無いものである事もまま有るだろう。

 (さち)()にとって、その対象となるものは長らく存在していなかった。随分と小さい頃には何かに憧れた事もあったような気がするのだが、いつの頃からか具体的な夢や希望を思い描く事が出来ぬまま、今日まで歩んできた。とは言え幸恵は特にそれを気にしてはいなかった。まだ中学生なんだし、将来の事なんて考えたってわかりっこない。『自分は何になりたいか』と尋ねられたところで、そんなイメージなどこれっぽっちも湧くことは無かった。

 吹奏楽を始めたのだって、理由の半分くらいは遠い親戚で二つ年上の大好きな『くみ姉』が吹奏楽部に入部した、という話を以前に聞いていて興味があったからに過ぎず、幸恵自身は昔から特段音楽が好きなわけでも得意なわけでも無かった。ただ、いざ吹部に入りトランペットを担当することになり、慣れない楽器に悪戦苦闘しながらも、ようやく人並みに扱えるようになったトランペットを吹いているのは楽しかった。たくさん練習して演奏会で曲を演奏し、聴衆がそれに拍手をしてくれる瞬間は心地良かった。それが音楽の良いところであり最大の魅力なのだからそれで良いのだ、と幸恵は考えていた。そう、あの時までは。

 美しく高らかに響き渡るその音色は、それまで幸恵が一度も耳にしたことの無い、本物のトランペットの音だった。音の一粒ずつが黄金のように眩く輝き、その圧は数十メートルも離れた自分の頭蓋を貫くかのように鋭く一直線に放たれる。かと思えばそれは柔らかく包み込むような音に姿を変え、全身に染み渡って溶けていった。周りの聴衆も皆一様にその人の演奏に聞き惚れ、あるいは高揚していたようだった。

 演奏を終えるや否や、満場から嵐と見紛うばかりの大きな拍手が鳴らされた。その拍手の音に混じる人々の感情もまた、幸恵がこれまでに味わったことの無い、大きく激しいものだった。吹きたい。私もあの人みたいに、本物の音を鳴らしたい。あの人に近付きたい。こんな風に上手くなりたい。手元で丸めていたプログラム表を開き、今さっき演奏していた団体の名を、幸恵は改めて確認する。

『北宇治高等学校』

 北宇治に行けば、自分もきっとあんな演奏が出来る。あの人のようなトランペット吹きになれる。幸恵は奥歯をぎりりと噛み締める。そう考えた時、唇の端が上に引きつるのが自分でも分かった。自分の進路はここしか無い。来年絶対に北宇治に入って、この人みたいになるんだ。初めて目標らしいものを見つけた幸恵の瞳はこの時、今までで一番輝いていた。

 

 

 

 

 午前の『試し合奏』が終了し、パートの一同はいつもの練習場所である教室へと戻って来ていた。どうやら顧問の(たき)からはまずまずの及第点が貰えたようで、先輩達は一様にリラックスした表情を浮かべている。幸恵個人はと言えば、多少の注意は受けたものの、最初の合奏としてはまあこんなものだろう、という手応えは得ていた。とは言えコンクールが近づいてくると、滝は今より更に厳しくなるらしい。やはり全国に行く学校ともなれば油断は禁物、といったところなのだろう。それでもパート練習の方が遥かに厳しいと感じていた幸恵にしてみれば、夏のコンクールなどまだまだ遠い先の話ではあった。

「それじゃ私は滝先生のところに、楽譜取りに行ってくるから。皆は先にお昼食べてて」

「はい」

 幸恵達が返事をしたその相手はトランペットパートのリーダー、(こう)(さか)(れい)()。彼女は北宇治の三年生であり、昨年の地区定期発表演奏会でソロを吹いていた人物であり、幸恵にとって憧れの存在だ。彼女の音に近付くために幸恵は一生懸命練習を重ねてきたし、あまり得意とは言えなかった勉強にも石に齧りつく思いで取り組んだ。その甲斐あって入試に見事合格し、晴れてこの春から北宇治高校の生徒として通うこととなり、そして今は吹奏楽部のトランペットパートの一員として、憧れの麗奈の指導を仰いでいる。

「それにしても高坂先輩、ホント上手ですよねー。同じ高校生じゃないみたい」

 幸恵は率先して周囲に話を振る。彼女にとって、それは特に意味のある会話という訳では無かった。ただ、会話の発端には何かしらの取っ掛かりが必要になる。幸恵はそれを自分から積極的に振り、それに誰かが応えるところから会話を膨らませていくのが得意だった。逆に誰も応じない場合、それは単に独り言として片付く。誰も何も喋らないよりはずっと居心地が良い。幸恵はそう考えていた。

「まあね。高坂さん家って、レコーディングスタジオみたいな防音室あるらしいし」

 今回それに応えてくれたのは、麗奈と同じ三年生の(よし)(ざわ)(あき)()だった。彼女もまた麗奈と三年間の練習を共にしてきたからか、その演奏技術はパート内でもかなり上手な方である。とは言え、それはあくまでも麗奈を抜きにしての話ではあるのだが。ちなみに吉沢は何故か他の先輩達から『ピースちゃん先輩』と呼ばれていて、しかし本人を含めた誰もその由来を知らなかった。一体誰が何を思ってそんな異名を付けたのだろう。

「防音室ですか。凄いですね」

 友達が多いことが自慢の幸恵だが、自宅に防音室なんて備えているという人には出会ったことが無い。親はどんな金持ちなんだろうか。そんな疑問を、幸恵は素直に口にしてみる。

「っていうより、お父さんがプロのトランペット奏者だからじゃないかな。自宅でも練習できるようにだと思うよ」

「あー。なるほど」

 それであんなに上手いのか。麗奈の超人じみた演奏技術の謎がようやく解けて、幸恵の腑にコトリと何かが丁度良く落ちる。親がプロの音楽家なら、そりゃあ上手くならないわけが無い。日頃から練習熱心な先輩でもあるし、きっと家に帰ってからもレッスンを欠かすことは無いのだろう。いくら部活中は一生懸命練習していると言えど、家に帰ればだらだらとテレビを見たり雑誌を読んだりして過ごす自分とは天と地ぐらいの大きな違いだ。自身の日頃の行動を省みつつ、でも仕方ないよね、と幸恵は心の中で呟く。

 幸恵の家は決して裕福でも何でもない、ごくごく普通の一般家庭だ。母親は学生時代に少しだけ音楽をやっていた事があったらしいけれど、他人に手解き出来るだけの知識や技術を持っていなかったからなのか、幸恵が母親から直接音楽を教わったことは一度も無かった。中学時代の周りの部員もほとんどがそんな感じだったし、それは高校でも恐らく大して変わらないものだろう。

「高坂先輩は、特別なんですね」

 幸恵の言葉に吉沢は「だねえ」と返す。

「でも高坂さん、一年の頃は結構凄かったんだよ。当時三年の先輩とソロの座を賭けて対決したり、それが原因で人間関係こじれちゃったり、色々あったもん」

「そうなんですか」

「うん、今は落ち着いてるけどね。私もあの頃は、高坂さんとあんまり仲良く出来てなかったなあ。正直ちょっと怖かったくらい」

 怖かった、という吉沢の評が、幸恵にはちょっとだけ理解できる。実際に北宇治吹部に入部して分かった事なのだが、麗奈はこと音楽に関しては本当に厳しい人だった。新入部員の中でも楽器経験のある者は入部直後からパート練に編入され、今日の試し合奏に向けて練習を重ねてきたのだが、そこでの麗奈の指導は事前に本人から言われていた通り、ズバズバと厳しい指摘が飛ぶものだった。

「そこの音、全然ハーモニーが出来てない。ちゃんと耳使ってる?」

「タンギングがぶさぶさ過ぎて話にならない。そんな音じゃ百回やっても揃わないのは当たり前でしょ」

「パート練は個人の基礎をやる時間じゃない。個人で出来てないものをパートや合奏に持ち込まないで」

 こんな調子で、このたった数日の間に麗奈からいくつ注意を貰ったかなどとても数え切れない。もっともそのお陰でパート全体の音はみるみるうちに良くなったし、今日の合奏でも滝に注意された回数が一番少なかったパートは恐らくトランペットだった。麗奈の指導が厳しい分、それに対応することが出来れば飛躍的にレベルアップすることが出来る。それは一重に彼女の音楽的センスが優れていて、その指摘が間違っていないという事の証でもあった。

 吉沢を始め周囲の先輩達もその事をよく理解しているらしく、麗奈からの指摘には皆素直に頷くし、その直後には指摘通りに音を修正して吹いている。それによって自分達の音がますます高まっていくという事に、誰もが確信を持てているからこそなのだろう。

「さて、じゃあお昼食べちゃおっか。午後からはサンフェスの曲練始まると思うし、高坂さんから楽譜渡されたら皆も譜読みして、早く吹けるようになっておいてね」

 はい、と返事をしてパートの皆は昼休憩の体勢に入った。お昼の前にトイレを済ませておこう、と幸恵は一旦教室を抜け出る。道すがら廊下の窓に目を向けると、そこにはきれいに整備された校庭が顔を覗かせていた。サンフェス用の練習にはマーチングの行進もあるらしく、明日の練習はあそこで行われる予定になっている。マーチング未経験の幸恵にとっては多少の不安もあれど、新しいことに触れられる期待感に自然と胸が膨らむ。新しい環境で、新しいことが出来る。その喜びを、幸恵は存分に満喫していた。

「あれ、」

 廊下の角を曲がったところでばったりと、幸恵はその女子に遭遇した。さっぱりとした短髪に切れ長の瞳。身長は自分よりやや小さいぐらいだが、一言で『美人』と表せる容貌。その子の事は良く知っている。入部式の日、ユーフォニアムで物凄く上手な演奏をしてみせた、自分と同じ一年生の子だ。まだ入部した直後のタイミングであれだけ強烈なインパクトを与えられれば、流石に彼女のことを覚えないわけにはいかなかった。

「確か、芹沢、雫さん」

 その子の名前は、先日久美子達と一緒に下校した時に他の先輩達から聞いていた。他にも聖女出身で三年間ずっとレギュラーだった、という話も聞いてはいたが、本人と直接会話をするのはこれが初めてとなる。一体どんな子なのだろう。名前を呼ばれた雫はこくりと頷いたが、しかし何かを喋ろうという気配も無いまま、おもむろに横を通り過ぎていった。咄嗟に幸恵は彼女の背中に声を掛ける。

「あの」

 呼び止められた雫がぬるりと振り向く。何故声を掛けられたのか不可解、とでも言うように、雫は僅かに小首を傾げた。

「芹沢さん、お昼はもう食べた?」

 探るように雫に話し掛ける。相手のリアクションが薄いせいだろうか、何だか妙に窮屈な感じがする。雫は幸恵の問い掛けに小さくかぶりを振り、そしてやはり言葉を返しては来なかった。

「それじゃあさ、あたしと一緒に食べない? 実はあたしもまだなんだ」

 思い切って幸恵は雫をお昼に誘ってみる。この窮屈さももしかしたら、この子の事を良く知らないからなのかも知れない。それに同じ吹部の一年生とは言え、初対面なので警戒されているという節も無いとは言えない。一緒にお昼を食べながらあれこれ話をするうちに、そういう感覚もお互いに薄れていくだろう。まずは何事も最初の取っ掛かりが肝心だ。

「ごめん」

 そこで初めて雫の口から言葉が出てきた。その温度感の無い透明な声に、幸恵は思わず唾を飲み込む。

「これからお昼に行くから」

 それだけ告げると軽く会釈をし、そして雫は歩き去ってしまった。その断り方があまりにスマートだったもので、呆気に取られた幸恵はただ黙って雫の後ろ姿を見送るしかなかった。廊下のずっと向こうで彼女が角を曲がり、そこでようやく我に返った幸恵は、ふとあることに気が付く。

「お昼の誘いを断る理由が『お昼に行くから』って、何かおかしくない?」

 とは言え不思議なことに、不快感は全くと言っていいほど抱かなかった。この時の雫に対する幸恵の心象は、『ちょっと変わったところもあるけど、悪い子じゃないな』という程度のものだった。今回は駄目だったけれど、また今度お昼に誘ってみよう。それか、時間が空いたらどこか一緒に寄り道をするのもいいかも知れない。そんな風にこの時の幸恵は考えていた。

 それが、幸恵と雫との、最初のやり取りだった。

 

 

 

 

 幸恵は友達を作るのが得意だった。とは言え、生まれもってそういう性質だったというわけでは決して無い。

 まだ本当に幼かった当時、『くみ姉』によく遊んでもらっていた頃の幸恵は、どちらかと言えば他人と関わることが苦手なタイプと言えた。同年代の子達と一緒に遊ぶことがあっても、何となく友達になれないまま終わってしまう。他の子達が喋っているところにすんなりと割って入って一緒に過ごす、ということがどうしても上手く出来ない。それが幼少期の幸恵の姿だった。結果、一人で本を読んだりノートの端っこに落書きをしたりして休み時間を過ごし、家に帰ってからも友達と各々の家で遊んだりすることも特になく、一人で過ごす時間の方が圧倒的に多かった。

 それがいつの頃からか、恐らく小学校高学年になった辺りと本人は記憶しているのだが、「自分から壁を越えて仲良くしていけば、相手もそれに応えてくれる」ということに幸恵は気が付いた。今まで友達作りが下手だったのは、自分が勝手に相手との間に壁を作っていたからなのであって、その壁さえ越えることが出来れば仲良くなるのなんて簡単な事じゃないか、と。それに気付いて以来、幸恵の人間関係は大きく変わった。友達の数は徐々に増えていき、小学校を卒業する頃にはクラス全員の連絡先を把握し、男女の別なく相手の家に遊びに行けるまでになっていた。

 中学校で吹奏楽部への入部を決めた理由も、実のところもう半分は単純に部員数が多く、友達を作りやすい環境にあると思ったからだ。果たしてその読みは的中し、中学時代の三年間で学年中のほとんどの生徒と気軽に会話出来るようになっていたし、下校途中の話し相手にも毎日不自由することは無かった。とは言え彼女自身、友達を増やすことを決して打算的に考えていたわけでは無い。単純に友達が多い方が楽しく過ごせる。仲が悪いよりは仲良くした方が快適で良い。強いて言えばそのぐらいの発想だった。だから、高校に入ってからも幸恵は友達を増やすことに躊躇はしなかったし、また今までと同じように誰とでも友達になれると思っていた。

 

 

『こんなはずじゃなかった!』

 校舎の壁に背を預け虚空を仰ぎながら、幸恵は荒ぶる自分の息を整えることに必死になっていた。楽しそう、という事前の想像とは裏腹に、いざマーチングの練習が始まるとひたすら動き続けるだけの過酷な時間が幸恵を待っていた。

 元々運動はそれほど苦手では無いのだが、どういうわけかマーチングの行進練習は生半な運動よりも格段に体力を消耗するような気がする。まず腕から肘までを直角に構え、ラッパを持つように組んだ手が顔の真正面に来るようにする。これが『楽器を手に持って構えている』ことを意味する仕草である。次に、その構えのまま背筋をぴんと伸ばし胸を張る。イメージとしては真上よりやや前方から糸で頭を引っ張られている、という感覚だ。

 これが整ったところで、次はマークタイムと呼ばれる足踏み練習。太ももが水平になる高さまで足を上げ、それと同時に足首は次に地面を踏むのに備えて真下を向かせる。これを左右交互に繰り返す。およそ数十分間のマークタイム練習が終わり、ようやく行進の練習へ。今回はパレードでの行進を想定しているため基本的にはフォワードマーチ、すなわち前進の動きがメインとなるのだが、歩く時の歩幅は予め決まっていて、一歩で六十二.五センチメートル、つまり八歩で五メートル。この間隔が基本となる。行進中はこの間隔を乱さず完璧に揃えることが常に求められるわけだ。

 そして歩く間は上体を崩さないよう保ちつつ、足はつま先をぴんと上に向けながら踵を地面に付け、そのまま足の裏全体で地面を捉えるように踏みしめ、最後はつま先で地面を蹴り出す。これまたマーチング用語でグライドステップと呼ばれるこの足捌きによって歩行時の上体のぶれが軽減され、安定した音を出しやすくなる。そのためこれが乱れて足元がばたばたしていると、ドラムメジャーの(つか)(もと)や『軍曹先生』と呼ばれる副顧問の(まつ)(もと)()()()から即座に注意を飛ばされる。さらに隊列全体が左右に曲がる時などには歩幅を微調整し、縦や横の人との列が崩れないよう自分の位置取りをキープしつつ、整然と行進を継続しなければならない。

 これらの事に気を付けながら数時間にも渡り連続して、しかも強い日差しの照りつける屋外で行われる行進練習は、全身の筋肉と神経とを恐ろしい勢いで摩耗させてしまう。運動部のそれには及ばないとは言え、日頃屋内で楽器を吹いている吹奏楽部員にとっては相当な運動量だ。それは幸恵にとって、まったくの想定外と言うべき事態だった。休憩中の今は校舎が日光を遮ってくれているはずなのに、火照り切った体の熱はこれっぽっちも下がる気配が無い。だくだくと流れ落ちる汗は瞬く間にジャージを濡らしていく。心臓は今にも大量の血流に堪えかねて破裂してしまいそうだ。

 しかもあろうことか、昨日先輩に言われてせっかく着替えも水筒も用意して来ていたのに、その水筒を着替えと一緒にうっかり部室に置いたままにしてしまっていた。僅か十分間の休憩のうちに部室まで行って戻れるほどの体力も、もはや残されていない。そんな体力があるならまだ昼までたっぷり続く練習に備えて温存しておかなければならず、従って幸恵の状況は限りなく絶望的、という他は無かった。

「そろそろ練習再開でーす。元の位置に戻って整列してくださーい」

 ドラムメジャーの一声が、幸恵の耳を重たく揺らす。もうすぐ休憩が終わってしまう。さっきまで周りで一緒にへばっていた他の部員達も、徐々にグラウンドへと戻り始めている。なのに自分の体力は全然回復していない。このままではまずい、と幸恵は直感した。もしも万一練習中に倒れでもしたら全体の練習がストップする。フォーメーションも崩れることで、他の人達にまで迷惑を掛けてしまうことになる。それだけは嫌だった。振り絞れ、ここでダウンしてる場合じゃない。例えとっくに限界を超えていたとしても、ほんの僅かに残っている力の残りかすまで振り絞るんだ。そう自分に言い聞かせつつ、がくがく震える膝を押さえながら立ち上がったところで突如、幸恵の目の前に青銀色の水筒が飛び出してきた。

「わっ」

 本当に突然だったもので、思わず口から声が漏れる。ずいと突き出された水筒の向こうを目で辿っていくと、それを差し出したのは、

「芹沢さん」

 水筒を手にした雫は無言でこちらを見つめていた。『飲む?』彼女のその瞳は、自分にそう告げているみたいだった。

「いいの?」

 幸恵の問いに雫は無言で頷く。ありがとう、と言う前に幸恵は雫の手から水筒を受け取り、すぐさま中身をごくごくと飲み下した。冷たい液体の感覚に舌がびりびりと痺れる。美味い、美味すぎる。干からびかけていた身体の隅々に、甘しょっぱいその液体が沁み渡っていくのが分かる。ぷはあ、と一息ついてから幸恵は、水筒の中身を全て飲み切ってしまったことに気が付いた。

「ごめん、全部飲んじゃった」

 彼女が自分で飲むために用意していたものだったろうに、差し出されたものを全部平らげるなんて。恥ずかしさと申し訳無さから幸恵はあたふたしてしまう。無表情のままで雫はゆっくりとかぶりを振り、幸恵の手から水筒をするりと抜き取った。蓋を閉めその場に置くと、雫は何事も無かったようにすたすたとグラウンドへ歩いていく。

 その背中に向かって「ありがとう!」と、幸恵は心からの感謝を告げた。雫は振り返ることはしなかったが、微かに首を縦に振った、ように見えた。

 

 

 芹沢雫。幸恵の中でその存在は、日増しに大きく膨らみ始めていた。同学年の女の子。聖女出身で三年間レギュラーだった子。ユーフォがとても上手い子。寡黙な子。反応の薄い子。人付き合いの悪い子。いつも一人で過ごしている子。暇があれば楽譜ばかり眺めている子。周囲からはいろいろな評判を聞くことが出来る。しかして幸恵自身はと言えば、雫の何たるかを語れるほど彼女の詳細を知らない。ただ無口で素っ気ないけれど、決して悪い子では無さそうだという感触だけはあった。

 どうやってあんなにユーフォが上手くなったのか、家ではどんなことをしているのか、家族は何人いるのか、地元にはどんな友達がいるのか、音楽以外の趣味はあるのか――そんな雫にまつわる諸々のことが知りたいと、いつしかそう思うようになっていた。どうしてこんなに他人のことが気になるのか。初めてのその感覚に少しだけ戸惑う気持ちも、幸恵にはあった。

「あ、芹沢さん」

 いつものように六地蔵駅から乗り込んだ、京阪宇治線の電車。比較的空いている座席に、いつもは見かける事の無い雫の姿があった。彼女の膝の上にはユーフォが収まっているであろう黒い楽器ケースが横たわっている。ほっそりとした太ももを圧迫しているそのケースは、率直に言って重たそうだった。幸恵の声を聞き留めた雫が顔をのろりとこちらに向ける。彼女の細い首筋が制服の裾から覗き、そのあまりの白さに幸恵は思わずドキリとしてしまう。

「隣、座っていい?」

 一応尋ねると、雫はこくりと頷いた。お言葉に甘え、幸恵は雫の隣へと腰掛ける。

「楽器、持って帰るんだね」

 見れば分かる当たり前のことを雫に訊く。これも幸恵にとってはただの会話の取っ掛かりに過ぎなかった。無言で頷かれるだけかも知れないし、短い返事で終わるかも知れない。けれどお互い無言で降車駅まで過ごすよりだったら、ずっと良い。

「テスト期間中は、学校で練習出来ないから」

 不意の返答に思わず幸恵の身体が強張る。てっきり雫からはまたいつものように、まともな言葉が出てくることは無いものと思っていた。初めて雫との会話が成立した。その事に、少なからず幸恵は動揺してしまっていた。それでも相手に不自然さを感じさせないよう、幸恵は頭に浮かんだ言葉を拾い集めて会話を継続させようと努める。

「やっぱり部活以外でも練習してるんだ。芹沢さん、ユーフォ上手だもんね」

 それは決してお世辞などではなく、限りなく素直な感想を述べたつもりだった。ところが上手と言われた雫自身は微動だにせず、足元をじっと見るような仕草のままで何の反応も示さない。まずい。変なところを突いてしまったのだろうか。

「えと、高校に入ってから勉強大変だよね」

 幸恵は慌てて話題の方向転換を図る。いきなり舵を大きく切り過ぎた感もあったが、そのぐらいの方が却って場の空気を入れ替えるのには良いかも知れない、と思ったからだ。こくり、と雫が反応したのを見て、幸恵は話題を次へと繋ぐ。

「あたし、中学の頃から数学がホント駄目でさー。芹沢さんは数学どう?」

「それなり」

 一度は止まり掛けた会話が再び動き出していく。その状況に、幸恵は少し安堵していた。あのまま会話が途切れてしまえば、次の一言を喋り出すことは難しくなる。そうなれば幸恵か雫のどちらかが電車から降りるまでの間、二人は極めて気まずい沈黙の時間に晒されることになっただろう。会話が繋がりさえすれば、そんな時間を耐え凌ぐ必要も無くなる。幸恵は次々と話題の種を繰り出し、反応の薄い雫から一つでも言葉を引き出すことに腐心していた。

「部活もさ、練習きついよね。うちんとこはあの高坂先輩がパートリーダーだから、もうパート練が厳しくて」

「そう」

「でも他の先輩が皆優しいから平気だけどね。特に三年の吉沢先輩が――」

「ねえ」

 急に向こうから話し掛けられ、幸恵はそれまで動かしていた口をばくりと閉じた。雫から何かを言おうとしているのもこれが初めてだ。この子は次に何を喋るのだろう。どんなことを言い出すのだろう。それを待つ間、こめかみがちりちりと疼く。数秒ほどの間を置いてから、雫の唇が動き出した。

黄前(おうまえ)先輩の事、どう思う?」

「えっ」

 そこで唐突に『くみ姉』の名前が出てきたせいで、何故そんなことを雫が尋ねたのか、その理由を幸恵は一瞬考えてしまう。けれどその疑問はすぐに霧消した。そもそもユーフォ吹きの雫は低音パートであり、『くみ姉』はその低音パートの一員でユーフォ担当、つまり雫の直属の先輩なのだ。吹奏楽部の部長という立場も踏まえて考えれば、雫にとって最も近しく最も話題にしやすい存在が『くみ姉』、という事なのだろう。

「実はね、って芹沢さんはもう知ってるかもだけど、黄前先輩ってあたしの遠い親戚なんだ」

「そうなんだ」

「あれ、知らなかった?」

 雫は特に驚いた様子も見せなかったが、しかし幸恵の問いにはゆっくり首を振ってみせた。ともすれば『くみ姉』から聞かされているのでは、とも思っていたのだがしかし、『くみ姉』は部長として部内にあまり私情を持ち込みたくないと考えているのかも知れない。仮にそうでないとしても、これまで話題に上ることが無かっただけという可能性もある。ここは深く考えてもしょうがなさそうだ。

「あたしは小さい頃から面識あったから、『()()()姉ちゃん』を略して、ずっと『くみ姉、くみ姉』って呼んでてね。くみ姉が中学校に上がるぐらいまでは、よく遊んでもらったっけなあ。くみ姉が吹奏楽始めたって聞いて、あたしもいつか吹奏楽やるんだって思ったりしてね」

 昔の事を懐かしむように、幸恵は言葉を紡ぐ。

「そう言えばくみ姉って、小四の頃からユーフォやってるんだって。それは知ってた?」

「ううん」

 雫が今度は声付きでかぶりを振る。

「流石って感じだよね、くみ姉、めちゃくちゃ上手いし」

「うん」

 その時の雫の声色には、それまでの淡々とした返事とは違う、何らかの意志が籠っているような気がした。え、と幸恵が雫の様子を窺おうとするより先に、車内にアナウンスの声が響き渡る。

『次はー(ちゅう)(しょ)(じま)、中書島です。お降りのお客様は……』

「あ、もう降りなくちゃ」

 忘れ物をしないようにと鞄を肩に引っ掛けてから、幸恵は雫に尋ねる。

「芹沢さんはここから乗り換えるの?」

 その問いに雫はこくりと頷いた。

「この駅の一番ホーム」

 へえ、と幸恵は吐息を漏らす。そういえば雫は聖女出身だ、と言っていた。聖女はここからもっと北に所在する学校であり、彼女がこれから乗ることになる電車の行き先もその方角である。雫が聖女に通っていたとするならば、その近辺に家がある可能性は高い。いや、実は中学時代からも吹奏楽の為に、もっと遠くから通っていたのかも。彼女の家はどこにあるのだろう。どんな家なのだろう。二人揃って電車のドアをくぐりつつ、幸恵はそれとなしに探りを入れてみる。

「芹沢さんのお家って、どんな感じなの? 実は豪邸だったりとか」

 ううん、と雫は首を横に振る。

「家は普通のマンションだから」

「そうなんだ」

 この時、幸恵はほんのちょっぴり嬉しさを覚えていた。雫があれだけ上手ならもしかして、麗奈のように自宅に防音室があったりするのかも、と思っていたからだ。詳しいことは分からないけれど、雫の家庭環境は恐らく自分とそう遠くかけ離れたものじゃない。幸恵の中にはそんな感触があった。

 もう少し話をしていたかったけれど、雫は乗り換えのために移動をしなければならない。あまり長い時間引き留めてしまうのも迷惑だろう。跨線橋を上った先、ホームの分岐点で、幸恵は雫に向き直る。

「それじゃ私はこっちだから。芹沢さんも帰り道、気を付けてね」

「うん」

「じゃあ、また学校で」

 手を振り、雫と別れる。重たそうに楽器ケースを携え一番ホームへ向かう雫の後ろ姿を見送る間中ずっと、幸恵の心はほかほかと温まっていた。雫と普通に会話出来た。電車に乗っている時間は十分にも満たない僅かなものだったけれど、その間に雫からは色々な話を引き出すことが出来た。こうしてみると、他人の評判なんて存外あてにならないものだ。芹沢さん、普通に喋れるじゃないか。たったそれだけの事がなんだか妙にくすぐったくて、幸恵はその日家に帰ってからも度々その事を思い出しては一人くすくすと笑っていた。

 

 

 

 テスト期間中は幸恵にとって、さながら地獄と呼ぶべき長い長い苦行の日々となった。何しろ幸恵は元々勉強が得意ではない。というか、有り体に言って大嫌いだった。数式や化学記号の意味するものなんて何が何だかさっぱり理解できないし、歴史上の著名な人物や出来事にもとんと興味が湧かない。勿論、英単語の暗記なんて嫌いな行為の最たるものだし、だからと言って国語の文章読解が得意かと言えば、別段そんな事も無かった。

 地頭が良かったからなのか、それとも当時はまだ勉強自体が簡単だったからなのか、小学生くらいの頃は特に宿題などしなくてもそれなりに好成績を収めることが出来ていた。それなのに中学校に入ってしばらく後、幸恵の成績は急激に悪化の一途を辿った。中三に上がる頃には既に、学年中で下から数えた方が早いという順位にまで下がっていた。そのままでは北宇治への進学など夢のまた夢、という状況だった彼女の成績は、麗奈の下でトランペットを吹きたいという目標によって勉強漬けの生活を余儀なくされた結果、秋頃に少しずつ上向き始め、最終的には辛うじて北宇治の合格圏内へと滑り込むことに成功したのだった。

 がしかし、そうしてまで入った高校でもやはり、嫌いな勉強は容赦なく牙を剥いてくる。今はまだ進級にも進路にも直接影響しないので気楽と言えば気楽なのだが、先日久美子にも指摘された通り、もし赤点が積み重なれば補講を受けることを強制され、その間は部活にも出られなくなってしまう。そんな事になれば本末転倒、何のために北宇治に来たのか分からない。自分の望みを叶えるために、好きでもない勉強とも、幸恵は否応なしに向き合わざるを得なかったのである。

「――とまあこんな具合に、超大変だったけど何とかなったってわけです」

 いつもの練習場所である教室で、幸恵はパートのメンバー達を相手に、まるで武勇伝でも語るかのような口調で中間テストの顛末を報告していた。麗奈はパートリーダー会議のため席を外しており、パートの面々も今は楽器や譜面台を準備している状況なので、こうしてのんびり会話をしていても咎める者は誰もいない。ちなみに、今回のテストで幸恵が獲得した赤点の教科は数学Aと英文法の二つ。他は辛うじて赤点を回避する事には成功したものの、いずれも点数はぎりぎり低空飛行といった具合であり、担任からは既に「もっと頑張らないと期末はやばいぞ」と半ば脅しをかけられていた。

「そりゃあ、期末は頑張らなくちゃだねえ」

 幸恵の話を聞いていた吉沢の表情には、苦笑いとも呆れともつかぬ複雑な色が浮かんでいる。高校入学最初の定期テストで後輩がここまでズタボロの成績を叩き出した、なんて話を聞かされれば、先輩として幸恵のその後が心配になったであろう事は間違いない。しかして当の幸恵はそんな吉沢の視線など気にも留めず、勉学の苦しみから解放された喜びをただひたすらに噛み締めていた。そう、テストという名の戦争はもう終わったのだ。あと一ヶ月もしたら次のテストがあるだなんて、今は考えたくもない。

「それにしてもテスト終わったと思ったら、もうすぐ六月ですね」

「そうだね」

「六月って言ったら宇治でお祭りあるじゃないですか、あがた祭り。先輩達は誰かと一緒に行ったりするんですか?」

 幸恵の質問に、上級生達は各々の予定を述べる。友達と。彼氏や彼女と。様々な回答が挙がる中、吉沢はにこにこしながらその質問には一切答えなかった。果たして彼女には一緒に行く相手が居るのか、居ないのか、はたまた行く予定自体が無いのか、一体どれなのだろう。

「皆は?」

 幸恵は同級のパート員達にも尋ねてみる。

「んー。ウチから遠いし、私はパス」

「私は中学の友達と一緒に行くかなー、(あがた)神社に近い家の子が居るから」

「そうなんだ。そう言えばくみ……黄前先輩の家も、神社近いんだよなあ」

 ふと幸恵は昔の事を思い出す。あれは確か、久美子の一家が京都に引っ越して来てまだ間もない頃。親戚一同が寄り集まって、皆であがた祭りに出掛けたことがあった。幼かった幸恵は久美子に手を引かれ、その久美子は姉である麻美子に手を引かれ。そうやって三人で屋台を巡ったり神社でかき氷を食べたりしたっけなあ、と幸恵はしばし感傷に浸る。あれは果たして何年前の事だったろう。なんだか急に懐かしさが込み上げて、あの景色をもう一度見てみたい、と幸恵は強い衝動に駆られる。

「せっかく行くんなら、誰か誘おうかなあ」

 誰にともなく呟いた幸恵はそこで、周囲の様子がおかしいことに気付いた。さっきまでの会話の輪はいつの間にかぼろりと崩れ去り、全員がいそいそと楽器を構えたり楽譜に目を遣ったりしている。視界の端では同学年の女子が、こちらに目配せで何かを訴えていた。その視線の行き先に嫌な予感を覚えつつ、幸恵はゆっくりと、後ろを振り向く。

「こ、高坂先輩!」

 そこには極めて不機嫌そうな気配を放つ麗奈が立っていた。会議が予定より早く終わったのか。己の気迫にすっかり委縮して震える幸恵の心中を知ってか知らずか、麗奈は教室中をギロリと一瞥すると、今度はその刺さるような強い視線を幸恵へと向ける。

「東中さん、練習の準備は?」

「え、いやあの。これから個人練に行こうと……」

「楽器は?」

 幸恵の喉からひゅっと乾いた音が鳴る。しまった。雑談に熱中するあまり、トランペットをケースから出しておくのをすっかり忘れていた。これではどうとも言い訳のしようが無い。終わった、とばかり幸恵は歯を食いしばる。麗奈は溜め息のように小さな呼気を漏らし、それから『すうっ』と大きく鼻を鳴らした。

「コンクールメンバーのオーディションまであと一カ月を切ってるっていうのに、さぼってるような時間は――」

「高坂先輩は!」

 半ばやけっぱちで、無理くりに声を張る。その勢いに押された麗奈がばくりと口を閉じた。とにかく何でもいい、畳み掛けなければ。そうしなければこの状況はどうにもならない。しかしいくら知恵を絞ってみても、焦燥を極める幸恵の脳裏にはさっきまで皆としていた話題ぐらいしか浮かんでは来なかった。

「高坂先輩はあがた祭り、誰かと行くんですか?」

「あがた祭り?」

 問われた麗奈の眉がぴくりと動く。さっきまでの激情に駆られた表情から一転、麗奈は思考の端を探るようにその瞳を斜め上に向けた。周囲の温度が僅かに下がったのを感じた幸恵は、即座に傍らの楽器ケースへ手を伸ばす。

「そうです! 誰かと行く予定とか、もうあります?」

「あるって言うか、多分、行くと思うけど」

 その場しのぎで質問をしたつもりだったのに、麗奈のその反応は少し意外なものだった。何しろ麗奈は日頃、誰かと仲良くするような素振りなど、ほぼ全く見せることが無い。パート内で同学年の吉沢とは悪い関係では決して無いものの、一緒に帰ったりどこかへ遊びに行ったり、というほど親しいわけでも無いようだった。恋人などの存在も露ほども匂わせたことは無い。強いて言えば、麗奈と比較的仲が良いと言えるのは低音パートの三年生、()(とう)()(づき)(かわ)(しま)緑輝(さふぁいあ)、そして久美子の三名ぐらいだ。

 ひょっとしてこの中の誰か、もしくは四人揃って出掛けるつもりなのだろうか。未だ知られざる麗奈の交友関係に思いを馳せつつも、幸恵は抜かりなくケースから取り出したトランペットにそろりとマウスピースを挿し込む。

「じゃあ、もう約束してるんですね」

「約束は……してない」

「ええ、相手の方が先に予定入れちゃったりしません?」

「それは無い」

 麗奈の口調は明らかな確信に満ちていた。そう言える根拠は何処にあるのだろう。そして麗奈からこれほどまでの信頼を寄せられている、その相手とは? それを聞き出してみたい気持ちがチロリと心の裾から顔を覗かせたが、しかし今はそれどころではない。この状況をかわせる千載一遇の機会を逃してはならぬとばかり、幸恵は畳んだままの譜面台と楽譜ファイルを鷲掴みにする。

「そうなんですね。それじゃあ私、個人練に行ってきまーす!」

 そう言い残すや否や、幸恵は脱兎の如く教室を飛び出した。「ちょっと、東中さん!」という麗奈の声を置き去りにして。後でパート練の時に怒られてしまうかも知れないが、まあその時はその時。心の準備をするだけの時間は確保できたし、もし何か言われたらその時は素直に謝ろう。小走りに廊下を駆けゆく幸恵は、罪悪感と愉快さの両方がちゃぷちゃぷと音を立てて心に注がれるような、不思議な感触を覚えていた。

 

 

 

「どうしよっかなー」

 トランペットをケースに仕舞いながら、幸恵はしばし思案する。今日はあがた祭り当日。交通規制に巻き込まれないよう、練習はいつもよりかなり早く終わることとなった。幸恵も当初は誰かを誘って一緒にお祭りに行こうかな、と考えていたのだが、結局その相手を決め切れぬまま時は過ぎ、こうして当日を迎えてしまったのだった。そうこうしているうちに周囲はさっさと一緒に行く相手を決めていたようで、しかし後から混ぜてもらうのも何だか気が引けるという理由で、未だに祭りに行くべきかどうするかを躊躇していた。

 幸恵は夏が好きだ。冬は寒いし楽しい事も少ない。友達は多くても恋愛事にはそれほど興味を持たなかった幸恵にとって、クリスマスやバレンタインデーのような冬のイベントは面白いと思えるものが少なかった、というのもある。それよりは夏の方がお祭りや花火大会など楽しい行事が多く、海や山など皆で連れ立って出掛けられる場所も多い。春や秋の風情を楽しむのも京都らしくて良いけれど、どちらかと言えば夏の方が自分の性に合っている、と自認していた。

 とは言うものの、である。そもそもあがた祭りの中心地となる県神社は、立地的に自宅の方角とは真逆に位置している。それに見物客の混雑に巻き込まれれば、帰宅の時刻はずっと遅くなってしまうだろう。開催の日付が毎年固定されており曜日は関係無しに行われるため、今年のあがた祭りは折も悪く月曜開催となってしまっていた。まだまだ長い一週間が続くことを思えば、週の頭から夜遅くまで出歩くのも正直気が引ける。誰とも予定を組めなかったならそれはそれでいっその事、今日は祭りには行かず、このまま家に帰ってのんびり過ごした方が良いかも知れない。そんな事を考えながら廊下を歩き玄関に到着した時、幸恵は下駄箱の前に立っている人物に気が付いた。

「芹沢さん」

 幸恵に名を呼ばれた雫が、相も変わらぬ緩慢な挙動で振り向く。

「そっちも練習終わったんだね。これから帰り?」

「うん」

 珍しく雫の返答が早めに来た。今日の雫はひょっとして、いつもより機嫌が良いのかも知れない。

「あたしもこれから帰るとこ。良かったら途中まで一緒に帰らない?」

「ごめん。今日はお母さんが迎えに来てくれるから」

 お母さん。雫のその物言いに、幸恵は喉笛を撫でられた時のようなくすぐったい気持ちを覚える。この雫の口からこんな丸くてあったかい言葉が出てくるなんて。それを聞いた事があるのはもしかして、部員達の中でも自分だけなのかも知れない。そんな優越感もまた、たまらなく心地の良いものだった。

「それじゃあ、あがた祭りには行ったりしないんだね」

 幸恵の問いにコクリと頷く雫。きっとこの子ならそうだろう、と幸恵は何となく予想していた。雫はこういった行事や集団行動には、とんと興味を示さない。いつも一人でいるのは決して周囲から除け者にされているとかではなくて、雫自身がそういったものに付き合う姿勢を見せることがまるで無いからなのだ――とは、他の部員達や雫のクラスメイトから聞いていたことだ。

「じゃあさ、あたしと一緒に行ってみない? あがた祭り」

 幸恵は思い切ってその一言を投げ掛ける。言われた側の雫は、何を言っているのか理解出来ないとでもいうようにその瞼を微かに広げ、こちらを覗き込んだ。

「お母さんには、お祭り行くって今から連絡してさ。そんで二人で電車乗って、神社まで行ってみようよ。帰りはうちの親に頼んで、芹沢さんのお家までちゃんと送るから」

「でも、迷惑だし」

「迷惑なんかじゃないって。うちの親、そういうのあんまり気にしないし」

「そうじゃなくて」

「じゃなくて、何?」

 これまた珍しいことに、雫との会話がテンポ良く成立している。幸恵は内心驚いていた。今まで雫との会話は、どちらかと言えば自分から一方的に仕掛けるばかりであり、それに対する雫の反応も極めて薄いものばかりだった。今回の誘いにしたって、無言で首を振られるか短い返答に終始するだろうと思っていた。それがどうだろう。平坦な声色には感情の色こそほとんど乗っていないものの、雫が普通に会話をしてくれている。まるで偶然開けた扉の先に、お菓子がいっぱい詰まった部屋を見つけた時みたい。そんな嬉しい驚きが、幸恵の心を包んでいた。

「私と一緒にお祭り行ったって、きっと面白くなんかないから」

 雫のその言葉に幸恵は瞠目する。雫が気に掛けているのは、他でもない幸恵の事。どういう理由でかは分からないが、雫は自分と過ごす相手がつまらないと感じるだろうと考えているらしかった。

「そんな事ないよ、きっと。それにあたしが芹沢さんと一緒にお祭り行きたい、って思ってるんだもん」

 ね、行こう? 幸恵は雫に向かって手を伸ばす。その瞬間、幸恵は見た。普段あれだけ無表情な、それこそ鉄の仮面を被っているかの如く感情を表に出さない雫が、困っているような恥ずかしがっているような、そんな心の動きを眉の端に描き出すのを。幸恵が思わず息を呑み、瞬いた刹那の後にはもう、彼女の表情はいつも通りに戻っていた。

 数秒の沈黙。幸恵は伸ばしたままの手をまだ降ろさない。雫は観念するようにゆっくりと目を閉じ、そして、

「うん」

 幸恵の手をきゅっと握る。雪のように白くしなやかな雫の指は思ったよりもずっと小さく、そして事前の想像よりもずっと温かかった。

「そうだ、まだ自己紹介してなかったね」

 雫の指の感触を掌に感じながら、幸恵はにっこりと微笑む。

「あたし(ひがし)(なか)(さち)()。よろしくね、芹沢さん」

 

 

 

 祭りの喧騒から離れ、二人は家々が入り組む裏路地を歩いていた。

 遡ること数時間前。県神社に到着した幸恵と雫はまずお参りを済ませたあと、通りに並ぶ夜店を順々に巡った。輪投げをしたり射的をしたり、きらきらと七色に光るブレスレットをしばらく眺めたり、買ったたこ焼きを二人で分け合ったり。冷やしきゅうりを買った雫はそれをいつまでもシャリシャリと懸命にかじっていて、それが何だか妙に可笑しくて、幸恵はけらけらと笑い声を上げた。やがて人の波に疲れたのか、「静かなところに行きたい」と雫が言い出して、それならばと幸恵が案内したのは平等院の裏手、『あじろぎの道』と呼ばれる小道の途中にあるベンチだった。

 すぐ傍にある古めかしい建物には何か名前もあるらしいのだが、残念なことに幸恵は郷土の歴史にもほとんど興味がなく、従ってその建物の名前も何のためのものなのかも全く知らない。けれど、このベンチのことだけは良く覚えていた。まだ久美子も自分も小学生の頃、久美子に連れられてこの辺で遊んでいた時、休憩のために腰を下ろしたのはいつもこのベンチだったから。

 そうして辿り着いたこの場所を、感慨をもって幸恵は見渡す。あの頃に比べるとベンチもすっかり色褪せてしまった気がするけれど、こうして腰掛けると当時の思い出が昨日の事のように胸の奥から蘇ってくる。その甘酸っぱい感覚は、祭りの夜風の生温さとも相まって、火照った自分の体を程よく冷ましてくれた。

「芹沢さんも座ろうよ」

 幸恵が促すと、雫はこくりと頷いて隣に腰掛けた。目の前には街の明かりを反射してきらきらと光り輝く宇治川の水面。滔々と流れゆくその水の動きを、幸恵と雫はしばし無言で眺める。不思議なことに、一言も喋らずに誰かと過ごすその時間をまるで苦痛に感じなかったのは、これまでの人生でこれが初めてのことだった。余計な言葉なんて無くたっていい。今はただこの水音だけを聴きながら、ずっとこうして二人で座っていたい、とさえ思う。

 おもむろに隣を見やると、雫もまた川の行方を目で追っていた。自分とお祭りに行ったって、きっと面白くなんかない。そう言っていた雫の方こそ、逆に自分と過ごすこの時間を苦痛に思ってはいないか。それが少しだけ心配だったのだが、どうやらそんな気配は無さそうだと幸恵は感じ取っていた。祭りの賑わいを遠くに置き去って、さっきまで吹いていた夜風すらも止んでしまうと、まるでこの世界から自分達二人だけが切り取られたかのような錯覚に襲われる。

 もしも本当に、そうなってしまったならば。ふとそんな想像を巡らせてみる。いっそ、それも悪くないかも知れない。こんなに静かで心安らげる時間を過ごしていけるのならば、雫と二人きりの世界になってしまっても構わない。普段の自分からは絶対に出て来そうにない結論に、幸恵はくすりと笑みをこぼす。

「そう言えば、前から聞きたいって思ってたんだけどさ」

 唐突に思い出して、幸恵は雫に話し掛ける。それは自分でもはっきりと分かるぐらいに、とても穏やかな声だった。

「芹沢さんって、どうして北宇治に来ようと思ったの?」

 雫はいつものように、ゆるりとこちらへ顔を向ける。

「どうして?」

 その『どうして』はこっちの質問を反芻したつもりなのか、はたまた何故そんなことを今尋ねるのかという確認の意味なのか。幸恵にはどちらとも判断がつかなかった。

「あ、別に大した意味は無いんだけどね。あたしもほら、わざわざ遠くから北宇治通ってるからさ。何となく、芹沢さんにも何か理由でもあったのかな、って」

「東中さんの理由って?」

 雫はすぐには答えを寄越さず、小首を傾げて問い返してきた。確かに、人に理由を尋ねておいて自分が何も語らないのも不公平かも知れない。

「あたしの理由はね、高坂先輩に憧れたから」

 幸恵は夜空を見上げる。その星の瞬きの向こうに、あの日の麗奈の姿がくっきりと映って見えた。

「去年、地区の定期発表演奏会で、たまたま北宇治の演奏聴いてたんだけどさ。そこで高坂先輩のトランペットの音に出会って、それで感じたの。これが本物のトランペットの音なんだって。あたしもこんなトランペット吹きになりたい、って思った。それで家からちょっと遠かったけど、北宇治に入ることにしたんだ」

 幸恵のその告白に、雫は相槌どころか微動だにすらしなかった。しょうがないか、と幸恵は思う。こんな理由で進路を選ぶだなんて、他人からしてみれば呆れ返るような話だったことだろう。全国に行って金賞を取りたいからとか、とても優秀な滝の指導を仰ぎたかったからとか、そんな『らしい』理由でも言った方がこの場の雰囲気には相応しかったかも知れない。けれど何故か今は、雫に対して取り繕うような真似はしたくなかった。

「憧れ……」

 焦れったくなるほどの間を経てようやく、幸恵の言葉をなぞるように雫が呟く。

「そ。まあ高坂先輩めちゃくちゃ上手いし努力家だし、しかも先輩のお父さん、プロのトランペット奏者だって話だから。あたしなんか到底追いつけるわけないんだろうけど」

 何だか気恥ずかしくなって立ち上がり、幸恵は目の前の石段を下りた。そのまま河原にしゃがみ込み、膝頭を指でぽりぽりと掻く。雫ぐらい音楽に精通した人からしてみれば、こんな動機は荒唐無稽も甚だしいに違いない。何しろその高坂麗奈は北宇治どころか、全国の高校生の中でも恐らく数本の指に数えられるであろう実力者。単に憧れているだけならまだしも、彼女の下でトランペットを吹くためだけに同じ学校へ進学するというのは、冷静に考えてみると無謀とさえ言えたかも知れなかった。

 片や才能と環境に恵まれた者。片やそれに憧れるだけの、どこにでも居るようなごくごく普通の高校生。憧れ、などと口にするのも本来ならば憚られるのかも知れない。この数カ月間で、幸恵は自分と麗奈の間にそびえ立つ余りにも高く分厚い壁の存在を嫌というほど痛感して来た。高坂先輩は元々『特別』なんだ。自分とは違う。自分はあんな風にはきっとなれない。そんな意識が徐々に心の中に染み出してきていることを、ここのところ幸恵は感じ始めていた。

 背後にいる筈の雫は、さっきからずっと沈黙を保っている。やっぱり馬鹿な女と思われてしまっただろうか。けど、別にそれでもいい。幸恵は素直にそう思った。こうして腹を割って、雫に自分を曝け出すことが出来た。つい先日までは絶対に考えられなかったことだ。そんな時間を、このあがた祭りの夜、雫と過ごせた。それだけでもう充分に満足だった。

「笑わない」

 突然後ろから大きな声がして、幸恵は反射的に振り向く。それが雫の発したものであることを認識するまでにはしばらく時間がかかった。いつの間にかベンチから立ち上がっていた雫の、暗闇に浮かぶその表情には、とても強い感情が色濃く浮かんでいた。ここからだと怒っているようにも、今にも張り裂けそうなほど真剣なようにも見える。その勢いに圧倒され、幸恵はすっかり言葉を失ってしまう。

「私は笑わない」

 もう一度宣言して、雫が石段を一歩、また一歩と降りて来る。あまりのことに幸恵は思わず後ずさっていた。何か、自分でも気付かぬうちに何か、雫の癇に障ることを言ってしまったのだろうか。氷のように透明な声が普段よりずっと鋭く、臓腑を貫いてくるような気さえする。

 そうこうするうち、とうとう雫が自分の目の前までやって来た。怒らせたならごめん、と謝りそうになる幸恵の手が、雫にぎゅうと握られる。あの細く小さな手のどこにこんな力があるのかと思うほど、彼女の指には強い意志が込められていた。

「同じだから」

 同じ? それはいったい何と? 一瞬の間に予想外の出来事がいくつも起こり過ぎて、幸恵はすっかり混乱してしまう。けれど落ち着こうと考える余裕すら、完全に失ってしまっていた。目の前には雫が居て、しかも熱の籠った視線でこちらをじっと見つめている。おまけに手までしっかり握られてしまい、身じろぎはおろか顔を背ける事さえも許されない状況だ。雫の瞳から放たれた熱が、自分の眼球を通じて全身に注がれていく。熱い。息が苦しい。幸恵は今、自分の体に火が点いているのではないかとさえ思った。

「私が北宇治に来た理由」

「芹沢さんが、来た、理由」

 雫の言葉を、幸恵はただ壊れた機械のように復唱するのが精いっぱいだった。次に雫が何を言い出すのか、どう行動するのか、全く読めない。何もかもが、これまでの雫の振る舞いと違う。自分の理解の範疇をとっくに超えている。迂闊な事を言えば次の瞬間、この首を刎ね飛ばされてしまうかも知れない。そんなイメージが頭の中に浮かび、自分の肌がぞわぞわと粟立っていくのが分かる。

「私も憧れたから。黄前先輩に」

 え、と幸恵は息と共に溜まり切った緊張を吐き出す。雫は何と言った? 何かの聞き間違いか、と耳を押さえようとした幸恵の左手は、まだがたがたと震えていた。

「私もそこに居た。去年の定期発表演奏会」

 雫が手を握る力をさらに強めてくる。痛い、とは言えなかった。雫の手もまたぶるぶると震えていることに、気付いてしまったから。

「黄前先輩の音、すごく綺麗で温かい音だった。でも芯のある音で、ビブラートも豊かだしパッセージの発音もくっきりしてた。本物のユーフォの音だって思った。その音に、少しでも近づきたい。そう思った」

 幸恵は肚の底まで驚愕した。目の前の雫が、すらすらと喋っている。あの雫が。その吐息に膨大な量の感情を混ぜながら。それはまるで異次元のものを見せられた時のような、そんな心地だった。

「あんな風に私も上手くなりたい。あの人を超えていきたい。そして、黄前先輩に私のことを認めて欲しい。こんなにユーフォが好きなんだって、上手くなりたいって思ってる、私のことを」

 そこで思いの丈を吐き出し終えたのか、ふう、と一息ついて雫の手の力が弱まる。にも関わらず、幸恵は未だに固まったままでいた。それは必ずしも雫の突飛な行動に驚かされたから、というだけではない。初めて雫と出会った時、幸恵は彼女のことをちょっと変わった子ぐらいに思っていた。マーチング練習で救いの手を差し伸べられた時は、無口だけど優しい子と解釈していた。同じ電車に乗り合わせた時は普通に喋れる子だと感じた。そしてその認識は、今日この時までほとんど変わることがなかった。芹沢雫とはそういう人物なのだと、自分の中で彼女のことをいつの間にか、そう定義付けていたのだ。

 甘かった。雫のことを勝手に理解出来ていた気になっていた。雫がこんなに流暢に喋れるなんて、雫がこんなに熱い思いを胸の内に秘めているなんて、ひとつも知らなかった。それなのに、知ったつもりになっていた。雫について知らないことはまだまだ沢山あるかも知れない。今見せている雫のこの猛々しい感情だって、あくまで彼女の中のほんの一部分でしかなくて、もっと深く彼女のことを知ればまた違う一面を見ることもあるだろう。むしろ無ければおかしい。だって、人という生き物はそれほど単純ではないのだから。そんなことに思考を巡らせることすら出来なくなっていた自分自身の愚かさが、情けなかった。波濤のように押し寄せる後悔の念に責め立てられて、幸恵は奥歯をぎりりと噛み締めていた。

「それが私が北宇治に来た理由。だから、私は絶対笑わない、東中さんのこと」

 雫のその瞳は未だ強い熱を帯びて、はらはらと燻っている。幸恵はこの間、ずっと呼吸を忘れてしまっていたみたいだった。せめて自分を落ち着かせようと、雫が語った事の一つひとつを頭の中で整理していく。雫の憧れの人は久美子。雫が北宇治に来た理由は久美子に憧れたから。まるで自分が麗奈に憧れたのと同じように。そっか、そうなんだ。と、そこで幸恵はようやく息を大きく吸い、吐き出すことが出来た。

「そうだったんだ……」

 あまりに長いこと緊張の糸が張り詰めていたからか、喉から出たその声はひどく枯れていた。それにしても、まさか雫があの久美子に憧れの念を抱いていたとは、全く予想もつかないことではあったが、しかしいざ言われてみると、なるほど納得出来る部分もある。

「くみ姉って、ユーフォすっごい上手だもんね」

 その言葉に雫もこくりと頷く。

「春に入学した時、玄関前でやってた吹部の演奏。あの時、黄前先輩も吹いてた。先輩、去年よりずっと上手くなってた」

 そうなんだ、と幸恵は驚く。件の新入生歓迎演奏のことを、幸恵は当初知らなかった。彼女が入学式の日に登校した折、吹部は既に演奏を終えて撤収した後だったから。後日その話を友人達から聞いた時はとんでもないチャンスを逃したと思っていたものだが、どうやら雫はそこに居合わせていたらしい。

「今は隣で一緒に吹いてるから、もっと良く分かる。黄前先輩は凄い。きっと、もっと特別なところまで行くと思う」

 確かに凄いことかも知れない。自分のことでもないというのに、雫ほどの奏者に久美子が手放しの賞賛を受けているその事実こそが。

 流石に麗奈は別格としても、久美子の演奏技術はコントラバスの川島と共に、他の部員達からは頭一つも二つも飛び抜けている。小さい頃から良く知っている相手がそんな存在になっていることには内心驚きもあったものだが、いざ顔を合わせて会話をすれば彼女はやはり自分の良く知っている久美子で、その度に幸恵は密かに『ああ、やっぱりくみ姉だ』と安心していた。けれど、彼女がその領域に辿り着くまでには多分、尋常ならざる質と量の努力の積み重ねがあったことだろう。それは本当に凄いことだ。久美子がこれまで歩んできたであろう道程に、幸恵は思いを馳せる。

「芹沢さんの目標って、くみ姉に勝つことなの?」

 そう尋ねた幸恵に、雫はすぐには答えなかった。俯き、何かを吟味するように間を置く。

「勝ちたい、じゃないと思う」

 ぽつりと漏らして、雫はおもむろに川の流れに目をやった。つられるように幸恵もまた、雫の視線の先を伺う。

「先輩に認めて欲しい。認められるために、先輩よりも上手くなりたい。それだけ」

 雫の語るその理屈は、幸恵にはもう一つ理解しがたいものだった。それは一般的に言うところの『勝つ』ということと何が違うのか? そう考えた時、自分の中で何か得体の知れないもやもやとした感情が微かに蠢く。それは全くと言っていいほど掴みどころのないもので、手を伸ばした途端にするりとほどけて心の中に紛れ込んでしまった。

 今のこの思いをいっそ本人に直接ぶつけてみても良かったのだが、何故かそうすることは憚られた。雫ほど優れた音楽的能力の持ち主ならばもしかして、彼女にしか見えない世界があるのかも知れない。だとすればこのもやもやの正体も、自分には解き明かすことの出来ないものなのだろう。この時の幸恵はそう考えることで、納得させようとしていた。答えを見つけられずにいる自分自身のことを。

「とにかく、芹沢さんがくみ姉のこと、とっても尊敬してるんだってのは良く分かったよ」

 思考を振り切るように、幸恵は雫へと向き直る。そして今度は自分から雫の手を取った。

「じゃあ、あたしと芹沢さんは、これから盟友だね」

「盟友?」

「そう。芹沢さんがくみ姉に憧れてるように、あたしも高坂先輩に憧れてる。もっと上手くなりたい、認められたいって思ってる。同じ目標を持ってるんだから、お互い叶うように一緒に頑張ろうよ」

「それが、盟友、なの?」

 幸恵は大きく頷いてみせる。言っている事の意味を上手く呑み込めなかったのか、少しの間きょとんとしていた雫は、ふと何かに気付いたようにその視線を泳がせ始めた。ひょっとして今、雫は照れているのだろうか? そう思った時、とても言い表すことの出来ない温かくて豊かな感情が泉のように湧き上がってくるのを、幸恵は確かに感じ取った。

「そうだ。これからはあたしのこと、下の名前で呼んでくれていいから」

「下の名前?」

「うん。幸恵、って」

 その方が気兼ねしなくていいから、と幸恵は促す。初めは少し躊躇っている様子の雫だったが、やがて観念したようにおずおずと、唇を開く。

「……じゃあ、幸恵」

 それを耳にして、幸恵の頬が自然と緩んでしまう。凛とした涼しげな彼女の声で自分の名を呼ばれるのは、とても心地が良かった。

「さぁて、もう大分遅いし、そろそろ帰ろっか。あたしお母さんに連絡するね」

 誤魔化しついでに携帯を鞄から取り出そうとしたその時、グイと何かに身体を引っ張られる。見ると、少し俯き加減の雫が綺麗に尖った指先で、自分の制服の裾をチョンとつまんでいた。

「私のことも」

 そう言いながら雫は顔を上げた。その時捉えた雫の眼差しは、今までで一番柔らかく、じっと見つめていると吸い込まれてしまいそうなほどに、優しかった。

「下の名前で呼んでいい」

 その表情、その一言に、幸恵の心臓はものの見事に撃ち抜かれてしまった。嬉しさと恥ずかしさで変な形に歪みそうになる己の口をたしなめるように、幸恵はきゅっと唇を結ぶ。それでも自分の内側からどんどん染み出してくる幸福感が、表情を自然と綻ばせてしまっていた。

「ありがとね、雫」

 

 

 迎えを手配すると宣言したのは幸恵だったが、実際に迎えに来てくれたのは自分の親ではなく雫の母親だった。たまたま雫の母親が用事で黄檗(おうばく)の辺りまで来ていたから、と雫は言っていたのだが、もしかするとそれは自分に気を遣わせないようにと捻り出した彼女の方便だったのかも知れない。それはともかくとして、幸恵は雫の母が運転する車で自宅まで送ってもらい、また明日、と手を振って雫と別れた。

「おかえり」

 玄関を開けると居間から母の声が出迎えてくれた。ただいまー、と低い声で返事をして、幸恵は靴を脱ぎ家に上がる。

「わざわざ送ってもらって、お友達のお母さんにご迷惑掛けちゃったわね。今度何かお礼しなくちゃ」

「うん」

 頷いた幸恵は居間を通り抜け、二階へと続く階段に足を掛けようとする。

「あ、ちょっと幸恵。お風呂はどうする?」

「後で入るー」

 だらりと間延びした声で母にそう告げるなり、幸恵はさっさと階段をのぼった。自室に入り、明かりを点ける。鞄をその場に置き、勉強机の椅子を引いてそこに座る。肘を枕にして顔を乗せ、そのままの体勢で深く息を吸う。制服の裾からは焦げたソースみたいな香ばしさと共に、爽やかで微かに甘酸っぱい柑橘のような雫の匂いが、どこかにほんのり漂っている。何だかまるで、雫を全身にまとっているみたい。そんな風に感じて、幸恵はとてもくすぐったい気持ちになった。

 帰りの車中、送ってくれた雫の母がずっと嬉しそうにしていたことは、今思い返してみるととても印象深い。見た目が美人系なのは母娘でそっくりではあったけれど、あの人からこの子が生まれたとはにわかに信じがたいほど、母親は社交的な性格の持ち主だった。「小さい頃から友達が少なくて」とか「家から遠い高校に通うと言い出した時はどうなるか心配だった」などなど雫の半生についてひとしきり語った後、母親は幸恵にこう述べた。

『高校で良い友達が出来て、本当に安心した。これからも雫のこと、よろしくお願いしますね』

 面と向かってそう言われたことは、純粋に嬉しかった。母親が雫のことをどれだけ大事に思っているかを十全に推し量ることが出来たし、その雫の友達として認めてもらえたから。それを思い返す度、自分の方こそ雫と知り合えて良かった、と心の底から思うばかりだった。

「雫、かあ」

 ころころと口の中で飴玉を転がすみたいに、幸恵はその名を呟く。友達や同級生を呼び捨てするのはとっくの昔に慣れ切っているにも関わらず、こうやって雫の名を呼ぶことは、それまでとは次元の違うときめきと感銘を覚えるものがあった。生まれて初めて出来た盟友。明日からは同じ目標を掲げ、練習に精を出すことになる。雫のようにとびきり上手い奏者になれるかは分からないけれど、いつの日かきっと肩を並べて吹けるようになってみせる。そして憧れの人達に認めてもらうんだ。必ず、二人一緒に。

 その道を一人きりで歩くのではないということがこんなにも心を満たしてくれるだなんて、今の今まで思いもしなかった。満ち足りた気持ちをじっくりと堪能するように、その夜幸恵は何度も何度も雫とのやり取りを思い返しては、彼女の名を口にしていた。

 

 

 

 

「東中さん、最近だいぶ上手くなったね」

「へっ?」

 とある日のパート練習の最中、唐突に吉沢からそんなことを言われ、幸恵は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。

「ね、高坂さんもそう思うよね?」

 吉沢に話を振られた麗奈がちらりと幸恵を見る。その射抜かれるような視線に、幸恵の身体はぞくりと震え上がった。麗奈はそのまま少しの間だけこちらを凝視していたが、やがて、

「そうね」

 小さく告げ、その薄紅色の口角に緩やかな弧を描かせた。彼女のその一言はまるで電撃みたいに幸恵の耳から入って全身に激しい衝撃をもたらし、背中からすうっと抜けていく。

「あ、ありがとうございます!」

 しどろもどろになりながらも、幸恵は二人に向かって頭を下げる。あの麗奈に、自分の上達を一つ認めてもらえた。憧れに一歩近付けたような気がして、身体の中を達成感が駆け巡っていく。これもきっと雫のおかげだ。ぎゅっと拳を握り締めながら、幸恵は二人での練習の日々を思い返していた。

 

 

 

 

 吹奏楽部員の日々の練習は、最初に各々自由に音出しや基礎練習を行うところから始まる。パートによっては基礎練習から全員一緒に取り組むところもあるのだが、ことトランペットパートに関しては個々の自主性を重んじる麗奈の方針から、原則としてそれぞれがバラバラに基礎練習を行っていた。その後、三十分から一時間ほど個人練習の時間を経てからのパート練習。ここではパートリーダーである麗奈が指導を担当し、パートとしての演奏の完成度を高めていくことになる。合奏のある日はパート練習は早めに切り上げられ、音楽室での全体練習。それが終わる頃には部活としては解散の時刻を迎えるのだが、吹部のほぼ全員はその後も自主的に居残り、個人練を重ねて合奏で見つかった課題を徹底的に復習していく。これが概ね、北宇治吹部の平常的な練習スケジュールとなっている。

 あがた祭りの夜以来、幸恵は基礎練習や個人練習を雫と一緒に行うようになっていた。何しろ雫の演奏技術は部内でも群を抜いて上手い。同じ一年生の中では間違いなく、彼女がトップの腕前を持っていると断言することが出来る。それどころか、雫が憧れているという久美子の水準にだって既に匹敵するものを持っているかも知れない。そんな雫と練習を共にすることで、少しでも自分の技術向上を図ることが出来れば。そう幸恵は期していた。

「駄目、また音が掠れてる」

「出し方切り方が乱暴。求められてる曲調に合ってない」

「いつもハイAの時にピッチが不安定になってる。幸恵の悪い癖」

 こんな風に雫からは、びしびしと鋭い指摘が矢継ぎ早に飛んでくる。麗奈や滝の指導も同じことが言えるのだが、雫は幸恵の本当に些細なミスや、ミスとすら呼べないような小さな音の揺らぎまで見逃してくれない。一般的に、音楽に長けた人は耳が良いと言われる。この耳の良さとは遠くで交わしている話し声も良く聞き取れるというような意味ではなく、音程の高い低い、音の形、響き方や音量、それと奏者達が音色(おんしょく)と呼んでいる音の質感、そういった様々な要素の差異を聞き分ける感覚能力を示すものだ。この点において、雫は非常に良い耳を持っていた。

 そして彼女はこと音楽に関して、ほんの僅かの妥協をも許さない。幸恵にしてみれば『アドバイスの一つでも貰えたら』程度の軽い感覚でお願いしたことだったのだが、そのつもりでいざ一緒に練習を始めた途端、雫からは針の山のように沢山の鋭い指摘が飛び出して来た。初めのうちはそれらに貫かれ打ちのめされ、下校の時間を迎える頃にはほうほうの体となっていたものだ。

 しかしここで負けてなるものか、と幸恵は歯を食いしばった。指摘を受けた箇所は速やかに修正するよう努め、楽譜を毎日家に持ち帰っては何度も何度も目を通しながらメロディを口ずさみ、頭の中に克明な音のイメージを描いていく。今までに無いほど自分の音に神経を集中させ、一つ一つに魂を注ぎ込むように吹くことを意識する。これらを日々繰り返すうち、徐々に雫からの指摘は減っていき、それと同時に自分の演奏技術が少しずつ高まりゆく実感を得始めた。気付けばこんな音楽漬けの毎日に、幸恵はすっかりのめり込んでいたのだった。

 

 

 

 

 マウスピースから唇を離し、手の甲でぐいっと口元を拭う。あがた祭りから既に三週間弱。明日からはいよいよ、コンクールメンバーを決めるためのオーディションが行われる。

 二日に分けられたオーディションの日程で、トランペットは一日目の最初、すなわち金管の一番手となっている。憧れの麗奈と一緒にコンクールの舞台に立つためには、何としてでもこのオーディションでレギュラーメンバーに選出される必要がある。他のトランペットパートの面々も、今はオーディションに向けて各々準備を入念に行っていた。同じパートの仲間同士とは言え、この時ばかりはお互い競争相手となってしまう。こればかりはオーディションの性質上、致し方の無いところである。

 幸恵もまたその時に向け、個人練を通して最後の調整を怠りなく進めているところだった。トランペットに息を吹き込み感触を確かめつつ、隣にいる雫に声を掛ける。

「調子はどう?」

「悪くない」

 雫はいつも通り、眉一つ動かさずに返事をする。彼女の持つ銀色のユーフォから奏でられる音は、それが虚勢やハッタリではないことを雄弁に物語っていた。ただでさえ凄いと思っていた雫の演奏技術は、ここ数週間の間にさらに高められている。課題曲・自由曲共に楽譜全編はとうにさらえているようだったが、元より緻密な音楽表現には数段も磨きが掛けられ、何度吹いても美しい音色を放っていた。一体この子はどこまで伸びていくんだろう。これならば明日のオーディションでレギュラーの座を射止めるのは間違いない、と幸恵は確信していた。

「幸恵の方は?」

「あたしはめっちゃ緊張してきた。明日ミスしなきゃいいなとか、自信の無いとこ指定されたらどうしようか、とかって」

 その瞬間を想像して、ピストンに置かれた幸恵の指が微かに震える。中学時代に在籍していた吹奏楽部ではオーディションは無く、コンクールのメンバーは上級生や小学校からの経験者が優先して選ばれていた。なのでこのように部内の人間同士で本格的な競争をするのも、幸恵の音楽人生の中では初めてのことだ。

 現在のトランペットパートは三年生が麗奈と吉沢の二人、二年生が三人、そして一年生は幸恵を含めて四人。この中から何人がメンバーに選ばれることになるかは滝の采配次第ということにはなるのだが、標準的な編成から考えて六人前後になる可能性が高い。とは言え経験者が多い上にあの麗奈に揉まれてきただけあって、トランペットパートは実力者揃いだ。いくら上達の手応えを感じていると言えども、この一同からレギュラーの座を勝ち取れると断言出来るほど、幸恵も絶対の自信を持てているわけではなかった。

「大丈夫。普段通りにやれば、幸恵はきっと受かる」

 雫の言葉に幸恵は素直に「ありがとう」とはにかむ。その言葉を幸恵は純粋に、励ましの一種として受け止めていた。

「頑張ろうね、お互い」

「うん」

 互いに顔を見合わせ、幸恵は雫と頷き合う。雫は表情を変えることはなかったが、その瞳の奥にはいつもと違って小さな炎が静かに灯っているみたいだった。

 

 

「失礼します」

「どうぞ」

 一礼し、幸恵は音楽室へと入る。今日はいつものように部室中ところ狭しと椅子が並べられてはおらず、室内の手前側に置かれた二つの学生机にそれぞれ滝と松本が座り、対面する位置には空っぽの椅子と譜面台が一つ置かれているのみだ。その譜面台に自分の楽譜を置き、椅子に座る。正面の滝は幸恵ににっこりと朗らかな笑みを向けた。その笑顔と無音の空間に、幸恵はますます委縮してしまう。

「東中幸恵さんですね。失礼ですが、東中さんはいつからトランペットを始めたのですか?」

「はい、えっと、中学の、いえ中学校に入ってからです」

「なるほど」

 何かを手元のノートに書き留めた滝はもう一度顔を上げ、

「緊張していますか?」

 と、様子を探るように話し掛けてきた。そんな事を言われるまでもなく、既に緊張はピークを越えてしまっている。元々があがり症な体質で、いざ本番というその直前になると、この世が終わってしまったかのような絶望感に全身を縛られてしまう。例えば先日のサンフェスのように、自分達の成果をただ聴衆に披露するだけの演奏会であればここまで緊張することは無い。しかしコンクールの本番のような一発勝負の状況になると、幸恵は毎回決まってこのような状態になってしまうのだった。

「はい」

 素直に頷く幸恵の青白い表情を見て、滝は苦笑めいた吐息を漏らしてから、両の手のひらを幸恵に向ける。

「焦らなくて大丈夫ですよ。呼吸を整えて、落ち着いてから始めて下さい。トランペットパートの課題は自由曲第三部、金管の連符が始まるRの小節からですね」

「はいっ」

 何とか滝に返事をしたものの、もはや幸恵はいっぱいいっぱいだった。自分が息を吸っているのか、それとも息を吐き出しているのか、それすらも分からない。楽器を構えようとして、ベルが小刻みに揺れていることに気が付く。微かに震える唇はちっともマウスピースの感触を捉えない。そのままでは例え吹き始めたとしても、まともに音が出るかどうかは怪しかっただろう。幸恵は一度楽器を下ろし、その場で大きく深呼吸を始めた。

『普段通りにやれば、幸恵はきっと受かる』

 頭の中に雫の声が響く。すっきりと澄み切った彼女の声の涼やかさは、ぐつぐつと煮え滾る幸恵の脳内を冷ましていくかのようだった。そうだ。自分は自分なりに、今日この日のために一生懸命頑張ってきた。今さらジタバタしたってしょうがない。自分の持っているものを全て吐き出し切って、後は運を天に任せよう。そして、もしも万が一、自分がコンクールメンバーに選ばれたなら、その時は。

 意を決し、幸恵は短く強く息を吐き出す。

「お願いします」

 楽器を構えた幸恵は呼吸を合わせ、トランペットに息を吹き込んでいった。後はもうとにかく、練習したことをそのまま滝の前で披露するしかなかった。自分が上手に吹き切れたかどうか。それすらも今一つ記憶に残っていないほど緊張していたのは確かだが、指定された箇所の演奏を終え音楽室を出た後の幸恵の心情は、実に晴れ晴れとしていた。

 

 

 

 

「最後にトランペット。三年、高坂麗奈」

「はい」

 副顧問の松本の点呼に、麗奈が凛とした声で力強く応じる。既にオーディションの二日間は過ぎ、滝によって決められたコンクールメンバーの発表を、副顧問の松本が行っているところだった。

 この直前に発表された低音パートのメンバーには、久美子と雫が共に合格を果たしていた。それを喜ばしく思う気持ちもあるものの、そのことに思いを巡らせる余裕も今の幸恵には殆ど無い。目の前の光景がぐるぐると渦を巻いているように見える。身体の内側では心臓がバスドラムみたいな重い音を鳴らしているみたいだ。気管が荒縄で締め上げられたかのように息苦しい。合格者の名が順番に読み上げられる中、幸恵は祈りの手を固く握りしめた。どうか、どうか選ばれますように。麗奈と、雫と、憧れの人達と、一緒の舞台に立てますように。

「一年、東中幸恵」

 松本に名前を読み上げられた瞬間、幸恵は自分の身体の機能が全て停止してしまったかと思うくらい、その身を極限まで強張らせてしまった。

「はい!」

 力強く返事をする。本当に、自分が選ばれたのか。そう思ってふと目の前を見ると、ホルンパートの上級生が両手で顔を覆い肩を小刻みに震わせていた。すぐ隣からも静かにすすり泣くような音が聞こえる。二年生の先輩は三人いた。そして自分の名が呼ばれるまでに、彼らの名は二つ分しか読み上げられていない。それが何を意味するか。彼女達だって昼夜を問わず毎日必死に努力していたし、当日だって合格出来るように力の限りを尽くしたことだろう。だがオーディションの裁定基準は実力主義。努力の多寡や学年などでは決まらない。一人ひとりの頑張りだとか事情だとか、そんな事はお構いなしに突きつけられた結果が、部員達一人ひとりに優劣を付けていく。落ちてしまった人がどんなに泣こうが喚こうが、最早この裁定が覆ることもないのである。

 その残酷な現実を目の当たりにしながら、しかしそれでも、幸恵は身体の内から湧き上がる喜びを抑えられずにいた。やった。やっと中学時代からの夢が叶えられる。憧れの麗奈と一緒に、コンクールの舞台で演奏出来る。だけどそれで終わりじゃない。もっとだ。本当の意味で憧れに辿り着くためには、もっと手を伸ばさなければ。

 幸恵の他に一年生からはもう一人が選ばれ、トランペットパートからは合計で六人がコンクールメンバーに選出された。未だ発表の続く中、幸恵はそうっと雫を見やる。やはりと言うべきか何と言うべきか、メンバー入りが決まったこの時でも雫は至って平静を保っていた。雫にとってこのオーディションはただの通過点でしかないのかも知れない。彼女もまた、本当の目標とすべきものはその先にある。久美子より上手くなりたい。久美子に認められたい。その思いを遂げるためには雫にだって、まだやらなければならない事があるのだから。

 丁度その時、こっちに顔を向ける久美子とパチリと目が合った。反射的に幸恵は周りに気付かれない角度でにっこり微笑み、胸の前でピースサインを送る。久美子は周囲に配慮してか表情こそ変えなかったものの、やはり胸の前でこっそりと細いピースを返してくれた。そうだ、レギュラーに選ばれたという事は、久美子とも一緒の大舞台で吹くことになるんだ。それを改めて認識した時、幸恵は体の芯にじゅうっと熱い何かが染み渡っていくのを感じ取った。

「では次に、今ここに残ったレギュラーメンバーを対象に、ソロオーディションの希望者を募る」

 落ちてしまった人達が退室した後で、松本は高らかに宣言をした。一度は落ち着いた幸恵の心臓が、再びドクドクと脈動を強めていく。これから自分のすることは、恐ろしく非常識なことだ。荒唐無稽に輪をかけて無鉄砲とさえ言えるかも知れない。こんなことをしてその後、周囲とどんな関係になってしまうか。どんなことを言われるのか。幸恵にはまるで想像もつかないものだった。けれどそれらに対する恐怖心は、一つとして無かった。

 だって、今しかチャンスは無い。例え届かなくたっていい。手を伸ばした分だけ、必ずそこへ近付いていくはずだ。それを何度も何度も繰り返した先にきっと、望み焦がれた自分自身が居るに違いない。そこへ向かって手を伸ばせるのは、今この時だけなのだ。

「次、トランペットパート。ソロを希望する者は」

 松本の問い掛けに、ちょうど空の月を掴もうとする時のように、幸恵はぴんと高く真っすぐ手を挙げた。

 

 


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