という喜びのままにキリよくエピローグまで頑張る作者なのであった(
「ああああァァァァアアアアアアア――――!!?」
神界、ヘラの領域に慟哭が響き渡った。
必滅を誓って放った災いの魔牛、それが小太陽に呑まれ焼失するという光景に理解を拒み、行き場を失った感情が怨嗟となってヘラを奏でた。
「あり、えない……あり得ないありえないアリエナイ――!! こ、こんなこと……こんな結末があってたまるものか――!? この妾がことを仕損じるなぞ、あの端女に敗れるなぞあっていいはずがない――!!」
ヘラは狂乱していた。
誰の目にもエウロペの敗北は明らかだったはずの戦い。
しかしながら如何なる不条理か、十重二十重にも立ちはだかる絶望の壁を奴は打ち砕き、粉砕し、蹴り破って、あらゆる神々を、人々を、大地を味方につけてヘラ渾身の神罰を退けるという、神の思惑を以てして見通せなかった結末に混乱――否、いっそ恐怖すらしていた。
神性すら帯びていない人間――だったはずだ。
取るに足らない矮小な命だったはずだ。
ただの――小娘のはずなのに。
「な、なぜあれは生きている――? 妾の怒りがなぜ通用しない!? なぜ妾が――たかが人間の娘に恐怖しているの!!?」
戦いの最中、始終笑みを浮かべていたのはエウロペ。
一方で、始終心かき乱されていたのはヘラ。
勝利の栄光を掴んだのはエウロペ。
敗北の屈辱に震えるのはヘラ。
エウロペには誰もが味方し――
「――なぜ、妾は……妾には、誰も微笑まないの……!!」
「――后よ……」
荘厳なる声が響いた。
ヘラが弾かれるようにして面を上げる。その顔には、絶望が張り付いていた。
「ぜ、ゼウス……!」
「后よ」
事ここに至り、ヘラは己のしでかしたことを漸く理解した。
嫉妬に狂ってゼウスの愛人に破滅を齎そうとした咎に――ではない。
そんなものは、神と人との差の前には大した問題ではない。人にとって如何に理不尽であろうとも、神が人を罰することに如何なる咎があろう。不興を買いこそすれ、罪として糾弾するには至らない。
だが、箍を外し、限度を忘れ、単なる小娘への報復を越えて世界を破滅させんとした獣を産んだ罪。
こればかりは、如何なる神であろうと免れ得ぬ大罪である。
「わ、妾は――――!!」
ヘラは後退り、喉を引き裂かんばかりに激情を吐いた。
「妾に、なんの不足があるのです……!? いつもいつも、妾を蔑ろにして目移りして! 気の浮つくままに下民を貪り、貞淑たる妾を差し置いて愛を囁いて――!! その報復の矛先を貴方様の愛人に向けることを嫉妬と誰もが詰って!! ならば妾は! 妾はなんのために貴方様の后となったのです!? 貴方様が熱心に求めたからこそ、妾は貴方様に操を立てたというのに! 妾の愛では貴方様を繋ぎ止められないと……その怒りと悲しみと! 憎しみと報復を求めることを!! ――――それさえも、許されないというのですか……ッ」
それは積もりに積もった鬱憤の瀑布であった。
オリュンポスの治世の始まりより溜めに溜め込んできた感情の坩堝、それが蓋を失って流れ出る。
言い切ったヘラは、いよいよ五体から力を失って崩れ落ちた。
常の美貌も光輝も翳り、ただの手弱女のように、捨てられた女がそうするように震えた。
伏せられた顔からは表情は窺えない。しかし、立ち昇る恐怖と絶望、深い不安が彼女の余裕の無さを明確に示していた。
「――ふ、ふふふ……さぁどうとでもなさいませ。アレスの丘で妾の罪を衆人環視のもと糾弾なさいますか……? それとも……このような醜い女を見限り、タルタロスの底へ投げ捨ててしまうのかしら……? ふふ……如何なる結末とて、最早妾には――」
「后よ、もう泣くな」
雄々しくも温かい腕がヘラを包み込んだ。
久しく無かった温もりに思わず涙を忘れ、ヘラが面を上げる。
ゼウスが、輝ける双眸に慈悲を湛えて微笑んでいた。
「儂とてそなたの苦しみは知っておった。逃れ得ぬ宿業とはいえ、そなたを悲しませる苦しみを、儂もまた味わっておった。儂が愛を注いだ人の子へそなたが憎しみを向けるのを見過ごすのも、そなたへの後ろめたさ故のことかもしれぬ。しかしな、后よ。我が愛は斯様に移ろいやすく多かれども、そなたへの愛を忘れたことは一度たりとてありはせぬ――」
「今更、そのような――!! それに妾は、わたしは……ァッ、アアッ!」
胸に顔を埋めて涙に暮れるヘラを、ゼウスはそっと見守った。
ヘラは泣きに泣き、溜まりに溜まった激情を全て嗚咽と涙に変えて童女のように泣き続け、両の目元を紅く腫らすまで泣いた。
子鹿のように震えて見上げるヘラの、美しい目尻に溜まった雫をゼウスがそっと指で拭う。
そしてヘラを横抱きに抱えると、神域の端から下界を見下ろして優しく囁いた。
「見よ、ヘラや。凍てつく冬の空を裂いて春風が今に吹こう。氷に閉ざされた大地は雪解けを経て恵みを思い出していく……そなたの愛するカナトスの泉も、清らかな水を湛えておろう」
「ゼウス様……」
「のう、ヘラや。今一度、カナトスの聖水に清らなるそなたを見せておくれ。儂はもう、そなたに夢中じゃ」
「――本当に、もう。仕方のない御方……」
安らぐヘラの顔からは、すっかり憑き物が抜け落ちていた。
嫉妬に狂う女の姿は、最早無い――――。
「うぐぐぐぐ……身動きできないのがこんなにも辛いなんて……!!」
「今度こそ馬鹿な真似はなさらないでくださいまし。……さ、林檎が剥けましたよ」
「馬鹿じゃないしー! ぅんんん~っ、んまんま♪」
どっこい生きてたクレタの母。
クレタ島はクノッソス宮殿の離れに隔離されながら、ギュネイの甲斐甲斐しい世話を受けるエウロペ。
激闘を終えて星海からタロス共々堕ちてきたエウロペだが、なんか普通に生きていたのであった。
とはいえ重傷を負ったことに変わりはなく、クレタ島に落着するや否や国民総出で運び出され、万全の体制のもと看護という名の監視を受けていた。
絶対安静を言い渡され全身をぐるぐる巻きに拘束されたエウロペのやることと言ったら、ギュネイに世話をされることくらいのもので、状況的・物理的に一切の自由が利かない現状に早くも音を上げたのだった。
「ええ、ええ。今回ばかりは絶対安静にされないと困ります。クレタの民の皆々が……いえ、ギリシャ全土の人々があなたの勝利を讃え、災いの終わりに沸き立っているのです。そこであなたが無茶をして大事に陥ってごらんなさい……今度こそ人々は悲しみから立ち上がれませんよ」
「ま、仕方ないか。それにお腹の子たちのこともあるものね、さすがのあたしもしっかりしないとだわ!」
「私としては、なぜあれでお腹の子が無事だったのか不思議で仕方ないのですが……」
激闘の最中で誰もがうっかり失念していたが、エウロペに宿る命もまだなぜか無事であった。
運び込まれて真っ先に駆けつけた産婆が泡を食って診断し、誰もが流れるのを覚悟して項垂れる中、狂喜乱舞した産婆の歓声は記憶に新しい。
絶望視されていた無垢なる命が無事であることを、誰もが歓喜した。
その報せが島中に広まるや否や、人々はこぞって祝い、いつしか祭事にまで事が大きくなっていたのだ。
誰よりもアステリオス王自身が率先して祭りを仕切っていたのだから、その熱狂の規模たるや察するに余りあろう。
当のエウロペは子供が無事であったことを当然のように受け止めながら、その熱狂に混ざれないことに終始不満げであったが。
そう、今やエウロペはギリシャ全土で讃えられる一大英雄であった。
クレタのみならずギリシャ全土を破滅に導かんとした魔牛を屠り、あらゆる神々、あらゆる人々、あらゆる大地を味方にした不世出の女傑であるとされ、ある地方では乙女座に彼女を見出す動きすらあるという。
エウロペはそうして注がれる崇敬を満更でもないように高笑いしながら、しかし最早あのような力は無いことをギリシャ全ての神と人に明らかにした。
この身はただの女である、常なる人となんら変わることはない。そう告げることで過剰に持て囃されることを戒めるも――当の本人としてはただの照れ隠しでしかなかったが――それすらも奥ゆかしさと捉えられ、その畏敬は絶えることがなかった。
結果としてエウロペは神にも迫る大英雄として認知され、その威光に与ろうと、あるいは絶世と噂される美しさを一目見ようと、クレタの島は訪れる人々で休まるときがなかった。
そのクレタの島では先の大戦からタロスを真実島の守護神であると認め、犬の愛好が流行り、兵士たちはこぞって槍を構えるようになった。
そこかしこで賛美を唱える人々の声。
当初こそ調子付いて持ち上げられるままのエウロペだったが、一週間が過ぎる頃にはすっかり飽きて、一月経つ今では耳にするたびに顔を顰める始末である。
エウロペは図に乗りやすく調子づきやすいアホではあるが、天丼には厳しかった。
「せめて産まれるときくらいは静かになっててほしいわねー。産む時もいちいち実況されるなら鉄拳制裁よ、鉄拳制裁!!」
「そのときは私も加勢いたしますとも。セコンドはおまかせくださいな」
そんな取り留めのない会話を楽しみながら、エウロペは傾いていく太陽を眺める。
こうして穏やかに眺める光景に、普段のエウロペは大して感慨を持たなかったが……当たり前のその姿が、今この時だけは何よりも尊く思えた。
「お腹いっぱいになったし、そろそろ一眠りするわ。昼も夜も騒がしくてすっかり調子狂っちゃう」
「ええ、おやすみなさいませ、エウロペ様。きっとすぐに出歩けるようになりますとも」
「それ、一ヶ月前からずっと言ってるじゃないの」
「エウロペ……エウロペよ、起きなさい」
「んぅ……?」
眠りに落ちたはずのエウロペは、己を揺り動かす声に眼を開けた。
途端、光輝に満ちる視界。寝ぼけ眼を擦る間もなく覚醒すると、飛び込む偉容に目を見開いた。
ここは天上、神の領域。
エウロペの視線の先、中央に大神ゼウスを配し、その両翼に残るオリュンポス十二神が列し、その周囲をその他の遍く神々が取り囲む。
ギリシャ全土の神々が一堂に会する大光景に、さしものエウロペも跪いた。
「オリュンポスの神々におかれましては、拝謁の栄誉を賜り光栄至極!」
「よい、面を上げよ。我が光輝を直視することを許す」
「はっ」
ゼウスの許しを得てエウロペが顔を上げる。
許しなく仰ぎ見れば目を潰すとされる大神の尊顔、それを肉眼で捉えることの意味を、ギリシャの人々が知らぬはずもない。
かつて下界で情を交わしたときは違う、真実神と人としての邂逅において、その栄誉に与ることの偉大さを、エウロペが理解できぬはずもなかった。
「うむ。それとな……うむ、もう畏まらずともよいぞ。儂が許す。そなたはやはり、闊達に振る舞うのが相応しい」
「それなら――――お目にかかれて光栄よ!」
腐っても王家の育ちである。
その振る舞いは堂に入って厳粛たるものだったが、ゼウスの許しを得るなり途端に調子を取り戻す。
それを不敬と咎める神はこの場にはおらず、却って笑みを浮かべるくらいであった。
「それで、こうしてあたしを喚んで一体どんな用件かしら? さすがのあたしもちょっぴり緊張しちゃうわ!」
「うむうむ。まずは……先の戦い、実に見事であったと褒めて遣わす。そなたの尽力あってこそ、ギリシャの平穏は保たれた。その功績を讃え、我ら神々がここに列するものである」
「謹んで受け取るわ! そうね、遠い故郷に残したお父様とお母様、あとついでにお兄様に顔向けできるのは最高ね! やっぱり勝手に出ていったことは気掛かりだったもの!」
「――貴方様?」
「うぐっ……そ、それはよいではないか……ともあれ、ゴホン!」
ヘラの横目に貫かれ、動揺するゼウス。
エウロペにそのつもりはないが、恋い焦がれるあまり拉致した負い目がここに来て噴出した。
白ける周囲の視線を咳払い一つで誤魔化し、言葉を続ける。
「そなたの功績は、まこと比類なき偉大なものであるとゼウスの名のもとに認めよう。従って――そなたには褒章を与えんとする」
「あら、一体何をいただけるのかしら? とっても楽しみだわ!」
「そうさな、なにが良い?」
「えっ――?」
思わぬ返答にきょとんと言葉を失うエウロペ。
してやったりと笑みを浮かべるゼウスの顔を、エウロペは見上げた。
そうした様子が心底愛おしくて堪らないといった様子で、ゼウスは続けた。
「言ったであろう、そなたの功績は比類なきものであると。そなた自身は理解が及ばぬやもしれんが、そなたが成し遂げた偉業は、我らオリュンポスの神々がそなたの願いを聞き届けるに十分なものよ。遠慮することはない、そなたの望むままを申してみよ。一つだけ、我らは不足なくそれを叶えることを誓おうぞ」
およそギリシャの人々にあって、これほどの栄光が他にあるだろうか。
神の戯れによって一方的に与えられるのではない。
神の思惑によって一方的に叙せられるのではない。
英雄が、英雄の望むままに、その願いを神が叶えるという大盤振る舞い。
これほどの寛容と褒章を神々が示すなど滅多にあることではなく――その寵愛、かのペルセウスに伍する。
さすがのエウロペも瞬時に理解が及ばず、呆けた顔を晒した。
「私に望むなら、永劫の美を約束しましょう」
美の神アフロディーテが妙やかに言った。
「わしに望むなら……そうさな、お前のための宮殿を建てよう」
鍛冶神ヘパイストスが腕を鳴らして言った。
「僕に望むなら、この世に二つと無い音楽の才を与えようじゃないか」
太陽神アポロンが、竪琴をかき鳴らして微笑んだ。
他にもポセイドンが、ハデスが、アテナが、アルテミスが、デメテルが、ヘルメスが、アレスが、ヘスティアが。
十二神以外の神々もまた、ヘカテーを筆頭に望むならばと口々に誓いを立てる。
そして――――
「わ、妾に望むならば――」
ヘラもまた、例外ではない。
先の確執が後ろめたいのか、視線を合わせられないまま、ゼウスの陰に隠れるように、消え入るような声でか細く言う。
ヘラは、カナトスの泉での禊を経て、本来の母性と慈愛を取り戻していた。
しかしながら、しでかした事が事だけに合わせる顔もないといった様子で、この場に留まる間も始終肩身が狭そうに小さく身悶えしていた。
「望むならば、わ、妾からは――」
「――ならばっ!」
ヘラを遮って、エウロペが大音声を発した。
神の言葉を途中で遮る不敬。しかしながら、事の経緯を知る神々には、それをやむなしとする情けがあった。
やはり、と悲しげに目を伏せるヘラ。ゼウスは僅かに眉を顰めると、エウロペにその先の願いを促した。
「ならば白き腕のヘラ神に願い奉る! どうかこの胎に宿る子らへ祝福を!!」
――エウロペは、ヘラの御前に跪くと、頭を垂れてそう願った。
そして仰ぎ見る双眸には、一切の蟠りも無い。心底からの誠心と畏敬を以て、敵対したヘラを見据えていた。
これにざわめいたのは神々である。
よもや、あれほどの悪意を向けたヘラに跪くなど――その確執は永劫晴れぬとばかり思っていた神々は、度肝を抜かれたようにエウロペを見た。
それは、他ならぬゼウスもである。他の神ほど露骨ではないにしろ、その意外を取り繕うことも忘れてエウロペの正気を問うた。
「本気か、エウロペよ。そなた、本当に我が后へ願うというのか」
「……ダメなの?」
「ダメではない。ダメではないが、しかしのう……」
どこかズレたエウロペの反応に、ゼウスは髭を扱いて思い悩む。
傍らに立つヘラは、ことの成り行きが理解できないとばかりに、口を丸く開いて両者を見ていた。
「そなたと后には、拭い難い確執があったのではないか? この場に神は数あれど、まさか后に願うとは誰も想像せなんだ」
「あっ、そっか。そういう考えもあるのよね……」
「そなたは違うと? それは何故じゃ」
「だって、あたしに恨まれるだけの理由があったのは確かだもの」
エウロペは、未だ動揺の落ち着かないヘラを見据えて言った。
「あなたの夫を誘惑してしまったことは謝るわ! そこにあたしの意図は無かったとしても、それで納得がつかないのが愛だもの。だから……ごめんなさい!!」
エウロペが、跪くのとは違う意味で頭を下げる。
それに誰より驚いたのは、他ならぬヘラであった。
そして他の神々もまた、思わぬエウロペの謝罪に目を白黒させる。
「あなたがあたしを憎んでいると知ったとき、それも仕方ないと思ったわ。だって誰より貞淑なあなたですもの、その愛を一時とはいえ奪ったあたしを許さないのも当然! だからあたしを呪ったのも理解できたし、魔牛を差し向けたのも仕方のないことだと思ったわ」
エウロペの告白には、なんの偽りもなかった。
心のままの言葉を、感情を、そのまま音にして紡ぐ。
「だけど、それをそのまま受け入れてはあたしだけじゃなく、他の人々やお腹の子たちまで巻き添えになってしまう。それだけは見過ごせなかったから、必死に抵抗したわ。使える全ての手を使って、あなたの怒りに抗った。結果として勝って、こんな栄誉を授かるまでになったけど……だからといって、あたしとあなたの確執が晴れるわけじゃない」
神々は、いつしかエウロペの言葉に聞き入っていた。
騒動の当事者である女二人。その赤心の通わすを妨げてはならないと弁えるがゆえに。
「あなたがあたしを憎むのは当然。だけどあたしは、決してあなたを憎んでいない――」
「な、なぜ……!?」
ヘラは、震える声でエウロペに問うた。
対するエウロペは、凛とした声で答える。
「
その言葉に、この場の誰もが息を呑んだ。
あまりに毅然としたエウロペの気迫に、知らず気を呑まれる神も現れた。
他ならぬヘラこそが、信じられないといった様子でエウロペを見つめていた。
「たとえあなたがあたしを憎んでいても、あたしが神々を畏敬する心に変わりはない。だからこそゼウスに告白されたときは嬉しかったし、あなたに憎まれたのも当然と思えた。あの戦いも、あたしとあなたの喧嘩と思えば、これ以上無く女冥利に尽きたわ! だからこうして拝謁が叶って、とてもとても誇らしい!」
エウロペはこれ以上無い喜びを浮かべて謳った。
ギリシャの民としてこの場に招かれたことを、そして畏敬する――ヘラも含む――神々と触れ合える栄誉を、心の底から誇りに思った。
そこに偽りはない。嘘もない。真実赤心のみを述べてエウロペは歓喜に打ち震えている。
「――だけど」
だけど。
一転して、再びヘラの御前に跪いた。
そして心から懇願しながら、額を地につけて言った。
「だけど、それであなたがあたしを許すかは、あたしが口を挟めるものではない。もし今以てあたしを許せぬというのであれば、この首を捧げてもいい。だけどどうか――」
「どうかあたしの子たちへの祝福だけは賜りたい! 元気な子が産まれ、健やかに育つよう祝いでいただきたい! あなたに慈悲があるならば、それをあたしに向けろとは言わない。だけど子供たちだけはどうか許してほしい――――!!」
それだけが、あたしの望みです――。
そう言い切って、エウロペは沙汰を待った。
神々はいよいよ言葉を失って、互いの顔を見合わせた。
十二神もまた、打ち拉がれたように沈黙に陥っている。
ヘラは、まったく言葉もないといった様子で。
ゼウスは、そんな后を愛おしげに見やった。
「后よ」
「――――」
「そなたの心のままに応えてやるといい」
ゼウスの後押しを受けて、ヘラが一歩進み出た。
下げられたエウロペの首筋を、そっと見下ろす。
そして、ぽつり、ぽつりと。
赤子の手を取るような繊細さで、静かにエウロペに問うた。
「――その言葉に、嘘偽りはないな」
「あたしは心の全てを晒したわ」
「ならば」
ヘラは、すぅと息を吸って――――この場の全てに声を轟かせた。
「ならば妾の名のもとに、そなたに祝福を与えましょう! そなたが宿せし三つの命は、一切の瑕疵無く産まれ、如何なる病も知らずに育ち、偉大なる者となることを約束しましょう!! そして! ――これを以て我らの間に横たわる深き溝は埋められたことを此処に宣言します!!」
この場に参じる神々の誰もが、諸手を挙げて賛成した。
あまりに衝撃的なヘラの和解。赤心を以て神々の女王と打ち解けたるエウロペの忠義と信心に、誰もがその名を讃えた。
ヘラもまた、それでこそ我らの女王と讃えられ、大神ゼウスの妻、最も貞淑たる者の名を確固たるものとし、その威光を復権した。
「……いいの?」
「さて、なんのことやら。そんなもの、カナトスの水に流してしまったわ。ねぇ、貴方様?」
「ふほほほほっ、そうじゃな! まこと、気持ちのよい光景であった! うむ、うむ……今のそなたたちは一段とまた、美しく輝いておるのう!」
「そなた……
「ムォッホン! いやいや、そなたは一段と美しいのう! はっはっはっはっ!」
「まったく……」
心底呆れた様子で白い目を向けるヘラ。
呵々大笑するゼウスを白々しく見やると、振り返ってエウロペに目を合わせた。
「エウロペや」
「ん、なに?」
「我が夫はあの通りゆえ、まぁ……犬に噛まれたとでも思ってお忘れなさいな。あれは大概強引な犬ゆえな」
「あたしにとっては強引な牛だったけれどね!」
「まったく……いつの世も泣きを見るのは女たちね。おまえも……いや、おまえは違うわね。なにせ神に真正面から啖呵を切って懇願した恐れ知らずですもの……ね?」
「お褒めに与り光栄よ!」
「口の減らない小娘ですこと。……ああ、そうだわ」
すっかり元の調子を取り戻したヘラがエウロペを手招きする。
騒乱が高じて宴を催すに至った神々を背に、衆目のつかぬ場所に誘うと、周囲に誰もいないことを確認してから、そっと耳打ちするようにエウロペに囁いた。
「おまえの子を祝福はしたけれど、それはあくまでその子らのもの。当事者たるおまえが何も得るものが無いのでは、神々の女王たる妾の沽券に関わりましょう。故に、仕方なく……いいこと、仕方なくですよ? 妾から特別におまえへ贈り物をやりましょう」
「いいの? やったー!」
そう言ってヘラが喚び出したのは、かつてゼウスが変じた牡牛に勝るとも劣らない、優美なる牝牛であった。
双角はヘラの腕のように白く、双眸は慈愛を湛え、その蹄は輝ける御座の如き黄金。
これぞまさしくヘラの写し身たる最美の牝牛。これには牛通(を最近自称している)エウロペも興味津々不可避。
「妾の加護を多分に宿した聖獣です、使いようはどうとでもなさいな。乳は大層美味であるとだけ言っておきましょうか、間違っても肉を食おうなどとは思わないように。いいこと?」
「わかったわ! それじゃあ名前は――そうね、"
「ッ~~! 好きになさいっ」
「ありがとうヘラ、とってもとっても大事にするわ!」
早速ヘラエレオスに跨ってはしゃぐエウロペ。
今の彼女の脳裏には、この牛で颯爽と牛祭りの優勝を掻っ攫う野望しかない。
ちなみにクレタではエウロペに関連して牛祭りなる催しが流行し、美しい牛を育てることを競う者たちが跡を絶たなかったりする。
「さて、いつまでも神ならぬ身で此処に留まっていても仕方がないでしょう。とっとと下界にお帰りなさいな。その獣の案内に任せていればすぐですよ」
「ええ、そうね。世話になったわ。それにとっても楽しかったし嬉しかった! それじゃあこれで失礼するわね、どうかオリュンポスの神々に栄光あれ!」
「精々お生きなさいな――そなたにも誉あれ」
かくしてエウロペの伝説は幕を閉じる。
ある者は牛退治よりも尚気高いと称賛する、神々の女王ヘラとの和解劇。
嫉妬に狂い、憎しみに囚われたヘラをも赦し、却ってその寵愛を得るに至った国母の大徳を何よりも偉大とする声は少なくない。
神々との謁見を終えて国に舞い戻ったエウロペは、やがて元気な三つ子を産むと、それぞれにミノス、ラダマンテュス、サルペドンの名を与え、大変に愛し、よく育んだ。
大神の血を引く彼らは大変に見目麗しく、知恵に優れ、王気に満ち、栄光を欲しいままに国をよく治めた。
途中、サルペドンはミノスと袂を分かち国を離れたものの……彼もまた遠方で国を興し、ゼウスの寵愛を得て後のトロイアの戦いまで活躍することとなる。
そして、月日は流れ――――――――
「――まさか、最後の最期で心残りが生まれるなんてね……人生ってわからないものだわ」
老いてなお美しいエウロペは、すっかり痩せ細った手で彼の頭を愛おしげに撫でる。
あるはずのない血の繋がりを思わせる白雲の如き髪。伸びる双角はかつて愛した男を思わせる雄々しさで、赤子を脱したばかりで既にエウロペを優に超える巨躯の逞しさ。
栄光のもとに祝福されし子ら、その長兄。ミノス王が犯した唯一の過ち。
偉大なりし母と養父への対抗心が故に、神に背き妻を呪われ、それがポセイドンの牡牛との間に産み落とした怪物。
誰が呼んだか"
「寝顔はこんなに可愛いのにね……」
哀れな子であった。
父の不義が故に出生を呪われ、怪物として石を投げられた孫。
片親が獣であるが故に人間に馴染めず、理性を見せぬ彼を疎んだ父からも怪物と悪罵された。
老いたエウロペが国政から離れてから久しい。
そんな中伝え聞いた怪物の噂である。何事かと思って調べてみれば、まさか我が子のまたその子がこのような目に合っているなどと!
かの大戦以来、久しく忘れていた怒りであった。
檻に入れられていた孫をその場で連れ出し、終生を過ごす離宮に連れ込んだ。
そして誰も見ないのならあたしが世話をすると一喝して、渋るミノスにも聞く耳持たず養育せんとした。
とはいえ、その試みは順調であったとは言い難い。
かつての栄光からエウロペが言えば世話を阻むものはいなかったが、しかし人の手に馴染めぬ孫は暴れに暴れてエウロペの手を焼かせ、彼女の周囲を困らせた。
しかしそれでもエウロペが彼を見捨てなかったのは、凶暴の奥に潜む心細さと優しさを確かに見出していたがため。
他の誰にもそれは理解されなかったが、エウロペだけは孫を信じて養育し続けた。その命の灯火が消えるそのときまで。
その証に、エウロペは孫へ名を与えた。彼女が最も敬愛する
「アステリオス――」
故に彼女は孫をアステリオスと呼び続けた。
島の誰もが彼をミノタウロスと呼んで恐れようと、彼女だけはアステリオスと呼んで愛し続けたのだ。
父母から与えられなかった分まで慈しみ、どうか幸あれと願って。
その想いを、彼が微睡むたびに寝物語に言って聞かせる。
「誰が何と言おうとも、あなたがそう願い続けるのならば、あなたはきっと人間になれる。他の何者でもない、アステリオスという人間に……」
その言葉を、孫が理解しているかは、神ならぬエウロペにはわからない。
ただ、そう信じて言い聞かせることが彼の救いになると願って、愛と共に囁き続ける。
「忘れないで、アステリオス。あなたが望む限り、あなたの人間性が失われることはない。老い先短いおばあちゃんの言うことだと思って蔑ろにしちゃイヤよ? 忘れないでアステリオス、あなたの行路にその名の如く光があらんことを――――」
――モイライの紡ぐ糸は、いつか必ず終わりを告げる。
今わの際まで孫を案じたエウロペは、アステリオスの頭を膝に抱いたまま、静かに息を引き取った。
明くる朝になって、侍従が冥府へ旅立った彼女を発見すると、その死を悼むと共に彼女をミノタウロスから引き剥がそうとし――
「ぉ、ばあ、ちゃん……?」
目を覚ましたアステリオスが、物言わぬ骸となったエウロペを目撃し、その肩を揺らす。
勢い余って骨が折れても、エウロペは何の反応も返さない。声をかければすぐに微笑みを返した祖母はもういないことも理解できないまま、その身体を揺らし続ける。
それは心細さに縋る子供の姿にほかならない。
しかしそれをエウロペ以外の誰が理解できただろう。彼らの目には、彼の嘆きは亡骸を弄ぶ怪物としか映らなかった。
――――そして、彼はエウロペの願いとは裏腹に、やがて地の奥底の迷宮へと幽閉される。
誰もが彼を怪物と恐れながら、幼い
そして今や、彼をアステリオスと呼ぶ者はいない。
彼らの望みが叶うのは、遥か未来。
世界の存亡をかけた禁断の儀式まで時を待つことになる。
ほんのちょっぴり苦い後味を残しながら、これにて生前編完結です!
そして最後の引きのとおり、次はGO編を予定しております! 予定です!
完全無欠のハッピーエンドを期待していた方はごめんなさい。
さすがにうしくん関連は変に弄ると作者の手綱を離れるのでできませんでした。
更に言うとGO編へ繋げる動機作りにもなるので……本当に申し訳ない。
そして次のGO編ですが、細部の把握のためにマテリアルを確認したりするので、暫く時間を頂きます。
いつ連載を開始するかは未定です。なんせ生前編と違って台本ありですからね!
単なる原作沿いに甘んじないよう、皆さんが愛してくれたエウロペの活躍も確保しつつ、原作をリスペクトすべく準備します。
そういうわけなので、どうかご容赦くださいませ。
ステータスって活動報告のほうがいいですよね?
さすがにステータスだけで更新通知するのも気が引けるので……w