Fate/EXTRA 奉納殿百二十八層 作:ハチミツ
見慣れた朔良園学院の廊下を歩きながら、思索に耽る。
サーヴァントには
この七騎の内の一騎を率いるマスターとして、128人の魔術師が殺し合いの闘争を繰り広げるのだという。そしてどうやら自分は、その中の一人として
いや―――今となっては、その推測が成り立つのかどうかすら怪しいものだったが。
言峰花蓮に曰く、自分の記憶は既に返却された状態であるらしい。
つまり、今の記憶がない状態こそが通常の自分なのだ。それがどういう意味を持つのか考えようとするのだけれど、その度に思考に霞が掛かってなにもかもが曖昧になってしまう。まるで目の前が真っ暗になってしまったかのようだ。
……我ながら、ひどい逃避だ。
覚束ない足取りで、自分は学院の廊下を歩いていた。そして視界の隅に入った階段へ、特に理由もなく足を向ける。
傍らには常に霊体化したサーヴァント、アサシンの気配があった。
意味のない散策に対して、彼女は特に何も言わない。一応、事前に予選の時と変わっている場所があるかもしれないから見て回る、なんて言っておいたことが功を奏したのだろう。ただ不機嫌そうな気配を送ってくるだけに留めてくれていた。
その対応は正直、かなり有り難い。心の整理をつけるには、まだ少しだけ時間がかかりそうだったから。
二階、三階を無視し、屋上へ出る。
視界一杯に蒼穹が広がった。地平線まで続く青空は、ひどく地表から近い場所にあるように感じる。0と1の羅列が並ぶ虚空は作り物めいていて、なんとも言えない閉塞感があった。
迷わずここまで来てしまったが……自分は、
答えを出してはならない問いをぼんやりと思いながら、自分は眼球を転がす。すると妙な人影が視界に入り込んだ。どうやら先客がいたらしい。
校舎内で度々見かけた他のマスター達とは異なり、彼女は学院の制服を着ていなかった。それどころか彼等や自分のような、型にはめたような外観もしていない。
肩に掛かる長い黒髪と、勝気な青みがかった黒瞳が目を引く。どうやら自分と同じ東洋人のようだ。彼女は糊の利いた白いシャツをネクタイで結び、その上から臙脂色のベストを纏っている。時折吹く風が、膝まで覆う灰色のスカートの裾を僅かにはためかせていた。
服装は変わっているが、その横顔には見覚えがある。黒桐鮮花――自分と同じく、朔良園学院の生徒だった少女だ。学年は一つ下の一年生で、その時は学年一の成績を誇る淑やかな兄想いの才女、という触れ込みで名を馳せていたが、今の彼女にその頃の面影はない。
彼女の瞳に宿る意志の光はあまりに強靭だ。ここに来るまでに見かけた者達や自分とは違って、戦士の様相で霊子の
「ふぅん……造りそのものは、予選の時と変わってないみたいね」
彼女は真剣な面持ちで転落防止用の柵や壁、床をぺたぺたと触っている。ひとしきり撫で終えると、不意にその視線がこちらを向いた。
強い眼差しに射貫かれる。
その瞬間、自分はまるで蛇に睨まれた蛙のような心境に陥った。当然だ。自分達は聖杯戦争の参加者なのだ、殺すか殺されるか、それ以外の結末は有り得ない。
けれどこちらの強張った心境とは裏腹に、ふっと彼女の表情が和らいだ。
「あら、ちょうどいい所に。ついでだし、キャラの方もチェックしておこうかしら」
そう言って、黒桐は手を伸ばした。
彼女の細く柔らかな指先が、頬に触れる。それは探るように表面を這い、時に強かに抓られた。
痛いのだが。
「体温も反応も忠実に再現されてるわね。こうなると人間より人間らしい……って、あれ?」
怪訝そうに小首を傾げ、黒桐は両手でこちらの体をまさぐってくる。彼女は忙しなく手を動かし、肩や腹を叩くように探った。
痛いのだが。
「もしかして、NPCじゃない? マスターの一人なの? 嘘でしょ……―――ってうるさいわね! 人のことを冷静に痴女だのなんだのと! わたしにそんな趣味がある訳ないでしょ!?」
青褪めたかと思えば、彼女は唐突に顔をカッと真っ赤にして虚空に向かって怒鳴り散らした。恐らくそこに彼女のサーヴァントがいるのだろう。先程の行動について、何かしら茶々を入れたものと見える。
「まったく、本当にいつも余計なことばっかり言うんだから。一言多いのよあんたは。……いや、別に今のはアドバイスじゃないわよ」
頭痛を堪えるように蟀谷を指で押さえ、黒桐は深く溜息を吐いた。
しかしすぐさま一転。彼女は空咳を一つ零すと、毅然とした態度を取り戻す。
「んんっ―――先程は失礼しました。まずは謝罪を。ムーンセルが用意したNPCと誤解してしまったものですから。……はぁ、やっぱり改めて見ても信じられない。覇気がないというか、影が薄いというか。まさかとは思いますが、予選での学生気分が抜けなさ過ぎて、
心底呆れた、という様子で黒桐が言う。その語調こそ嫌味めいてはいるものの、どうにもどこか憎めない感が強かった。恐らくは先程の狂態のせいだろう。常に冷静であろうとするものの、その実率直に感情を表に出してしまうから、そのアンバランスさが可愛らしく映るのだ。
もっとも、それでなくとも彼女の指摘は当たっているのだから、怒りようも憎みようもない。
記憶に不備があるのは事実だし、自分がこれから行われる殺し合いに対して真摯に向き合っているかといえば、そういう訳でもないのだから。
特に言い返すこともしないでいると、黒桐は不機嫌そうに眼を細めた。
「ますます呆れた。―――行くわよ、ランサー。ここにはもう用はありません」
興味を失くした猫のようにぷい、と顔を背けて、彼女は踵を返して歩き出した。開け放たれたままの扉を潜り、塔屋の中へと姿を消す。
その後ろ姿が見えなくなるまで見送る。
斯くして、屋上には自分以外に誰もいなくなった。霊子で形作られた空間に無言で佇む。まるで世界中で自分一人だけが置き去りにされてしまったかのような、そんな訳の分からない感慨が胸を締めていた。
無論、そんなものは錯覚だ。階下にはまだ平穏があり、傍にはサーヴァントが控えている。けれど今の自分の中はあまりに虚ろで、がらんどうだ。
網目状の鉄柵越しに、遠くまで続く俯瞰を見やる。
そこから一歩踏み出したなら、きっと心地の良いものが待っているだろう。少なくとも、この喪失感と孤独から解放されるのは間違いない。
牢からの脱出を祈る囚人のように、柵を掴む。
絡む指が細い鉄を歪め、ぎしり、と不快な音を立てた。
「―――――それで、これからどうするんだ、おまえは?」
霊体化を解き、姿を現したアサシンが背後から問うてくる。
それに対して、自分は――――――――――――――――
一呼。
一吸。
胸の中にある煩わしいものを全て根こそぎ吐き出すように、殊更深く息を吸って吐き出す。一種の自己暗示めいた儀式を終えてから、文字通り一転して自分は答えた。
振り返り、答える。
―――
吐き捨てるように言う。
そうだ、自分はまだ死にたくなどない。少なくとも、自分が何者なのかすら分からないまま消えるなんてごめんだ。きっと遠くない未来――この選択の行く末で後悔することもあるだろうが、そんなものは未来の自分に押し付けてしまえばいい。
こんな所で誰が死ぬか。
ひどい自己嫌悪と馬鹿馬鹿しさに苛立つ。アサシンがいなければ、癇癪を起こしてめちゃくちゃに頭を掻き毟っている所だ。けれど何もしないままでは収まらないので、強烈に頬を叩いておく。
そんなこちらの様子がおかしかったのだろう、アサシンはくすりと、艶やかな微笑みを零す。
「そうでなくっちゃ。なんだ、ようやくらしくなったじゃないか、マスター?」
アサシンの声音が心なしか明るく聞こえる。自分はそれに首肯を返して、元来た道へと足先を向け歩き出した。
聖杯戦争の一回戦開始まで、今日を含めてあと七日。
決戦に挑む為には、アリーナと呼ばれる『SE.RA.PH』内部のダンジョンにて二つの
先程までとは打って変わって、暗く淀んで見えた視界は澄み渡っている。霊体化したアサシンを伴い、自分は勇み足で廊下を歩いた。
その時ふと、自分の中でとある疑問が鎌首を擡げる。
サーヴァントはかつて地球上に存在した英雄――それを記録したムーンセルが、霊子を用いて再現したものだという。ならばアサシンはどういった伝承を持つ英霊なのだろう。
顔立ちや体付き、それから着ている服装などからして、比較的近代の東洋人だとは思うのだが……。
『残念ながらオレは英雄じゃない。過去の人間には違いないし、それなりに物騒な人生を送りはしたけれど、ただそれだけだ。泡沫の夢のようなものだ。だからオレに真名はないよ』
素朴な疑問に対し、アサシンは霊体化したまま念話にて解答する。
英霊ですらない、無銘の何者か。そんな彼女がどういう因果で自分のサーヴァントになったのか……なんて、問うだけ無粋というものだろう。
意識を失う前に垣間見たあの光景を、巫条祈荒は覚えている。
玄い髪を月光で濡らし、蒼く灯る瞳でこちらを見下ろすあの威容。強烈な頭痛の嵐の中で垣間見た神秘的な情景は、魂の根幹に刻まれるほどに、あまりにも美しかった。
だから、確信を持って言える。
これから先、幾度地獄に落ちようとも―――あの光景だけは、鮮明に思い描けるだろう。
知らず知らずの内に拳を固めつつ、階段を降りていく。三階、二階を経由して一階へ。床に足をつけ、階段を降り切った所で―――自分は、呆然と目を見開いた。
保健室を退室した後、一度はここを通過した筈だが……どうやらあの時の自分は、相当思い詰めていたらしい。アレが一瞬でも視界を過ったなら、普通は立ち止まって驚くに決まっている。ちょうど、今の自分のように。
そこにあるのは購買部だ。腰ほどの高さのショーウィンドウに区切られたそのスペースには、一人の女性が立っていた。
「何よ、人の顔をじろじろと……冷やかしならさっさと他所に行って貰えるかしら?」
しっしっ、と猫でも払うように彼女は手を振る。
その端整な顔を見誤ることはない。教科書やらなにやらで、何度も見た顔だ。
控え目に言って、エプロン姿が全く似合っていない彼女は―――黒い、聖女だった。
グレたように真っ黒なジャンヌ・ダルクが、何故だか購買でアルバイトをしていた。