「廊下の真ん中で溜め息なんか吐いて、悩み事でもあるのか?」
向いた先には、平塚先生がいた。
「黒田」
「いえ、悩みなんて何も無いですよ」
今まで少しも絡む機会が無かったのに、先生に名前を知られているという事で警戒してしまう。
「それより、俺の名前なんか知って頂けてて、驚きましたよ」
「なぜ驚く?教師が生徒の名前を知っているのは、当然の事だと思うのだが」
「それもそうですね」
「ふふふ、君は変わっているな。それはそうと、時間があるなら少し付き合いたまえ」
美人教師の誘いに思わずドキッとしてしまいそうになるが、物語の中での残念だった面を思い出して冷静になる。
「それは強制ですか?まだ文化祭の準備があるんですが」
「今までサボっていたというにどの口がそれを言う。そう警戒しなくても大丈夫だ、着いてきたまえ」
先生はそう言うと、俺の腕を引っ張り何処かに連れられて行く。
サボっていた事を知っているという事は、俺を探していたのかもしれない。
先生は生活指導の担当でもある、例の噂が耳にも届いてしまったのだろう。
そのまま職員室の片隅にある、衝立で仕切られたスペースまで連れて行かれた。
「そこに腰を下ろしてくれて良い」
ソファーへと促され座ると、先生も対面にあるソファーに腰を下ろした。
「煙草を吸いたいんだが、大丈夫か?」
「どうぞ、吸って下さい」
先生は煙草を取り出し、ライターで火をつけて、吸い始めた。
その一連の動作が絵になってしまうくらい格好良くて、目を奪われてしまっていたのだが、そのまま見ているのも居心地が悪いため、こちらから話を切り出す事にした。
「ここに連れて来られたのって、噂の事ですよね?」
「ん、噂?私は陽乃から君の事を聞き、少し話をしたいと思い連れて来たのだが」
まさかの理由だった。
雪ノ下陽乃がどこまでの事を話てしまったのかは解らないのだが、あの人は夏休みにした約束を何だと思ってるんだと憤りを覚えてしまう。
しかし、俺ももう少し慎重になるべきだったと後悔した。
「雪ノ下さんとお知り合いなんですね」
噂の事から話を反らすため、違う方向に会話を進める。
「ああ、あいつはここの卒業生だからな。優秀な生徒だったが、問題もよく起こしてくれたよ」
そうですよね、次々と問題を起こされてます。
「へぇー、そうだったんだー。あっ、もうこんな時間だー。長々とすいませんでした。それじゃあ、失礼しますね。」
素早く立ち上がり、先生に向かって一礼すると、すぐさま職員室の出口に向かって歩き出そうとする。
〈ガシッ〉
「君は何をやっているんだ」
掴まれ左腕から〈メキ、メキ〉と聞いた事が無い様な音が聞こえてくる。
「い、いえ、先生のお仕事のご迷惑にならないようにと思いまして」
「そんな気遣いは無用だ、生徒との触れ合いも立派な仕事だからな」
「ふ、触れ合いだなんて言われたら、ドキドキしちゃいます。それにいくら衝立があるからって、そんなに思いっきり握られて引っ張られたら声が出ちゃいますよ。お、お願いですから、離して下さい」
「ほぅ、教師をからかうとは良い度胸だな」
掴まれた左腕から聞こえてくる音が、さすがにヤバくなってきた。
「先生、そんなにムキにならないで下さい。処女なんですか」
「黒田、歯を食いしばれ!」
俺の左腕を掴んでいない方の手が強く握り締められていて、それを後ろに引き、俺を殴る為の体勢が整えられている。
「ヒーッ!?」
「逝けー!!」
恐怖の余り、歯を食いしばり目を瞑る。
〈ドスッ〉
その瞬間、腹部に衝撃が走り、体の力が抜け、膝を床についてしまう。
もしかしたら俺は、禁断のフレーズを言ってしまったのかも知れない。
腹部の痛みより、そちらの方が気になってしまう。
えっ、違いますよね?違うって言って下さい!
膝を床につき、顔を俯けている状態なのだが、チラリと視線を上げて先生を見る。
先生は顔を真っ赤に染め、般若の様な形相をしていた。
俺は、そのまま視線を下げて、頭を床につけ、土下座の体勢をとる。
「申し訳ございませんでした!」
俺は、そのままの姿勢で10分間くらい謝り続けた。
「はあ、解ったよ。ただ、私は処女じゃ無い。それなりに男性経験もあるんだからな」
許して貰えたのは良かったのだが、この人は生徒に何をアピールしているんだろう。
「解ってます、先生は処女じゃ無いです。簡単に出来る女です」
土下座の状態からソファーに腰を掛ける状態に戻り、先生も対面に座っている。
「殴られ足りない様だな」
「間違えました。出来る女です」
「はあ、何なんだ君は、教師を何だと思っているんだ。・・・成る程な、陽乃が興味を持つのも解る気がするよ」
迷惑なんです、止めて下さい。というか助けて下さい。
「ところで君が言っていた、噂の事だが」
先生を傷つけてまで話を反らしたのに、全部が無駄だった。
「何の事ですか?」
先生に話たところで、何も解決はしない。
「私を信用出来ないか?君が頭を悩ませているのは、それなのだろう」
「悩みなんて、何も無いですよ」
先生が解決に動く事によって、噂の真実味が増してしまうという事態にもなりかねない。
「ふふふ、悩みが何も無い人間なんて、どこにもいないさ」
「・・・・・」
「教師に言いづらいなら、周りに居る者に相談する事は出来ないのか?」
「・・・・・」
三浦さんや城巡先輩の顔が浮かぶ、だが彼女達は何もしないという結論に至っている。
未来を知らない為に時間を掛けるやり方を選んでいるからだ。
他にも何人かの顔が浮かぶが、頼る事は出来ない。
自らが撒いてしまった種のせいで、迷惑を掛ける事に申し訳ない気持ちになってしまう。
「なんでもかんでも、1人で解決出来ると思わない方が良い。君は人を頼る事を忘れてしまったのか?」
あー、なるほど。やはりこの人は、全てを知っているんだ。
俺がしてきた事も、噂の事も。
「でも、1人で出来る事は自分でしたいです」
「君も不器用な人間だな。君に良く似た人間を知っているよ。まあ、君の様に人と関わりを持とうとはしないのだがな」
たぶん比企谷君か雪ノ下さんの事を言っているのだろう。
「そうだ、良いことを思いついたよ」
「良いことですか?」
「そうだ。君は奉仕部という名の部活動を知っているか?」
この物語の運命が大きく変わり始めようとしていた。