あかいあくま。
背筋が凍るような冷たい気配を感じ、凛は思わず屋敷を飛び出した。そして家から伸びる長い坂を年甲斐もなく駆け、やがて見つけたのは友人の養女だった。
「久遠!!」
見たところ外傷らしきものはなく、彼女はどういうわけかぽつんと道の真ん中に立っていた。先程一緒に屋敷を出たはずの士郎の姿は見当たらない。
凛の声に気付いたのか久遠がゆっくり、機械のような動作で振り向いた。
「りん、おばさん……」
凛は幼い頃から父に解こされた英才教育で、涙を流す行為をほんの数回しか経験したことがない。それは何代か前の遠坂の当主が、泣くという行為に優雅さを見い出せなかったからであり、凛とて別段その行為に必要性は感じなかった。
だからだろう。
子供の涙に弱いのは──……。
凛が手を伸ばした先で、久遠は涙を流している。
それは底知れぬ恐怖か、或いは言葉に出来ないほどの不安や悲痛なのかは凛にはわからない。わからないが、彼女が泣いているという事実はあまりに罪深いことに思えた。
微動だにしない久遠を抱き締める。
「何があったの!?」
「ううううう……」
嗚咽を繰り返しなが、久遠は息を整える。
凛は次の言葉を待った。
「おばさん……」
そして予想外の単語を耳にする。
「〝聖杯〟ってなに?」
凛にとって、いや、遠坂という一族において忘れようとも忘れることの出来ないその存在。その単語。
大いなる聖遺物。万能機、願望器。三つの魔術家を基盤としあらゆる争いの火種になった魔術礼装。かつて凛はその存在を求め闘いの中に身を投じ、深く傷付き、そしてそれを解体した。大きな決断だったが、正しい行いだったはずだ。この世に必要のないものだったのだ。
けれど、数年前。
凛はかの聖杯の欠片が冬木の地層に残っていることを発見した。聖杯とはいえ、中身のないただの破片だ。凛はそれを誰かに見つかることのないように管理してきた。
…………はずだった。
「まさか……」
久遠の右手をとる。
「──令呪」
「なあに?」
目の前が暗転する──。
妹が家を出た時、父が死んだ時、母が死んだ時。サーヴァントを召喚した時、聖杯戦争に参加した時。そして聖杯を解体した時。どうして、どうしていつも自分は詰めが甘く、後悔にばかり苛まれているのだろう。
凛が彼女の師とともに聖杯を解体した時、それはもう、常人には理解し得ない魔術理論のもとに行った。現魔術界において、天才的かつ超人的な理論であったが、しかし、それでも無理矢理こじつけたような理論でもあった。故に解体は90%成功を収めたが、10%は失敗したのである。聖杯はその欠片をいくつかばら撒き、そして喪われた。
数年間冬木の欠片を管理していた凛の見解では、それは願いを叶える力は愚か、英霊を呼び出すことすら不可能な、『特別強い魔力を秘めたガラクタ』であったはずだ。
(それに間違いはなかったはず……)
ではなぜ令呪が現れたのか──?
その答えを導き出せるほど、冷静ではなかった。
「凛おばさん?」
「……衛宮くん……士郎は?」
「どこかへ行っちゃった、なんだか真剣な顔をしていたけれど」
「……そう」
伝えるべきか、隠すべきか。
これを知った友はどう動くだろう。
(決まっているわよ、ね)
衛宮士郎とは、そういう人だ。
(衛宮くん、あなたが久遠のために死ぬつもりなら、あたしは久遠のためにあなたを生かしたい。それがあたしと……そして桜を救ってくれたあなたへの恩返しだと思うから)
遠坂凛は決意をする。
嫌われても、軽蔑をされても、それでも衛宮士郎を死なせない。それが士郎のためにならなくたって、誰かを傷付けてしまうとしても、彼がそれを望まなくても、士郎は死んではいけない人間だと思うのだ。
そして久遠の肩を掴んだ。
「よく聞きなさい久遠」
「……痛いよ、凛おばさん」
久遠が嫌そうに身じろぐ。
だが凛は容赦がなかった。
「聖杯戦争に勝たなければ、士郎は死ぬわ」
…………開いた口が痛かった。
喉が焼けつくほど渇く。
とっさに思い出したのは士郎がつけた不名誉かつ不本意な渾名だった。だが今はそれが自分にお似合いのように思う。
────あかいあくま。
間桐 桜 (まとう さくら)
祖父亡き後、間桐家の当主となった。各地を回る士郎の助手をする傍ら、久遠の魔術の家庭教師として彼女の世話をする。ほぼ同棲をしていると言っても過言ではない。桜の、これまた特異な属性と体質は本人を蝕むものであり、また刻印虫が抜けたことによって自由のものになった力は膨大であるが、「身近で魔力の強い者」ほど影響を受ける久遠の反転の力が薬として作用し、桜自身はむしろ以前のどの時期より好調である。