「急いでけが人をここへ連れて来い!!」
「癒し手さん!この方、左手の感覚がないって!!」
「分かりました。大丈夫、回復できますから…!」
砦の外と同じように、中でももう一つの戦いが起こっていた。
負傷した兵士が担ぎ込まれ、神父や医者が治療にあたる。
セーニャが担当しているのはその中でも一番重傷な兵士で、彼らにベホイムで治療を施し、骨折や神経の損傷の治療をしている。
今、左手の感覚をなくしていた兵士の治療を終え、残りの治療をほかの医者にゆだねたセーニャは一呼吸置くと、つい眠気が襲い掛かる。
「大丈夫かい?セーニャさん。あんた、ずっと呪文を使っていて、疲れてるんじゃないかい?」
兵士たちの包帯を持ってきていたペルラが疲れた様子のセーニャを気遣い、声をかける。
戦いが始まり、ものの数分で重傷の兵士が担ぎ込まれてから数時間。
特にセーニャは休む暇もなしに回復治療に奔走していた。
「大丈夫です…まだ、MPは残っていますから」
「そう…でも、無理をしちゃあいけないよ。あんたはあんたでもっとやるべきことがあるでしょう」
「はい、お心遣い感謝いたしますわ。ペルラおばさま」
セーニャ自身も、ここで倒れるつもりは毛頭ない。
まだ行方の分からないベロニカを見つけなければならず、導き手の使命も終わっていない。
これまでセーニャはエルバを命の大樹へ導くことが導き手の使命だと考えていた。
だが、最近ではそうではないように感じられた。
言葉では説明できないが、もっと大きなメッセージを預かっている。
そういうふうに思えた。
その意味を確かめるためにも、今ここで倒れるわけにはいかない。
しかし、だからとって、今自分にしか助けることのできない人をそのままにするわけにもいかなかった。
それに、砦の外では自分が導くべき勇者が人々の希望となるために戦い続けている。
「エルバ様…どうかご無事で」
「はあああ!!」
フランベルグから降り、キングブレードで周囲の骸骨剣士たちの胴体を切り裂きながら振り回す。
戦いが始まってからどれだけ時間が経ったのか、もうどれだけの魔物を倒したのか。
今のエルバにはそれを考える余裕は一切なかった。
周囲には魔物や兵士たちの死体が転がり、キングブレードの刀身やエルバの腕や顔、髪は魔物たちの返り血で濡れている。
彼らの奮闘により、魔物たちは砦に近づけない状態で、特に大きな邪魔になっているのはグレイグだ。
グレイグは単騎で敵の軍勢のほぼ真ん中に突入しており、リタリフォンに乗ったままキングアックスで寄せ来る魔物たちを倒し続けていた。
「ちっ…!」
グレイグが強いというのは彼と何度も戦ったエルバにはわかる。
しかし、どんなに強靭な力を持つ人間でも、多くの集団に包囲されてはいずれ力尽きる。
エルバの脳裏に、デルカダール王のグレイグのことを頼む光景が嫌でも思い浮かぶ。
ちょうど、グレイグの背後にモーニングスターを握る、首なしで顔が黒い大楯につけている鎧騎士、デュラハーンが彼を攻撃しようとそれを振り回そうとしていた。
「フランベルグ!!」
エルバの呼び声に反応し、どこからともなくフランベルグが飛んできて、それに飛び乗ったエルバは大きく跳躍してグレイグの包囲の中に飛び込んでいく。
そして、落下スピードを利用して水竜の剣をデュラハーンに向けて振り下ろす。
鎧に大きく傷が入り、モーニングスターの鎖が砕けたものの、デュラハーンは大きくのけぞるだけで立ったままで倒れる気配がない。
「…!奴は核を破壊しない限りは死なんぞ!!」
エルバの攻撃によってデュラハーンに気付いたグレイグは右手のキングアックスに力を籠めると同時に、その刀身にドクロのような幻影が宿る。
そして、その力をこもったままデュラハーンに大振りする。
鎧の装甲が大きくえぐれるとともに、力が抜けたデュラハーンのモーニングスターの持ち手と盾が地面に落ちる。
力なく倒れたデュラハーンから出てきた黒いトゲトゲとした水晶が二つに割れていた。
「礼は言わんぞ」
「そのつもりで助けたわけじゃない」
自然にエルバとグレイグが互いに背中合わせとなり、2人を包囲する魔物たちに目を向ける。
デュラハーンを倒したとはいえ、まだまだ魔物たちはひるむ気配がなく、まだまだ仕掛けてくる可能性が高い。
「次は…助けられないかもしれないぞ」
「まずは自分の身の心配をするのだな!」
魔物たちが一斉に2人を襲うが、その返礼が水竜の剣から放たれる冷気によって数体が氷漬けとなり、そのまま刃で粉々に砕かれる。
グレイグも負けてはおらず、一斉に近づいてくるイビルビーストたちを天下無双によってみじん切りにしていく。
次々と倒される魔物たちを見て、砦へ向かおうとしていた魔物の中には先にグレイグ達を始末しなければ後続を断たれてしまうと考えたのか、進撃を断念して2人の元へ向かうものもいた。
(あの男…勇者の力をなくしてもこれとはな…)
魔物をキングアックスで切り付ける中、グレイグは改めて短期間で力を伸ばしていくエルバの力を感じずにはいられなかった。
両手剣の荒々しい力任せな戦いと、二刀流による素早さをメインとした戦いだけでなく、呪文まで使いこなす彼の臨機応変な戦いぶりはグレイグにはできないものだった。
彼のことを頼もしく思うと同時に、ここからの打開策に頭を巡らせる。
今はエルバとグレイグで抑えることができているが、それでも倍以上の戦力を持つ魔物たちから砦を守るには限界がある。
軍勢の多くがゾンビ系で、彼らは既に生命活動を停止している以上、疲れの概念がない。
エルバとグレイグのどちらかが息切れする前に、敵を退ける手段を講じなければならない。
正面から刃を向けてくる死神貴族との鍔迫り合いを演じる中、ついにグレイグはある魔物に目が留まる。
馬に乗ったデュラハーンというべき魔物で、その魔物がモーニングスターを振るい、それに反応して魔物たちの動きに変化が生じていた。
「エルバ、指揮官は奴だ!奴を仕留めれば、状況を覆せる!!」
力任せに槍を弾き飛ばし、縦一閃に死神貴族を両断した後でグレイグは戦うエルバにその魔物、ファントムシャドウの位置を指さして伝える。
敵指揮官の場所が分かったとはいえ、問題はどうやってその魔物を倒すかだ。
既に周囲に殺到している魔物たちの囲いを突破しなければ、ファントムシャドウを倒すことはできない。
「俺1人で奴らを相手をする。お前が奴を仕留めろ!」
「…任せて、いいのか?」
今ここで戦力の片割れをなくすと、グレイグ1人で数十の魔物と相対することになる。
たとえ指揮官を倒したとしても、その前にグレイグが倒されてしまっては最後の砦は陥落したも同然となってしまう。
「俺には…倒れられん理由がある」
「…分かった。来い、フランベルグ!!」
エルバの声に反応し、どこからともなくフランベルグが囲みの中に飛び込んできて、エルバがその背に飛び移る。
そして、主を乗せたフランベルグが大きく跳躍し、魔物たちを踏み台にして飛び越えながらファントムシャドウを目指す。
魔物たちの視線がエルバとフランベルグに向いた瞬間、背後からの一撃を受けた影の騎士1体が地に伏す。
「来い…!貴様らの相手は俺だ!!」
「どうなっている!?どうなっているのだ、これは!!」
岩山のトンネルをくぐるファントムシャドウはいつもとは違う状況に動揺を隠せない。
これまで彼は何度もあの砦を攻撃した。
当然、グレイグと戦ったこともあったが、これまでは自分が襲われ、更に追撃されるようなことは一度もなかった。
兵隊がいるとはいえ、その中で最も強く、デルカダールが存続していた時代は将軍であった彼以外に指揮官がおらず、更には実力も彼が一番な上に彼に追随するような兵士が一人もいなかったことが大きい。
命令通りに兵士たちを殺して後退を繰り返すことで、これからの昇進も約束されていた。
バラ色の未来がもうすぐ来るはずだった。
だが、これは話が違う。
今の自分は紫の服を着た、グレイグに匹敵する実力の男に追いかけられている。
(だが…だが、まだだ!!まだ望みはある!戻りさえすれば…戻りさえすれば!!)
今回はイレギュラー故に逃げているが、デルカダールには数多くの魔物がすぐっている。
それに、あの時魔王が起こした災害によって死んだ人間や魔物の死体はゴロゴロあり、それを利用すればいくらでもゾンビ系の魔物を作ることができる。
それで倍以上の部隊を作れば、今度こそ。
だが、トンネルを抜けて、廃墟と化した小屋のところまで来たときに馬の足が止まり、ファントムシャドウの盾の開いた口が閉じることができなくなっていた。
そこには追走していたはずのエルバとフランベルグの姿があり、彼の手には水竜の剣が握られていた。
「馬鹿…な!?いったいどうやった!?どうやって先回りした!!」
「さあな。こいつの足がいいだけだろうな」
フランベルグの頭を軽くたたき、エルバは彼をねぎらう。
彼の足には緑色の風が宿っており、それはすぐに消えてしまった。
ファントムシャドウの言葉に訂正するところがあるとしたら、先回りしたのではなく、既に追い抜いていたというべきだろう。
エルバは急激に早くなったフランベルグにしがみつくので精いっぱいだった。
(一体どういうことだ…?お前の謎はどんどん増えるばかりだな)
ずっと一緒に旅をしてきたにもかかわらず、まったくフランベルグのことが分からない。
だが、今はその能力に感謝し、エルバはファントムシャドウをにらむ。
「お前は逃がさない。殺された人間が多くいるからな」
「ふざけるな…魔王様より軍を預かった俺が、てめえなんかにーーー!!」
フランベルグに乗ったまま正面から走ってくるエルバに向けてファントムシャドウがモーニングスターを振るう。
重々しい、棘のある鉄球が飛んでくるが、多くの戦いでそれよりも速い動きの攻撃も見たことのあるエルバには止まって見えた。
体をそらすように鉄球をかわして懐に飛び込み、その右腕を切り裂く。
右腕ごとモーニングスターが地面に落ちたことで攻撃手段が盾による殴打したなくなったファントムシャドウを不規則に盾を振り回すが、その射程は短く、既にエルバは距離を置いていた。
「これで…終わりだ!」
渾身の魔力を右手に宿し、メラミを放つ。
全力で放った火球はファントムシャドウを燃え上がらせ、破損個所から炎が鎧の仲にも侵入し、コアを焼いていく。
「ギャアアアアア!!これで、これで終わったと思うな…。もう、遊びはおしまいだ!お前らは死ぬ!この大陸の人間は一人残らず、死ぬ!!せいぜい震えて待っているがいい!!ハハハハハハ!!!!」
「黙れ…」
聞くに堪えない笑い声をあげる往生際の悪い鎧をすれ違いざまに横一閃に切り裂き、フランベルグの足が地面に落ちた楯を踏みつけた。
「ひどい状態だな…」
砦に戻ったエルバが見たのは退却して、死体以外になくなった魔物の軍団と、負傷者の救助と死体の回収をしている兵士たちの姿だった。
疲れ果てた兵士たちを指揮するグレイグの体も傷だらけで、額に軽く包帯を巻いているだけだ。
「指揮官を討ってくれたおかげで、奴らは退却した…だが…」
「ああ。言われなくても分かる…」
死者や負傷者の数を見る今のグレイグの表情は苦悶に満ちていた。
おそらく、何度もこのような戦いを繰り広げ、そのたびに部下を失い続けてきたのだろう。
その苦しみはきっと、指揮をする人間でなければわからないことだろう。
「…奴は死に際に妙なことを言っていた。遊びは終わりだ、この大陸の人間は一人残らず死ぬ、とな」
エルバの口から発したファントムシャドウの最期の言葉を受け、グレイグの体に鳥肌がたった。
「…ふむ。その言葉が誠であれば、遠からず奴らは本気でこの最後の砦を襲うだろう。本気で皆殺しにするために…」
王のテントの中で、例の言葉を聞いたデルカダール王は最悪のケースを推測する。
最後の砦にはこの大陸の生き残りの多くが集まり、そこが落ちたときの人々の絶望は計り知れない。
ただ殺すだけでなく、そうした希望そのものを奪うようなやり口は魔王の名に恥じないものがあるだろう。
「それに、あくまでもここの防衛は時間稼ぎでしかない。魔の巣窟と化したデルカダールを奪還しない限り、このような日々に終わりはない」
「そうだな…このままではじり貧になって、そろって死ぬだけだ」
「だが、時は満ちた。今こそ、この地に光を取り戻すための戦いを仕掛けるとき。エルバ…グレイグ。そなたらにはデルカダール城に侵入し、この闇を生み出す魔物を討ち滅ぼしてもらいたい」
「しかし…王よ!!」
これから敵が襲ってくるかもしれない中で、守りの要であるエルバとグレイグを移動させるということがどういうことなのか。
それが分からない王ではないと信じているが、それでも多くの兵士や国民の死に目を見てきたグレイグは口を挟まずにはいられなかった。
それに第一、城が魔物たちの手に落ちてからはそこへ侵入する道をことごとくつぶされてしまっている。
「まあ、待て。儂とて無策ではない。情報を集めたところ、デルカダールの滝のあたりに地下通路へと続く隠し通路があることが分かった。そこを使えば、侵入できるはずだ」
「滝の近くの…」
ふと、エルバの脳裏にカミュと共に飛び降りた滝の光景が思い浮かぶ。
おそらく王の言う隠し通路というのはその場所のことなのだろう。
そこからであれば、城の地下牢へと行くことができ、そこから玉座まで向かうこともできるかもしれない。
「グレイグよ、その通路で使う鍵を預けておこう。おそらく、魔物どももその場所に気付いてはおるまい」
「王よ…私は、私は反対です!私がいない間、誰が指揮を執るというのです!これまでにない魔物の大軍がここに来るのですぞ!!」
「それでこそだ。魔物どもがここを襲う間であれば、城内の警備も手薄となろう。朝を迎えるためにも、もうほかに手段は残っておらん」
「しかし…!!私は、もう…民の死を見るわけにはいかないのです…」
グレイグの脳裏に命の大樹が落ちてからの日々が次々と浮かんでは消えていく。
ウルノーガにはめられ、自らこの悲劇の引き金を引いてしまった日からずっとグレイグは人々を救うために戦い続けた。
しかし、将軍と名乗ろうとも、英雄と称されようとも所詮はただの人間。
次から次へと零れ落ちていく命に対して、グレイグは何もできなかった。
そのたびに己の無力を思い知ってきた。
確かにデルカダール王の策が成功すれば、デルカダールを取り戻すことはできるだろう。
だがそれは下手をすると全滅もありえる危険なかけだ。
そんなことにグレイグは応じることができるはずがなかった。
「だからこそ…この作戦をおぬしら2人にかけるのだ。おぬしらしかおらん。このままたとえ守り続けたとしても、死んでいくだけじゃ。ゆっくりと真綿で首を締めるように…」
確かに、この状況を打破するにはもはやその作戦しかない。
頭ではそれは分かっているが、それでも納得できない。
思いつめるグレイグを見たデルカダール王ははじめて笑みを見せる。
それはエルバは決して見たことのない表情だった。
「何、案ずることはない。デルカダールの民、そしてイシの村人たちは強く、優しく…そして勇敢じゃ」
デルカダール王はベッドのそばにある剣を抜き、その刀身を上に向けた状態で額にかざす。
「一晩じゃ…一晩あれば十分じゃ。その間、砦は儂が守る」
年老いたデルカダール王だが、覚悟を決めて剣を手にする今の彼はこの国を守る王の目になっていた。
その彼にグレイグはひざまずき、キングブレードの刀身が彼の頭上に平行させる。
「頼むぞ…そなたらが、我々の希望じゃ」
「たった、お二人でデルカダール城へ行かれるというのですか!?」
王のテントを出て、グレイグと別れたエルバはエマたちのいるテントへ、これからの動きを伝える。
戦いの疲れで誰もが寝静まり、今たき火の前で起きているのはエルバとセーニャ、エマとペルラの4人だけだ。
そして、エルバに課せられた次の戦いを知ったセーニャは驚きと共に、脳裏に砦を襲った魔物の軍勢の何倍も存在する魔物の巣窟の光景が浮かぶ。
「危険すぎます。あの砦をグレイグ様とたった2人で…!」
「ああ…。だが、大勢で動くと勘付かれる。砦を守る兵士が必要だ。セーニャは残ってくれ。兵士の治療がまだ終わっていないだろう?」
「それは…そうですが…」
セーニャも今自分が離れられる状況ではないことは分かっている。
しかし、導き手として勇者を導くという使命を果たせないことに悔しさを覚えていた。
「エルバ…せっかく砦を守ったのに、また戦いに行くの…?」
「すまない、エマ。本当はゆっくり君と…」
「ううん、ごめんね。わがままは言わない。だから…無事に帰ってきて。ね?」
本当はずっと離れていたエルバともっと一緒に過ごしたい、またエルバと離れるのが嫌なのだろう。
しかし、それを言ってしまってエルバを困らせるわけにもいかなかった。
「あと2時間したら出発する。見送りはいらない」
「エルバ…」
立ち上がったペルラはエルバのそばに向かう。
エルバが彼女に振り向くと、彼女は両手をエルバの肩の上に置いた。
「行くしか…ないんだね?」
「ああ。今の俺には、こうすることしかできない…」
「じゃあ…そんな暗い顔はやめな。何があってもへこたれるんじゃないよ!グレイグ様と助け合って、しっかりお役目を果たしてくるんだ」
いつものように、肝っ玉母さんな表情を見せたペルラにエルバは何も言わずに首を縦に振る。
そして、ペルラはエマに顔を向け、目で合図をすると、エマはテントの中へ入った。
3分くらい経つと、エマが出て来て、その手にはコゲのある鍋が握られていた。
鍋を開けると、その中にはエルバにとっては懐かしいシチューが入っていた。
「これから温めるから、しっかり食べて出発しな。これはエマちゃんと私で作っておいたのさ」
「エルバが帰ってきたときに、食べてもらいたくて…」
「ペルラ母さん…エマ…」
もう2度と食べることができないと思っていたシチューが焚火の熱で温まり、そのほのかなにおいがエルバの鼻孔を刺激する。
慣れ親しんだ匂いで、本来ならそれほど特別なものでないにもかかわらず、それが彼の胸を熱くする。
「エルバ…?」
そんなエルバの顔を見たエマが驚いたように見つめる。
ペルラも見たときは驚いていたが、すぐに困ったような表情を見せ、エルバに布きれを差し出す。
「なんだ…?俺は別に怪我なんて…」
「何言ってるんだい?怪我じゃないだろう?」
ペルラの視線はエルバの顔に向けられていて、どういうことか分からないままエルバは自分の頬に触れる。
指には何かのしずくがついていて、それが流れるように次々と付着する。
「なみ…だ…?」
「辛かったんだね…エルバ。いいんだよ、私たちの前でなら、泣いても。強がっていない、自然なエルバを見せて」
「エマ…。くっ…!」
自覚すると、段々涙が止まらなくなり、顔を下に向けて右手で目を抑える。
セーニャは何も言わずに席を立つと、一人テントの中へ戻っていった。
「そろそろ、刻限だ。準備はいいな?」
「ああ。気は済んだ」
約束の時間になり、砦の外にはそれぞれの愛馬に乗ったエルバとグレイグの姿があった。
砦の炎はすでに消えており、見張りの兵士以外にはだれもいない。
これから決死の強行軍が開始されるにもかかわらず、寂しい送り出しだ。
「時間がない。これから密林を越え、教会を中継ポイントとして移動するぞ」
「ああ…行こう」
2人を乗せた馬が歩き出し、ナプガーナ密林への道を進んでいく。
エルバとグレイグは砦を振り返ることなく、ただ目の前の道をひたすら進んでいた。
「エルバ…」
「何だ?」
「心配するな。王が約束をたがえることはない。必ずや砦を…民を守ってくれる。だから、目の前に集中しろ」
「…分かっている」
そこから再び沈黙が流れ、2人の姿は密林の奥深くへと消えていった。