「ほら…いつまで寝てるんだい!まったく、この子は大人になっても…」
眠るエルバの耳にあまりにも聞き覚えのある女性の声が響く。
吹雪の中で意識を失ったにもかかわらず、なぜか冷たい雪を感じられず、あたたかな毛布と着心地のいい服の感触が肌に伝わる。
そして、鼻孔に伝わるシチューのにおいとその声は長年聞き続けた懐かしい声で、エルバはゆっくりと目を開く。
目を開くと、台所の様子がすぐに見えてきて、そこにはシチューを作るペルラの姿があった。
「ペルラ…母さん…?」
「ほら、もうすぐ朝ごはんができるからすぐに食器の準備をしなさい」
ペルラの声を無視するように、エルバは部屋の周囲を見渡す。
同時に、廃墟と化したイシの村の光景を頭に浮かべる。
自分の家も破壊されており、ベッドも何も残っていなかったはずだ。
「そうだ、カミュは…」
「カミュ…?誰のことを言ってるんだい?」
「…いや」
「まったく、おかしいわねえ。いつも以上に口数少なくなってしまって。もしかして、ひどい夢でも見たのかしら?」
「夢…今までのが、夢…?」
勇者の使命を確かめるために村を出たのも、デルカダール王に悪魔の子と呼ばれ、牢屋に閉じ込められたのも。
そこでカミュと出会い、彼とともにイシの村へ戻ったが、イシの村が廃墟と化していて、そのまま彼とともにデルカダールの手から逃れながら旅を始めたのも。
そのすべてが夢だったのだとしたら、ここまで生々しいものはあるのだろうか。
着ているものを見ると、それは確かに村にいたころに来ていた普段着だった。
「エマ…」
もし、夢だというなら、きっと彼女も無事のはずだ。
エルバは玄関へと足を延ばす。
「あら…?外へ出るつもり?朝ごはんも食べずに」
「少しだけ出るだけだよ。すぐに戻るから」
ペルラにそう言葉をかけたエルバは扉を開き、外へ出る。
外へ出た瞬間、エルバの目が大きく開き、温かさを感じていた心が一気に冷め切ってしまった。
外に広がっているのは炎に包まれたイシの村で、デルカダール兵たちが逃げ惑う村人を切り殺す姿や家や納屋を焼く光景が浮かんでいた。
すぐ近くには兵士に切り殺されそうになっているエマの姿があった。
「やめろ…やめろぉ!!」
急に服装が旅人の服へと変わり、背中にはプラチナブレードが差した状態になったが、それに違和感を抱くことなく、それを抜いてエマを殺そうとした兵士を一太刀で切り殺した。
「はあ、はあ…エマ!!」
「エルバ…エルバぁ!!」
兵士の死体を蹴り飛ばしたエルバに涙を浮かべるエマが抱き着いてくる。
その声も、髪の色も、スカーフも記憶の中にあるエマそのものだ。
剣を手放し、両手でエマを抱きしめる。
「大丈夫…もう、大丈夫だ。だか…ら…」
抱きしめているはずのエマの両腕の力が抜け、ブラリを下に垂れる。
腕の中の彼女の体が冷たくなっていくのを感じた。
「エ…マ…」
エマの顔を見ると、彼女は眼を開いたままで、その瞳にはすでに光が失われていた。
そして、彼女の背中には3本の矢が深々と刺さっていた。
「あ、あ、あああ…」
「許せない…そうだ、許せないだろう?奴らが、デルカダール兵が…」
「あ、あああ…」
背後から自分と同じ声が響き、振り返るとそこには切り殺されたデルカダール兵の死体の山ができていて、その前には自分と同じ服装で、頭を頭巾で隠した男の姿があった。
彼のそばにはなぜかペルラの死体も転がっている。
「お前は誓ったはずだ。死んだみんなに。デルカダールに復讐すると。だが、そんな貴様が今何をしている?勇者の真実を探す?オーブを集める?ふん、本当はそのようなことなどしたくもないくせに」
男の手にはイシの大剣が握られており、刀身にはベットリと赤い血が付着している。
明らかにそれは兵士たちの血で、それをぬぐうこともせずに近づいてくる。
人間の血の匂いがエルバの鼻に伝わり、男の服もまた血で汚れている。
「デルカダールに復讐したい…だが、お前にはそれを成し遂げる力がない。当然だ。グレイグ1人すら殺すことができない貴様に、滅ぼせるはずがない。だから仲間を群れ、逃げたいと思っている。その使命というものに」
「やめろ…」
「その証拠に、貴様はあの時グレイグを殺さなかった。千載一遇のチャンスがあったのを棒に振った。それを殺された人々にどう説明する」
「やめろ…やめろ!!」
後ずさりするエルバの足を誰かがつかんでくる。
下を向くと、そこには深く痛々しい刺し傷が心臓部分にある村人がいて、血の涙を流しながら彼の足をつかんでいた。
その後ろには同じく死んだはずの村人たちが這うようにエルバに集まっている。
「そうだ…みんなお望みだ。自分たちが受けた苦しみを晴らせ。同じ苦しみを奴らに味合わせろ。殺せ、殺せと…」
「やめてくれ!!俺は…」
「やめてくれ…?ハハハハハハ!!おかしな話だ。村人たちを葬りながら誓ったはずだろう!?奴らに復讐すると。矛盾だな、矛盾しているぞ!!さあ、これが本当にお前が望むものだ!!」
エルバに向けて、男は何かを投げつけてくる。
投げつけられたものを見たエルバは胃の中から何かが逆流してくるのを感じ、思わず両手で口を押える。
足元にはデルカダール王とグレイグ、ホメロスの首が転がっていた。
そして、いきなり景色が廃墟と化したデルカダール王国へと変わり、周囲に転がる死体が村人ではなく、兵士やデルカダールの住民へと変わっていった。
「あ、ああ、あああああ!!!」
両手へと視線を変えると、その手は血で真っ赤に染まっていた。
おまけに再び服装が変化し、ユグノアの甲冑姿になっていたものの、その鎧も兜ももはや元の色が何だったのかわからないくらいおびただしい返り血でぬれていた。
「ハハハハハ!!どうした?貴様の本当の願いがこれだというのに、なぜ苦しんでいる?なぜ喜ばない!!矛盾しているぞ!!」
「違う…俺は、俺はそんなものを望んでいない!!」
「望んでいるさ…わかる、なぜなら俺は…お前だからだ」
風で頭巾が外れ、頭巾に隠れた顔と髪がエルバの視界にさらされる。
茶色いサラサラとした髪に紫の瞳、日焼けした肌。
顔もまた返り血で濡れているのはともかく、それはまさにエルバそのものだった。
「だから、俺はお前になる。心を負ったお前に代わって、デルカダールに…悪魔の子などと呼んで陥れたやつらに地獄を与えてやる」
男がエルバの右手をつかみ、手甲を素手で引きちぎる。
手甲に隠されていた痣は彼に見られた瞬間、真っ黒に染まっていた。
「うわあああああ!!!」
「ちょっと、エルバ!!どうしたのよ!しっかりしなさい!!」
「…!?はあ、はあ、はあ…」
ベロニカの声がひびき、その瞬間視界に広がる景色が暖炉のある小屋の中へと変わっていく。
服装は白い病人用の簡素なズボンとシャツに変わっており、首にはエマからもらったお守りがぶら下げられている。
外から吹雪が壁を打ち付ける音が聞こえてくる。
(夢…なのか…)
「どうしたのよ?ずっとうなされていたわよ」
「…村の夢を、見ただけだ」
苦しげな表情を浮かべ、それだけをつぶやくとベロニカも納得するとともに聞いたことへの罪悪感で視線を逸らす。
寂しげな空気が暖炉の火で温まっているはずの部屋を包む中、コンコンと足音が聞こえてくる。
入口のドアの近くには地下へと石階段があり、足音はそこから聞こえている。
階段から上がってきたのは、オレンジ色の学者帽と厚手のマントを身に着けた、白髪の老人で、恒例の学者にもかかわらず背筋が伸びていて、両手で思い薪を抱えていた。
「おお、お目覚めかな。どうだね?体の調子は」
「あなたは…?」
「おお、挨拶が遅れてしまった。私はエッケハルト。クレイモランの魔法学者で、今はここで町を氷漬けにした魔女について調査をしている」
「エルバ…目を覚ましたのじゃな!?」
階段から駆けあがってきたロウが嬉しそうにエルバを見つめる。
その後ろにはカミュ達がいて、彼らは本の束を抱えていた。
「みんな…」
「エッケハルト殿に助けられたのじゃ。おぬしはここで4日眠っていた」
「4日…」
エルバにとってのその『4日』はあの夢の光景がすべてだ。
あまりにも生々しく、トラウマを執拗なほどに刺激した。
夢を見せているのは自分なのか、それとも夢の中にいるもう1人の自分か。
「その間、私たちはここの東にある古代図書館を調査していたの」
「これがそこから運び出した本だ。ったく、雪の中で魔物の目をかいくぐりながら運ぶのは大変だったぜ」
運び込みそのものは昨日完了したが、それまでは何度も古代図書館とこの小屋を行き来する日々だった。
幸いだったのはエッケハルトが馬車を所有していたこと、そしてクレイモランとは違って氷漬けになっていないことだった。
そのおかげで数百冊の書物を今は小屋の地下に保管することができた。
この小屋は元々、吹雪から身を守るための避難所だったが、今では古代図書館との中継点としても機能しており、書物を保管するための地下室も設けられることになった。
運び込んだ後で行ったのはその書物の中から魔女に関連するものを探すことだった。
古代図書館内部は魔物であふれており、その中で探すのは難しかったことから、こうした回りくどい手段を取らざるを得なかった。
運び込んでから始まったのはロウとエッケハルトによる徹夜してでの本の解読だった。
そのせいなのか、2人の目のはクマができている。
「そうか…」
「お前、ベロニカに感謝しろよ。こいつ、ずっとお前の看病をしていたんだからな」
「ベロニカが…?」
「そうよ!まったく、一人で飛び出して、魔物を倒したのはいいけど4日も寝込むなんて!!」
「す、すまない…」
ベロニカの剣幕にさすがのエルバも悪いと思ったのか謝罪の言葉を口にする。
このようになってしまったのは、結局のところ自分の単独行動が原因なところが大きい。
だが、その行動のおかげで、不本意ではあるがグレイグをはじめとしたデルカダール兵を救うことができた。
「その時のベロニカの必死な姿、お前にも見せてやりたかったぜ。あいつ、さむがってるお前のために…」
「あああーーーー!!!わーー!わーー!わーーー!!!」
「…?何をそんなに騒いでいるんだ?」
急激に顔を真っ赤にさせ、杖でカミュを叩こうとするベロニカだが、片手で額を抑えられて、カミュの腕をポカポカと殴ることしかできない。
「ホッホッホッ、やはり若いというのはよいのぉ!」
「おじいちゃん!!やらなかったんだから、そんな話しなくていいじゃない!!」
「やらなかったって…何を??」
「だから…なんでも…!」
「うわあああ!!悪かった、悪かったから、それだけはやめてくれ!!」
恥ずかしさのせいなのか、余計に魔力が増幅されたメラミはもはやメラゾーマに匹敵する炎となっていた。
それをエルバに向けて放とうとしたベロニカをカミュが両腕をつかんで押さえつけ、セーニャはまさかの事態にあたふたする。
意識を取り戻したとはいえ、まだ全快ではないエルバにその炎は致命傷になるうえに、小屋が燃えて3日かけて運んできた本まで灰になってしまう。
クレイモランを救う手掛かりとなる本、そして勇者をこんなバカなことで失うわけにはいかなかった。
「こ…これは!!」
そんな騒動をよそに書物を読み漁ってたエッケハルトの突然の叫びにエルバ達の視線が彼に向かい、ベロニカも呪文を止める。
ずば抜けた集中力があるのか、それともただ単に疎いだけなのか、黙々と解読していたエッケハルトにはある意味頭が下がる。
「魔女の正体…まさか、神話の時代から生きていたとは…」
「神話の時代…ローシュ様がいた時代よりも前…」
「うむ。魔女の名前はリーズレット。自らの美しさを永遠にとどめようと禁呪法に手を染めた哀れな女と書物にはある」
リーズレットとなったその女性は元々、この地域の一般住民として生を受け、その女性はあまりの美しさで男性たちを虜にしていた。
だが、人間には老いがあり、そして死が存在する。
次第に老いと共にその美しさに陰りを感じ始めるようになった彼女はどうにかして自らの若さと美しさを取り戻そうとした。
そのために古代図書館に数年こもり、それを探し続けた。
その中で禁呪法と出会い、それで作り上げた薬を服用した。
結果として若さと美しさを取り戻すことができたが、それは自分の血液を氷水に変えるもので、それによって彼女は人間ではなくなり、魔女として人間をはるかに上回る寿命と魔力を持って生きていくしかなくなった。
そのことで自暴自棄となり、手に入れた魔力を使って多くの悪事を働き、それが原因で賢者たちの手によって封印された。
「これが…リーズレットが封印されていた本じゃ」
魔女の禁書というタイトルが刻まれたその本は数百ページに及ぶ魔法陣が描かれた紙と2枚の白紙のページで構成され、表紙が頑丈な厚手の羊毛紙で作られた書物で、表紙と裏表紙の中央にはクレイモランの国章が刻まれている。
魔法陣1枚1枚がこの国の魔導士たちの手で描かれており、どれだけリーズレットを封印することが大変だったのかがわかる。
「だが…封印するとしても、リーズレットの膨大な魔力を考えると、この書物だけでも不十分。ゆえに、賢者たちは聖獣の力を借りた。その聖獣にリーズレットが持っている魔力の大部分を封じさせたのじゃ」
「聖獣…?そんなのがクレイモランにいるのか?」
「そうじゃ。聖獣の名はムンババ。千年以上の寿命を持ち、その身に膨大な魔力を蓄えることができる。ムンババの力を借りて、再びリーズレットをこの禁書に封印しなければ…」
殺すことができないのであれば、封じることが最善。
リーズレットが力を取り戻した可能性が高いとなると、再びムンババにその魔力を吸収させる必要がある。
「じゃあ、そのムンババちゃんを探さなきゃいけないわね。それで、どこにいるのかわかるの?」
「うむ…。問題はそこじゃ。ミルレアンの森の奥深くで静かに暮らしているはずじゃが…」
その森の中で何が起こったのかは、既にカミュ達から聞いている。
エッケハルト自身はそのとき、古代図書館の中を捜索していたことから、そのようなことが森の中で起こったことは初耳であり、そのようなことが起こったのはクレイモランの歴史の中でも初めてだ。
「その魔物は…額に魔法陣が刻まれていて、恐ろしい力と回復力を持っていました」
「額に…。その魔法陣の形はわかるか?賢者ほどではないが、学者としてある程度呪文については精通している」
エッケハルトはエルバにペンと紙を渡し、エルバは思い出しながらその紙に魔方陣を書き込んでいく。
何度も見たことでその形は頭の中に焼き付いていて、正確に書き出されており、それを見たエッケハルトは古代図書館から持ち出した本の中のとある魔導書のことを思い出す。
「まさか…この魔法陣は…」
「何かわかるの!?」
エッケハルトは大急ぎで地下室へ駆け込み、本の山の中から例の魔導書を出す。
そして、193ページをめくると、そこにはエルバが書いたそれと同じ形の魔法陣が描かれており、それについての解説もあった。
「これは400年前に存在していた邪教徒たちが使っていた魔法陣じゃ。禁呪法の一つで、刻まれた生物や死体を暴走させ、意のままに操ることができる。すでにそのようなものを扱うことのできる人間はこの世にいないはずじゃが…」
その邪教徒はかつて、魔界から邪神を召喚し、その力でロトゼタシアと命の大樹を滅ぼすことが世界の摂理だと説き、各地でテロ行為を行っていた。
当時はロトゼタシアの各地で天変地異が起こり、さらには領土争いまで発生して不安の立ち込める世の中となっており、人々はそのようなロトゼタシアや祖国に絶望し、中にはその邪教に身をゆだねてしまう人も少なくなかった。
彼らが使っていた魔法陣がそれで、それによって死体兵や魔物たちを操っていた。
最終的に各地の勇士たちの手によって邪教徒たちは滅ぼされ、この魔法陣を使う人々はいなくなったはずだ。
それにこの邪術は魔法陣だけでなく、それ以外にも発動するための条件があるのだが、それについてはやはり悪用されることを恐れたのか、明確な記述がない。
ここからは余談となるが、彼らが信仰している邪神というのは4本の腕と2本の脚に加えて身の丈程の大きな翼をもつ、蝙蝠とドラゴンを融合したような青い鱗の悪魔で、教徒の中にはその邪神を召喚するために集団自殺を行うケースもあったようだが、いずれも魔物1匹すら召喚することができないまま終わっている。
その邪神が実在するかどうかは過去に調査が行われているが、いまだに教徒たちが持っていた教本の中にしかそうした記述がなく、現状では実在するかどうか怪しいというのが結論だ。
「だが…仮にその邪教徒に生き残りが存在していて、細々とその教えが受け継がれていたというなら、可能性はあり得る」
「そんなこと、あり得るのか?」
「あり得る話じゃ。宗教というのはそれだけ根深く、幅広く伝播するものじゃからな」
命の大樹の伝説がロトゼタシア全体で共通して語りづがれるように、宗教もまた国境を飛び越えて人々に伝えられていく。
それが良くも悪くも人々に影響を与えることは歴史が証明している。
「それで、その魔法陣が刻まれた魔物がどのようなものかはわかるか?」
「…金色の鬣で純白の肉体をした、大きな口と長い前足を持っていて…」
特徴を聞いた瞬間、エッケハルトの本を持つ手が止まり、恐る恐るエルバに視線を向ける。
彼の脳裏にはその魔物が何なのかがすでに浮かんでいる。
浮かんでいるが、何か勘違いがあってはいけない、勘違いであってほしいと思いながら踏み込んでいく。
「…?ま、まさか…ムフォムフォと鳴いていなかったか…?」
「そういえば、そんな感じで鳴いていたな」
「あ、あ、あああ…なんということだ…」
エルバの言葉から外れてほしいと願っていた予想が当たってしまったことを確信したエッケハルトはその場で崩れ落ちる。
そして、彼が持っていた本が力が抜けたかのようにスルリと手から滑り落ちる。
開いているページにはエルバが戦った例の獣が描かれていた。
「まさか…奴がムンババだったんですか…??」
「その通りじゃ…まさか、その魔法陣を刻まれていたとは…おまけに、本来なら襲うはずのない人間を…だが、なぜミルレアンの森へ…?」
ムンババは争いを好まない温厚な獣だが、縄張りや地震に危険が及んだ場合には恐ろしい力を発揮することから刺激することがないようにミルレアンの森の奥へ入ることは禁じられていた。
クレイモランの人々も森に立ち入ることを可能な限り控えており、旅人への警告も心掛けている。
しかし、警告する以前にミルレアンの森には旅人を魅了するような要素が何一つなく、彼らが尋ねることはかなりまれな話だ。
「魔女の手下の獣が住み着いていると聞いたんです。それで、実際に殺された人たちがいて、奥へ入ると…」
「ムンババがおったというのか…。魔法陣で無理やり人間を襲わされたというのか、哀れな…」
かつて、魔女から人々を救った聖獣の哀れな末路を思うと、エッケハルトは胸を締め付けるような思いに駆られる。
無論、倒してしまったエルバ達を責めるつもりはみじんもない。
仮にそうしなければ、エルバ達も殺されていたうえに、更には無関係な人々をもその手にかけていたかもしれない。
むしろ、ムンババにこれ以上罪を重ねさせないようにしてくれたことを感謝せざるを得ない。
「しかし…誰から聞いたのじゃ?その話を…」
「誰って…女王様からだよ。シャール女王様」
「何!?シャール様からじゃと!?そんなバカなことが…」
「馬鹿なことって…どういうことなのじゃ?」
「私は襲撃があった日の2日後には一度クレイモランへ戻った。生存者を探したが…見つからなかった」
「見つからなかった…?おいおい、女王様と会えなかったのかよ?シェルターの中も見たのかよ」
「見た。だが、見つからなかった。生き延びたのは私だけ…。間違いない。1日かけてくまなく探したのだぞ!?」
凍える寒さに耐えながら、必死に雪の中で無事だった人々を探し続けたときの光景を思い出す。
聞こえるように大声で呼びかけながら探し続けたが、見つかったのは氷漬けの人々ばかりで、結局無事な人を1人も見つけられなかった。
当然、氷漬けとなった城の中に入ることはできなかった。
「嘘…!?だって、私たちは確かにシャール様と会って、話もして…!!まさか!!」
「どうしたのですか?お姉さま」
「やられた…!あたし達、はめられたわ。あの魔女に!!」
「何を言っているのかさっぱり分からねーよ。わかるように説明してくれ」
「…。古代呪文の中には自分や相手の姿を変化させるものが存在するのよ。リーズレットは神話の時代の魔女。使える可能性があるわ」
その呪文はモシャスで、姿だけでなくその相手の能力や技術をも手にすることができるもので、膨大な魔力を消耗することから現在では使い手が存在しないものとなっている。
そんな呪文をリーズレットが使えたとしてもおかしくない。
そして、彼女が変身するとしたら、その人物は1人だけだ。
「ということは…シャール女王に化けて、私たちを騙していたということ??」
「そういうことになるわね。確かめる方法は一つだけ、クレイモランへ戻って、事実を突き止めることよ」
「そうだな…それが一番手っ取り早い」
壁にかかっている旅人の服を手にし、病人服を下着代わりにして重ね着する。
休んだおかげで体力が戻っており、まだまだヌーク草の効果も残っている。
「エルバ、もう大丈夫なの?」
「問題ない。おかげでだいぶ体力が戻った」
「ふむ…だが、歩いて戻るだけでもかなり体力を消耗する。馬車を使うといい。私も同行しよう。仮に魔女がシャール様に化けているというなら、封印する必要がある」
エッケハルトは禁書を手にし、先に外へ出て馬車の準備を始める。
禁書と一緒に見つかった古文書には封印のためのスペルがあり、それは既に頭に入っている。
ムンババがいない以上、封印できる可能性は低いが、それでもシャールの姿を利用した彼女をこれ以上放っておくわけにはいかなかった。
「なら、エルバはしっかり馬車の中で寝てな。魔女と戦うときに疲れてちゃあ話にならねえからな」
「…いいのか?」
「当たり前だろ。少しは自分の体を大事にしろ」
旅人の服を着終えたエルバに肩を貸したカミュは彼を外へ連れ出し、馬車に乗せる。
ベロニカ達は書物をすべて地下室に戻し、鍵をかけた後で馬車へ乗り、御者台にはエッケハルトが乗り、クレイモランへと向かう。
(シャール様…あと少しの辛抱でございます。必ずや、このエッケハルトが姫様を…)