海峡を抜けてすぐに、シルビア号の周囲が霧で覆われる。
嫌な霧にようやく外へ出てきたシルビアは気持ち悪そうに手で払おうとする。
「嫌な霧でがす…少し慎重に進むでげす!!」
こうした霧の中でむやみやたらと進んだら座礁する、もしくはその中を進んでいるほかの船と衝突するのがオチだ。
海峡から出たあたりには小さな無人島がいくつか存在することを海図でチェックしているため、それと浅瀬に気を付けながら進んでいく。
「おかしいですわ…どんどん霧が濃くなっていきます」
「もう周りがほとんど見えないわ!これ…大丈夫なの??」
隣にいるセーニャは見えるものの、舵を取っているアリスや少し離れているロウとシルビアの姿が全く見えなくなっている。
おそらく、アリスから見たら前も見えない状態だろう。
そんな中でも、彼は器用に舵を回して進んでいる。
「ここはアリスちゃんの力が頼りね…。あとは、少しでも早く霧が晴れれば…」
「見えた…!光だ!前方300メートルくらいのところに日光が見える!!」
メインマストの展望台から周囲を見渡していたカミュが大声でアリスに伝え、アリスはその場所を目指して舵を取る。
霧を抜けさえすれば、あとはもう1度航路を調べて修正していけばいいだけだ。
カミュが言う日光が差している場所まで進んでいくと、周囲を包んでいた深い霧が嘘のように消えていく。
「ここは…」
霧が消えた海の光景を見たセーニャは息をのむ。
真っ白な砂ばかりの島がいくつもあり、座礁した木造の商船が1艘見える。
藤壺がついた大岩とサンゴだけで、木や草は見当たらない。
「おかしいわ…こんな島、海図にのっていないわ!!キャ!!」
ガガガ、と変な音が船の底から聞こえ、若干船体が若干ウィリーしている状態になって止まってしまう。
「嘘…乗り上がったの!?」
乗り上がったと言ったシルビアだが、この乗り上がりは不自然に思えた。
ここに出た後、アリスは一度船を停めており、そこから彼が舵を動かしていない。
まるでひとりでに砂が船底に集まり、動けないように乗り上げさせたようだ。
幸い、この近くに一番大きい島があり、そこへは小舟を使わなくても行くことができる。
「何があった…?」
カミュがメインマストから降りてくるとほぼ同時に、エルバが船室から出てくる。
「ああ、エルバちゃん。実は…霧の中から出たのはいいけれど、よくわからない場所に出てしまって、船も動かせない状態になったのよ」
「そうか…だから、少し前が上へ傾いたように…」
海では当たり前の強い風が感じられず、波もない。
魚の姿も見えず、そこには無機質な、海に似せた鉛色の静寂だけがあるようにエルバには見えた。
カミュは座礁している商船を調べ、その中にある積み荷や乗組員がいないかを確かめていた。
「うえ…積み荷は食い物で全部腐ってるな。だが…」
船の中には乗組員の遺体やそれを思わせる痕跡がない。
完全に風化してしまったのか、それとも全員脱出できたということなのか。
人がいないうえにグリーンオーブを思わせるものが何一つないことは分かったため、すぐに船から出た。
「きれいな場所ですわね…子供の頃に読んだおとぎ話の絵本を思い出しますわ…」
幼いころに読んだ絵本の中に、砂浜と透き通った海だけがあるという無人島の話があったのを思い出す。
その絵本ではとある国の王子が主人公で、大臣の謀略によって国を追われ、海をさまよううちにたどり着いたのがこの場所のような無人島だった。
その景色に魅了され、一度はここでひっそりと暮らそうと思っていたが、そこで運命の出会いが待っていた。
「確か、その無人島ってこんな感じだったわね。で、ここには確か…」
セーニャの言葉で無人島の話を思い出したベロニカはその話の続きを思い出そうとする。
ここはオーブとは無縁で、さっさと離れたいと思っているが、シルビア号をどうにかしないとどうにもならない以上はこうして暇をつぶした方がいいと思っていた。
「…!何か、近くにいる…」
「マルティナ…?」
何かの気配を感じたマルティナはエルバをかばうようにして立ち、周囲を見渡す。
姿は見えないが、長年の旅と武闘家の修行で培った気配を感じ取る能力が自分たち以外の生物の存在を感知する。
「どこ…出てきなさい!!いるのは分かっているのよ!」
気配は徐々に島の中心にある岩場付近の水たまりに近づいてきている。
次の瞬間、その中から癖のあるピンク色のロングヘアーをした女性の上半身が出てくる。
マルティナの警戒心がこもった声が聞こえていなかったのか、どこか嬉しそうに周りをきょろきょろ見渡していた。
「キナイ…!キナイなの!?」
「キナイ…?」
聞いたことのない名前、おそらくは彼女にとっては大切な男性の名前だが、エルバにはわからない。
しばらく嬉しそうに周りを見ていた女性だが、そのキナイという男性がいないことが分かると、しょんぼりしてしまう。
「な、なによ!驚かせないで!!それに、お姉さん!人の顔を見てため息なんて失礼にもほどがあるでしょう!」
驚きのあまり腰を抜かしてしまっていたベロニカは立ち上がり、腰に手を置いてその女性に怒鳴りつける。
少し視線をそらした女性は大きく飛び上がり、水の中から飛び出す。
それで見えた彼女の下半身を見たベロニカたちは驚きのあまり開いた口を閉じるのを忘れてしまう。
ピンク色のうろこのついた魚のような下半身。
ベロニカとセーニャの脳裏に例のおとぎ話で王子が出会ったのは…。
「人魚!?あなた、人魚なの!?」
「マジか…実在したのかよ…」
人魚はあくまでおとぎ話の中にしかいない存在だと信じ切っていたカミュは目の前の彼女が信じられなかった。
「…」
わずかに口を開くだけだったエルバは元の無表情に戻り、岩の上に腰掛ける人魚を見る。
「あなたは…捕まえたり驚いたりしないのね。珍しい人…。キナイそっくり」
「あんたは…?」
「キナイは私のことをあんたって呼ばなかったわね…。驚かせてごめんなさい。私はロミア。人の気配がして、キナイが来てくれたと思って、つい飛び出してしまったの」
「うわあ…人魚って本当に存在したのね。…とまぁ、それはおいておいて、そのキナイって人は誰なの?」
「キナイはナギムナー村に住んでいる漁師、人間よ。私はこの入り江で彼を待っているの。私たち…結婚の約束をしたんです」
「結婚…だと?」
「人間と人魚が!?そんな話、おとぎ話でしか聞かないわ!!」
あのおとぎ話では、その王子と人魚が恋に落ち、海底にある人魚の王国で結婚した。
だが、あくまでそれはおとぎ話でのこと。
現実でそんなロマンチックなことが起きるわけがなく、そもそも人間と人魚は生物として種類が全く異なる。
それが結婚できるとは考えられない。
「そうね。私も最初はそんな約束かないっこないって思ってた。私たち人魚には掟があるから…。陸に上がった人魚は再び海に戻るとき、泡となり消える…。私たち人魚は海を離れて生きられない…」
人魚の祖先とされる存在(それは人間なのか、それともそれ以外なのかはわからないが)はもともと、とある大陸で文明を作り、王国を築き、繁栄していた。
しかし、ある時に巨大な地震が起こり、その影響で大陸は海に沈んだ。
大陸とともに海に沈んでしまった彼らだが、命の大樹の慈悲によって人魚となり、生き延びることができた。
しかし、そのせいで人魚は海でしか生きることができなくなった。
そして、ロミアのいうように一度海から陸に上がってしまった人魚は再び海へ戻ったとき、泡となって消えてしまう存在になってしまった。
「でも、キナイがね、私と一緒に海底で暮らすって言ってくれたの。海底王国の女王様も許しくださったわ」
「なんだか…夢みたいなお話!素敵ね…ロミア!」
目をキラキラさせ、うらやましそうに話を聞くマルティナにエルバは視線を向ける。
彼女にそのような趣味があるとは予想外だった。
武闘家として修業し、旅をしていた彼女だが、やはり一人の女性なのだと再認識させられた。
「それで、この入り江で待ち合わせようって約束したけど、キナイはまだ来ないのよ…。キナイが約束を破るなんて一度もなかった。彼の身に何かがあったのかも…そう思うと、夜も眠れなくて…」
ここからナギムナー村へはかなりの距離があり、それにこの周辺には濃霧が広がっている。
もしかしたら、約束のために向かっている途上でトラブルにあったのかもしれない。
待っていても来ないのは、きっとそれがあったからかもしれない。
「あの…無理を承知でお願いします!キナイの様子を見に行ってくれませんか!?私…できることなら何でもします!!」
「うーん、人魚の済む海底王国ね…」
「なら、頼みがある。仮にその約束を果たすことができたら、俺たちを海底王国に案内してほしい。できるか?」
「海底王国に、ですか?お安い御用ですわ!人魚に伝わる秘法、マーメイドハープで皆さまの船を海に潜れるようにして差し上げることができます。ですが…海底王国に入るには女王様の許しが必要です。許しがもらえるかどうか…」
見ず知らずの自分のために頼みごとを聞いてくれるエルバ達が入れるよう、掛け合いたいとは思っているロミアだが、元々海底王国では人間などの陸の生き物を許しがない限り入れてはならないという掟がある。
許しが得られた例はめったになく、あっても何百年も昔の話で、その時は世界の命運を左右する事態であったために特例として許可されただけだ。
「許しなら、俺たちでどうにかする。それで十分だ…」
「なんだ?お前にしてはちょっと積極的だな」
めったに会話に参加しないエルバが先陣を切ってロミアの交渉しているのがカミュには意外に思えた。
「海底王国へ行けば、海に沈んだという話のグリーンオーブのありかに近づけるだろう?」
「つまり、勇者の真実を探るためか…」
それ以外にも理由があるように思えたカミュだが、詮索するのは野暮だろうと思い、そこで手を止める。
「ありがとうございます!ナギムナー村ははるか東のホムスビ山地の海岸にあります!」
「分かったわ。それで…キナイはどんな人なの?何か、顔とか体つきで特徴があれば教えてほしいわ」
人探しをするには、名前や性別、居場所を知るだけでは不十分で、探せたと思ったら同姓同名の人だったというオチになってもおかしくない。
正確に知るにはやはりそうした特徴間でつかむのは重要だ。
「はい。荒波のように男らしく、潮風のようにさわやかで、海のようにおおらかな漁師がキナイです!」
「…全然、特徴が分からないが…」
「ああ、ごめんなさい…!私ったら、つい…。ああ、そうです!キナイはいつも深めの麦わら帽子をかぶっていて、海のような青い瞳をしています。それから、左の二の腕のあたりに傷跡があるはずです。縦にまっすぐ伸びた感じです」
「そうか…ナギムナー村へ行って、当たってみる」
「お願いします!ああ、それからさっき言っていたことはキナイには内緒にしてくださいね」
そう言い残したロミアは再び海の中へ飛び込んでいく。
そして、しばらくすると乗り上げた状態のシルビア号のそばで再び上半身だけ姿を見せる。
「これが皆さんが乗っている船なのですね?」
「ええ、ロミアちゃん。砂に乗り上げちゃって、動かせないのよ。どうにか男で全員で押そうと考えているけど…」
「大丈夫です!私が動かせるようにします!」
「え…どうやって?」
深呼吸をした後で、ロミアは目を閉じて静かに歌い始める。
すると、シルビア号と砂の間に無数の泡の層ができて、シルビア号をゆっくりと後ろに下げていく。
そして、シルビア号は砂から脱出することに成功し、正常な角度を取り戻した。
「すっごーい!ありがとう、ロミアちゃん!」
「どういたしまして…!あの、それから一つ約束してほしいことがあります。キナイ以外に人魚のことを話さないようにしてください」
「ふむ…確かに、あまり話さない方が良いのぉ」
人魚は人間から見ると珍しい種族であり、好奇な目で見られる可能性がある。
また、昔から人魚の肉を食べると不老不死になるという迷信も存在し、貴族や王族の中には大枚をはたいてでも人魚の肉を手に入れようとする者もいたという話を書物で何度も見たことがある。
そのことを考えると、海底王国や人魚のことを人に話すのは賢明ではないだろう。
「それから、これからは皆さんの船が来る場合は霧が晴れるようになっています。安心してくださいね!」
「ええ。また乗り上げるようなことがあったらいけないわね。ありがとう、ロミアちゃん」
「みなさん、船に乗って下せえ!ここから西へまっすぐ進んで、ナギムナー村へ向かいやすよぉ!」
「西回り?どうして…?」
地図を見ると、白の入り江から西には何もないうえにそこから先の部分は途切れている。
そこを進んでどうして反対の向きにあるナギムナー村に到着するのか、エルバには分からなかった。
「ああ、実を言うとな、繋がってるんだよ。こんなふうにな」
カミュはエルバが読んでいる地図を手にし、それを筒状にして両端を繋げるようにして見せる。
「本当は北と南もそうなんだが、なんでもロトゼタシアは球体なんだとさ。詳しい理屈は俺にもわからねえが…」
「球体…平面じゃないのか…」
「そう考えるのは無理もないのぉ…。それに、本当に球体かどうかまだ誰も証明できておらんからのぉ」
実際にそれを証明するとしたら、とある地点からまっすぐ進んで世界一周をしなければならないだろう。
それもまっすぐ進んだうえで、だ。
まだそれを試みた船乗りはおらず、それを行うほどの長期にわたる航海ができるような船がないと難しいだろう。
実証はされていないが、少なくとも行き止まりはなく、まっすぐずっと進めばやがて同じ場所にたどり着くという理論はある。
そして、長年航海をしているベテランのアリスがそう言っているなら、信用できる。
エルバ達を乗せたシルビア号はロミアの見送りを受けながら、入り江を離れていく。
再び船を霧が包もうとしていたが、嘘のように晴れていき、シルビア号が完全に入り江を離れた後で再び霧が入り江への道を閉ざした。