一応、第三話からの伏線(誰も覚えていない)を回収してます。
新たなる職場と上司による洗礼を受けた日から数日たったある日。ターニャは生まれ故郷である研究所を訪ねていた。
ただし里帰りではない。
ターニャ自身ここを故郷だとは思っていなかったし、研究員も遺伝子強化試験体たちが愛郷の念を抱いているとは期待していない。今日ここへ来たのは別の目的からだった。
エントランスを通り抜けたターニャはゲート毎に事前に支給されたカードキーを使いながら、今まで一度も来たことのないエリア、地下二階へと到着する。
そして地上階と何ら変わらない、白く無機質な廊下を歩み目的地を目指した。
「……ここか」
辿り着いたのはある部屋の前。
その部屋と廊下を区切る壁面には大きな強化ガラスが嵌められていて、まるで展示槽のように中がよく見えた。
ターニャはガラス越しに部屋の中の様子を一瞥するが、すぐに不快感に顔をしかめながら目を背ける。そして扉の脇にあるインターホンを押した。
「面会の約束をしていた。ターニャ……」
名乗ろうとして、言い直す。
「識別番号C-〇〇一一だ」
『扉はそちら側から自由に開けられます。どうぞ、お入りください』
インターホンのマイクから招く声に従って、ターニャは入室する。
その部屋の内装はまるで病院の個室のようだった。部屋の中央にある簡素なベッドがこの部屋の主役であり、その脇には大型の医療機器が並んでいる。一般的な病室と違いがあるとすれば、部屋の奥にある衣装ケースやランニングマシンの存在だろう。それら設備が、この部屋が一時の宿ではなくれっきとした住居であることを示している。
そしてこの部屋の住人である少女はベッドの上に横になり、上体だけ起こした姿でターニャを迎えていた。その瞳は閉じられ来客の姿を見ることはできない。だが足音と気配だけを頼りに、少女はしっかりとターニャの方を向いて挨拶をする。
「いらっしゃい。どうぞ、お掛けになって」
「失礼する」
ターニャはベッドの足元に予め置かれていた椅子に腰かける。ここの職員はあまりこのような気の利かせ方はしないので、この少女が事前に用意したのだろう。
沈黙が面倒なターニャは自分から話を切り出した。
「お互い初対面ではないのだが、まあ改めて自己紹介から始めさせていただこう。遺伝子強化試験体、識別番号C-〇〇一一だ」
「あ……。識別番号、C-〇〇〇一です」
C-〇〇〇一。それがこの盲目の少女に与えられた記号。
彼女はターニャと同じ、遺伝子強化試験体の、最初の一体であった。ターニャ以外の子供たちと同じような輝く銀髪。生まれたのはターニャよりー世代前であるため年齢的には少し上だ。
元々は彼女もターニャと同じように訓練漬けの日々を送っていた。しかしある日から徐々に視力を喪失していき、ついには両目共に完全に視力を失ってしまった。原因は不明。おそらくは不完全な遺伝子操作による影響がホルモンバランスの変化と共に表面化してきたと推測されているが、完全な原因解明には至らず残念なことに治療方法も見つかっていない。
そして彼女は予定されていた訓練課程から外され、この研究所の地下に
そんな複雑な背景を持つ少女に対し、ターニャは慎重に言葉を選びながら接していく。
「……お互い識別番号ではややこしいな」
「ええと。それでしたら以前ここの人たちが私のことを"
通常は研究員が試験体に対し別称を用いるのはあまり推奨されない。その呼び名が試験体の耳に入るのも褒められたことではないが、彼女の反応を見る限り
ターニャは気を取り直してコミュニケーションの続行を図る。
「ではエアステ。私のこともエルフテと……。む? これはこれで紛らわしいな」
「ふふっ……。でも、せっかく素敵な名前があるのですから、"デグレチャフさん"とお呼びしてもよろしいですか?」
「ならばターニャでいい。その方が呼びやすいだろう。……しかし、まさか地下にこのような部屋があったとは。こんな場所では息が詰まらないか?」
「そんな。皆さんには大変良くしてもらっています」
囚われの少女、
この部屋の装いが病室に似ていること。それと彼女がいつまでもベッドから抜け出さないのには理由がある。
それは地上での訓練から外れた後も、彼女が実験動物としての扱いを受けていたせいだった。いやむしろ、それまで以上にこの地下では彼女は人権を剥奪された動物に近い。
それでもこの少女が笑顔を浮かべるのは、外界から隔離されたこの状況により一種の洗脳状態にあるせいだ。
彼女は自分が不幸だとはこれっぽっちも考えていないようだった。
「視力を失って産んでくれた恩も返せなくなった私が、誰にもできない方法で祖国に貢献できる。それはとても……とても素晴らしいことです。そのためなら私はなんだってします」
「そうか。その通りだな」
反吐が出る理屈だと、ターニャは思う。遺伝子強化個体を作り出したのは国や軍の都合であって、それに対して恩義を感じる必要は微塵も存在しない。生まれた後の待遇を考えればむしろ恨みを抱くべきだろう。少なくともそれが普通の感覚だ。
そう思いながら、ターニャはエアステの言葉に同意する。たとえ内心でどのように考えていたとしても、ターニャはエアステと同様の思想教育を受けているのだからある程度は同じ考え方をしているように振る舞わなければならない。ターニャは研究所から出てからまだ日が浅いため、この時点で上の教育方針から大きく反れた行動を執れば面倒な不信を招く。
前世の記憶によって他の個体とは教育の影響が異なるターニャにとって、他の遺伝子強化個体の言動を観察し真似をするのは必須のスキル。慣れたモノだった。
「しかし土産物まで没収されるとは思わなかった。流行りの焼き菓子だったんだがな、飲食物の持ち込みが禁止なら予め教えてほしいものだ」
「すいません。私今、ナノマシンをお腹に入れていて、ちょっとだけ食事制限をしているのです。特に糖質は制限が掛けられていて……」
「食品全般が駄目なわけではないのか? ふむ。だったらこいつはどうだ?」
ターニャは鞄からマグボトルを取り出す。
その蓋を開けると、中の液体の独特の香りが、エアステのベッドまで漂った。
「……薬、ですか?」
「なんだ。コーヒーも飲んだことが無いのか」
ターニャは驚く。
そういえば研究所ではコーヒーが出たことは無かった。職員たちも子供たちから見えないところで食事を摂っていたので、研究所から出たことのない彼女がコーヒーの現物を知らないことも無理はない。
「『コーヒー』……! 確か大人の飲み物だと。味が強く薬剤の混入に適した飲料ですね……!」
「あー、そういえばそう習ったか」
エアステが興味深そうに鼻をスンスンと鳴らす。
「折角だ、飲んでみるか? ……っとカフェインは平気か?」
「はい。確か大丈夫だったと……。すいません。そこに今回の試験のことを書いたファイルがあると思うので念のため確認してもらえますか」
「ファイル……。これだな」
目につくところに出ていた青いファイルを開くと、中には数枚の紙がまとめられていた。文字には全て点字が振ってある。
(ふむ。実験の同意書もあるのか)
ターニャはパラパラとめくり書類に目を通す。"カフェインの接種を禁ずる"という項は見当たらない。
ターニャは棚からグラスを取り出し、コーヒーを注いだ。
素晴らしい香りだと、ターニャは思う。元々土産の菓子と一緒に出すつもりだったので、ターニャが普段飲んでいるものよりワンランク上の豆を使っているのだ。
折角良い豆を使っているのだからブラックで飲んでほしいところだが、流石に初めてのコーヒーでそれはきついだろう。
ターニャはもう一度、現在試験中のナノマシンのデータや実験の規約書に目を通した。確かに彼女の言う通り糖質の接種には制限が掛けられているが大したものではない。それを確認したうえでエアステに尋ねる。
「甘味料とミルクは入れるか?」
「えっと、普通は入れるのですか?」
「作法などは無いさ。純粋な好みでいい。私の場合、糖分が欲しい時以外は何も入れないな」
「では、そのままで」
ターニャは黒い液体の入った透明なグラスをエアステに渡す。
目が見ない相手におっかなびっくり零さないよう手渡すターニャに対して、エアステは慣れたもの。危うげなく受け取る。
「不思議な香り……。いただきます」
一口。
舐める程度にグラスを傾けたエアステだったが、その動きが止まる。
「どうした?」
「…… 苦い」
稚拙な感想。だが初めて飲むコーヒーなどそんなものだろう。
「苦手なら無理して飲む必要はない。後は私が貰うさ」
「飲みます。珍しいものだから、もったいない」
「そうか? 苦いものが珍しいのか」
「あ、いえ。苦いものはお薬でしょっちゅう。これはなんだか、不思議な苦さだから」
エアステは再びグラスを傾けてチビリチビリとコーヒーを飲む。ターニャはそれを見てマグボトルの蓋を閉じた。
「しかし食べ物の差し入れは中々難しいな。今度の手土産は何か別の…… "けん玉"でも持ってこようか」
「けん玉?」
なんとなく、盲目でも遊べるものをと考え思い付いた玩具。この研究所の子供たちには知る由もない物だ。
「ん? ああ。東洋の古い玩具だ。古い……今も売っているのか?」
「えっと……。また来てくれるんですか?」
「たまにはな。都合が付けば顔を出せないこともないさ。それにしても、やはり他の子供たちは来ていないのか」
「……はい」
「まあ無理もないことだ。彼らには私たちの様な繋がりは無いのだから――」
鉄の子宮から生まれた遺伝子強化試験体だが、彼女たちにもその基礎モデルとなる遺伝子の提供者、親のような存在がいる。
ターニャと彼女は同じ人物の遺伝子を操作・強化し生み出された。二人に遺伝子を提供した人物は既にこの世にはいない。かつての大戦で活躍した女性戦闘機乗りの遺伝子を、何を思ったのか時の独裁政権の研究者が冷凍保存していた物を利用したのだ。髪色を始めとしてあまり似ていない二人だが、遺伝子的には姉妹のような繋がりがある。
「かくいう私も、今日までここに来なかった。遅くなってすまない」
「いいえ。そんなことはないです。むしろ私のために時間を割いていただくなんて申し訳なくて……」
「ならば私が来たいときにだけ来る。それでいいだろう。さて、そろそろ面会の時間も終わりだな。次に来るときはけん玉を持ってくるよ」
「はい。今日はありがとうございました」
研究所のエントランスから出たターニャは自分の選択に満足し、口角を緩ませていた。
やはり研究所からストラヴェルケに移る日に、大佐に頼んで彼女の見舞いの許可を得たのは正解だった。
今日の訪問で得た収穫は大きい。
まず、落ちるところまで落ちたデザインチャイルドがどのように扱われているか知れたこと。人体実験を主導している連中は冷酷かもしれないが、少なくとも被験者の意向を完全に無視できるだけの強権は与えられていない。その点ではマウスやモルモットよりマシな境遇と言えよう。
二つ目に、隔離された部屋のセキュリティを確認することができた。少なからず後ろめたい研究をしているだけあってこの研究所のセキュリティはかなり厳重だった。だがそれは外部からの侵入者に向けたものであり、内部からの脱走者は想定されていない。幾つかある関門も、今回の下見で既に突破の目処が付いている。もしC-〇〇〇一と同じように囚われたとしても簡単に脱走できるだろう。
そして最後に、従順な操り人形としての演技の重要性の再認識。C-〇〇〇一に対する監視の甘さは、脱走など微塵も想定していないことに起因する。上の連中は自分たちが教育を施し世間から隔離されたデザインチャイルドが自分たちの意向にそぐわない行動を執るとは考えていない。自分の身を守るために時として反旗を翻すことが必要になるかもしれないことを考えれば、その認識の甘さは好都合だ。下手に反意を露呈してそのアドバンテージを失うのは惜しい。そう考えれば、演技の必要性を再確認できたのは収穫である。
(まあ、度々訪ねるのは面倒ではあるがな……。だが研究所で習った『汝が同胞を尊ぶべし』という教えに倣うという名目で彼女の居場所を聞き出したのだから、今回限りの訪問は不自然。必要経費と割り切るほかないか。……ああ、それにしても――)
ターニャが思い出すのは、C-〇〇〇一のあの卑屈な態度。階級としては同列であり年齢的には年下であるはずのターニャに対し必要以上に畏まった態度を取り続けたのは、視力を喪失した自身を価値無きものとして卑下し、負い目を抱えていることがその原因だろう。
不完全な自分を作り出した学者へ怒りの矛先を向けることも、幽閉され監視された環境に憤りを抱くことも出来ず、ただただ自分を責め立て他者のために使い潰される人生。
否、人に満たない"生"。
まったく、哀れな生き物だ。
"ああ"はなりたくないものだと思う一方で、ターニャは盲目の少女に感謝するような気持ちを抱き、幼子の純粋な笑みを浮かべていた。
それは丁度、贄の羊を見送る気持ちと、よく似ていた。
『エアステ』…… ターニャと疑似的な血縁関係を持つ謎の盲目少女。お気づきかとは思いますが、ISのアニメ二期最終話の終盤にちょっとだけ登場したあの子です。
『コーヒー』…… "コーヒーノキ"という植物の種子を焙煎し挽いた粉末から、湯または水で成分を抽出した飲料。嗜好飲料としては世界で最も多くの国で飲用されている。世界各国において、コーヒーを提供する場の喫茶店は、近代では知識人や文学、美術などさまざまな分野の芸術家の集まる場として、文化的にも大きな役割を果たしてきた。色が濃く、香り味共に強い飲料であるため、対象に認識されずに薬剤等を混入させるのに適している。ターニャのガソリン。上質な豆をプレゼントすると好感度が上がる。