大切なのは、それでも頑張り続けること。
今回はそんなお話です。
PiPiPiPi ―― ピッ。
早朝六時、ターニャは布団の中から手を伸ばし目覚まし時計のアラームを止める。
勤め先の始業時間まではまだだいぶ余裕はあるが、生活リズムを大切にするならもう起きてもいい時間帯だ。昨夜の就寝時間を鑑みても成長期に必要な睡眠時間は十分に確保されている。だが、ターニャはスムーズに布団から抜け出しベッドから起き上がることが出来なかった。
その理由は全身に
仕事に行きたくないという心情が身体的な違和感として表出しているに過ぎない。そう自分に言い聞かせながらターニャはなんとかベッドから起き上がることに成功する。ベッドから抜け出した後はパジャマのまま、まず顔を洗い歯を磨き、それから仕事着に着替えた。
ストラヴェルケAIWの社員の服装は研究職のみ私服可、それ以外のホワイトカラーはスーツで技術職などブルーカラーは指定の作業着と定められている。一応ブルーカラーに該当するターニャの服装はキッズサイズに特注した"つなぎ"だ。
しかしターニャは普通のブルーカラーとは異なる。つなぎに着替える前にタンスの中から取り出したるは、これまた特注品のISスーツ。業務が始まってからわざわざ着替えるのも面倒なので下着代わりに身に着けるのだ。事実ISスーツは操縦者のパフォーマンスを阻害しないことを念頭に製造されているため肌着としても優秀であり、競技以外でも普段使いにしている選手がいるくらいである。
自身の精神衛生のため、ターニャは極力自分の姿を自覚しないよう気を付けながら作業服へ着替え終えた。鏡を見るとそこに映っていたのは当然だがつなぎ姿の幼女。これはこれでニッチな需要がありそうだが、ターニャの精神的な衛生はとりあえず保たれる。
もちろん仕事のときはつなぎを脱いでISスーツ姿にならなければいけない。例え必要な事であっても、自身の幼女スク水姿を衆目に晒すのは苦痛以外の何物でもない。
だが、それも昨日で終わり。
新たな衣服に着替えたターニャが部屋に入室し、着替えを手伝った普段オペレーター役の女性がその後に続いた。
その服装を見たドクトルと研究員は満足気に頷く。
「ふむ。着心地はどうかね? デグレチャフ君」
「悪くないですね。やはりISスーツにはない安心感があります」
ターニャが着替えたのは先ほどと同様のつなぎ構造の衣服だが、
ターニャはそれをISスーツの上から着用していた。
しかし身体だけ守っても仕方がない。研究員は抱えていたヘルメットをターニャに渡す。
「……これは?」
「頭部保護のためのヘルメットだ。流石にこれを一から作成するのは手間なのでな、ISで宇宙開発を目指していたころの装備から拝借させてもらった」
「そうですか……」
ターニャが受け取ったヘルメットは正に宇宙飛行士が着用するそれによく似ていた。つなぎの首周りの部分にはギリギリ両肩に引っかかるほどの巨大なリングがあり、それがヘルメットの縁と合致する構造になっている。
「今のデグレチャフ君と同じようにISの絶対防御がまだ疑問視されていた時代の代物だ。微小デブリくらいなら防ぐだけの耐久性がある。さあ装着したまえ!」
「わかりました」
薄々嫌な予感を抱えながらターニャはヘルメットを装着した。ヘルメット前面は透明になっていて、そこからターニャを見て微妙に笑っている研究員たちが見える。
「……なにか、可笑しなことでも?」
それは可笑しいだろう。なにせ歳平均以上に小柄な幼女が大人用に設計された半金魚鉢メットを被っているのだ。胴体に比べ頭部が巨大すぎる。
遠慮して笑いを堪えるスタッフたちとは対照的に、ドクトルは正直だった。
「まあ変だな。デフォルメされたマスコットキャラクターのような面白いシルエットをしているぞ」
「そうですか」
「嫌なら外すか? 私としてはその方が実証的なデータが取れるので大歓迎だが」
その"実証的なデータ"とやらは対IS兵器による操縦者への影響そのものではないのか? 当然ターニャとしては御免被る。
「着けますよ。それで、次は何をすれば?」
「ああ。後はその衣服を絶対防御の適用範囲として設定すれば完了だ。これでデグレチャフ君の身体への安全性は飛躍的に向上するはず」
「……頼みますよ」
ISのコアは人と精神的な接続を構築する不可思議な機能を有するが、しかしそれだけでISを動かすことはできない。ISの機体を構成するハードとも接続をしなければシールドやPICなどは起動せず、ISはISとしての機能を発揮できないのだ。
そこで登場するのが『
これにより絶対防御など本来ISのブラックボックスに含まれる機能であっても解読式が判明しているプログラムであれば接続機を介すことで人為的な操作が可能となっていた。
ちなみにこの接続機の設計開発者も篠ノ之束だが、こちらはコアとは違い原理こそ解明されていないが製造法は周知されている。
閑話休題。
そしてこの
本研究所には絶対防御適用範囲指定変更のためのコードをオリジナルで作成できる技術者はドクトル一人しかいないのだ。故にターニャとしては彼女一人が頼みの綱。命を預けるのにこれほど不安になる相手もいないが背に腹は代えられない。
早速作業に入ろうとするドクトル。ターニャは彼女が作業に没頭するよりも先に、気になっていたもう一つの要望について質問をする。
「ところでドクトル」
「む? なにかね」
「あちらの件の方はどうなっていますか?」
「……アレは残念ながら材料が手に入らなかった。やはりライセンスが無いとどうしようもないな」
ターニャの言う"あちらの件"とは満足に動かせないISの四肢のことである。今のISではターニャの体格に合わないため出来れば新たなパーツを作成したいという話だったが、こちらは上手くいかなかったようだ。
「その"材料"というのは、やはり……」
「想像通り、ISの駆動部に必要な金属繊維の主原料となる合金のことだ。流石に裏ルートに手を出すわけにはいかないからな」
ISの発表と共に篠ノ之束が世に放った革新的な技術は、なにもISコアだけではない。ISの機体そのものも既存の技術を遥かに凌駕する未知のパーツの集合体であった。ISの手足に使われている金属製の筋組織もその一つであり、ISの腕部装甲の制作にはこれが欠かせない。
しかしその原料として必要となる合金の取引は、コア同様に国内外で厳しく制限されている。『無秩序なISの開発を抑止する』という名目で張られた規制条約だが、実際の目的は『産業や経済への影響を防ぐこと』。
例えば自動車産業で考えると分かり易いだろう。大手の自動車メーカーは莫大な資金や技術的なノウハウ、国内外に建設した工場や研究開発への多額の投資などにより巨大資本として君臨、一国の経済を支えうるほどの大きな柱として確立している。しかし、もしここで駆動用モーターより遥かにエネルギー効率と馬力に優れた駆動系が登場すれば、盤石だったはずの地位は一瞬で瓦解するだろう。資金はともかくとして研究開発含む技術的優位は損失、資本であったはずの工場は一転して負債に化けてしまう。そんな大企業の非常事態が同時多発するような事態になれば経済的な影響は一国に
(市場原理が根付いたこの世界ならばその混乱からの復興も可能だろうが…… やはり御偉方には看過できない事態らしい。まったく、自分の権益が危うくなった時だけ政治主導の動きが手早いのは、どの世界も同じということか)
その後、ターニャはシューゲル博士と共に絶対防御の設定を変更。安全性の確認のために軽く既存火器の試射を喰らい、本日の仕事を終了した。
午後、ターニャは社員寮の敷地内にあるフィットネスジムで体を動かしていた。
会社としてはまだ就業時間だが、ターニャの肩書は社員ではなくあくまでプロジェクトのための協力者。就業時間だからといって他の社員と一緒に働く理由はない。むしろ用もなく社内にいても邪魔にしかならないはずだ。
本来なら経済紙片手に、カフェで優雅にコーヒーを楽しんでいても許される時間帯。
しかし実際はイヤホンでラジオニュースを聞きながら、ルームランナーで死にそうになっている。
(くそっ……。何故こんな目に……)
理由は分かっている。不安なのだ。
前世の戦時中、ターニャは常に死の危険と隣り合わせだった。共に戦列を組んでいた魔導士が落とされることもあれば、ターニャ自身肩の肉を砲弾で抉られた経験もある。そのような過酷な環境の中での生存率を少しでも上げるため、ターニャは部隊員だけでなく自らも必死で鍛えた。鍛錬をおろそかにした者から死んでいく過去の情景が、ターニャの体を必要以上に駆り立てる。
(……全く情けない。休めるときに休むのがビジネスマンの常識だ)
戦時のことなどターニャの記憶の中では遠い過去の一時の出来事に過ぎず、むしろ戦争の当事者でない時間の方が人生に占める割合は大きい。だが研究所での訓練のせいで―― もしかしたら幼くなった肉体の影響かもしれないが、戦争を知らないはずのターニャの身体が、かつて瀕した生命の危機を思い出し警鐘を鳴らすように疼いてしまう。
一通り走り終えたターニャは休み水分を補給する。それなりに疲労しているがまだ足りない。ジムの鏡に映る自分の姿が血と汚泥に
「……馬鹿馬鹿しい。感傷という柄でもあるまいに」
ターニャは苛立ちを振り切るかのように、別のトレーニングマシンへ向かった。
「……時間を掛け過ぎたか」
ジムでひとしきり体を痛めつけた後、ターニャは寮の廊下をコソコソと歩き自分の部屋を目指していた。別に隠れるような
職務中、ターニャは幼子ではなく一人のIS操縦者として認識されている。そしてその働きぶりを知る者は彼女を子供としては扱わず、何度か言葉を交わした者は彼女が子供として扱われるのを嫌がると知っていた。だがこの会社でターニャと共に仕事をするものはごく一握りに限られる。そのため事務方など研究以外の部署にはターニャの存在は噂程度にしか伝わっていない。曰く"大変な仕事を頑張って手伝っている可愛い女の子がいる"と。
ターニャは以前そういった手合に捕まったが、アレは酷かった。悪意が無いからこそ心理的なダメージが大きい。
無理に威圧して追い払う訳にもいかず、だが半端な態度では自覚のない相手には通じない。ただ毅然とした態度で対応すれば諦めるだろうと考えたがそれが失敗だった。客観的に今のターニャの見た目では大人ぶりたい子供の強がりにしか見えないということを失念していたのだ。あまりにいたたまれず、ターニャはその場から逃げるように立ち去るしかなかった。
その事態を避けるため一般社員と行動時間をずらすようにしていたが、今日はトレーニングにのめり込むあまり定時前に戻り損ねてしまったのだ。
(
思い付きに過ぎない妄想であったが、ターニャは自身の考えに恐怖し身震いした。これほど恐ろしい怪談はない。
そんなはずはない、遺伝子操作されたとしても銀髪同様に自分の身体からは排斥されたはずと自身に言い聞かせながら、ターニャは廊下を急ぐ。
そしてなんとか誰にも出くわさず、自室まで戻ることに成功する。
部屋に戻るや否やターニャは戸棚の奥から青いファイルを取り出した。ファイルの中身はターニャ自身の"取り扱い説明書"である。もともとはターニャを作り出した研究所が出先のストラヴェルケに贈ったものであり、本人が目にしていいものではない。それどころか存在すら知らないはずの代物だ。
しかしターニャは『凡そ製品には"仕様書"が添付されている』という一般常識を知っていた。探りを入れてみればビンゴ。そしてその資料を持つ本プロジェクトの責任者であるアルベルタは生粋の学者、開発者であり役人ではない。ターニャが実験の効率化を仄めかしながら閲覧を希望したところ、あっさりとコピーを渡してくれた。それをこのファイルにまとめたのだ。
既に何度も目を通した資料だが今一度『性格』の項目を確認する。
(……"模範的"、"命令に忠実"……"闘争本能の表出が乏しい"……。"被虐性"の記述はナシか)
安心すると同時、冷静さを失っていたことに気付く。自身のデータには目を通していたし気になるものがあれば記憶に残っているはず。そもそも鍛錬ならばともかく実戦ではサディストの方が使い勝手は良さそうな話だ。
ターニャはファイルを元の場所に隠蔽し、机の引き出しからチョコレートバーを取り出す。封を開け齧りつきながらベッドに身を投げ出した。行儀は悪いが肉体精神共に疲れた体には心地良い。
普段ならばこの後ネットなり書籍なりでこの世界のことを調べ自学に励むところだが、今日はもう疲れた。明日になればまた兵器の実験が始まることを考えると気が重くなる。
ターニャは寝支度だけ整えて本日の活動を終了することにした。
ターニャが新たに入手した機動隊の改造服はアニメ版の戦闘時の服装をイメージしております。
今回はオリ設定の解説が多いので、ひょっとすると退屈かもしれません。なので二話連続投稿です。