世の中に たえて光のなかりせば 藤の心はのどけからまし 作:ひょっとこ斎
ヒカルが塔矢くんと打ってしばらく経ったある日、ヒカルと一緒に学校帰りに歩いていると、家じゃない方に向かっていく。というかこの方向は……。
案の定、塔矢くんと打った囲碁サロンの前。ヒカルはそのまま少しぼんやりしていたけど、ため息を吐いて引き返そうとする。
「キミ!」
って、緒方さんだ! 呼び止めたと思ったら、会いたい人がいるとかなんとか。ヒカルと会いたい人がいるって、なんだか嫌な予感が……。どんな用事だろう。
「あの、私も付いていっていいですか?」
「友達かい? そうだね、良ければ是非ついてきて」
ヒカルが緒方さんに引っ張られて、囲碁サロンに入る。指導碁をしているのは、塔矢名人だった。
「塔矢先生! この子が例の……」
ぼそぼそと声を細めたので、続きは聞き取れなかった。だけど、塔矢くんに勝ったのが波紋を呼んでいるのだろう。
そして対局が始まった、んだけど。
ヒカル、どうしたんだろう、凄く何か言いたそう。塔矢先生に? ううん、違う。それよりもっと、言いたいけど言えないような、諦めたような顔。もしかしたら、佐為に何か言いたいのかな。
そして対局が始まる。布石を打ちながら、少しずつ会話も進む。塔矢くんに勝てるのが信じられないというのは、確かにその通りなんだけど。なんだろう、塔矢くんが凄く強いのは確かだけど、自分の子を別格とか。見た目とも雰囲気とも合わないけど、親バカの気配を感じる。私の気のせいかな?
ヒカルは話半分といった風に、塔矢名人の打ち方に魅入っている。自然な姿勢も、なめらかな指の動きも、すっごく綺麗だもんね。
おっと、よそ事を考えているうちに、ヒカルが凄く何か集中しているように、碁石を手に取る。親指と人差し指でつまみ取り、人差し指と中指に持ち替える。そして、盤面に打つ。
パシッ。
綺麗な音が碁盤から鳴る。
打った場所も、たぶん佐為が言った場所とは違う。ここまでの布石から打たれるような場所じゃないもん。有利とは言えない、独立した一手。でも、だからこそ。この後の変化が楽しそう。
「うわぁあ!」
だというのに、ヒカルってばビックリしたような声を上げて、逃げていっちゃった。もったいないし、この場も気になるけど、さすがに放っておけない。
「ご、ごめんなさい。また今度、お詫びに来ます!」
言葉だけ残してヒカルを追う。もー、ヒカルに追いつくの大変なのにー!
公園まで走っていったヒカルに何とか追いつくと、何やら一人でもめている。身体を操った? 佐為が?
そんな風には見えなかったけど。
「ヒカルが、打ちたくて打ったんじゃないの?」
「俺があんな風に打てるかよ」
「案外、やってみたらできるかもよ」
「そんなわけあるか。コイツが乗っ取ろうとしてんだろ!」
「そんなに言うなら、もう一度試してみたらいいじゃない」
「ちぇ、お前ら、言葉が聞こえないわりに同じこと言いやがって。わぁーったよ」
そこらに転がっている平べったい石を手に持つ。ちょっとプルプルしてる。
ひょい、と振ると、地面に置かれず、すっぽ抜けて飛んでいった。
「ズボッだってよ」
やってられない、とばかりにヒカルがつぶやいた。どうしよ、ヒカルが碁に興味を持っているのは間違いないんだけど。
「たった1回上手くいっただけで、その後ずっと上手くいくとは限らないよ。ヒカル、手を貸して」
「ん?」
「爪。碁石の持つ手はね、こんな風に、爪がへこむの。それに、指の腹もほら、硬いでしょ」
ヒカルの指をフニフニと触って、私の指と比べる。人差し指の爪も、中指の腹も。私とヒカルで、全然違う。
「せめて、ちょっとは石に慣れるまで触ってないとね」
ヒカルは少しいじけたような顔だったが、私の手とヒカルの手が全然違うって気付いたんだろう。
それ以上は文句を言わず、素直に家路についた。
週末、ヒカルと一緒に葉瀬中の創立祭にやってきた。お姉ちゃんにもらった食券を持って、何を食べようかと見て回っている時だった。ヒカルが遠くに目をやった。
「お、ホントだ。碁が置いてる」
「どこ?」
佐為が見つけたんだろう、私が聞くと、ヒカルが碁盤の方向を指さす。
2人で近づいてみると、筒井さんが詰め碁をやっていた。ああ、懐かしい顔だ。まだまだ幼さが目立つ。ふふ。
「次、いい?」
「どうぞ」
筒井さんが並べた詰碁を、ヒカルが少し考えて答えを出す。おお、ヒカルが正解した。ヒカルの部屋に、碁のルール本なんてなかったよね。週末の囲碁教室と何度かの対局で、ルールを覚えたんだろうか。
もらった賞品に渋い顔をしながら、ヒカルが文句を言う。こ、こら。厚かましいよ。
「もっと難しいのやってよ」
「もっと難しいの? 大丈夫? じゃ有段者の問題だ。ボクでもこれはてこずるかな。三手まで示して」
言いながら、筒井さんが碁石を並べる。私は解けるけど、ヒカルには難しいかな……って即答しちゃったよ。佐為に力を借りたなー。
「えっ」
そりゃ驚くよね。さっきのに悩む子が解ける問題じゃない。
「詰碁集がもらえる一番難しいのやってよ」
「こんなの解けたら塔矢アキラレベルだよ」
言いながら並べたのは、確かに難易度は高い内容だった。でも、塔矢くんクラスの棋力が必要かというと、そこまででもないというか、私でも解けるくらいだ。
ようし、と解く気満々なヒカルだったが、横からちょっかいが入った。
「第一手は……ココだろ」
「ああっ」
目を向けると、加賀さんがタバコを碁盤に押し付けている。わぁぁ、なんてことを!
何が塔矢アキラだって、加賀さん、塔矢くんに会ったことあるんだ。そして詰碁集を破いて筒井さんを煽っている。そしてヒカルが勝負に乗って、ヒカルと加賀さんで対局する流れになるのね。
ヒカルってば、止める間もなく売り言葉に買い言葉で対局を始めちゃった。昔は加賀さん、もっと大人っぽい印象だったけど、そっか、こうやって見ると子どもだなぁ。碁が嫌になった理由って、何なんだろう。打つのは好きみたいだし。荒っぽい碁にも見えるけど、押さえるところはちゃんと押さえていて、基礎からしっかり学んだ碁だ。
とはいえ、佐為は当然、今は私の方が上みたい。森下先生に何年も鍛えられておきながら加賀さんより弱いと、話にならないもんねぇ。
「……2目半負け」
ヒカルが、というか佐為が勝った。当然だね。加賀さんが、信じられないような顔で盤面を睨んでいる。
指導碁というより、ヒカルのための碁。ヒカルは分かってるかなぁ、分かってないだろうなぁ。
「勝ったぞ! 土下……」
「ヒカル! 待った!」
約束通り土下座と言いかけたヒカルを、慌てて止める。加賀さんに土下座させるとか、そんな後が恐ろしいことは止めてほしい。
「ヒカル、碁やるなら、囲碁部に入った方が良いと思わない?」
「えぇ、そんなのめんどくせぇよ」
「今より強くなれるよ」
「うーん、でもなぁ」
逆行前に、後から聞いた話だけど、無理矢理ヒカルが中学の大会に出ていたみたい。それを止めないなんて、加賀さんはともかく筒井さんも大会に出たかったんだろうな。でもヒカルが小学生なのに出るのは、ルール違反だから絶対駄目だと思う。
「ええと、加賀さん」
「あん? なんだお前」
「藤崎あかりです。初めまして。ヒカルが勝った分のお願いがあるんですけど、いいですか?」
「あぁ? なんでお前が……」
「兼部でいいんで、囲碁部に入って貰えませんか? ヒカルと私も、囲碁部に入ろうと思うんですけど、ヒカルはまだ実力が不安定で、色々と教えてあげて欲しいんです」
反論させたら面倒なので、先に言いたいことを言っちゃう。
佐為が打つと強いけど、ヒカルが打つとまだまだ弱い。今回だいたい互角の展開で、ぎりぎりで加賀さんに勝てる程度の打ち方だったから、ごまかせる範囲だと思う。
「そうは言っても、俺は将棋部の部長だから、兼部は無理だぜ」
「そうですか。なら、時々打ってもらうのは?」
「それぐらいならいいが……」
「決まりですね! お願いします!」
怪訝そうにしているけど、この場で長々と話すのも難しい。詳しくはまた今度ということにして、その場を離れた。
その後、たこ焼きをヒカルと分けて、色々と楽しんでから家路につく。
「ヒカル、碁は楽しい?」
「そうだな……まぁ、つまんなくはねえよ」
「ふふ、何それ」
相変わらずひねくれてるなぁ。そして少し耳を押さえている。
あーあー、もう。懲りないんだから。
佐為は強さも普通じゃないけど、情熱というか執念というか、そういったものも普通じゃない。幽霊になるほどなんだから、それはそうか。
「思ったより面白いよ。塔矢もそうだけどさ、真剣にやってる奴は格好いいし」
そういや塔矢どうしてるだろ、ってヒカルってば。囲碁の勉強してるよ、間違いなく。
いやでもそんなことより。
「ヒカル、私も真剣にやってるよ。格好いい?」
「お前が? 何言ってんだよ、女のくせに」
「あー、ひどい」
反論しようと思ったけど、ぼんやり気味。へーって。
「佐為?」
「ああ、うん。平安時代も女性が打ってたって」
「へー」
それは知らなかった。っていうか平安!?
「佐為って、平安時代の人?」
「そうみたいだな。その後、ほんいんぼーしゅーさく? とかって奴と一緒に打ってたらしいよ」
「ほんいんぼーしゅーさく……本因坊秀策!?」
ああ、それは強いとかプロレベルとかの次元じゃない……。
「凄いね。そういえばヒカル、家に碁盤なかったよね?」
「そんなのねえよ」
「前はいらないって言われたけど、やっぱりあると便利だよ。佐為と打つかどうかはともかく、今日やった詰碁なんかも、碁盤があると考えやすいし」
幸い、私の家には昔使っていたプラスチック碁盤と、今使っている木の折りたたみ碁盤がある。
ビクッと身体を震わせたかと思うと、ヒカルは耳を押さえてうずくまった。
「あー、まあ、使うかどうか分からないけど、一応貸してくれる?」
「うん。じゃあ今日渡すよ」
本因坊秀策に、手取り足取り教えてもらうなんて、なんという贅沢。素質もあるんだろうけど、ヒカルが強くなるわけだね。
「私も、たまにはヒカルや佐為と打ちたいんだけど、いいかな?」
「おう……って俺とぉ?」
「うん。ヒカルも打てるようになると楽しいよ。私も色々教えるから、一緒に遊ぼうよ」
囲碁の勉強も大事だし、強くなるのも必要なんだけど、そもそも楽しむのが大事。ずっとヒカルと一緒に碁を打つとか、凄く贅沢な時間だよね。
もちろん、後々恨まれないように、ヒカルと佐為の時間を取り過ぎてもいけない。
きっと、佐為はいつか消えるのだから。