世の中に たえて光のなかりせば 藤の心はのどけからまし 作:ひょっとこ斎
明日美さんには、プロ試験合格もできるかどうか分からないのに、タイトルなんて考えにないって言われた。
それはそうなんだけどね。ヒカルの横に立つためにプロになれればいいって思ってたけど、やっぱり打つからには勝ちたい。高みを目指したい。
そんな話を伝えると、苦笑まじりだったけど、応援するだけじゃなく自分も目指すと言ってくれた。放っておけないとか、たまにはそれくらい無茶な目標を持つのも悪くないって。
ところどころ気になったけど、明日美さんと仲良くなれたのは嬉しい。
夏休みが始まると、ヒカルはほぼ毎日のように、佐為とネット碁をやっている。私も暇があれば付いていって、一緒に佐為の対局を見ている。
前に話をした一柳棋聖にも対局を受けてもらえたらしく、しかも勝っちゃったらしい。
うん、うん。そうよね。タイトルホルダーとはいえ、本因坊秀策に勝てるはずない。海外の人は知らないけど、今の世で勝てる可能性がありそうなのって、塔矢先生くらい?
ともかく、そんなわけで和谷くんが研究会の時に騒いでいた。森下先生はネット碁は分からないみたいで、うるさいって怒られてたけど。和谷くんの気持ちも分かるけど、今は目の前のプロ試験に集中した方がいいと思う。
「向かうところ敵なし。あかりの言ってたichiryuにも、結構あっさり勝っちまったんだぜ」
「向かい合って打つのと、ネット碁で打つのだと、勝手は違うと思うけどね。それにしてもタイトルホルダーの一柳先生に勝てるのは凄いよね」
「まあな。俺もずっとやってると、打ち始めたら相手の強さがなんとなく分かるようになってきたし、こういう手が嫌だなとか、こう打てばいいのにとか、考えさせられるぜ」
ヒカルも、佐為の対局を見て学んでいるらしい。うんうん、特等席だもんね。羨ましい。
「私にも佐為が見えて、声が聞けたら良かったな。……そうしたら、もっとヒカルと一緒にいられるのに」
「ん、何だって?」
後半は、ヒカルに聞こえないようにつぶやいたから、聞き返された。何でもないと首を振って、席を立つ。
「さて、じゃあ約束の時間だから私は行くね。ヒカルも頑張ってね」
今日は、塔矢先生の研究会。明日美さんと塔矢くんが予選突破したので、塔矢先生の家に行く途中、お祝いのケーキを買う。お小遣いだと厳しいので、お母さんに相談して出してもらった。緒方さんが出してくれるって言ってたけど、二人とも私の友達だし、ここは私が出しておきたい。
「明日美さん、こんにちは」
「あかりちゃん。やっほー」
いつもより元気で、笑顔もまぶしい。ちらりとケーキが入った箱に目線を向けて、嬉しそうにしている。
「あかりちゃんのおかげで、予選通ったよ」
「え、私は何もしてないよ」
「私ね、こうやって研究会に通えるようになったの、凄く嬉しいんだ。まだ1回だけだけどね」
「予選通ったのは、明日美さんの実力だよ。でも、楽しいなら良かった。塔矢くんとも相性良さそうだし、安心した」
「塔矢くんと? うーん、どうなのかな。実力差がありすぎて、ちょっと年下とは思えないけどね」
あははは、と笑いながら肩を落とす。うん。しょうがないよ。彼は別格。
「正直言って、今年は塔矢くんで枠が1個埋まるから、厳しいなーって思うよ。伊角くんにも勝ったことないし。他の外来にも強い人はいるからね」
「なるほど。期間は長いし、体調を崩すともちろん駄目だし、ちょっとした精神的な戸惑いから崩れたりもするみたいね。って、森下先生の受け売りだけどね」
「うん、確かにそうよね。一度負けて、引きずったりとか。ああー、考えたくない」
頭を抱えてぶんぶんと振る。せっかく整えてる髪が乱れるよ。
止まったのを見計らって、手櫛で整えてあげる。
「あはは、ありがと。あかりちゃんは良い子だー」
「そんなことない。私、色々とずるいよ」
んー? とか言って顔をのぞき込まないでください。明日美さん美人だから、照れちゃうよ。
私がずるい話は横に置いて、今は明日美さんの話だ。
「結果はどうあれ、プロ試験は羨ましい。私、今年はまだプロになる気がなかったから受けなかったけど、受けたところで受かるかどうかなんて分からないし、勉強のためにも受けていれば良かったかなって、今さら思うもん」
「ふーん。そっか。そうよね、せっかく皆が本気でぶつかり合う場なんだから、成長しないと損よね」
そんな雑談をしながら、塔矢先生の家に着く。
軽くお祝いをやって、でも一日雑談で過ごすわけもなく。小一時間もすれば普段通りの研究会になった。
塔矢くんも明日美さんも、他のみんなもだいたい真面目だ。1番緩いのは芦原さんだけど、それは性格だけで、囲碁に対して緩いわけじゃない。
しばらく研究会や院生研究で夏休みも半分を過ぎたある日。私は森下先生のお仕事を手伝うために、囲碁のイベントに呼ばれていた。和谷くんと駅前で合流して、会場に向かう。
ヒカルは今日もネット碁らしい。前はイベントがあるって言ったら佐為が行きたがって大変だったという話だったのに、今は佐為もネット碁に夢中らしく、あまり他の欲求はぶつけてこないんだって。あれだけ毎日打てば、そりゃそうよね……。
「だから、俺は学生じゃないかって思ってるんだよ」
「またその話?」
和谷くん、最近佐為にご執心だ。とは言っても、塔矢くんと違ってヒカルの存在は知らないし、注目してるのはネット碁のsaiなんだけどね。
「ああ。前は平日の夕方中心でたまに休日だったのが、ここにきてほぼ毎日だぜ? そんなに暇なの、学生しかねーじゃん」
「仕事してて、辞めちゃったとか?」
「そんな簡単に仕事辞めるかぁ?」
いやはや、案外するどい。そして和谷くんがそう考えるってことは、他にも同じように考える人はいるわけで。
でも、大人でも仕事辞める人はいるよね。
それでちょっとごまかせないかな。
「もしかしたら、今度のプロ試験を受ける人かもよ。時期としても、仕事を辞めてプロ試験に臨むっていうと、タイミング合わない?」
「ああ、なるほど」
ポンと手を叩いて、私の意見に同意する。
でも、と首をかしげる。
「強さがプロ試験受けるってレベルじゃないんだよな。俺、予選で塔矢と当たったけど、強かったのは確かだし、プロ試験もアイツは通るのは間違いない。ただ、saiと対局した時の方が、圧倒的な強さを感じた」
「え、和谷くんsaiと打ったの?」
それは初耳。びっくりしたというか、ネットを通じてだけど、ヒカルと和谷くんが打ってるって、ちょっと面白い。
「ああ。圧倒的な実力でぼこられた。最近は、その時に比べても現代風の手が増えてるっていうか、俺とやった時は秀策のような古い手が多かったんだけどな」
「へえ」
するどいなぁ。言えるわけないから何も知らないふりをしてるけど、全部正解よね。
そして話しているうちに会場到着。
「雑談はこの辺で。お仕事頑張ろう」
「あ、うん」
和谷くんの歯切れがちょっと悪い。切り替えが苦手なのは、和谷くんの欠点かもしれない。
あまり言い過ぎても逆効果だろうし、仕事にならなかったら森下先生が叱るし、放っておこうかな。
会場に入ると、大会に参加している人やすでに負けてしまった人など、たくさんいる。和谷くんは森下先生に強いのがいるとsaiの説明をしてる。もう、本当に懲りないんだから。
案の定、軽くあしらわれて、相手を探していた人と打つよう指示された。私も誰かと打つのかなと思っていたら、会場を見て回っていろと言われた。あまりイベント会場に来ないから、場に慣れろってことらしい。本当に、森下先生は顔に似合わず過保護なんだから。
言われた通り回っていると、緒方先生の姿も見かけた。さすがにアマの大会とはいえ、国際戦なだけはある。軽く挨拶だけ行って、日本人の対局に目を向ける。隣では、中国人かな、真剣な表情で対局を見ている。
「……sai」
ん、今なんて?
チラリと目を向けると、軽く首を横に振っている。saiって言った?
と、対局が終わった。日本人の方が勝ったみたい。少し話をしていると、対戦相手の方が大きな声を出した。
「あなたがsai!?」
「いえ、私は違います。saiって?」
聞かれた方は、saiを知らないみたい。でも、すでに聞かれていたようで冷静に返している。盤面を見た限りかなり強いのは確かだけど、当然ながら佐為には遠く及ばない。その声に影響されたのか、周りからsaiについて語る声が増えてきた。海外でもこれだけ騒ぎになるほど、saiが有名になっているとは……
ざわざわとしはじめて、森下先生や緒方先生も騒ぎを収めようとしていると、和谷くんが混ざってきた。
まるで本因坊秀策が現代の定石を学んだような強さだそうだ。周りでザワザワと秀策? とか聞こえてくる。ああ、居心地が悪い……。
ザワザワしてると、塔矢くんがやってきた。あれ、珍しい。
「どうしたんですか」
変な空気に不思議そうな塔矢くんに、周りが説明する。
「夏休みに入ってよく打ってるし、俺は子どもかなって思ったんだけど、藤崎はプロ試験に臨む社会人かもしれねえって言うんだよな」
「子ども?」
「お前に言ってねえよ。そんで、俺、秀策の棋譜をよく並べるんですけど、まるで秀策が現在の棋譜を学んでるっていうか、そんな印象なんですよね」
塔矢くんは、緒方さんと顔を見合わせた後、チラリとこちらに目を向ける。どうしよ、何か言った方がいいかな。
「名前はsaiと言うそうだ」
塔矢くんがノートPCを起動させて、ネット碁のサイトにアクセスする。アカウントは持っていたみたいで、名前がakiraと出る。
対局者のリストを見ると、今は対局していないみたい。ヒカル、今もネット碁打ってるはずなんだけど、休憩中かな。
「あ」
塔矢くんのアカウントに、対局が申し込まれる。それ自体は珍しくないけれど、なんとsaiからの申し込み。そんな偶然もあるのね。ヒカル、対局者の名前で選んだのかなぁ。佐為も塔矢くんと打ちたがったとか。
対局が開始されて、佐為が黒。数手打つけど、これ、当時の再現……? もう、ヒカルのバカ! なんでそのまま打つかなぁ?
あ、手が変わった。変わったけど、ごまかしとしては今さらね。
「まさか……」
ほら、塔矢くんも疑ってる。え? 投了した?
と、そう思ったら、チャットで再戦を申し込んでる。しばらく待つと、ヒカルから来週の日曜、午前10時と返信があった。あらら。バレてもいいと思ってるのか、深く考えてないのか。後者だろうなぁ。そんな大ごとになっているとは思っていないだろうし。
「日曜? もう国に帰ってるな……」
「彼はいったい?」
ザワザワと騒ぎが収まらない中、塔矢くんは挨拶だけ残して帰っていった。まあね、いたら騒ぎが収まらないと思うから、帰るのはいいんだけど。
「日曜? プロ試験がどうでもいいって言うのか。バカにしやがって」
いらだってる和谷くんも、誰か連れていってくれないかな。ちょうどよいところに森下先生。どうにかしてください。
「森下先生、和谷くんが茹だってるので、ちょっとクールダウンしてあげてもらえますか?」
「ああ?」
「塔矢くんがプロ試験初日だっていうのに、saiの対局を受けたから。馬鹿にされたって苛立ってるみたいなの」
「そうか、ありがとうよ」
ポンポンと私の頭を撫でて、ため息まじりに和谷くんと話し始める。和谷くんも少しかみついていたけど、しばらくすると落ち着いた。さすが森下先生。
しばらく周りがざわめいていたけど、和谷くんとの話を終えた森下先生が仕切って大会を進行しはじめた。私も勝ち進んでいる対局者の案内や、フリー対局の相手探しを手伝う。
韓国語や中国語は単語で意思疎通する程度で、会話とも言えない。英語だけはそれなりに話せるから、何とか役に立てそう。韓国人や中国人も、英語を話せる人は多い。
「藤崎、お前凄いな」
「何とかね。和谷くん、この方が相手を探してるみたいなので、打ってあげて」
せっかくなので和谷くんに手伝ってもらう。何やら言っていたけど、問答無用。プロ試験を控えているんだから、雑務をやるより対局しなきゃね。
そして夕方になり、イベントが終了した。森下先生が門下生や関係者を集めて、ご飯に行くみたい。
「藤崎はどうする?」
「お母さんが用意してくれてるから、帰ります」
「そうか、今日は助かったよ。まさか英語も話せるとは思わなかったが」
森下先生が褒めてくれたので、えへへと笑ってごまかす。前世の遺産なんです。
まだ中学生だから、まったく引き止められずに開放される。大人になっても、森下先生なら無理に連れ回すようなことはないと思うけどね。
「では、お先に失礼します。和谷くん、プロ試験頑張ってね!」
「おう。一足先に合格してやる!」
和谷くんの実力が前世と同じかどうか分からないけど、できれば合格しておいてほしい。森下先生は私も和谷くんも、合格できる実力があるって言うけど、過保護なところあるし、ちょっと割り引いて考えないと。
それはそうと、早く帰ってヒカルから話を聞かなきゃ。
週末はヒカルと塔矢くんの対局を見たいから、院生研修も休む必要がある。上位陣はプロ試験中だからあまり行く意味もないし、篠田先生に伝えておこう。
色々と考えることがいっぱいで、こんがらがりそう。ヒカル、院生試験の申し込みやったかな?