ダンジョンとは、オラリオという街の地底深くに根差す人外魔境。
富と名声という名の甘い魅惑の香りで人を誘い込み、食い殺す恐ろしき地底世界。
そこに慈悲や救いはなく、ただ自然の摂理である生と死が渦巻くだけだ。
かつて食物連鎖の頂点であると謳われた人ですら、この世界では如何様にも成り下がる。
人であるかどうかなど、このダンジョンにおいては些末な理由でしかならない。
強き者が生き残り、弱き者が喰われる。
弱肉強食を如実に体現した場所こそこのダンジョンであり、不埒な考えを持つ者の命を絶つ愚者を淘汰するための世界でもある。
そこでは、あらゆる慈悲や情けは存在しない。
遍くものを飲み込み、嘲笑うかのように冒険者を翻弄してきた。
今日も変わらず、多くの冒険者達を児戯のごとく縊り殺すのだと誰もが口を揃えるもそこへ赴くだろう。
誰かが口をついた。
それが真実かどうかは定かではない。
当人だけが抱いたただの感想かもしれない。
余裕が故に口から出任せに突いたものだったかもしれない。
ギルドがとある報告を受け続けている。
数多のモンスターが魑魅魍魎と跋扈し、冒険者に対して無情の牙を剥く情け無用のはずのダンジョンが悲鳴を上げている。
───目の前でモンスターがいきなり火の手を上げた。
ある冒険者は言った。
いつものようにモンスターと戦闘を行っていた時だと言う。
モンスターが突如発狂し、その身を炎が覆い尽くした。
苦しみのあまりのたうち回り、背筋が凍るほどの怨嗟を上げたと。
その悍ましき慟哭は自身が灰になるまで続いたそうだ。
───モンスターの様子がおかしい。
ある冒険者が口にした。
モンスターの挙動が、以前にも増して奇妙なものになったと。
全てではないものの、あるモンスターは恐怖に怯えたように蹲り、誰が見ても明らかな動揺を表していた。
その身を震わせ、恐怖を払うかのように無作為に暴れる。
弱き固体は恐怖に取り憑かれ、絶叫を上げながら自らの首を掻き切った。
強き固体はその獰猛さに磨きをかけ、あらゆるものに対して無差別に襲いかかった。
自身が強化種だとか、己の性能に驕っている訳では無い。
細胞の反射的防衛手段のように、目の前に映るもの全てに敵意を抱くような有様だったのだ。
そこに同族か別種の生物の境界もない。
ただ目に映る動くものを排除する、それだけの生物になっていた。
──モンスターの湧きが明らかに減った。
通常であれば、各所から各所へと際限なくモンスターが生まれ落ちる筈。だが、こと今日に至っては勝手が違い、至る所で冒険者たちからの情報が飛んでくる。
どう考えてもモンスターの数が少ない。
ダンジョンのあちらこちらから湧き出る筈のモンスターの数は目に見えて減り、冒険者たちの鍛錬に支障をきたしている。
通常のコボルトですら、群れを見つけること自体稀になったという。
先にも記述した通り、モンスター同士の戦闘や弱個体の発狂死などが頻繁に起こってはそれなりに数も減るだろうと、ギルド側はそう判断した。
──モンスターの意識が散漫だ。
とある冒険者はそう感じたと言う。
モンスターと対峙している時、不意に意識が敵対している此方ではなく、彼方へと視線を擲つのだと。
それも数体に限った話ではなく、どのモンスターも決まって同じ方向を注視することがあるのだと、冒険者たちは揃いも揃って同じことを口にする。
意識を取り込まれているかのように停止したモンスターは、攻撃を受けるまで動かない、近づかれるまで気付かないなどといったケースが多く、その有り様の重度さが伺える。
楽に討伐でき、負傷者や死亡者の数が大きく減少したという嬉しい報告の裏側、あまりにも不自然で恐ろしい出来事の前触れなのではないかと不安の声も同時に大きく上がった。
──ダンジョンの地形が変わっている。
あるLv.4の冒険者が呟いた。
皆気に掛けることはないが、湿っぽいダンジョンの地形が所々砂化しているのだと。
更には崩落による縦穴の数も増えた。
何が起こるか分からないのがダンジョンであるが、地形や地質、鉱石の類は基本的には変質しない。
外的要因が関与でもしない限りは、あるがままの性質を貫いていくのだ。
ここ最近どころか、今日までダンジョン内部が変化したとの話は寡聞にして聞いたことがない。
まるでダンジョンそのものが干からびているかのようだと、熟練した冒険者たちは口々に呟く。
以上までが、ここ最近にギルドに寄せられた報告である。
ダンジョンに関する情報をここに纏める。
これらの一部の報告は、新設してから間もないアテナ・ファミリアの眷属が一人、ラジエル・クロヴィスが行方不明になってから半月ほど経過した後に上げられたものである。
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煌々と燃え盛るソレは、炎と呼ぶには余りにも禍々しいナニかを纏っていた。
“火”とは元来、世界を構成する五大元素が内の一つ。
全てを焼き尽くす火は本来恐れられるものではなく、土壌を援助する物質、即ち灰を創り出す。
あらゆる物には起源があり、今現在の世界にて生を謳歌する生きとし生ける者たちは、五大元素のサイクルの元に生まれた命。
遠からずその恩恵を受け、生まれ落ちた者たちが現代に生きる人々なのだ。
破壊は、世界を形作るためになくてはならない必要な力である。
どちらも欠けては世界の均衡は保てない。
切っても切り離せない因果で結ばれた万物の理なのだ。
───下らない御伽噺だ。
馬鹿馬鹿しい、そう炎は悪態を着く。
そんなもの過去の存在が辻褄合わせに、口から出任せに着いた偽善者の戯言だ。
炎は創造の第一歩だと。
嘲笑すら零れない面白みのない話だ。
そんな偉大な力であるのなら、何故自分から全てを奪ったのか。
何故自分から全てを
何故罪無き者達を無情に焼き殺したのか。
何故、自分が
何故だ、何故だ、何故だ!!!
猛る衝動が暴れ出し、視界に映る何かをただ焼き尽くす。
だが、最早何が正しいかなど知る必要などない。
害を成し、敵意を向ける者であれば殺すまで。
それが
諸共、我が炉に焚べるまでのこと。
そうだ、敵であれば躊躇う理由などない。
自分に仇なす輩に、その気概に相応しい対価を払ってやるだけの話だ。
何も迷う事などありはしない。
殺せ、殺すのだ。
かつてこの身に降り掛かった惨劇の幕を、今一度この手で再び開ければいいだけなのだ。
やはり復讐を遂行する他道はない。
今一度、己の役目を再確認する。
どうあってもこの世界に慈悲はなく、弁明の余地など端からない。
破壊し尽くし、殺し尽くす他この心が晴れることは叶わない。
この昂る熱を冷まさせるためには、些かこの世界は熱を持ち過ぎた。
蹂躙だ、殲滅だ、徹底した排除だ。
救いのない世界など存在する理由になく、悪戯に不幸を振りまく厄災の巣窟など根絶やしにして然るべきなのだ。
心を、憎しみを、怒りを燃やせ。
それこそがこの身を動かす原動力。
最終的にこの常世全てを我が憎悪の炎で塗り潰す。
汚らわしい悪人共の手によって成り立った世界など焼き尽くしてしまえ。
涙を流す者が居なくなる、孤独に悲しむ童子を生み出すことのない世界に変えるのだ。
是非もなし、例外など以ての外だ。
全てを────。
───そこの黒髪の子、止まってください。
嗚呼、またか。最近妙にこのノイズが頭に響く。
忌々しい、憎たらしい程この上ない。
復讐を再確認した今になって尚、ノイズが頭に響くようになった。
思考を乗っ取られたかのように視界が、記憶が別の映像に変わるのだ。
伐採を始めて、どれだけの時が経ったか分からない。
薪焚べに精を出し、心身共に充実してきた時にそれは起こった。
まぁいい、気にしなければいいだけの話だ。
ただのノイズ、頭を何度か振るえば落ちる。
そうだ、いつも通り気にする必要などない。
自分はただ殺し尽くすだけだ、例えこの身が───。
───どうぞラ───、っいので──を───けて。
嗚呼、いつにも増してこれは重症かもしれない。
磨耗に拍車が掛かったか、やはり回復を優先するべきなのだろう。
いや気にするな、記憶の焼却など今に始まったことでは無い。
何も問題はない。何もだ。
この復讐に燃える炉さえあれば、他の事など些末な───。
『本当に、それで良いのですか?』
当たり前だ。この命残った時からそう覚悟していた。
この世はおろか、この命の煌めきなど一瞬。
そう、泡沫の夢のようなものだ。
だからこそ、最後に芽生えた感情に従わざるを得ない。
それ以外に、道など存在しない。
例えその果てが、魂すら残せない破滅を招く結果になろうとも。
『貴方に、救いはないのですよ?』
救いなど、最初から求めてなどいない。
全てを道連れにし、諸共消え去る。
ただそれだけを願い、請い、手を伸ばした。
多くの尊き者に囲まれ、有り触れた一時に過ごす道もまたあったのだろう。
ごく普通の生活を送り、愛を享受し、時に啀み合い笑い合う友と共に過ごす世界もまた、あったのかもしれない。
だが、それは到底実現し得ない御伽噺なのだ。
悲嘆に暮れなかった日なんてない。
悲しみに打ちひしがれなかった瞬間はない。
涙を流さなかった時なんて、僅かな時ですらなかった。
何故
───だから、慈悲なんて要らない。
『その先は、地獄なんですよ?』
嗚呼、それもいいだろう。
死ぬ行く定めは、元よりこの世界に住まう生きとし生ける者全てに当て嵌る。
ならば、この果てもまた一つの解に他ならん。
死に行くのなら是非もなし。
行き着く時間が、早まったかそうでないかの違いだ。
なら、どうでもいい話じゃないか。
皆いずれ燃えて居なくなってしまうのなら、近いうちに灰になったっておかしくない。
殺し殺される世界が、世界自身がそれを肯定するのなら。
『そんなことをすれば......貴方は』
解はここにて定まった。即ちこれ以上の問答は無意味。
これより、
世界を焼き尽くす手始めに、神とやらが創りし大魔境を焼却する。
世界への宣戦布告に、これ以上の手向けの花はあるまい。
だからこそ、改めて、今一度告げる。
そして思い知らせる。
皆を見捨てたことの借りが、どれほど大きい物だったのかを。
勝手な都合で皆を振り回したことが、一体どれほどの大罪だったのかを。
もう一度だけ、なけなしの心を込めて誓うよ。
───はて、オレは何を口にしたか。
「.....アテナ、いいかしら?」
「あぁ......アストレアか。
今日も運が良いことに、まだラジエルとの繋がりは切れていない。
捜索隊をギルドが編成してくれたはいいものの、まだこれと言った報告は受けていないよ」
「そう......本当に心配だわ。
あの子結構無茶するから。
貴女も心配なのよ?まだ目の隈、取れてないのに気づいて?」
「なに。私は大丈夫だ。会えないのはこれ以上ないくらい寂しく辛いものがあるが、生きていてくれているのなら希望はある。
お説教の準備でもして、しっかり迎えてあげるさ。
私より、リューの方はいいのか?
その......なんだ、随分憔悴していたが」
「今はリーヴァたちが支えてくれているから何とか持ち直してはくれているわ。
最も、表面だけに過ぎないのは誰が見ても明らかだけど、彼女は塞ぎ込むことは止めた。
意味が無いと理解してくれたのよ。
今日も懸命に時間いっぱいまで、ラジくんの捜索を続けてる」
「ダンジョンの動きも妙と聞く。
この状況に乗じてヤツらも動き出すだろう。
戦争になど発展しなければいいんだが」
混沌とした状況に乗じて良からぬことを企む輩はいつの世も存在する。
更なる混乱を引き起こし、自身の欲望を満たそうと躍起になって悪事の限りを尽くすのだ。
「それに、何だか非常に気味の悪い感覚だ」
アテナは直感的にそう悟った。
未知にて理解の範疇に届かないものに、人々は恐怖を抱く。
生物であるのなら尚のこと、アテナ神々にとってもそれは例外ではない。
ましてや今この身は、今を生きる人と何も変わらない神の力を封じた身体。
嵐の前の静けさにしては物騒だが、もしこの直感が正しければ、静けさなど欠片も印象に残らない大波乱に満ちた状況となるだろう。
「失礼しますっ!!アストレア様、火急のご報告です!!」
だからこそ、いつの世も存在する。
口は災いの元であるという先人が残した不吉な言葉を。
こうして闇は動き出し、光は後手に回る。
悪意の源はすぐそこまで迫っている。
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振りかざされる赤い残光が、薄暗い空間を灯す。
赤々しい鮮血に光と艶を与え、鬱蒼とした光景に色を添える。
ある時は蒸発し、またある時は悪戯に縦横無尽に赤を広げる。
多くのものがその光に惹かれ、その悉くが散った。
知らず知らずのうちに破滅の道を辿るのは、何も夏の夜の虫たちだけではない。
生物であるのなら灯りに群がり、手を出してはならないものに手を触れる。
「クソガキめ!!
囲め!囲んでありったけの魔法を打ち込め!!」
そして、自分たちがそれを更に燃え上がらせる薪になると知る由もなく。
その儚い命を一瞬で燃やしてしまうのだ。
迫り来る風の刃も弱々しい炎も、全てを凍てつかせる無慈悲な吹雪でさえも例外なく燃えていく。
鉱物すら両断する鋼の剣、無情に敵を貫く長槍、暗殺者の如し獲物に纒わり付く影、集約される悪意の塊。
それらも総じて、その灯りの薪となる。
「デタラメ過ぎる!!
武器はおろか、魔法すら燃え尽くされるぞ!」
「適いっこねぇ!!
20人は下らねぇ人数で!
Lv.3で袋にしてんのにこれだぞ!
コイツはLv.2の
「ひ、怯むな!所詮ガキ一人、この数で袋にすれば!」
「いぎゃあああァァァァァ!!!
火が!!火が消えねェ!!!
消してくれ!消してくれよ頼む!!!」
鬼が嗤う。絶え間なく響く絶叫を愉快にと嗤い、一人また一人と灰にしていく。
それもその筈、彼らに逃げ場など最初から存在しない。
決して消えることの無い炎が周囲を覆い尽くし、逃げ場という逃げ場を悉く阻んでいるのだから。
怒りて臥す者『
出会ったが最後、懸命な抵抗を嘲笑いながら容赦なく物言わぬモノへと変えてしまう。
「この......このバケモノが!!!」
その囀りを最後に、また一人土に還った。
鬼は嗤う。矢継ぎに現れてくれる獲物の姿が面白く、憎悪を注ぎ続けてくれる姿があまりにも愛おしかったから。
彼らの声に意味などない。
ただ、愉快に歪む表情と困惑する言動だけが鬼にとっての愉しみ。
それを提供してくれる彼らを、丁寧に嬲るだけ。
愛おしい子に優しく愛撫するように、愛らしい動物を愛でるように等しく愛していく。
止めどなく溢れる断末魔を、お礼と受け取り全てを愛す。
無情に包み込む憎悪の炎が彼らを抱擁する。
「............ギっ.........ァァァ」
徐々に遠ざかっていく声が愛おしく、とても惜しく感じる。
もっと聞かせて欲しい、もっと愛されて欲しい。
この手で、この熱で、この想いで自分の中へと還っていって欲しい。
そして、このどうしようもなく猛り狂った熱を解き放ちたい。
数百数千拳を振るったところで冷めることがない。
それどころか、戦う度にその熱は更なる波となって押し寄せてくる。
止める手立てはない。
しかし、それでも鬼は構わなかった。
「水っ!!!
誰でも゛いい゛!!
ォ゛れにィ゛水ヲ゛!!!」
こんなに耳を蕩けさせる音で溢れているのだもの。
もっと聞きたくなるのが、人の性というもの。
芋虫のように這いずり回るソレを踏み潰す。
背中から落ちたかのような音を出して、ソレは次第に小刻みに震えて止まった。頭のてっぺんからつま先まで電気が走ったかのような感覚を覚えた。
鬼は自分の身体を抱き締めて、恍惚とした表情を浮かべる。
もっと、もっと欲しい。
このゾクゾクとした感覚を、もっと味合わせて欲しい。
余韻に浸り続け、結局ソレが灰になるまで見つめていた。
儚いモノが散る様は、見ていてやっぱり面白い。
鬼はまた、愉快に嗤う。
心底可笑しそうに、童女のような表情を浮かべケラケラと嗤う。
心底愉しそうに、童子のような無邪気さでカラカラと嗤う。
まだ、愉しめる。
その奥に、まだあんなにたくさんの目玉がこっちを覗いている。まだ、あんなに愉しめる。
そう思うと更にゾクゾクした。次はどうしようか。
脚を捥いで燃やして反応を愉しもうかな。
指先をゆっくりと削って絶叫を愉しもうかな。
喉を潰して掠れた声を愉しもうかな。
お腹を貫いて内側から燃やして愉しもうかな。
片眼を壊してのたうち回る様を愉しもうかな。
半分にして僅かに動く最後を見て愉しもうかな。
丁寧に全身の皮を剥がして苦労を愉しもうかな。
普段見ない身体の内側でも観察して愉しもうかな。
態と逃がして安心した所を殺して愉しもうかな。
全身をぐにゃぐにゃにして蠢く姿を愉しもうかな。
あぁ、どうしよう。どれも試してみたい。
どれも試して、思いつく限りの反応を愉しみたい。
きっと、もっとゾクゾクするよね。
普段から威張ってたキミたちがみっともなく転げ回る姿は、きっと爽快で愉快な見世物になってくれるよね。
ボクたちを壊して愉しんでた立場が一変して絶望してくれるよね。
アイテムを頂戴なんて言わない。
お金を頂戴なんて言わない。
武具を頂戴なんて言わない。
───ただ、その
それさえあれば、ボクは本来の形に戻れる。
「情報収集に出ていた先遣隊、23名の冒険者たちの恩恵が途絶えました......!!」
狂気は加速し、破滅の扉は開かれた。
間もなく火は放たれ、混沌とした時が訪れる。
荒れ狂う炎は厄災と狂気を呼び込み、触れるもの全てをその奥底に引きずり込む。
ならば、生きとし生けるものに逃れる術はない。
受け入れよその憎しみを。
やがてそれは、その者の愛すべき隣人をも手掛ける剣となろう。