ひっそりと構えられた喫茶店が、そこにはあった。
住宅街の奥の奥へと進んでいった先に、その店はある。
大きくもなければ小さくもない。
何方かと言えばこぢんまりとしていると表現した方がしっくりくるかもしれない。
しかして店はある。
そして、店があれば、客もまたやって来る。
暖簾さえ掛かっていれば、呼ばずとも自然に客はここを訪れるのだ。
店とは、得てしてそういうものである。
「ちわー!
マスター、お邪魔するでぇ!」
また、面白いとお客が思ってくれれば、苦労など気にせずに足を運んでくれるのだ。
見つけるのが大変な酔狂な店に、こうして定期的にやって来るお客は少なからず存在する。
自分で構えておいてなんだが、このお客も存外物好きと見える。
酒盛りするために、わざわざ迷路じみた通路を抜けてまで来てくれる。
その熱心な姿には、呆れを通り越して尊敬に値する。
まぁ、数時間後には必ず前言を撤回するハメになるのだが。
「いやぁさむさむ。
最近寒なり過ぎとちゃうか?
こないなん続いてもうたらウチかて凍りついてまうよ。
そんで、そうなる前にちゃんと温かいモン飲まんとな!
そういうことで、熱燗とテキトーにツマミ頼むでマスター?」
「ホント、物好きだよなぁお前さんも。
わざわざこんな辺鄙なところに通うなんてな。
精が出るこって」
「んもう、固いこと言いっこなしやで。
神と同じくらい気紛れなアンタが、よりにもよってこの日に店開けるから悪いんやで?
一常連として、足運ばん訳にはあかんやろ。
そーれーよーりー!
はよあっつい一本頼むわぁ!
ウチ凍えてまうで!」
「……まぁ、常連を無碍にするわけにはいかないよなぁ。
ホラよ、熱燗とおでん詰め合わせ。
上がったばっかだから熱いぞ、気ぃつけな」
「おぉ!
なんやもう準備してくれはったん!?
何時になく気が利くやんかぁ。
ひょっとして……ウチが来ること期待してたとか?」
「阿呆。
誰が来てもいいようにだよ。
準備はしておいて損はないからな」
「にひひ、マスター素直やないなぁ。
喫茶店で酒がある時点でお察しやんか。
ツンデレも大概にしとき?
惚れんのも時間の問題なんやから」
「そいつはどうも。
男冥利に尽きるねぇ。
それよりホラ、冷めるぞ」
「ま、今日はこんくらいにしといたろか。
祝い事の前日やしな、野暮なことも言いっこなしや!
マスター、かんぱーい」
「へいへい、乾杯っと」
程よい熱さにまで熱した焼酎が喉を鳴らす。
凍えていたお客はそれを一杯煽っただけで、直ぐ様顔に火照りを浮かび上がらせる。
そして、素早く煮玉子に箸を通す。
半熟気味になった卵を半分頬張る。
熱いことはもちろん分かっているが、鼻腔くすぐる出汁の香りの前には、がっつかない訳にはいかなかった。
再び熱燗をお猪口一杯を煽る。
無限に繰り返せそうだった。
「くぅぅ……効くわぁ!
寒空の下歩いてきた甲斐があったわ。
にっひひ、また腕上げよったな。
ホンマこのおでん最高やな!
なんぼでも食えてまう!
…………ぷはぁ、あぁ幸せやぁ」
「毎度毎度美味そうに食ってくれるなぁ。
作り手としちゃあこれ以上に嬉しいが、塩分高いからほどほどにしとけよ?
なんであれ、食い過ぎはすぐ肥えるからな」
「あ、乙女に向かってなんちゅーこと言いよんねん。
ウチかてピッチピチの淑女なんやで?
マスター、そんなデリカシーない発言、控えんとあかんよ?
そないやから何時まで経ってもええ子捕まらんやんか」
「お前さん以外こんなこと言わねぇよ。
常連は大切にしたいんでな、体調管理もしっかりしてもらわねぇとこっちも困んのよっと。
ホラ、うちの特製干し柿だ。
ザラメ塗してあっから口直しにお上がりよ。
あ、だからって食い過ぎんなよ?
呑み終わった頃にもう一回食っとけ。
高確率で二日酔い防げるからよ」
「おぉ、これもうんまぁ!
毎度気が利くなぁマスター。
んーなんやかんやゆーても、総合的にマスターは魅力的やね。
プラスやプラス。
他の要素も全部プラスにしてまえばモテモテやんか」
「そんな浮気性な男にはなりたくねぇの。
分かってくれる奴にだけ、分かってくれればいいのさ。
丁度一人、分かってくれる奴は知ってるがね」
「……にひひ、そういえばウチも心当たりあるわぁ。
だいぶ物好きなんやね、その人って」
「まぁな。
酒癖悪いのが玉に瑕だが、お陰で退屈しない時間をもらってるよ。
だからこうして、誰かを通してお礼してんのさ」
「えぇ?
そこは直接言わんとあかんちゃうの?」
「調子に乗るからダメだな。
まぁ、そのうち考えとくよ」
「そっか、じゃこれ以上は野暮やな」
「そういうこった。
気にしねぇで楽しんどけ」
こうした酒の席では、全てのお客は対等の立場となる。
無礼講も行き過ぎれば悪いが、硬くなりすぎなのも返って逆効果だ。
ほどほどに気を遣わず、双方が楽しめれば万事解決なのだ。
ゆっくりなようで、あっという間に時が過ぎていく。
何とも奇妙な時間感覚を覚えるのが、こうしたいい雰囲気の成せる技なのだ。
「ほんでマスター?
この店構えてもうなんぼになるん?」
「なんだよ急に」
「ええからええから。
たまには過去を振り返ってみるモンやで?
そっからまた新しい発見があるかもしれんやんか。
こういう振り返りの場は大切な機会や。
まして、祝い事の前日なら尚更。
ウチが特別に聞いたるよ?」
「あー……そういやぁ考えたことなかったな。
気付けばもう一年も終わりなんだなぁって思ったくらいかな?
店構えてもう早えモンでさ、あっという間に半年ぐらい経っちまった。
まぁ、そんな短い間で常連が出来たことは予想外だったが……」
「にひひ、そんで?
他には何か思ったことはないんか?
アンタ別にこの店一筋って訳ちゃうんやろ?」
「まぁ、確かに俺はここだけが本業じゃねぇからな。
他にもやらなきゃいけねぇことは腐るほどあるし、毎日面倒を見てやれるわけじゃないんだが……。
ははっ、いやぁなんだ。
時たまこうしてやって来るお客にえらく有り難みを感じてよぉ」
「……っ!
なんや、今日は変とこで素直やな。
思わんストレート発言でちょいビックリしてもーたわ……」
「いいだろ?
たまにはこうやって吐き出してみんのも悪くねぇ。
ロクに考えもせずにやって来るお客が大半だが、常連もいてくれる。
来てくれるだけでも嬉しいのさ。
こんな気紛れな店相手によ。
そういうお客全部ひっくるめて感謝してんのさ。
一番じゃなくてもいい、ついででもいい、この店と同じように気紛れでもいい。
来てくれるだけでも御の字だ。
ここに来てくれるお客には、それだけで俺は嬉しい」
「確かに、ここに来る輩はアンタと同じくらい気紛れモンばっかや。
好き勝手吐き散らかして帰ってくで、アイツら?
それでもアンタは幸せなんか?」
「あぁ、幸せだとも。
そういう奴らも、日々のストレスでいっぱいいっぱいなんだろ。
だったらここでいっそ吐いてくれりゃいい。
ハメ外して、バカ騒ぎしてくれんならそれで結構。
この店も喜ぶってモンだ。
そういう奴らの拠り所になって欲しいんだよ。
だから、まだ当分ここを閉める気にはならねぇよ。
せっかく集まってくれた大事なお客だ。
まだまだいい思いしてくれねぇとな」
「……ちょっと見ぃひん間に、ごっつ男前になったやないの。
せやな、どんな奴にしたって、感謝する心忘れたらあかんな。
持ちつ持たれつ、ここに来たからには一蓮托生やもんな」
「ンなでけぇこと言うつもりはねぇけどよ。
でもまぁ、とりあえず寄れる所があるってことぐらい思ってくれれば、今はそれでいいかな」
「なんやちっちゃいなぁ。
男ならもっとおっきい夢見たらええやん。
叶う叶わない限らず、夢くらい夢見てええやんか。
少なくとも、ウチは応援したるよ?」
「そう言ってくれるだけで十分さ。
まぁまだまだ始まったばかりだ。
じっくり時間かけて、登れるところまで行くつもりよ」
「……ふぅーん。
今はまだそれでええということにしとくわ。
ウチかて、もっと盛り上がってくれんとつまらんしな。
のんびりとした雰囲気も悪くはないんやけど、それだけじゃ飽きてまう。
物事は緩急つけてなんぼやからな」
「言われんでも分かってるよ。
他の店に尻尾振られないよう足掻いてみるさ。
毎回来てくれるお客に申し訳ないしな」
緩やかな時間が過ぎていく。
気づけば一年の終わりがすぐ近くまで迫ってきている。
つくづくあっという間だったと痛感させられる。
色々あったようで、何もなかったように思えた。
だが、結局のところはどっちでもいいのかもしれない。
何かがあれば変化を楽しめばいいし、何もなければ穏やかな一年だったと思えばいい。
後ろ向きに物事を捉える必要はない。
何気ないように過ごしていた日々は、しっかりと着実に、その先にある何かに繋がっている。
一年はこれで終わるが、人生はまだまだ終わりには程遠い。
ゆっくりと時間をかけて味わえばいい。
焦ることはない。
人生はまだまだこれからなのだから。
「あ、言い忘れてたわ。
マスターのお望み通り、そろそろ新しいお客来るで?」
「なんで分かんだよ?」
「ウチが呼んだからや。
辺鄙なところに酔狂な店があって、物好きなマスターがおる変わった店があんねん!
ってオススメしといたで。
感謝してやぁマスター?
にひひっ」
「全然勧めてねぇじゃねぇか。
ほぼ悪口じゃん、何も褒めてねぇじゃん」
「だーから固いこと言いっこなしやて。
来てくれるかもしれんだけええと思わん?」
「まぁ……来てくれるに越したことはねぇけどよ。
なーんか腑に落ちねぇなぁ……。
やっぱ干し柿は取り上げとくか」
「あぁーん!
堪忍やてマスター!
それなかったらウチ年明け早々寝て過ごしてまうやんか!
全然めでたくない感じになってまうやんか!
返してーな!」
「おうおう潰れて寝て過ごしちまえ!
いい感じにまとめあげたようにドヤ顔かましやがって!
そもそも毎回吐き散らかして帰ってくのお前さんじゃねぇか!
誰が掃除すると思ってやがる!
ちったぁあの子たちの身にもなりやがれ!
散々迷った挙句に酔っ払いを連れて帰るハメになるあの子達に同情するわ!」
「喧しい!
酒呑んで何が悪いねん!
酔っ払って何が悪いねん!
ウチは呑みたい時に飲む、誰にも文句は言わさへん!
金置いてんねんから最後まで面倒見ぃや!
背中摩って介抱せえや!
それより、迷うのはウチのせいちゃうやんか!
こんな訳分からんとこに店構えるのがおかしいちゃうの!?
ホレ、何とか言うてみぃや!」
「お邪魔します。
知人に紹介されて訪ねてきたのですが……お取り込み中ですか?」
「なーに?
けんかー?
俺おなかすいちゃったんだけど」
「ほう、随分風変わりな店だな。
我が主神を招くには少し薄汚いが、まぁこれはこれで悪くはないな。
久々に一杯もらうとするか」
「なになに!?
結構いい雰囲気じゃない!
代理の仕事終わりにぱぁーっとするには丁度いいかも。
たまには誰かが作った料理も食べてみたいしね」
「やっぱりここにいたのか!
毎回連れて帰る私の身にもなれ!
誰のために毎回会議を行っていると思ってる!?
団員が団員なら主神も主神だ!
ウチのファミリアは私にどれだけ手を焼かせるつもりだ!」
「あらあらうふふ。
随分と賑やかなお店ね。
雑務の息抜きにはうってつけじゃないの」
「そうだな、最近ロクにお茶も出来なかったから丁度いい。
今日ぐらいはファミリアの勉強は休んで、一杯飲むのもいいかもしれんな」
店があればお客有り。
またその逆もまた然り。
一人は二人となり、二人は四人となる。
そうやって人との繋がりは無数に枝分かれしていく。
そして、そうして人は新たな出会いに巡り合っていく。
年が明けることとなっても、結局人の本質は変わらない。
今まで通りに、今まで以上に過ごすのだ。
新たな巡り合わせを求めて人は、今日を過ごす。
願わくば新たな年は、素敵な出会いがありますように。
「ったく……また一段と忙しくなるなぁオイ。
まぁ、やっぱりこういう方が面白いな。
いらっしゃいませ、あずき屋へようこそ!」