目を開ける。視界に入るのは見慣れた天井。徹底的に掃除され磨き上げられた豪奢な部屋。
手を上に伸ばす。枯れ枝のように萎びている。重い。たったそれだけの動作でも身体は悲鳴を上げる。
それでも体を起こそうとして……断念した。自分の体ではあるけれどままならない。
「あ……ネム様! 目を覚まされたのですね! すぐにアインズ様をお呼びします!」
すぐそばにいたであろうメイドの後ろ姿がすぐに見えなくなる。
ここは私の部屋。
至高の地、ナザリック大地下墳墓第9階層にある一室。
不滅の魔導王、アインズ・ウール・ゴウンの側室の一人であるネム・ストロノーフの部屋だ。
まだ子供の頃に与えられた部屋をそのまま使わせてもらっている。数十年経っても当時と何ら変わらないのはさすがナザリック、アインズ様のお膝元と言う他ない。
部屋の主はしわしわのおばあちゃんだけど。
そろそろ80歳くらいだったはずだ。肉体の老化が目立ってきた頃から徹底的なケアサポートのおかげで記憶力こそ落ちたものの思考ははっきりしている。
ここ数年は寝たきりで排泄の世話もメイドさん任せになってしまってはいるのだけれども……申し訳ないと思いつつもそれには慣れた。
ただ、そのはっきりとした思考で悟ってしまった。
今回の目覚めが最期だと。
いったい何日意識がなかったのかわからないがかなり長く眠っていたみたいだった。
身体の衰えがはっきりとわかる。
今この時は蠟燭が消える直前の最後の火なのだ。
怖くはない。人としての生を全うさせてほしい。アインズ様にはそう、頼み込んだ。
何度も何度も、それこそ耳にタコができるくらい不老不死化の手段を勧められたがその度に断った。
今はもうほとんど顔も思い出せない両親に産んでもらったこの身は最期までただの人間でありたかった。私が言ったアインズ様への数少ないわがまま。
部屋の外が騒がしくなる。部屋の扉を蹴り破らんばかりの勢いで入室するのは愛しの人、大好きな王様、アインズ・ウール・ゴウン様。
今は魔法の指輪で人間形態のようだ。黒目黒髪の、最初で最後の恋をした男性。
「ネム!」
「そんなに大きな声を出さなくても聞こえていますよ?」
「そ、そうだなすまない……」
よほど焦ってこの部屋へ来たのか額に汗を浮かべている。魔法を使えば一瞬で来れるはずなのにそれに気づかないほど動転していたようだ。
「でもよかった、来てくださって。最期にご挨拶をと思っていたけど私から出向くことはもうできなかったから……」
「最期……やはり、もう……」
「悲しむ必要はありませんよ、アインズ様。私は――」
ばーんと再び扉が蹴り開けられた。
現れたのは美しく成長したアウラ様。黄金率とも呼べるほどの肉体となりしぼみ切った今の私とは比べるべくもないほどの胸に育った。アルベド様ほどの大きさではないが同性でも視線をさらっていく適度な大きさの均整の取れた形、いわゆる美乳。シャルティア様と顔を合わせるたびに喧嘩が起きるのはナザリックの微笑ましい日常。
「ネムが目を覚ましたって!?」
「騒々しいぞアウラ。少し落ち着け」
アインズ様の姿も目に入っていなかったらしいアウラ様はベッドの横にいるその姿に気づき大慌てで佇まいを正す。相変わらずの男装だけど女性らしい胸元が何とも言えない色気を生み出している。アインズ様も一瞬目を奪われている。何度も触れているはずだけど見てしまうのは男性の性か。
「も、申し訳ありませんアインズ様!」
実年齢的にはそうではないが、歳を重ねた私にしてみたらアウラ様の成長は娘の成長のように思っていた。
「いいのですよ、アインズ様。アウラ様も普段通りで」
「ネム、あんた……その……もう、ダメ……なの?」
「……ええ。今こうしてお話しできているのが奇跡のようなモノ。もうこの体には何も残されていないのです」
「なんで、死ぬのよ! 種族を変えてずっとアインズ様の御側に仕える方法もあったでしょう! それにあんたが来なくなってから魔獣達が目に見えて落ち込んでるのよ?」
アウラ様の配下、第6階層の魔獣達にも悲しい思いをさせている。キーリストランは例の指輪を使い時々話し相手になってくれていたけど他の子はそうはできない。
唯一の従魔であるハムスケにも久しく会えていなかった。まあ、あの子の場合とある地で見つかった同種と番になり子供を産み幸せそうではあるが。
「私はただの人間ですもの。死は必然。私を生んでくれた両親に感謝しつつ生を全うするのが摂理。それを曲げて生きようとは思いません」
「死んで終わりのあんたはそうかもしれないけど死んでほしくないって思っている者も少しはいるのよ! 今からでも遅くない――」
急速に重くなっていく体に鞭打ってアウラ様の口元に指を添える。
言いたいことも思いも伝わってきているのだと。
「アウラ、もうよい」
「アインズ様……」
「アインズ様、私のわがままを聞き入れていただきありがとうございます。最期に、一言だけ」
本当にもう時間が残されていないということを自覚している。
だから、力を振り絞って思いを口にする。長い言葉を紡ぐだけの力も残っていないので本当に一言だけを。
「私は、ネムは幸せでした」
アインズ様とアウラ様、いつの間にか詰めかけていたメイド達。それぞれが目に涙を浮かべている。とてもうれしい。同時に少しだけ、申し訳ないとも思う。
視界が暗くなっていく。死の予感。
本当の最期、言っておくべき一言はまだ言えていない。
「これからも、よろしくお願いしますね」
意味を図りかねたのか困惑した表情のアインズ様。
瞼が落ちその姿が見えなくなった。
目を開ける。うっすらと緑色をした粘液の中にいた。
大きなガラス管の中でゆらりと揺蕩う。
手を伸ばす。皴一つない艶やかなハリのある肌。だと思うが水中のためぼやける。
目を覚ましたことを伝えるためガラス管をノックする。
外にいた小柄な人影が何か操作すると粘液が排出されていく。
肺に空気が入る瞬間、盛大にむせた。
「成功だな」
蹲りむせかえっている私にタオルを差し出すのは小柄な人影。
粘液をタオルで拭いクリアになった視界に映るのは小鬼の王、ジュゲムさん。
「体に違和感はないか? 数値上は問題ないはずだが本人しかわからん祖語もあるかもしれん。一通り検査するからそっちへ」
「あの、その前に」
「ん?」
タオル一枚では拭いきれない粘液が体中に残っていてどうにも気持ち悪い。
「お風呂をお借りしてもいいですか?」
「ああ、すまん。気が回らんかったな。あいつも30分ほどで仕事を終わらせて駆けつけるといっていたからのんびり入ってこい」
ナザリックの大浴場にも劣らないジュゲムさんの隠し工房にある大浴場。
私一人が大の字になって浮かんでも広すぎる。
だらしなく湯船に浮かび改めて体を検分してみる。
年のころは二十歳前後。残念ながら大きくはならなかった胸もそのまま再現されている。
大丈夫、感度はいいから。アインズ様は大きさにこだわらない。
それ以外もいたって正常。老衰で死んだ私の面影はない。
そう、間違いなくあの時、アインズ様やアウラ様に看取られネム・ストロノーフはその生涯に幕を下ろした。幸せな最期だった。
姉はできなくなったので私がちゃんと人間として命を全うし両親への義理は果たした。
だからここからはずっと更なる幸せを追求していこうと思う。
何より、大好きなあの人を、永遠の時をあり続けるあの人を一人にしておきたくなかったというのもある。本当のアインズ様をさらけ出すのは何年たっても私の前だけだった。
大丈夫だと何度言っても最後の一歩が踏み出せずにいたから。
きっと、私が死んでも踏み出せないだろう。だからこそ、ずっとそばにいる必要があった。
けれども私は人間として生を全うしたかった。
ならば、人間として生きた後に生まれなおせばいいのではないか。
無茶とも思える考えだったが、相談してみた知啓の悪魔はあっさりと解決策を提示した。
『魂を対価に契約をしましょう。悪魔と契約し回収された魂はいかようにでも加工できます。老いた部分修正し新たな肉体に移すことで転生も可能なはずです。新たな肉体に関しても心当たりがありますのでほぼ完ぺきな精度のモノが用意できるでしょう』
一も二もなく飛びついたのは言うまでもない。契約は交わされ、履行され対価は回収された。協力者の元、私の卵細胞を元に調整され鋳造されたホムンクルスという器。
それが今の私、生まれ変わったネムの身体である。
「胃の中空っぽだからきついだろう。好きなだけ食え」
お風呂からあがると食事が用意されていた。
それを食べ物と認識するとお腹が鳴る。そう、ナザリックにいるメイド達と同じこの体はお腹が減りやすくたくさん食べないとならないのである。
「いただきます」
ジュゲムさんに追加のパンをお願いしつつ食べ始める。
味覚も変わってはいない。歳をとってからは柔らかく加工した流動食で生活していたせいもあり久しぶりの食事に手が止まらない。
自分でも驚くほどの量が胃の中に吸い込まれていった
「入りますよ」
食事が一段落した頃を見計らったように知啓の悪魔、デミウルゴス様が現れた。
「おはようございます、デミウルゴス様」
「データを見ましたが成功のようですね」
「はい。少なくとも知覚できる範囲に異常はありません。強いて言えば私の胸はもう少し大きかったと思うのですが」
「いえいえ、残念ながら過去のデータ通りです」
「盛ってくれてもよかったのですよ?」
「しかし、シャルティアよりはあるでしょう」
「それもそうですね、シャルティア様よりはあるから良しとしましょう」
「ええ、そうしましょう」
そう言って朗らかに笑う私たち。シャルティア様本人がいたらブチギレ間違いなし。
「さて、ナザリックに戻る時期ですが」
「はい」
料理を作っていたジュゲムさんが呆れるほどの量を食べ終えたタイミングでデミウルゴス様が切り出した。
「ネムの国葬は三日前に終わりナザリック内も通常時に戻っています。しかし、アインズ様は国葬が終わると同時に貴女の部屋におこもりになられた。ですので、可能な限り早い方がいいでしょう。一通りのデータ取りと最終検査が済み次第帰還します」
これは予想通りだった。アインズ様のことだから一週間くらい引きこもってしまうだろうとは思っていた。でも、それだけだ。強い責任感を持つ人なのですぐにナザリックのことが気になってちゃんと前を向いてくれる。そんな人だ。
まあ、そんな必要がなくなるわけだけど。
正直なところ、少しドキドキしている。
アインズ様は、しれっとで戻った私を受け入れてくれるだろうか。
「その心配はありませんよ」
デミウルゴス様の声に顔を隠す。不安がもろに出ていたらしい。恥ずかしい。
「貴女はアインズ様の精神的な支えになっていたはずです。喪われと思ったものが戻ったところで問題はないでしょう」
そういうことらしい。
それもそうかと思い直し、デミウルゴス様の言葉にはて、と首を傾げた。
ナザリックに所属する者の一般的な考えではそういう言葉は出てこないはずだ。至高の御方であり完璧な存在なのだから。精神的な支えが必要などと考えるのは不敬にあたる。
ハズだ。
「デミウルゴス様、いつからですか?」
頭の作りが根本的に違うこの方への問いは最低限の言葉でいい。
「さて、何の事はわかりませんが……。アインズ様が貴女を側室に迎え入れた時期は色々ありましたね」
そんな昔からデミウルゴス様はアインズ様の二面性に気づいていたらしい。
なんだ、やっぱりアインズ様の心配は不要だったのだ。
戸惑いの大小はあるかもしれないけれど、いつまでも本当のアインズ様を私が独占する必要はないのだ。
部屋の中は真っ暗だった。
その中で人間形態のアインズ様はテーブルの上に上体を投げ出し時々酒瓶をあおっている。
そして、飲酒の合間にこぼれる嗚咽。
これは……一週間じゃ足りなかった、かも……?
さておき、私は秘策を実行する。
「アインズ様、ですよね?」
こそこそと移動しソファーの影から体を起こし声をかける。
そう、これは初めて本当のアインズ様と出会った時の再現。
跳ね起き目を見開くアインズ様をよそにベッドへあがると正座してポンポンと膝枕を促す。
「ネムでよければお話聞きますよ?」
ふらふらと近づいてきたアインズ様の頭が膝の上に収まった。
眼の下には濃い隈が。髪もパサパサで無精髭も伸び放題。おそらく一度もアンデッドの身体に戻っていない。そんなアインズ様の髪に指を通しつつ言葉を待つ。
「……これは、夢なんだな?」
「本当にそう思います? ……ん」
毒耐性を解除しているのか酔っ払い視線の定まらないアインズ様の目を強制的に目覚めさせるためのキスを一つ。
「ネム・ストロノーフは死に、ただのネムとして戻ってきました」
アインズ様の目が限界まで見開き、その頬っぺたが自らの手でちぎれんばかりに引っ張られる。
「夢、じゃ……ない……」
「ええ、夢じゃないですよ。ただいま、アインズ様」
色々と聞きたいことや言いたいことが出てきたのだろう。
アインズ様はモゴモゴと何か言いかけてそれらを飲み込む。
そして、
「……おかえり、ネム」
一番欲しかった言葉をくれました。
多分一番の幸運をつかんだ人。