朝日が登り、空き地に微かな光が指し始める。
かなりの時間が経過したが、裴晴の周りには立っている者は居なくなった。虫を殺され、欠落者となった者。身体を過度に痛めつけられ意識を保てず、地面に這い蹲る者。
数多居た特環局員が残らず壊滅した。
レジスタンス側の虫憑き達は乱戦の最中、ドサクサに紛れて逃げ延びたようだ。
「逃げ足だけは早いな」
戦闘体勢を解いて周囲を見渡す。
空き地の至る所に大穴を開け、周りの建物はほぼ全壊している。激しい戦闘の痕跡がまざまざと残っていた。
「行くか…」
少し一瞥しただけで裴晴は踵を返し、摩理が消えた路地裏の方に足を向ける。摩理を追うために彼女の気配を辿り、路地裏の中へ入っていこうとすると、
「アリア・ヴァレイの変異型……凄まじいな、無指定が束になろうと歯も立たないか」
摩理が逃げた通路の向こう、薄暗い道の先から何者かが裴晴に話しかけてきた。
影が存在を覆い隠し、かろうじて人のシルエットしか見えず、性別も身長も判断がつきにくいが、声質から若い少年だと思われた。
「誰だ?」
「ーー"不死"の虫憑き」
問いに暗がりに居る人影は短的に答えた。
「特別環境保全事務局本部長、一玖皇嵩か…」
「ほぅ…。総ての虫憑きから"死神"と怖れられている男に知られているとは驚きだ」
不死と死神。
相反するモノ同士が向かい合い、対峙する。
尾を顕現させずとも、裴晴の意識は戦闘体勢に移行していく。
「そこを退け。俺はその先に用がある」
「あの槍型の元に行くのか?止めておけ"死神"。貴様ではあの女は救えん」
人影が嘲笑し口元を歪めて言った。
言われずともそんな事は分かっている事だ。
今、この場で摩理を救うことは事実上不可能だろう。
でも、裴晴は摩理を救えるという確信を持っていた。
「あぁ、そうだな。今のままでは救えない。だから、俺は未来に賭ける事にした」
「なに…?」
「"死"を恐れ、"生きる"事に背を向けたお前には一生理解出来んさ、一玖皇嵩」
死を怖がらない人間はいない。
いつか人間誰もは死ぬものだ。
それは裴晴も例外ではない。
不死は死なないだけの生きている振りをした人形だ。
「邪魔だ、残骸。俺達の"
「貴様ーー」
裴晴の台詞に皇嵩は顔を歪めた次の瞬間。
高速で形成された四つの鋭利な触手が皇嵩の身体に貫いた。
普通の人間なら致命傷…否、即死しているが、
「無駄な事を…」
触手に刺し貫かれているにも関わらず、皇嵩は顔を上げて皮肉な笑みを浮かべた。
モゾモゾと貫かれた腹の辺りが黒い虫が沸き出て蠢き出す。
「それがお前の"不死"か。厄介な特性だ」
「あぁ、お陰で死にたくても死にきれない」
「だろうな。だが、対抗策は思いついた。次会うときは必ず"殺してやる"。楽しみにしておけ」
腹を貫いたまま、裴晴は皇嵩の身体を適当な方向へと投げ捨てた。皇嵩の身体は放物線を描きながら、ビル群の向こう側へと消えていく。
皇嵩を退けると、裴晴は改めて路地裏を駆け抜け、摩理の気配がする先へ移動する。
気配を辿り、薄暗い路地を駆け抜け、ビル群を横切り、赤牧市の中央…高級住宅街の一角に辿り着いた。
タン、ととある一軒家の屋根に降り立つと、視線の先には白衣に身を包んだ長身の青年が摩理を抱えて立っていた。
「摩理!」
早朝には場違いな声が住宅街に響く。
脇目も振らず、ただまっすぐ裴晴は摩理の元へ駆け寄った。
近づいてくる裴晴に気づくと青年は華奢な摩理の身体を彼へと明け渡す。
「君は賭けに勝ったようだ」
青年がそう声を掛けるが、裴晴の耳には届いておらず、明け渡された摩理の身体が無事なのを確かめるのに意識を向けていた。
身体は冷え、顔は蒼白いが、摩理の心臓はまだトクントクンと脈を打っている。
生きているのは確かだが、その相貌には感情といったものが欠落していて、人形のような状態になっていた。
「まさか…欠落者に…?」
裴晴は予期せぬ状態に愕然とした。
想定外の邪魔で時間をロスし、ギリギリだったのは確かだ。
先のままでは摩理は"死"を迎えるしかなかったのは否定出来ない。
虫を殺し"欠落者"の状態にして、延命を図るのは計画の一部にはあったが、それを摩理には伝えていない
まさか、自らの意思で無理やり虫に夢を喰わせて欠落者になるなど考えもしなかった。
「君って奴は…」
ー一緒に夢の続きを見続けよう。
ーーまた、明日ね。
裴晴や亜梨子と交わした約束を守る為に、摩理は最後まで抗ってくれたのだ。
ならば、裴晴の為すべき事は一つ。
「安心しろ、摩理」
必ず救う。
親友の傍らに飛び立った君を迎えに行く。
それがこれから千堂裴晴が為さなければならない事だ。
裴晴はいつも戦闘用で使うような巨大な触手ではなく、細く繊細な触手を展開し、摩理の身体に纏わりつかせた。
「始めよう」
そう宣言し、裴晴は自身の能力の深奥を解き放った。
彼の虫、タツノオオムカデには《蟲喰い》という特性の他に《変成》という能力がある。
それは身体構造を彼の意思で自由自在に作り替えるものだ。
彼の強靭な肉体と攻防能力、また再生能力はこの《変成》によって齎されたものだ。
蟲喰いによって際限なく高まる力のリソースを総て身体能力と《変成》にまわしているが故に、裴晴は誰よりも強力な個体として存在しているのだ。
では、普段総てに偏らせているリソースをある一点に集約すればどうなるか。
「後、少し」
答えは自明。
他人の虫を喰らい、奪った"夢"のエネルギーを
摩理の胸…心臓のある付近を中心に同化させた幾重もの触手に集約させる。弱り果てた彼女の心臓を正常なものへ細胞レベルで"
「これで…よし…か?」
時間に関しては僅か数分。
だが、本人からしたら神経をすり減らし体感時間はそれ以上の…虫憑きによる初の試み、心臓再生手術が無事に終わりを告げた。
「"先生"。病院で検査をお願いします。たぶん成功していると思うんですが…」
「うん…心音は正常だ。念の為にCTを取るよ」
横たえた摩理の身体に青年は聴診器を当てて軽く診た。弱っていた心臓の鼓動は正常なモノとなり、異常はパッと見では見られない。
成功したと言っても良いだろう。
身体に不具合は出ないか、精密検査をしなければならないのは当然だが。
「お願いします。俺は後、野暮用を済ませてから向かいますので病院への言い訳は任せますよ」
「分かった。それなりのシナリオを言い繕っておくさ」
青年は摩理を抱き抱えると、霞の様に一瞬で裴晴の前から姿を消した。
計画を最終段階に移行させるため、裴晴は屋根を蹴り、住宅街では一際目立つ屋敷へと向かった。
その屋敷の主は、一之黒涙守。
摩理の親友にして、裴晴の友人…一之黒亜梨子の生家である。
屋敷の敷地内に侵入すると、事前に調査を済ませた間取りの通りに屋内を移動し、誰にも見られずに涙守の書斎へ入った。
「誰だ」
早朝であるはずなのに、書斎の執務机には既に目的の人物が席に座り、書類を片付けていた。
「はじめまして。一之黒涙守さん…いえ、敢えてこう言いましょう…"円卓会会長殿"」
裴晴の台詞に男性、涙守の眉がピクリと跳ねた。
「俺は千堂裴晴。亜梨子さんの友人で、虫憑きです」
「な、んだと…」
驚愕を顕にする涙守に、裴晴は畳み掛ける様に告げる。
「少しご協力願いたい事があります。引き受けてくれますか?」
その声音は優しく提案しているように見えるが、問われた涙守本人として、選択肢なし容赦のない脅迫にしか聞こえなかった。
涙守には、裴晴の要求を突っぱねる切り札はなく、娘の名が出てきた以上、最早王手を掛けられているに等しい。
政界、経済界に太いパイプを持ち、かなりの権勢を誇る涙守でも、あからさまな弱点を押さえられては彼の頼みを引き受ける以外になかった。