摩理が夜に病院を抜け出すことも、あの夜以来は一度もなくなっていた。亜梨子という一人の少女によって摩理の日常は明らかに変わっていたのだ。
それは裴晴では変えることの出来なかったものであった。
「っーー」
ある日の午後、摩理が左胸を抑えて顔を歪めた。
「摩理!?」
いつものように勉強を教えていた裴晴が慌てて、摩理の顔を覗きこむ。
息が詰まったように呼吸を荒くし、棚のガラス瓶に手を伸ばしかけるが…やめる。
瓶の中の錠剤は一ヶ月前から減っていない。
摩理が落ち着いて深呼吸すると、動悸が収まっていくようであった。
「大丈夫。もう治まったわ」
「最近多いな。本当に大丈夫なのか?」
「えぇ。ちょっと胸が痛んだだけ。最近は逆にとても気分が良い日が続いてるの」
摩理が裴晴に向かって微笑する。
確かにここのところ、摩理の顔色は良い。
錠剤を乱用したあの夜からだいぶ経過したが、摩理の体調は良くなっている。
たまに発作のような胸の痛みを訴えてくるが、それ以外は到って問題はない。
「それは良かった」
「良かった…ね」
摩理が笑みを消した。
「どうした?」
「私……このまま、亜梨子と一緒に居ていいのかな?」
裴晴が眉を潜める。
胸を抑えたまま、摩理は唇を噛みしめる。
己が夢を奪った少年少女達の事を思い出しているのだ。
「もし、病気が治ったとして、幸せになってもいいのかな……?」
摩理は裴晴を見つめる。
病とは異なる痛みが摩理の胸を苛んでいた。
裴晴は真剣な眼差しで摩理の瞳を受け止め、重く口を開く。
「誰かが言った。夢を叶える為ならどんなことでもする。それが"虫憑き"だと」
夢を代価に強大な力を振るい、夢を叶えようとする愚か者。
「虫憑き同士がぶつかり合うのは半ば必然なんだろうな。なんせ、どれだけ"力"を持っていても所詮は"人"なんだから」
"夢"、"願い"、"望み"と綺麗なオブラートに包んだ言葉だが、それは"欲"という人間誰しもが持つものに他ならない。
「賭けるべき"夢"があるなら戦ってでも守りたい」
闘争はどれだけ論じようと悪だ。
正しさなどない。
それでも、戦わなければ守れないものがある以上、戦うしかない。
「君がしたことよりも俺がやっている事の方がきっと罪深いよ」
「………」
摩理が裴晴の自嘲の言葉に顔を顰めた。
「ねぇ…以前にも聞いたけど」
「ん?」
「貴方の"夢"って何なの?」
あの夜、聞いた問いの続き。
裴晴はあの日から一日も欠かさずに"狩り"を続けている。
犠牲の数は最早あの夜の比ではない。
彼はどれほどの虫憑きを欠落者にしたのか、それは本人にしかわからない。
それだけの犠牲を払ってまで叶えたい"夢"とは何なのか、摩理は知りたかった。
「貴方だけ教えないのは卑怯だわ」
裴晴に虫憑きである事がバレた際。
摩理は彼に自分の"夢"が何か教えていた。
それに対して裴晴はいつ虫憑きになったのかも、どんな"夢"を抱いたのかも明かしていない。
これではあまりにも不公平だ。
摩理の指摘に裴晴は首筋を撫で、どうしたものかと思案げな表情を浮かべるが、意を決して口を開く。
「分かった。言うよ」
観念して打ち明ける。
「俺の"夢"は《大切な人達と幸せに生きたい》、だ」
世界平和とか。
人類救済だとか。
大それた願いではない。
自分の身の回り…共に泣いて笑って共に暮らしている家族や友人、はたまた恋人、小さな自身の世界を守りながら生きていく。
それが千堂 裴晴の"夢"みたものだ。
「俺は狭量な人間だから。自分の周りに居る人達が無事ならそれでいいんだ。顔も知らない人間の為に泣いたり怒ったりは出来ない。助けようとも思わない」
裴晴は聖人君子ではない。
自分の目の前に居る人々にしか関心を寄せられない。
見知らぬ大多数の人間など知ったことではないのだ。
「これが俺の"夢"だ」
独りよがり自己満足。
どこまでも自分勝手で救いのない"夢"だ。
詰られても蔑まされても仕方のない言い分だ。
けれども…
「そう…私の"夢"と似てるわね」
摩理はそう思わなかった。
自分と同じだと彼女は言う。
「何処がだ?」
「私は"生きたい"と願った。それが叶わないのを知りながら、これから
いつ死ぬとも知れぬ身体。
多くの人間は無意識に未来があると思っているが、摩理は常に未来が無いことを感じて今を生きている。
でも、…死を半ば覚悟して諦観していたはずなのに、いつからだろうか…摩理は死にたくないと思った。
その原因はきっと…
「
「えっ?」
摩理の言葉に裴晴は驚きを露にする。
信じられないといった様子で彼女を見つめ返す。
「初めて出会ったあの日から、貴方は約束通り、欠かさず私の元に来てくれてる」
彼が摩理の見舞いに来る理由は本当の所ない。
ただ、彼らが初めて出会った日、摩理が半ば冗談で発した約束を、律儀にも裴晴は守り続けている。
「親類にも腫れ物同然…
彼と会って闇の中に光が差した。
「貴方が病室に来てくれて私は本当に嬉しかった。こんな日々がいつまでも続けば良いと思った」
一時の慰めでしかなかったかもしれないが、裴晴が来る事で摩理は救われた。
自分が病気であることも忘れて、穏やかに過ごすことが出来た。
「私はまだ生きていたい。貴方や亜梨子と一緒に居たい」
摩理の腕が震え、視界がみるみる歪んでいく。
不死の虫憑きを探し倒す。それはただの方便だ。
死にたくないから"不死"を…この日常が続いてほしいから求めたのだ。
「だから……その……私と一緒にこれからも居てくれる?」
泣き笑いのような表情で摩理が聞いてきた。
裴晴は微笑して布団の上に置かれた摩理の手に自分の手を重ねて言う。
「居るよ。俺の大切な人達には、
でなければ、裴晴の"夢"が叶わない。
彼の"夢"はこの生を終えるまで続く。
自分の家族や摩理、今は亜梨子も加わったが、身近なその人達が幸せでないと裴晴は"夢"を見続けられない。
「俺が夢の続きを見続けられるように君には居てもらわないと」
まるで告白みたいだと内心で笑う。
大切な人達が誰か一人でも欠ければ、裴晴の世界は崩壊する。
その中でも摩理は出会った日から裴晴の日常の大部分を占める存在となっていた。
彼女を失えば、裴晴の世界は…"夢"は脆くも崩れ去る。
だから自分の
@@@
ーー夕方。
「お帰り、摩理」
定期検診を終え、裴晴に車椅子を押してもらって部屋に戻った摩理を、亜梨子が出迎えた。
「ただいま」
摩理は亜梨子に笑い返した。
「千堂くんも摩理の付き添いご苦労様」
「ただいま、一之黒さん」
亜梨子に微笑んで返すと、裴晴は車椅子をベッド近くに寄せた。
摩理がベッドに戻ると、いつもと同じように、亜梨子の課題を置いたベッドの上で談笑する。
課題そっちのけで話し合う二人に裴晴は苦笑しつつも見守り続けた。
そうしているうちにすぐに面会時間終了の時間がやってきた。
「っと……悪い二人とも少し用事があるから先に帰るな?」
裴晴が別れの言葉を言って、病室を後にした。
去っていく彼の背中を見送りながら亜梨子が呟く。
「最近の千堂くん、私よりも先に帰っちゃうね」
「……」
亜梨子の言葉に摩理は返事をせず、押し黙りながら布団を握りしめた。
彼女の言うとおり、ここ最近の裴晴は早く帰宅する事が多くなり、それに比例して明るい時間から救急車のサイレンを良く聞くことが多くなった。
原因が彼の"狩り"であることは明白だ。
ーーおかしい。
何か差し迫っているかのように。
裴晴が狩りの速度を上げていることに不審感を抱いてはいたものの、聞き質したところで、のらりくらりと躱されて本当の事は絶対に言わないと摩理は今までの付き合いから理解していた。
心配には違いないが本人が話そうとしない以上、無理矢理聞き出す勇気もないので、一先ず問題を見送った。
「ねぇ…亜梨子」
別の事に考えを向け、摩理は亜梨子を見上げた。
「リクエストがあるんだけど……良いかな?」
「やっと来たわね。なんでもいってちょうだい!」
嬉しそうに亜梨子が身を乗り出す。
今まで見舞いの品を受け取らなかった摩理がお願いするのは珍しい事だ。
「欲しいものがあるの。でも、それは私の為のものじゃないから……代わりにお願いしたいんだけど」
前置きし、摩理は亜梨子に頼み事をする。
話を聞き終えると亜梨子は探るような顔をしたが、「任せて!」と快く引き受けてくれた。
「じゃあ、また明日ね」
翌日、亜梨子は摩理の頼み通り、小さな箱を持ってきてくれた。
摩理はそれを受け取り、大事にベッドの中に隠す。
亜梨子は箱を渡した後、摩理に「お邪魔したくないから」と意味深な台詞を残して足早に病室から帰っていた。
何を勘違いして…とも思ったが強ちそうでもないので摩理は顔を紅くしながら去る亜梨子を見送るしかなかった。
入れ替わるように裴晴が摩理の病室を訪れる。
「…一之黒さん、どうしたんだ?今日はやけに帰るのが早いみたいだが…」
「家の用事があるらしいの」
怪訝な顔をする裴晴に摩理はそれらしい嘘をついた。
「それよりも…裴晴」
「ん?」
まだ頬の紅潮は引いていなかったが、摩理は話題を切り替えながら隠していた小箱を目の前に差し出し、口を開いた。
「これ、なんだと思う?」
差し出された小箱に裴晴はキョトンとした顔をする。
「えっ…と、今日何かの記念日だっけ」
「あら、自分の誕生日を忘れてたの?」
クスりと摩理が微笑みながら言う。
裴晴は驚いて病室のカレンダーに目をやった。
「…すっかり忘れてた」
本気で覚えていなかったらしく、少し慌てた様子の裴晴に摩理は可笑しそうに笑う。
「自分の事になると抜けてるわね、貴方って」
「ほっとけ」
「フフフ。拗ねないで。はい、お誕生日おめでとう」
摩理は祝いの言葉を送りつつ、小箱は裴晴に手渡した。家族以外の人間…しかも女の子に誕生日を祝われるのは今生では初めてである。
「開けてもいいか?」
「どうぞ」
裴晴は小箱を開けると中身を取り出した。
それは銀色のネックレスだった。鎖の先に、金色に輝くリングが付いている。
「っ……ははは」
掌に置いてそれを眺めていると、裴晴が声を押し殺して笑い始めた。
彼の態度に今度は摩理が怪訝な表情を浮かべる。
「どうしたの?」
「いや…趣味趣向が似ると贈る物まで似通うんだなっと思って…」
なんだろうと首を傾げる摩理に裴晴は微笑を浮かべながら手に下げていた見舞い品である書籍が入ったエコバックから小さな箱を取り出した。
摩理がしたように裴晴は小箱を彼女の前に差し出す。
戸惑いながらも小箱を受け取り、中身を開けた。
「これは…」
入っていたのは同じ銀色のネックレス。
鎖の先についているのも、全く同一の金色のリング。
所謂、ペアネックレスというものだ。
「毎回、本だけっていうのも面白みないからな。一之黒さんと摩理の友情を記念して渡そうと思ったんだが、片方は既に購入された後で、諦めて君だけにプレゼントしようと思って購入したんだけど…」
奇縁か、ネックレスの片割れは亜梨子経由で摩理の手に渡り、自分の手元にきた。
「あはは…タイミングが悪いな…」
「……」
困った様に笑う裴晴の側でベッドの上の摩理はプレゼントされたネックレスを眺めて何か考え込む。
何故かは分からないが怒らせてしまった気がして少しばかり内心でオドオドしていると、
「ねぇ」
「…なんだ?」
「着けてくれる?」
摩理がプレゼントされたネックレスを裴晴に渡し、背中を向け、長い後髪をかき上げて首を露にした。
病的だが白く綺麗な首肌に少しドキリとしつつ、裴晴は受け取ったネックレスのチェーンを外し、背後から掛けてやる。
「似合う?」
「あぁ…」
シンプルなデザインのアクセサリーだが、美少女が付けると容姿が相俟って本当に似合って見えてしまう。実際、似合っているのだから否定の反論は思い浮かばない。
「そっちは貴方が着けてね」
「へ?いや、それはーー」
「ダメ?」
コテンと上目遣いで首を傾げながら聞いてくる摩理に裴晴が断われるはずもない。
当初の予定からかなり外れてしまったが彼女がそう望むなら片割れのネックレスは自分が持っていないといけないだろう。
裴晴は彼女と同じネックレスを付け、首から提げた
「これで良いか?」
「えぇ…。これからは肌身離さず着けていてね」
「マジ…?」
「勿論。外してるところ見たら泣くから」
「おいおい…勘弁してよ」
酷い脅し文句があったものだと、裴晴が困り顔で返した呟きに、摩理は楽しそうにイタズラが成功した小悪魔な微笑を浮かべた。