深海棲艦による横須賀鎮守府夜間強襲という前代未聞の戦いが終わり、私達は提督の指示通りに、各自補給、休息を行った。
今も工廠では、夕張に明石に、工廠の妖精さん達も総動員で、負傷した皆の艤装を修理している。
徹夜での激しい戦いに、駆逐艦達は一人残らず、今頃は夢の中だろう。
時刻はもうすぐヒトゴーマルマル。
窓から覗く青空が、差し込む日差しが、昨日までとは違って見える。
一歩間違えていれば、提督がここにいなければ、悪夢のごとき惨状となっていたはずの横須賀鎮守府。
私達も一人残らず蹂躙され、海の藻屑と消えていたかもしれない。
今こうしていられる事が、そしてあんなにも素晴らしい提督が着任してくれたという事が、夢のようだった。
もしかすると私もまだ、夢から覚めていないのかもしれない。
少しお行儀が悪いかもしれないが、報告書を作成する片手間で食事を取る為に、間宮さんにサンドウィッチを作ってもらった。サービスにアイスクリームをつけてもらったのが嬉しい。
間宮さんの話では、私達が戦っている間、提督も私と同じように、おにぎりを食べながらあの大量の書類を処理してしまわれたのだとか。
食事を取る暇さえ惜しんで執務に励むその姿にはどこか共感を覚えてしまう。
休む間すら惜しい。一刻も早く、今回の提督の偉業を艦隊司令部に報告したい。
私はもうすっかり興奮して目が冴えてしまって、休息を取るどころではなかったのだった。
今回の夜襲迎撃作戦における艦娘達の被害状況を報告書に記し終える。
戦艦部隊の長門さん、金剛、比叡、榛名、霧島は全員中破。
補給部隊を援護しに向かおうとするあの戦艦棲姫、そして泊地棲鬼四隻を食い止める為、真正面から殴り合いの砲撃戦を行ったというのだから、流石としか言いようが無い。
この横須賀鎮守府でも間違いなくトップの練度を誇る長門さん、比叡、榛名、霧島はともかく、建造されたばかりの金剛までもが改二となり、長門さん達に負けず劣らずの火力を出したというのだから驚きだ。
金剛の弁によればバーニング・ラブ、これもまた、提督が関わっている力だとの事だが……要するに信頼の事だろう。
流石に一気に改二に至るほどの信頼というものは前代未聞だが。
重巡戦隊の妙高さんは小破、那智さん、足柄さん、羽黒さん、利根さん、筑摩さんは中破。
敵補給部隊の迎撃に向かおうとした一瞬の隙を突かれたとの事だったが、さりげなく妙高さんだけ小破で済んでいるところに確かな実力を感じさせる。
利根さんが危うく轟沈寸前だったという噂を聞き、詳しく話を聞きに行こうとしたら、真っ赤な顔をした神通さんに止められた。
話を聞けば、提督の事を考えるあまりに、ついうっかり敵補給部隊を全滅させてしまい、勢い余って利根さんに突っ込んでしまったのだとか。
背後からの奇襲とは言え、ついうっかりで全滅させられるような編成ではなかったはずなのだが……提督の事を考えるあまりに被弾しかけた私とはえらい違いだ。
川内さんと那珂さん、利根さんにチクチクと嫌味を言われ、すっかり縮こまってしまっている姿からは想像が出来なかった。
囮機動部隊の千歳さん、千代田、浦風、磯風、浜風、谷風も全員中破。
皆、装甲が薄いにも関わらず中破で済んだというのは、もちろん運もあるが彼女達の練度の賜物であろう。一撃でもまともに食らっていたら危なかったかもしれない。
千歳さん達の話によれば最初は反抗的だったらしい磯風が、すっかり掌を返して「あの司令は大した奴だ」などと他の艦娘達に偉そうに話していた。
千代田は磯風にジト目を向けていたが、決して磯風は自分の意見をころころ変えるような調子のいい性格では無い。むしろその逆だ。
あの頑固で一途な武人肌の磯風にたった一度の出撃で掌を返させた提督こそが、やはり底知れないと思う。
あとの被害と言えば、水雷戦隊の天龍が大破。これはいつもの事なので特筆すべき事は無い。
夜戦に先駆けて行われた空母機動部隊による先制攻撃も、赤城さんと翔鶴さんが小破しただけの被害で済んだ。
結果だけを見てみれば、姫が二隻に鬼が四隻、更には援軍が十八隻という大規模侵攻を、天龍を除いて誰も大破せず、敵艦を一隻も逃さず、完全撃滅に成功したのだ。
私も自分で改めて言葉にしてみて、自分で言葉を失ってしまった程だった。
「それでそれで、大淀さんっ。提督さんは、手袋を捨てて夕張さんの手を取ったんですよねっ」
早く続きを、とせがむように、鹿島がそう言った。
ちょうど切りの良い所まで書き終えたので、私は休憩がてら椅子を引き、鹿島達に向かって座り直す。
艦娘寮の私の自室には、未だかつてないほど多くの艦娘達が訪れていた。
当たり前だが、損傷の多かった艦は今も入渠中であるし、そうでない艦のほとんどは自室で睡眠を取っているところだろう。
この室内にいるのは、今回の作戦において被害の少なかった艦娘の一部だった。
後方支援に従事していた香取さんと鹿島。
今回の作戦で面倒を見ていた駆逐艦達が全員寝付いたのを見計らって、わざわざ来たらしい。香取さんは鹿島の付き添いのようだが。
そして空母機動部隊の赤城さん、加賀さん、翔鶴さん、瑞鶴、龍驤さん、春日丸。
夜戦においては出撃こそしていないものの、聞けば命の危機だったという日没前の出撃から休んでいないというのに、全員揃ってここにいる。
遊びに来た、というよりも、提督の着任からずっと近くにいた私から、提督の情報を引き出そうとしているのだろう。
まるで提督に一番近い艦娘は私だと認められているかのようで、何故か誇らしい気分になる。
というわけで、私は報告書を作成しながら、鹿島達の求める通り、提督が着任してからのお話をしていたのだった。
「そして提督は、自分の手が汚れる事もいとわずに夕張の手を包み込んで、こう言ったのです。『この煤と油まみれのお前の両手は、他ならぬお前の努力の結晶そのものだ。それに触れさせてもらえるとは、何とも光栄なことではないか』」
「わぁぁ、青葉さんの新聞に書いてあった通り! うふふっ、提督さんは、とても素敵な方なのですね! 夕張さん、いいなぁ」
熱が入ってしまい、無意識に格好をつけた言い方をしてしまった私の言葉に、鹿島が嬉しそうにそう言った。
そんな鹿島とは対照的に、瑞鶴はジト目で頬杖をつきながらこう言うのだった。
「ふーん、夕張の手を自然に握れるチャンスとでも思ってたんじゃないの?」
「哀れね」
「な、何ー⁉」
瑞鶴の隣に座る加賀さんは、瑞鶴の方を見ずにそう言った。
加賀さんを睨みつける瑞鶴を、翔鶴さんと鹿島が宥める。
「もう、瑞鶴ったら。どうしてそう、提督の事を悪く言うの」
「そ、そうですよぉ。夕張さんの手を握ったのも、汚されたのを気にしてないと伝える為のようですし……」
「翔鶴姉も鹿島もお人良し過ぎるの! あの提督さんだってあんな顔して、夕張の手、すべすべで柔らかーい、とか思ってるかもしれないんだから!」
「そ、そうでしょうか……」
首を傾げる鹿島に、瑞鶴は一瞬言葉に詰まってしまったようだが、勢いのままに言葉を続けた。
「ま、まぁ、私も提督さんが悪い人じゃないってのは何となくわかるし、凄く頭が良いって事も今回で認めざるを得ないけど……それとはまた別の話! とにかく、翔鶴姉は隙だらけだし、鹿島は男の人によく誘われてるでしょ。二人とも男の人に騙されないように気をつけないと! いくら指揮能力が高くたって、あんなに若い提督さんが着任した事なんて無いんだし、私達はうら若き乙女なんだし! これくらい警戒するのが当たり前!」
「少なくとも貴女は大丈夫よ」
「加賀さんそれはどういう事かな⁉ 私さっきから喧嘩売られてるのかな⁉」
翔鶴さんに宥められながらも加賀さんの肩を揺さぶる瑞鶴に構わぬように、龍驤さんも腕組みをしながら、うんうんと頷いた。
「まぁ、確かにあんな若い司令官に指揮されるっちゅーんは、うちも初めてやなぁ」
「貴女も大丈夫よ」
「まだ何も言うてへんやろ!」
「春日丸、貴女は身だしなみに気をつけなさい」
「は、はい」
「うち春日丸より可能性あらへんの⁉」
左右から瑞鶴と龍驤さんに揺さぶられながらも無表情の加賀さんであった。
おそらく加賀さんなりのジョークなのだろうが、何だかこんな雰囲気は久しぶりに感じてしまう。
それは赤城さんや翔鶴さんも同じなのだろう。くすくすと、困ったように、愉快そうに笑ってしまっている。
瑞鶴は気付いていないのだろうが、実は瑞鶴こそが、翔鶴さんや加賀さんよりも、提督への距離感を砕いてしまっているのだと私は思う。
今までの瑞鶴であれば、提督という立場にある方に、ここまでいちゃもんのような文句をつけて騒ぎ立てる事は無かったからだ。
前提督の無茶な指揮には、もう反論しても無駄だとでも言うような、死んだような目で、無言で従っていた。
だというのに、あの提督には今までが嘘のように騒ぎ立てている。
瑞鶴がこのように元気に騒ぎ立てている事こそが、無意識に提督への距離を縮めてしまっているという証拠なのだ。
何より、瑞鶴は前提督の事を「提督さん」とは呼んでいなかった。
過去数年間を振り返るに、瑞鶴が「提督さん」と呼んでいたのは、ある程度距離が近く、親しみやすい提督だけであった。
瑞鶴にとってファーストコンタクトである、提督と天龍のやり取りを見ていて、無意識に親しみを覚えたのだろう。
その辺りは翔鶴さんも加賀さんも気付いているのだろうが、指摘すると顔を真っ赤にして否定しそうなので、あえて言わないのだろうと思う。
しかし、瑞鶴のような意見がでるというのは盲点だった。
私も最初、その若さに驚いた。その後の行動や功績に目を奪われてしまっていたが、私達がうら若き乙女なら、提督はうら若き男性なのだ。
瑞鶴の言ったような感情があるとしてもおかしくは無い。むしろ健常な生物としては、それが当たり前だ。
だが、あの提督が、私達を見てそんな感情を抱くのだろうか……まるで想像できない。
鹿島は男性に異常なほどの人気がある。これはもう横須賀鎮守府の艦娘全員が周知している事実だ。
たまに鎮守府を訪れる艦隊司令部の若者達の中には、鹿島を口説く事を影の目的として、視察に志願する者もいると聞いた。
というか、そう言って口説かれたと鹿島本人の口から報告された。
非公認のファンクラブも出来ており、生の鹿島を一目見ようと横須賀鎮守府の周りに大量のファンが集まった事も一度や二度ではない。
鹿島は少し天然気味ではあるがとても真面目で素直ないい子だ。
自分から男性を誘うような事は勿論するはずが無いのだが、どうにも外見や仕草、その中身に至るまでが殿方達の何かを刺激するのか、やたらとモテる。
同性の私から見ても、鹿島を一言で表すのならば「魔性」という言葉が浮かぶ。
本人にはそんな気はなくとも、周りを狂わせてしまいかねないほどの美貌、プロポーション、そして愛嬌。
何一つとして、私には無いものだ。
鎮守府の外では「有明の女王」と呼ばれているらしいが……どういう意味なのだろうか。鹿島と有明に一体何の関係が……。
意味はともかく、そこまで男性に好まれる鹿島に対して、提督はどのような感情を覚えるのだろうか。
瑞鶴の言うような、下心というものを持ち合わせているのだろうか。
いや、若い男性であるならば持ち合わせていて当然なのだが……そんな提督を見たくないと思ってしまうのは私のワガママであろうか。
そんな私と同じことを考えていたのか、口を開いたのは意外にも赤城さんだった。
「実は私、間近で提督を観察する機会があったんです」
「えっ、どういう事ですか」
私の問いに、赤城さんは翔鶴さんをちらりと見て、微笑みながら言葉を続けた。
「小破した私と翔鶴さんの足部艤装を、明石さんに泊地修理して頂いたんですが……その時、提督は明石さんに色々と教わりながら、私達の艤装が修復されるのを見学していたんです」
「あぁ、あれねー。案外あれも翔鶴姉の太ももとか下着を近くで見る為だったんじゃないの? あの時も翔鶴姉、思いっきりパンツ見えてたし」
「えぇっ⁉ う、嘘っ⁉ も、もう、瑞鶴! そういう事は早く教えて! あぁ、もう、提督にどんな顔を合わせれば……!」
翔鶴さんの顔は瞬く間に耳の先まで赤くなり、両手でその顔を覆ってしまった。
この人は実力も一級品で、戦闘時には隙なんて見せもしないのに、平常時は何故か隙だらけなのだ。
今回の出撃においても最後まで隙を見せなかったと、赤城さんに認められるくらいだというのに。
提督に下着を見られたかもしれないと落ち込む翔鶴さんに気を遣うように、赤城さんは少しだけ早口に、言葉を続けたのだった。
「そ、それはともかく……提督は、明石さんに補給や入渠の仕組みなどについて質問しながら、私の艤装から一瞬たりとも目を離さなかったんですよ。私は提督の眼をずっと間近で見降ろしていましたから、間違いはありません」
「……そ、そうですよね! 私もずっと提督のお顔を見ていましたから、間違いありません! 提督が私の方を見たのは、明石さんに修復が終わった事を示されてからでした! だ、だから私のパン……いえ、下……いえ……うぅぅ……」
「だ、大丈夫です。見られてないはずです。つ、つまりですね、私が間近で見た限りでは、そんな下心を持っているようには見えなかったという事です。感じられたのは私達艦娘という存在への純粋な興味、知識への探求心くらいでしょうか。ここだけの話、私も実は、近くで肌を見られるのではないかと少し恥ずかしく感じていたのですが……提督のあの真剣なお顔を見ていて、私は自意識過剰であったと、違う意味で恥じ入ってしまいました」
「……そ、そうだとしても、も、もう……提督のお顔を見れません……!」
見られていないと理解しながらも、そんなあられもない姿で堂々と提督の前に立っていたのが恥ずかしいのか、翔鶴さんはまた両手で顔を覆って俯いてしまった。
赤城さんのフォローも聞こえていないようだ。
羞恥に染まる翔鶴さんなどどうでもいいとでも言うかのように、加賀さんは表情を変えずにさらりと言った。
「赤城さんが言うのならば間違いは無いわね」
「私との扱い違い過ぎない⁉」
瑞鶴が再び抗議をしていたが、それはもうどうでも良かった。
それよりも、あの赤城さんが言うのならば間違いは無いだろうという事は、私も同じように感じる。
男性が女性に抱く性的な感情というものは、ある意味で反射に近いものらしい。
足部艤装の修復ともなれば、それこそ翔鶴さんの魅力的な生足が視界に入ってしまった事だろう。
反射的に、一瞬そちらに視線を向けてしまったとしても、若い男性である以上、責められるものでは無いと思う。
しかし赤城さんの話では、翔鶴さんの魅力的な生足よりも、艤装の修復に注目していたとの事。
色気より食い気、では無いが、目の前の翔鶴さんの生足よりも、私達艦娘についての知識を得る事の方が、提督にとっては魅力的だったという事だろうか。
艦娘には珍しい事では無いが、そう言えば私も装束の丈の都合上、それなりに足を露出しているというのに、提督は私の目ばかり見ているような気がする。
こちらが恥ずかしくなって目を逸らしてしまうくらいだ。
あんなに若いというのに、私達の足には魅力を感じないというのか。
いや、私達と提督は部下と上官なのだからそれでいいのだが、何故だろうか。それはそれで敗北感のようなものを感じてしまうのは……。
うぅん、何だか自分でもわからなくなってきた。さっきは提督のそんな姿は見たくないと思っていたのに、自分が提督の眼中に無いのは嫌だと言うか……。
瑞鶴は腕組みをして、小さく唸りながらぶつぶつと呟く。
「まぁ、確かにあの時は、提督さんが翔鶴姉を変な目で見たらすぐに艦載機発艦できるように警戒してたから、翔鶴姉の方を見てないって事はわかってるけど……あ、そう言えば、あの時提督さん、明石の艤装が思いっきりぶつかってたよね。あれは痛そうだったなぁ」
「私は長門に呼ばれて外に出ていたから知らないわ。ぶつかったって、何処にかしら」
「何処にって……そ、その、こか、あ、いや……局部?」
「……局部とは何処の事かしら。具体的に言いなさい」
「加賀さんもうわかって言ってるよね⁉」
私は知らなかった話なので瑞鶴に聞いてみれば、明石の泊地修理を見学しようとした際に、明石が具現化したクレーンがかなりの勢いで提督の局部にめり込んだのだとか。
しかも明石は気付いていない様子で、謝りもせずに、逆に提督に「クレーンにあまり触ると危ないですよ?」なんて言う始末だったとか。
自分の事では無いというのに、それを想像しただけで私は目の前が真っ暗になった。
あ、明石……! 提督になんて失礼な真似を!
「いやぁ、あの時は流石に提督さんも怒るかと思ったんだけど……何事も無かったように流したからびっくりしたよ」
「あの時、提督は一瞬白目を剥いて、その後も我慢しているようでしたが、小刻みに震えていましたね。か、かなり痛かったのでしょう……」
「明石さんもわざとでは無いと理解できているからこそ、ぐっと痛みを堪えたのでしょう。わざわざ教えても、明石さんが恥をかくだけですし。夕張さんの件とも合わせて、とても器の大きな方なのですね」
赤城さん達に加えて、千歳さん率いる第十七駆逐隊など多くの艦娘達の前で局部を強打し、悶絶する姿を見られるなど、上官としての威厳を損なってしまうと考えてもおかしくは無い。
上官に恥をかかせるとは、と明石が周囲への注意不足を叱責されたとしても、何らおかしい話では無い。
艤装を具現化する際に周囲に人がいないかを確かめるのは、私はむしろ当然の事だと思っている。
そうでないと、いきなり具現化された鉄の塊がぶつかって怪我をしてしまう恐れがあるからだ。
明石は今回、それを怠り、提督に怪我……とまではいかなかったのが幸いだが、ともかく被害を与えてしまい、さらには艦娘達の前で恥をかかせてしまった。
それを見ていた明石以外の艦娘達は、正直肝を冷やした事だろう。
前提督にそんな事をしてしまった日には、何か月経っても、延々とそれを叱責されているはずだ。
ところが今回、明石がしでかしてしまった事で、逆に皆は提督の器の大きさを目の当たりにする事ができたのだった。
明石の不注意により、上官として、そして男性として恥ずかしい姿を見られても、それでもなお明石を気遣い、痛みと恥を飲み込む度量。
新品の軍服が汚れる事もいとわずに夕張の汚れた手を包み込み、その仕事ぶりを素直に褒める誠実さ。
そして、間宮さんからの無線により判明した、戦場に送り出した後に私達を想って泣いていたという、表情には決して出さない、胸の奥に秘められた情の深さ。
改めて提督の事を考えてみれば、長門さんでは無いが、胸が熱くなる。
こんなにも艦娘思いの方が着任してくれたという事は、本当に夢のようだ。
仕方が無い。ここは私も提督に免じて、明石には黙っておいてあげよう。
「しっかし考えれば考える程に、ほんまに器の大きい司令官やなぁ。あの司令官を怒らせる奴がいたら、顔を見てみたいくらいや。なぁ、瑞鶴、加賀」
龍驤さんがいたずらっぽく笑いながらそう言うと、横目に視線を向けられた瑞鶴と加賀さんが、びくりと身体を震わせた。
二人とも落ち着かない様子で視線を泳がせ、心なしか、姿勢も正してしまっている。
私は思わず声を上げてしまった。
「……えっ⁉ ま、まさかあの提督を怒らせたんですか⁉ お二人が⁉」
「い、いやぁ、まぁ、アハハ……」
「えぇ……正確に言えば瑞鶴が九割、私が一割といったところなのだけど」
「いやアレは私と加賀さんで半分こでしょ⁉ 何さりげなく私にほとんどなすりつけてるの⁉」
詳しく話を聞いてみれば、瑞鶴と加賀さんは、提督の出した出撃命令の意図をその場で問いただしたのだという。
すると提督は加賀さん達に落胆したかのように顔を伏せ、何も答えてはくれず、沈黙だけが室内に響き渡ったのだとか。
そして提督から発せられたプレッシャー、重圧は、歴戦の猛者である加賀さんと瑞鶴が思わず一歩下がってしまった程だったとの事。
少し機嫌を損ねたどころでは無い。それはまさしく、激怒であったと。
しかし、翔鶴さんと赤城さん、龍驤さんのフォローもあり、提督はすぐに怒りを収めてくれたとの事だ。
あの提督がそこまで怒りを露にするとは、私にはとても想像が出来なかった。
「で、でもさ、あれが提督のやり方だってのは説明してくれればわかったんだし、最初くらいは……」
瑞鶴がまだ納得がいかないようにそう言うと、加賀さんは私に目を向けて、こう言ったのだった。
「……大淀。貴女達の率いた艦隊はどうだったの。提督の指示に対して反感を持った子はいなかったのかしら」
「え、えぇ。それはまぁ、予想の範囲内でしたが主に霞ちゃんが。口には出さなくても、他の子達も不安だったとは思います」
「それで、どうしたのかしら」
「私なりに考えた結果を皆さんに話し、納得した上で指示に従う事にしました。提督に無線を繋ごうかという案もあったのですが、それはしない事になりました」
「……そう」
加賀さんは小さく目を伏せてしまう。
あの加賀さんがこんなに小さく見えるのは、一体いつ以来だろうか。
「今ならわかるけれど、提督が私達に怒り、失望したのは、それが足りなかったからよ」
「か、加賀さん……」
自分を責めるようにそう言った加賀さんに、瑞鶴が心配そうに眼を向けた。
しかし加賀さんはそれに構わぬように、言葉を続ける。
「何故と疑問に思ったのならば、まずそれを自分で考えてみるべきだったのよ。私は提督の指示に疑問を抱いて、何故そのような指示を出したのか、考える事もせずに提督を問いただしたわ。何の罪も無い提督を睨みつけながら……私は何様だったのかしら」
「……ま、まぁ、私が言うのもなんだけど、提督さんも気に病むなって言ってたし、そんなに自分を責めなくても……」
瑞鶴が慰めるように、加賀さんの肩に手を置いた。
「えぇ、でも、大淀はそれが出来ていたわ。翔鶴も赤城さんも龍驤も……千歳達の話では谷風さえも。あんな指示を出したのならば、何か理由があるはずだと、一歩踏みとどまって考える事が出来ていた。瑞鶴、貴女はどうだったかしら」
「……そ、そう言われると、皆が当たり前に出来ていた事が出来なかったっていうのも、認めざるを得ないかな……」
「哀れね」
「いや加賀さんもだからね⁉」
すっかり立ち直ったような表情の加賀さんに瑞鶴が騒ぐ中で、私が内心、冷や汗をかいていた事は誰にも気付かれてはないだろう。
もしもあの時引き返していたら。無線で提督を問い詰めていたら。
私を信頼し、艦隊をまとめる為に私を遠くに送り出した提督は、私にきっと失望していたのだろう。あ、危なかった……!
提督が怒り、失望するという姿が想像がつかないが、百戦錬磨の加賀さんがここまで恐れるのは鳳翔さんを本気で怒らせる事くらいだ。提督が怒ると怖いというのは事実なのだろう。
つまりあの寛大で器の大きい提督にも、譲れない部分、逆鱗があるという事だ。
あの提督に失望されたらと考えるだけで、恐ろしい。
しかし、瑞鶴の言う事にも一理はあるのだ。
私達水雷戦隊は、連戦と渦潮によって帰りの燃料すら枯渇寸前の状況だった。
何の説明も無く目的地への片道切符しか持たされていない状況では、まだどんな人間かもわからない提督に不安を抱く事は当然であろう。
私は皆を説得し、結果的にそれは正しい判断であったが、実はあの場で最も一般的な判断をしていたのは霞ちゃんであったと思う。
私達を試し、鍛えるという目的があったにせよ、提督の指揮は少し厳しすぎたという事は、私にも否定はできない。
「『やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、褒めてやらねば人は動かず』」
不意に、今まで私達をにこにこと笑って眺めていただけの香取さんが、口を開いたのだった。
「……という言葉を知っていますか?」
香取さんの言葉に、龍驤さんは苦笑しながら肩をすくめた。
「その言葉がいつ生まれたのかはわからへんけど、うちらの中で知らん奴はおらへんやろー?」
「うふふ、そうですね。では、この言葉に続きがあるのはご存知ですか?」
いきなり始まった香取さんの講義に、龍驤さんは眉間に皺を寄せて考え込んでしまう。
皆の表情を見れば、わかっている人とそうでない人が半分ずつ、くらいだろうか。
「あー……何やったかな、覚えとるんやけど……大淀」
「『話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば人は育たず』『やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば人は実らず』ですね」
「せやせや! 流石大淀」
ぽんと掌を拳で叩き、龍驤さんは明るく声を上げた。
「それで、急にどうしたん、香取」
「ふふっ。皆さんのお話を聞いていて、この言葉が浮かんできたもので」
香取さんの言葉に、私達も少し考え込んでしまう。
明石や夕張は、顔を合わすと同時にその仕事ぶりを褒められ、働きぶりを承認された。
私も一か月分の報告書や『艦娘型録』を必要とされた事で、私達の意見に耳を傾けられ、自分が認められたような気がしたものだ。
提督は私達の練度と判断力を信頼し、舞台を整えた上で現場の判断を私達に任せ、迎撃作戦を行った。
私達が戦っている間、提督は悔し涙を流しながら決して先に休む事なく執務を行い、私達の戦う姿を見守ってくれていた。
言葉で自身の実力を説明せずに、狙い通りの金剛を建造して見せる事で、自分の実力を示してくれた。
無事に帰投した私達に、「よく頑張った」と、一言ではあるがそれだけで十分すぎるほどのお褒めの言葉を与えてくれた。
私以外にも思い当たる節がある者はいるのだろう。
加賀さんは目を瞑り、うんうんと納得したような表情で頷いている。
瑞鶴だけが「そ、そうかなぁ……」などと言いながら、加賀さんを若干引いたような目で見ていた。
提督は意識して、それを行っているのだろうか。
もしくは、意識せずとも、あの御方と同じ考えに至ったのか。
あの提督ならば、あの御方と同等の器であったとしても――。
「……なるほど。提督が艦隊司令部の秘蔵っ子であるとするならば、どちらにせよ納得がいきますね」
「うん? なんや大淀。その、艦隊司令部の秘蔵っ子っちゅーんは」
「あ、い、いえ。私の推測なので。忘れて下さい」
私がそう流すと龍驤さんは小さく首を傾げたが、続く香取さんの言葉に耳を傾ける。
「ともあれ提督は、『言って聞かせて』の部分が致命的に欠けていますね。それが一番、皆さんが不安に思っている部分でしょう」
「そう! そうなのよ香取さん! 流石! わかってるぅ!」
香取さんの言葉に、瑞鶴は身を乗り出して声を上げた。
「うふふ。瑞鶴さんだけではありませんから。加賀さんも最初はそうだったのでしょう?」
「……そうね。その通りよ」
「那智さんもわかりやすく怒りを露にしていましたね。話を聞けば、千歳さんに千代田さん、磯風さん達に、霞さん……多くの方々が不安を抱えて出撃した事でしょう。それは何らおかしな事では無いと私は思います」
「だよねだよね! よかったぁ~、わかってくれる人がいた! そうなの、提督さんが悪い人じゃなさそうなのは私だって嬉しいし、指揮能力の高さはもう認めるけど、作戦の説明がない事とか翔鶴姉を見る目だけが引っかかるというか……あぁもう、香取さん、何処かの加賀さんと違って話がわかるぅ!」
「一体誰の事かしら」
「私今ちゃんと名指ししたよね⁉」
流石は練習巡洋艦。艦娘達への演習、指導に長けた香取さんだ。
同じ練習巡洋艦の鹿島も真面目に頑張ってはいるが、姉の香取さんにはまだまだ追い付けないか。
まだ提督と直接顔を合わせてもいないというのに、話を聞いただけで皆の置かれた状況を正確に把握してしまっている。
指揮、指導という意味では、提督と共通する思考を持っているのかもしれない。
「私も提督の方針に共感できる部分はあります。『何故』と考える癖をつけるというのはとても重要な事なのです。私も演習の際には、常日頃から駆逐艦の皆にはそう教えています」
「あっ、確かに香取姉は、駆逐艦の子から質問を受けたら、一度『何故だと思いますか?』って言いますもんね」
「ふふっ、もちろん私はちゃんと『言って聞かせる』ようにしていますけどね。そういう指導方針については、私は決して提督と分かり合えないのかもしれません」
私が呑み込んでいた事を、いとも容易く口にした。
そう、私もどちらかと言えば『言って聞かせる』タイプだ。提督の指揮方針も理解はできたし尊敬もするが、そればかりはこだわりというか、得手不得手がある。
私が艦隊に指示を出すとしても、提督のような真似は出来るはずもないし、そもそも出そうとも思わない。
もちろん私と同様に、香取さんも指導方針が異なるからと言って逆らう事は無く、上手くやっていくのであろうが……。
「少しスパルタですが、提督のお考えでは私達の思考能力、判断力を鍛え上げたいようです。故に、あえて『言って聞かせる』事はしないのでしょう。あの御言葉を提督風にアレンジすれば、『指示を出し、考えさせて、させてみせ』といった感じでしょうか」
「私達は失態を犯してしまいましたが、私達の出撃の際にも『先制攻撃に成功したら即座に撤退』という肝心な部分は指示して下さっていました」
「千歳さん達には、ちゃんと具体的な指示を出していたみたいですね。ただ、出撃の意図を説明しなかったという点は、全ての指示に共通しているようです」
赤城さんと翔鶴さんの言葉に、香取さんも微笑みながら言葉を続ける。
「作戦遂行に当たって最も重要である、『出撃を行う意図』に関しては、やはり提督の与えた指示の内容から一歩踏み込んで考えて欲しかったと言う事でしょう。それも踏まえて、加賀さんと瑞鶴さんに激怒したというお話も考えれば、今後はあまり提督に質問をする事はよくないかもしれませんね」
流石は香取さん……私が提案しようとしていた事をこうもあっさりと……。
提督と顔を合わさず、提督の方針に分かり合えぬ部分を持ちながらも、私に匹敵する程に提督の領域を理解している……むむむ、強敵だ。
い、いや。香取さんは味方だ。私は何を。
「私が艦載機の種類をお訊ねした時には、普通にお答えして下さいましたが……」
「こ、コホン。その辺りは翔鶴さんが訊ねなくても、提督が後から指示を出すつもりだったのかもしれませんね。提督の中での基準が不明である以上、念には念を入れて、香取さんの言う通り、鎮守府の全艦娘には、あまり提督に質問をしないようこっそり伝えておきましょう。皆さんもそのようにお願いします」
翔鶴さんの言葉に、私は軽く咳払いをしてからそう言った。
提督はおそらく質問を嫌う。
質問をするくらいならば、自分の頭の中で考えてほしいと考えているのかもしれない。
あの寛大な提督が、加賀さんと瑞鶴が恐れるほどに激怒したというのだ。おそらくそれが、提督の逆鱗に触れる事になるのだろう。
私の言葉に、加賀さんは深刻そうな表情でこくりと頷く。
「えぇ。提督に質問を投げかけた瞬間、『そんな事も自分で考えられないのか』と失望される光景が目に浮かぶわ。私はもう御免よ」
「加賀は少し極端すぎんねん。あの器の大きい司令官が、そんな事でうちらに失望するわけないやろ」
龍驤さんは励ますようにそう言ったが、加賀さんは小さく首を振った。
「貴女は提督のあの重圧を向けられていないからわからないのよ。今思えば言葉にせずとも伝わってきていたわ。私を絶対に許さないと言わんばかりのあの迫力……」
「大袈裟すぎるやろ……なんだかんだで、後でちゃんと許してくれたやん」
「許されるかどうかではなく、提督にそんな無用な感情を抱かせるのが嫌なのよ。ともかく私はもう二度と過ちを繰り返さないと提督に誓ったもの。どうせ許してくれるからと、提督の優しさに甘えたい子は好きにすればいいと思うわ」
「いや、うちらはそもそも過ちを犯さんかったし」
「私は哀れね……」
「自分で言うて落ち込むなや!」
「瑞鶴、私達、哀れね……」
「こんな時だけ擦り寄ってくるのやめてくれないかな⁉」
肩を落として沈み込んでしまった加賀さんの手を払いのけながら、瑞鶴は小さく右手を上げ、言ったのだった。
「質問する前に自分で考えるってのは私も反対はしないけど……でもそれじゃあ、どうしても理解できなかった時に、間違った判断をしてしまう可能性があるんじゃあ……」
「えぇ、確かに独断、思い込みはよくありません。そこで今回の大淀さんのように、提督の指示をいち早く理解し、『言って聞かせる』役目を持つ者が必要でしょうね」
香取さんの言葉に、私も内心頷いた。
提督の領域に至った者が、その他の艦娘と提督との橋渡し役になる。
提督の指示に込められた意図を読み解き、他の艦娘に伝える事で、無用な混乱を防ぐ事ができるだろう。
それは本来の提督の目的に反する事かもしれないが……やはりその存在は必要であると思う。
実際に、今回の作戦においても私や龍驤さんがその役目を担う事で、不安を持つ艦娘達を上手くまとめる事ができた。
「最終的な提督の理想は、鎮守府の艦娘全員が提督の意図を理解できるようになる事なのでしょうが、そう簡単にはいかないでしょうね」
「私はもう大丈夫よ。提督の意図は、私には理解できる自信があるわ」
「まぁ、流石は加賀さんですね。頼もしいわ」
「えぇ、任せて。赤城さん」
赤城さんの言葉に、加賀さんが自信満々にそう答えた。
確かに今回の作戦会議において、未だに提督への不安が拭えていなかった長門さんに代わり、全員を上手く導いたのは加賀さんだと聞いている。
一度の失敗を糧に、提督の領域へと至ったという事だろう。
そうなると、加賀さんも強敵か……い、いや、加賀さんも味方だ。私はさっきから一体何を。
「まずは提督を理解できる者が秘書艦となって、提督と艦娘の間を取り持つ事で、色々と上手くいきそうですね」
「そうなると、やはり大淀さんが適任でしょう。よく考えた上での大淀さんからの質問ならば、きっと提督も怒る事は無いでしょうから」
翔鶴さんの言葉に、香取さんがそう言った。
い、いやぁ、正直私も、あの提督の秘書艦を務められるのは私しかいないとは思っていたが、やはり他人から認められると嬉しいものだ。
私が遠征に向かっていた間は明石が秘書艦を務めていたらしいが、話を聞けば、提督の指揮の意図は全く読み取れず、ただ提督を信じて戸惑いながらも指示に従うしか出来なかったとの事だった。
ふふふ、やはり明石には荷が重かったようだ。仕方が無いですね。
明石も後方支援に回ってからは鳳翔さんが秘書艦を務めたとの事。今回ばかりは仕方が無いが、前線から退いている鳳翔さんは普段はお店に付きっ切り。
こうなるとやはり、提督は秘書艦として私を指名するであろうという事にすっかり自信を持ってしまう。
おそらく今の私は相当ドヤ顔になってしまっているのだろう。いけないいけない、私の悪い癖だ。
表情をほぐそうと頬に手を当てた瞬間――鹿島が満面の笑みと共に右手を高く上げ、言ったのだった。
「はいはいっ、私も提督さんの秘書艦に立候補しますっ」
夏イベも残り僅かとなりましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
私はE3神風堀りで四人目の天津風をお迎えしたところで心が折れ、気分転換にE2で親潮堀りを行いましたが四人目の初風をお迎えしたところで心が折れたところです。
しかしその過程で多くのニューフェイスをお迎えできてとても嬉しく思います。
特に大淀をお迎えできた事が嬉しいです。
この回は導入回なのですが、第二章が思ったよりも長くなってしまったので先に投稿する事にしました。
第二章は現在執筆しておりますので、気長にお待ち頂けますと幸いです。