ようやくヒルダは決断した。
このままブラウンシュバイク家にもリッテンハイム家にも与せず、中立の立場を貫けば、なるほど抹殺だけはされないかもしれない。
しかし今後、帝国の重要な職には預かれず、マリーンドルフ家は徐々に衰退していく。血筋だけ立派な没落貴族になるだろう。そんなふうになった貴族はあまた存在し、しかも再浮上することはほぼない。
逆に言えばマリーンドルフ家が積極的に帝国政治に関与できる好機でもある。それに参加して自分の能力を活かしたい。ヒルダはこの好機を逃すつもりはない。
「お父様、わたくしなりに考えました。聞いて頂けますでしょうか」
今は決断する時なのだ。もちろん、理屈の通った根拠を持つ。
「ようやく決めたんだね、ヒルダ。聞かせてもらおう」
フランツ伯はどんな決断でも受け入れるつもりだ。
娘の能力も正義感も信頼している。
フランツ伯はヒルダを溺愛するのではなく、これまできちんと一人の人間として向かい合ってきた。ヒルダが幼い時には手を引いて導いたが、今ではヒルダの考えに委ねるということを知っている。
微笑みをもって娘を見守るばかりだ。
「今回、ブラウンシュバイク家の方はマリーンドルフ家の助力の見返りに国務尚書の椅子を提示してきました。それは一見魅力的といえます。しかも現状ブラウンシュバイク家の方が優勢であり、しかも時が経つほど明確化しつつあります」
「確かにそうだね」
「お父様、しかし、我が家は敢えてリッテンハイム家に味方します」
「ほう、どうしてだね。ヒルダ」
意外そうなところは全くなく、フランツ伯は先を促す。
ヒルダが訪問から帰って来た様子から半ば予期していたのだ。
「一つは当家がリッテンハイム侯に味方した方が後に重用されるからです。逆にブラウンシュバイク公についたのでは今さら勝ち馬に乗るだけと侮られかねません。先の国務尚書の椅子さえ有名無実にされるでしょう。それどころか反故にされる恐れすらあります。ブラウンシュバイク公の気質はそういうものに見えました。それは仮に覚書を取ったとしても意味がありません。公は気が変わったというたった一言でそれができるほどの権力を持つでしょうから」
「そうだね、ヒルダ。ブラウンシュバイク公はそうだろう」
「そしてもう一つは、勝敗はまだ決していません。ブラウンシュバイク家は勝ったつもりでいるかもしれませんが、覆せないほどの差ではありません」
「それについてはヒルダ、理由にならないよ。逆に、差があることも確か、という言い方もできる。しかもそれを覆すのも簡単なこととは思えないのだが」
フランツ伯はただ聞いているばかりではない。
ヒルダの言うことを論理的に考え、そして疑わしいところがあれば率直に突いてくる。
それもまた愛情だ。むろん、ヒルダもそれを分かっているし、こうして父と話すことは楽しいことだ。
「いえ、詳しく言うとこうです。両家の実力を比較したら、というのはあまり気にし過ぎなくともよいと言いたいのです。意味がないといってもいいでしょう。両家とも貴族の派閥ばかりを気にしていますが、軍部などへの働きかけはまだまだ充分ではないと見ました。どうも両家ともこれまでの宮廷闘争の考えから抜けきっていないようです」
「なるほどヒルダ、その通りだ」
こういわれたらフランツ伯も納得する。
確かに実力勝負なら、家柄や、格式や、財産すらも問題ではない。政略でさえ事前準備の一つに過ぎない。
戦いに勝つのは純粋に軍事が強い方だ。
「そして最後、これからの帝国をどうするかということが重要です。ブラウンシュバイク公が権力を握った場合、多くの人々が危惧する通りの専横政治になると思えます。端的に言って今より悪くなることはあっても良くなることはありません。帝国の将来は限りなく暗いものになるでしょう。しかし、リッテンハイム家であれば、それよりはマシな政治になる可能性があります」
「ヒルダ、一ついいかな。そこも少し分からない。リッテンハイム侯は典型的な門閥貴族の一つだろう。これまで政治に特段の実績もなく、ブラウンシュバイク公以上に有能だと聞いたこともないのだが」
フランツ伯の指摘はその通りである。リッテンハイム侯には特筆すべき思想も業績もない。
だが、そここそがヒルダの直感であり、最短距離で真実に達する道なのだ。
「あくまで可能性です。ですが確信に近く思っています。なぜならリッテンハイム侯は人に愛情を持てる方と感じました。これこそ重要なことではないでしょうか。能力は下の者が補佐をすればいいのです。上に立つ者は慈しむ心があれば、それだけでも合格だと考えます」
「なるほど、ヒルダの考えはよく分かった。思い通りにしなさい」
ヒルダはその最終決定を伝えるため、またリッテンハイム家を訪れた。
その屋敷に入る直前、玄関の階段のところでサビーネと目が合う。
サビーネは外に出て、たまたま庭遊びをしていたのだ。まだ昼下がりの時間、日は高い。しかし風は秋の涼やかさである。
サビーネは屋敷に戻るところだった。
今まで花を摘んでいたのだろう。リンドウやクレマチスを花束のようにして胸のところに両手で持っている。
着ている純白のドレスがまるで画布のようにも見え、水色と赤紫を散らせた絵画のような姿だ。
「まあ、サビーネ様。きれいなお花。屋敷に飾りますの?」
「花瓶にいっぱい花を入れて、夕食のテーブルに飾るんです。お母様はこのお花を見ながら食べるのがいいって言ってました」
ヒルダには分かる。
たぶんクリスティーネ夫人はこの花が好きだからではない。サビーネが自分のために持ってきてくれた花だから、嬉しくて嬉しくて何よりも見ていたいのだ。
ふとヒルダは母のいない自分を思った。父はそれこそ二人分以上の愛情を注いでくれている。昔から今までそうだった。子供の頃は野山を駆け巡る自分に付き合ってくれた。そして知識も学問も導いてくれた。窮屈な女学校に叩きこまれてしまい、いっときは恨んだものだが、今では大いなる愛情の一環だと分かっている。
しかし、もしも自分に母がいればどんなだったろう。それは想像の域を出ない。
成り行き上、ヒルダとサビーネは一緒に花瓶へ花を活けている。
多くの花瓶が置いてある、厨房へつながる小部屋を使う。
二人は花の配色と形を考え、組み合わせを話し合う。サビーネは子供らしくとにかく詰め込んで豪華にする。青でも赤でもはっきりした色を多く使う。
しかしヒルダはそれだけではダメで、高低、奥行きという対比があってこそ映えるということを知っている。おまけにヒルダは植物にも詳しい。ただしサビーネの意見も尊重する。意外に子供らしい勢いが躍動感につながって良い物になることも多いのだ。
出来上がったいくつかの花瓶はいつもより綺麗に仕上がり、サビーネは活け方による差を目の当たりにして喜んだ。
「また一緒に花を飾りましょう。今度は花を摘むところから、ね。お姉さん?」
姉という言葉を聞いて今度はヒルダの方が目を丸くする。
サビーネの方が年下であるが、一人娘の自分が姉と呼ばれるとは、あまりに言われ慣れていない言葉である。
おまけに向こうは大貴族リッテンハイム家の娘、ついでに言えば帝室の血筋を引く高貴な身分ではないか。
だが釣られるように答えてしまう。
「はい、またご一緒に。今度は何の花になりますやら。秋が深くなれば花の色は鮮やかになります。もっともっと綺麗に飾りましょう」
「じゃあ約束」
サビーネの澄んだ瞳は花にも劣らず美しい。二人はこうして約束をする。
このやり取りの後半をリッテンハイム侯とクリスティーネ夫人が見ていた。
ヒルダが屋敷に到着したとの知らせを受けても大広間に来る様子がないので、ここまで来ていたのだ。
「ヒルデガルト嬢、また今度、と娘と約束しているように見えた。では答えを期待してよろしいのか」
リッテンハイム侯はどうにも気がせいているようだ。
いきなり核心を聞いてくる。もちろんマリーンドルフ家の下した結論を聞きたくてたまらないのだろう。横にいたクリスティーネ夫人が軽く侯を睨む。あまりにがっつき過ぎているように見えたからだ。
「それではリッテンハイム侯、端的に申し上げます」
ヒルダは笑みをたたえた。
リッテンハイム侯は言葉の駆け引きが苦手な人に見える。それもまた、ヒルダには悪いことだと思えない。
「我がマリーンドルフ伯爵家はリッテンハイム侯爵様の陣営にお味方いたします。以後、どうかよろしく取り扱い下さるよう」
これを聞き、もちろんリッテンハイム侯は小躍りして喜ぶ。
「ありがたい。本当にありがたい。この上は力を合わせて乗り切ろう」
「ええ、その通りです。必ず勝ちましょう」
この様子を見てクリスティーネとサビーネも丁寧なお辞儀をしてきた。見るとサビーネは本当に品のあるお辞儀をする。
ヒルダも足を引いて深くお辞儀を返した。
心の内に思う。
この少女を私は必ず守り切ってみせる。この私が、なんとしてでも。
子供の戯れ言かもしれない。それでも自分を姉と言ってくれた少女に、また姉と言われたい。
これから厳しい闘争になるかもしれない。
いろいろな方面、いろいろな局面で手を打ち続けなければならない。一手でも誤ればお終いだ。
そこを何としても勝ち抜く。絶対に負けない。
秘策がある。
逆転を成し遂げるには軍事的な実力者を引きずり込めばいいのだ。そのための方法は既に考えてある。
乾坤一擲の秘策を心にしまい、ヒルダは爪を研いでタイミングを図る。
次回予告 第六十一話 回りだす歯車
エリザベートの戦い……