エルフリーデはドミニクに些細な仕事をさせるつもりはない。
ずばり大胆に狙った懐に入らせる。
その狙いはフェザーン自治領主アドリアン・ルビンスキーそのものだ。フェザーンをどうにかする以上最短距離である。
事前に帝国情報部に分析させてあるのだが、それによるとアドリアン・ルビンスキーが好むのは頭が良く、自我がはっきりしていて、それでいて影のある女だそうだ。
おそらく頭の良い女というのは共に語り合えるだけの力量を欲するという意味だろう。
単なる聞き役では物足りないのだろう。
影のある女というのは、自分が理解し守ってやるべき対象ということなのかもしれない。
連れてきたドミニクはそれらの条件に正に合致している。
だがエルフリーデは報告書だけでは信用せず実際にアドリアン・ルビンスキーを見るべきと思った。
最後は自分の目を信じる。
それがエルフリーデの習い性だ。
大胆に社交パーティーの給仕に化けて潜入し、アドリアン・ルビンスキーを直に観察すること数度に及んだ。同じ会場のパーティーならば常にいても不思議ではない。
直観が閃く。
このアドリアン・ルビンスキーという男はただの政治家ではない。上昇志向が見て取れるが、それだけに捉われているのでもない。何かこう、大きな流れを見ている。その遠い目は例えていえば壮大な滝を傍観しているような目だ。歴史という壮大すぎる滝を。
「この男は、世の中について諦観のようなものを持っている。だとすれば同じような諦観を持つ女と共感するに違いない。ドミニクはそれにぴったりね。装う必要すらないわ」
自然と笑みがこぼれる。
ドミニクを接近させるよう企てるのはたやすいことだ。しかしそこからが難しく、最後の詰めは運を天に任せるようなもの、賭けでしかない。相性が合わなければそれまでの苦労が水の泡になる。
だが直観は絶対にうまくいくと告げている。
その後しばらくしてエカテリーナが異変に気が付いた。
父アドリアン・ルビンスキーに何やら変化がある。
家でゆっくり酒を飲みながら談笑するのが常だったのに、外で飲んでくることが多くなってきたのだ。それに家族と政策談義をすることも減ってきた。
その変化の理由を直接聞いてみても、特に何も答えることはない。まるで変化を自分で感じていないかのような素振りだ。
いや、これは絶対に何かある!
そう思ったエカテリーナは調査しようとした。
しかし上がってきた報告は、変わった行動は見うけられない、というものばかりだった。
エカテリーナはそれで納得しない。
父アドリアン・ルビンスキーは策士だ。しかも最上級の。調査などエカテリーナに届く前に買収していかようにもするだろう。
自分で調べてみるしかない。
密かに張り込んだ。
父にそんなことをするのが悪いとは思いもしない。
逆に、何かあれば対処してあげるのが子供として正しいではないか!
そしてついに見たのだ。
父アドリアン・ルビンスキーが隠れ家的なところに入って行くのを。
そこで考え込むエカテリーナではない。
女の影があったことも一瞬確認している。長髪で細面の美人だった。
本来、父親が別にどこでどうしようと口を挟める権利はないのかもしれないが……
しかしエカテリーナはそういう考えはせず、はっきりさせるのが当然と思った。しかもこういう問題は時間をかけて考えるほどややこしくなるものだとも知っている。
ためらいなくそこへ踏み込んだのだ。
むろんエカテリーナを見たアドリアン・ルビンスキーは驚いている。
「予想はしていたが、こんなに早いとは。エカテリン、お前は策士に欠けがちなものをしっかりと持っているようだ」
「こんな時に、とは思いますがそれは何ですの? お父様」
「果断だ。往々にして策士は考えを巡らすこと自体を目的としてしまう。そして機会を逃がしやすい。常にではないが即断が必要なことがある。褒めているのだ、エカテリン」
「このような時でなければもっと褒めてほしいところですわ。しかし、今はそれよりも説明の方が嬉しく思います」
エカテリーナはその目をしっかりとソファーに座っている女に向けている。
その存在について説明が欲しい。
女はこんなやり取りを至近で聞いても悠々とグラスにウィスキーを注いでいる。そばで見ると憎たらしいほど整った顔立ちだ。ほぼストレートな髪も羨ましい。エカテリンの髪はウェーブが少し入っているのに。
「そうか、ではエカテリンに紹介しよう。こちらはドミニク・サン・ピエール、パーティーで給仕をしていた人だ。ある時、パーティー中に会場のピアニストが急病で倒れたことがあった。しかも代わりのピアニストが一人もいない時だった。そこで、偶然その場にいたこのドミニクが急遽立てられ、ピアノを弾きながら歌うことになったのだ。それは見事な弾き語りで注目を集めた。そこからの知り合いだな。」
「最初はそういう事件から。でも知り合いでしょうか。ただの」
「まあいろいろと付随することもある」
互いに一呼吸置く。
エカテリーナは少し異和感を感じた。いきなり踏み込まれたのに父親はまずいことがばれて焦っているような感じがない。
しかし、逆に開き直っているのでもない。
あえて言えば純粋に面白がっているようなのだ。
「何か、事情があるのでしょうね。そんな気がします。お父様」
「おおエカテリン、これは驚いた。洞察力も大したものだ。では少し話を進めよう。ドミニク、お前の手で遮蔽力場のスイッチを押してもらえないか」
そのドミニクという女はやや訝しがったが、言われたまま遮蔽力場のスイッチを入れた。これで外部から一切の盗聴、通信はできない力場が発生した。自治領主の行くところどこにでもその設備はある。
それを見届けてからアドリアン・ルビンスキーが言う。
「ではその付随物もいろいろあるが、その一番大きいところを言っておこうか」
何か楽し気にさえ見える。手品のネタばらしのように。
「エカテリン、このドミニクは帝国からありがたく頂いた贈り物だ」
ドミニクがいきなり立ち上がった。
グラスを手にしたままだ。人はあまりに驚くと、手から何かを落とすということはあり得ない。むしろ縮む方向に筋肉が働く。それで逆に力が入り状態を保持してしまうものなのだ。
ドミニクの驚きは大きく、顔にも出ている。
しかしやがて体の力を抜き、ソファーに座り直す。
グラスをテーブルに置いてそれをじっと見る。
「なるほどね、もうばれていたのね。世の中っていろんなことが多すぎてめまいがしそうよ」
しかし驚くのはドミニクだけではなくエカテリーナも同じだ。
このドミニクという女は父親の何かではなかった。帝国から送り込まれた工作員だったとは!
もっと驚くべきは父親はそのことを既に見抜いていた。その上で何食わぬ顔をしていたのだ。
「さすがですわ。お父様」
「もっと褒めてくれて構わんぞ、エカテリン」
当事者であるドミニクはようやくグラスから目を離し、他人事のようにつぶやいた。
「どうして、そう思ったの? ルビンスキー」
「それはあまりに完璧だったからだ。いくら調査させてもお前の出所、経歴、疑うべきは微塵もなかった。だから偽造だと確信できたのだ。そして偽造なら工作員に違いなく、ちょうどこの時期は帝国が動き出してもいいタイミングだ」
「ずいぶん単純だわね。驚いてしまうわ。疑うべきものが無いから疑わしいと、そんな風に考えるのなら誰でも疑わしいことになるわよ」
ドミニクの言う通りだ。
聞いているエカテリーナも一瞬そう思った。そんなに疑心暗鬼なら疑っても疑っても切りがない。
しかし父親が言う解答も予見できる気がした。
「いやドミニク、そうではない。お前には影があり過ぎる。そんなことを感じないほどの間抜けではないつもりだ。そういうお前が表社会を堂々と歩いてきたはずがなく、だから後ろめたい経歴が見つからないのはおかしいのだ」
アドリアン・ルビンスキーは簡単に言ってのけるが、それは結果論だ。どれほどの洞察力と隠された知恵が必要なことか。
「そう、鍵はわたし自身だったの。それで、逮捕するの? せめてこれを飲んでからにして頂戴」
ドミニクは再びグラスを手にした。
あっさりしたものだ。ドミニクの世の中に対する諦観が習い性となってそうさせている。自分の退場も冷笑をもって迎え入れるのだ。
今度はアドリアン・ルビンスキーが大笑で応えた。
「逮捕? そんなことをする理由はない。する必要もない。お前は生え抜きの工作員ではなく、おそらく何も帝国の情報は持っていないだろう。失敗する可能性があるのに帝国内部に詳しい者を投入してくるはずがないからな。俺が帝国の者ならきっとそう考える」
「しかしこのまま野放しってことはないでしょうねえ。どうするの?」
あくまで他人事のようにドミニクが言う。その諦観は筋金入りだ。
「だからどうもしないから安心しろ。野放しでなければ、そうだな、こちらの家族にでもなってもらうか」
「はあ!?」
これにエカテリーナの方が驚いた!
冗談に聞こえない。
そして冗談でなければ父アドリアン・ルビンスキーは確かにこの女を気に入っているということだ!
話がこの家に踏み込んだ理由まで戻っているではないか! おまけに帝国の工作員と判明した以上余計たちが悪い。
埒が明かない。
ルパート兄さんもいる場で釈明させる必要がある。エカテリーナは父親を強引に連れ出した。
そんな様子を見ながらドミニクがゆっくりと声を出す。
「家族…… 久しぶりだわ、そんな言葉。またわたしが聞くことがあったのね」
エカテリーナやアドリアン・ルビンスキーの方を見ることもなくつぶやく。
「教えてあげる。遠い昔、家族はみんな死んだわ。強制収容所で。ちょっとした不満の言葉だったのに、隣人に告げ口されてしまったのね。運悪く帝国に対する反逆罪なんてたいそうなものを着せられてしまったわ。いっそのことそれほどの大物ならまだ良かったのに、ただの庶民だった」
「……」
「世の中にはどこでも不幸が転がってるものよ。それは当たり前のように転がっている不幸の一つだった」
ドミニクの声にわずか震えが入った。
この諦観の女、その根本的な理由が分かった。だが本人は本心では納得していない。その生い立ちはどうしようもないことだったとしても、口ほどには理不尽を受け入れていない。
「ここで家族、それもいいわね…… ただし帝国がわたしを消すまでのほんの短い間でいいかしら」
これにエカテリーナが振り向く。顔は複雑な表情だ。
「同情したわけじゃないけど一応親切であなたに言っておくわよ。帝国は手出しはしないわ。任務に失敗したとしても命を狙ったりしない。あなたが工作員にさせられた理由が報酬か脅しかわからないけど、何も心配いらないと思うわ」
笑いながらアドリアン・ルビンスキーも付け足す。
「そうだなエカテリン。その通りだ。帝国にとってドミニクを生かしておく理由もないが、殺す理由はもっとない。わざわざ問題をこじらせることなどしないだろう」
「いいから早く出るのよ、お父様」
父親の腕を掴んだ指に力を込める。わざと痛くさせるように。
実際のところエカテリーナは怒っているのだ!
次回予告 第十五話 試作品