実は今、エカテリーナは普通の精神状態というわけではない。
父アドリアン・ルビンスキーが亡くなった悲しみを抑え込んでいるところだ。
この少し前、隠れ家から出てきたドミニクが、エカテリーナとルパートの二人にアドリアン・ルビンスキーの最期のことを語っている。
「あの人は…… そうね、だいたい想像通りだと思ったらいいわ。最後まで恐れることなく前に進んだ」
ルビンスキーがいかに剛毅に自分を保ったか、フェザーンのために命を投げ打ったか。
エカテリーナやルパートにどれほど期待し、望みを託したか。
それを聞いてしまった以上エカテリーナは悲しみに我を忘れることは許されない。父アドリアン・ルビンスキーが期待した通りに立ち直り、判断をしていかねばならない責務を背負う。
そんなところへ、エリザベートの訃報まで聞かされてしまった!
エカテリーナにとってエリザベートは心の許せる友である。
しかしそのエリザベートをハイネセンに行くよう勧めたのはエカテリーナなのだ。そこで命を落とすとは…… まるでエカテリーナが死に追いやったのも同然ではないか。
当然のごとくエカテリーナは嘆き、涙に崩れる。
「でもエカテリン、エリザベートは決してただ死んだんじゃない。命を奪われたのではなく、命を使ったんだと思う。恋をして、その相手のために最善を成した結果よ。本当に……エリザベートらしいことだわ」
ヒルダはそのこともしっかり伝える必要がある。エリザベートは火のごとく一途な性格であり、遅かれ早かれ恋のためにその身を使い尽くす女だったのかもしれない。
その後、ヒルダは辛抱強く待つ。
エカテリーナはそれを乗り越える。ヒルダはそう確信している。
いや、そうであってほしいという願望であったのかもしれない。
その通り、やがてエカテリーナは前を向くのだ。
終わったことはいったん振り捨て未来を見据える。そしてヒルダときっちり情報を共有し、考え方を出し合い、これからの軍略を話し合う。
「…… 状況を整理しましょうヒルダ。先ずはそこからよ」
「ええ、知り得る範囲で言えばこうなるでしょう」
ヒルダはエカテリンに求められ、説明を始める。
むろんヒルダは軍事の専門家ではなく、明確な戦力というものは分からないが、艦艇数などの数字上の情報であればしっかり把握している。
帝国側は今、ラインハルトの本営をガンダルヴァ星系ウルヴァシーに置き、そこから同盟領星系の一部を実効支配している。
ラインハルトの他に多くの将がそこに付き従っている。
キルヒアイス、メックリンガー、ビッテンフェルト、ミッターマイヤー、シュタインメッツ、ケンプ、最近そこへオーベルシュタインも加わった。
艦艇数で言えば侵攻当初の十万五千隻からポレヴィト会戦、ガンダルヴァ会戦などで痛手を被り、数を減らしている。しかしながらそこにキルヒアイスやオーベルシュタインがイゼルローン方面からの艦隊を加えたことで、今なお七万五千隻ほどの力を保っている。
他に帝国軍ではハイネセンに駐留するワーレンの七千隻がある。
そして脱落艦や損傷艦の一万四千隻を率いてルッツがイゼルローンに帰投しつつある。
まとめて言えばこれらが帝国の戦力だ。
対する同盟側ではバーミリオンでビュコックらの元に二万八千隻がある。損傷艦が多いが、同盟各所から補給資材をなりふり構わず集め、パーツを入れ替えて再建を進めつつある。
そしてヤンはガンダルヴァ会戦の後、残りの一万六千隻を率いて姿をくらましてしまった。おそらく帝国の知らない同盟補給基地に潜伏していると推測される。そこにはウランフやメルカッツも一緒である。
ついでながらシヴァ星域近傍の同盟補給基地では、クブルスリーやグリーンヒルがシヴァ会戦後に生き残った五千隻の修理を進めている。しかしこちらは元が老朽艦ばかりのため、はかばかしく進んでいない。
「ヒルダ、見事なまでに混沌としているわね。けれど帝国の軍事的優位は依然として圧倒的、その事実は大きいわ」
「その通りよエカテリン。言い忘れたけど帝国でも同盟でもない戦力として、ここフェザーンに二万隻がある」
この頃までにはアップルトンもまたフェザーンに残存艦を引き連れて到着していたのだ。数はだいぶ減らしたが、ミュラーの艦隊と併せればまだまだフェザーンにそれだけの戦力が残っている。むろん帝国や同盟の実力には劣るが、それでも馬鹿にしたものではない。
さあ、ここからどういう手を打つか。
「一つには、フェザーン艦隊を帝国方面に素早く侵攻させることが考えられるわ。同盟領にいる帝国艦隊を撤退させるためには最も確実な方法かもしれない。二万隻を全て運用すればロイエンタール提督を躱してオーディンを突ける可能性が高い。だけどヒルダ、これは最悪の手だわ」
「……その根拠は何、エカテリン」
「そんなことをすれば、おそらくラインハルト様は激昂する。だってオーディンに残したアンネローゼ様を脅かすことになるんだもの。それはラインハルト様にとって絶対に許せない。どんなに犠牲を払ってもフェザーンを蹴破ってくるでしょう。ヒルダ、あなたよりもわたしはラインハルト様と付き合いが長いの。簡単に分かるわ」
「確かに想像できる。しかもそうなれば外交も何もあったものじゃない。外交とは交渉が成り立つ瀬戸際で行うものであって、喧嘩が前提なら何もできはしない」
エカテリーナはかつて、ラインハルトが喧嘩するところを実際に見たことがあるのだ。オーディンの街の片隅で。
その烈しさを思えば、下手なことはできない。
フェザーン艦隊が帝国領に向かうのはあまりに悪手である。
ヒルダもまたそれに同意する。
なぜならヒルダの思惑はサビーネ様を帝国の政権に加えることであり、それはあくまでラインハルトとの交渉で成すべきものだからだ。
つまり交渉のテーブルに着かせればいい。軍事的にラインハルトを倒すことは最初から目的に入らない。
「それでも、やれることがあるわ。少しくらいは」
「エカテリン、それはひょっとして玉突きのこと?」
「分かる? ヒルダ」
ここからフェザーンは面白い布石を打つ。
それはフェザーン回廊の同盟領出口から同盟領外縁を沿い、イゼルローン方面にちょっかいをかけることだった。といっても本当にイゼルローン回廊まで近付くわけではなく、小艦隊を順繰りに出してはほどほどのところで戻し、それを繰り返す。
これは一つのメッセージである。
今の情勢は帝国軍の巨大な戦力が動き出すことを警戒し、同盟のビュコックも、ヤンも、グリーンヒルも動けないでいる。
どこに帝国軍が向かうのかしっかり監視しなくてはならず、その動きに即応するため同盟軍は釘付けになっているのだ。
そんな情勢においてフェザーンが玉突きのような真似をする。
適度に帝国軍の目を引き、その圧力を肩代わりするという方法で。
その意味を理解するのはきっとヤン・ウェンリーだろう。
その通り、ヤン艦隊は素早く反応する!
秘匿された補給基地から突如として姿を現し、イゼルローン方面へ急行を始めた。
そして同じくイゼルローン回廊へ向かっていたルッツの帝国軍艦隊を捕捉したのである。
ルッツの艦隊はシヴァ星域会戦後間もなく出発しているので、その意味では早かったのだが、航行はかなりゆっくりしたものになってしまった。損傷艦艇の修理を続け、物資をやりくりしながらの旅路だ。そのため未だイゼルローン回廊に戻れていない。ちょうどエル・ファシルからティアマトに差し掛かっていたところである。
「敵艦隊発見! 数、およそ一万六千隻! 急速接近中!」
「くそっ、時間距離で割り出せ。そして相手は?」
「接触予定時間、あと一時間半! 艦型照合出ました、旗艦ヒューベリオン! ヤン艦隊と思われます」
「まずいな…… あの魔術師ヤンか。ただでさえこっちの艦隊は応急修理したものばかりだ。戦いにならん」
ルッツは渋い顔をする。
戦いに及んで怯むような将ではなく、むしろ闘将に分類されるコルネリアス・ルッツであるが、決して無謀ということはない。
この場合は艦数の問題ではなくもっと深刻だ。
手持ちの艦はあのシヴァ星域会戦で損傷を受けたものばかりだ。あるいは、キルヒアイスがラインハルトの元へ急行するときに振り落とされた艦たちである。いずれにせよ戦力としてはかなり心もとなく、あの恐るべきヤン艦隊を相手にして勝算は立てられない。
「仕方がない。イゼルローン回廊への撤退を優先させる。防御陣を保ったまま急ぐぞ」
そこへヤン艦隊が襲い掛かる。アッテンボローの分艦隊などを駆使しつつ、効果的に崩していく。もちろんそれに対してルッツは適切な防御を考え、できるかぎり損失を少なくしようとする。
簡単には分断を許さない。
しかし、やはりルッツが懸念した通り各艦はすぐに限界点が来て動きが鈍くなってしまう。修理してやっと動いているような艦をいつまでも騙し騙し使えるものではない。
最終的にルッツの側は崩壊し、イゼルローン回廊まで辿り着けたのはわずか三千隻に満たない。多くはその前に足が止まってしまい降伏している。
しかし不思議なことにヤンはルッツを深追いすることがなかった。
イゼルローン回廊の同盟側出口付近に分厚い機雷陣を敷設し、そんなフタができれば引き返す。その後ヤンはエル・ファシルを根拠地にして、これを守る構えを見せている。
むろん反帝国の気風が強いエル・ファシルはヤン艦隊を歓迎し、物資も提供する。
この戦いが事実上戦役の最後を飾るものとなった。
次回予告 第百三十九話 終結に向けて
戦役の結末とは