「よう。」
「こんにちは。八幡くん。これ、お返しするね。」
真紀と出会い、もう四日が経とうとしていた。午後三時過ぎ、彼はバス待合所でまた彼女と会う。彼女は既にベンチに座り、文庫本を開いていた。
こんな風に彼女に本を貸し、次の日に返してもらうついでに感想を交わすのは八幡には新鮮な感覚だった。
重度の人見知りだと思っていたが彼女とは何故だか不思議と打ち解けている自分がいる。だが、それはなんだかとても恥ずかしくてまともに顔を見ることはできなかった。
照れ隠しに脇の自販機に金を入れ、いつものようにバヤリースを選択する。
ガコン、ガコン
明らかに二本分の音がする。彼女に出会ってから何故だか一本分の金で二本出てくる。少し気味が悪い。
二本の冷えたバヤリースの栓を抜き、座っている真紀に手渡す。ありがとう、と両手で受け取る真紀と手が触れる。ほんの少し触れただけでもわかる皮膚の柔らかさにドキっとしながらもしっかりと体温を持っていることを確認して安心する。そして八幡もベンチに腰掛け、持ってきた文庫本を開く。
偶に、ごく偶にだが、隣をチラリと確認する。相変わらずの麦わら帽子の下にある端正な容姿。貸した本を開き、集中して読書に励む彼女の横顔は絵になるほどで見惚れてしまう。
そんな彼に気がついたのか、真紀は八幡と目を合わせる。綺麗な目だ。そんな感想と共にやはり恥ずかしさが押し寄せてしまい、すぐさま目線を外してしまった。こんなことをもう何回繰り返しているのだろうか。
なんだか今日は日の照りがキツイ気がする。今日は珍しく風もさほどなくからか屋根のある待合所でも汗が止まらない。余ったバヤリースもぬるくなってしまう。一口すれば甘ったるさが舌に残り、さらなる喉の渇きを連れてくる。
「はい、これ、よかったら‥‥」
そんな八幡の様子を見て察したのか、真紀が差し出したのは水筒の蓋だった。並々と注がれたその液体を八幡が飲めばその冷たさに幸福感さえ感じるほどだった。
「‥‥ありがとう、助かった。」
「今日、なんか暑いですよね。水飲まなきゃだめですよ。」
「これ、すごい美味しい。麦茶?」
「はい。ただの麦茶だけど冷えてると美味しいですよね。あ、私も。」
そう彼女は八幡から蓋を受け取り、水筒から麦茶を注ぎ口元に運ぶ。八幡は気づいてしまった。間接キスしてしまうことに。彼女は気がついていないようだが八幡からすれば気が気でなかった。勝手に気まずくなっている。
「あ‥‥この本どうだった?」
「猫目線で人の色んな物語を見るなんて面白かったです!」
「俺はちょっと難しくて読めなかったのに読めたんだ‥‥凄いな‥‥」
「いえいえ、私も難しい文字はなんとなくで読んでるから‥‥」
彼女は必ず次の日までに貸した本を読破してくる。ほんの意地悪で貸し出した小学生には少し難しいその本も例外なく読んでくるのだから驚きだった。
「で、今日の本なんだけどさ‥‥最近はやりの本にしてみた。ハリーポッターは読んだことある?」
八幡が取り出したのはシリーズ第一作だ。
「読んだことないです。分厚いですね。」
「映画にもなってるらしい。見たことないけど。」
映画を一緒に観に行く友達もいないしーー
そう口にするのは、やめた。なんだか虚しく思えてしまったからだ。
「面白そう!でも‥‥でも私、借りられない。ごめんね。」
真紀は途端に暗い表情になる。八幡がその理由を尋ねようとするがその前に彼女が口を開いた。
「‥‥思ってたより時間が無くって、ね。今日の夜には行かなきゃならなくなっちゃった。」
「えっ‥‥それって、今日で終わりってこと?」
出会いがあれば別れもある。それは分かっていたのにいざそれが目の前に、それも突然に立ちふさがると、手放したくないと思ってしまう。
「うん。今日は最後の別れの挨拶をしてきたの。ありがとう。本貸してくれて。」
真紀は文庫本にまた目を向ける。静かに、そして、いつものように活字の海に漕ぎ出している。
あまりにもあっさりとした告知に八幡は何か話そうとしていたが話したいことがまとまらない。開いた本の内容なんて清々しいほどに頭には入ってはこず、急に宣告された別れのカウントダウンに翻弄されるしかなかった。
あと、二時間。
あと、一時間。
あと、三十分。
あと、十五分。
彼女はおもむろに席を立った。時間が来てしまった。八幡は体を硬ばらせる。
「あのさ、俺また来年には来るから。」
何か話さなければならない。そう思い立ち上がった八幡の言葉に彼女は答えない。無言で麦わら帽子を被り準備を始めるばかりだ。
八幡とすれ違う。耳元で彼女は囁く。
「‥‥ごめんね。本当は遠くで見守るだけでよかったのに。」
「‥‥え?」
次の瞬間、彼女は駆けていく。彼は目で追うことしかできなかった。
ポツリ ポツリ
待合所のトタン屋根に雨粒が落ちる音が響く。八幡は名残惜しそうに本をまとめ、家へと走っていくのだった。
◇◆◇
玄関では和子が少し困ったような顔で地面を見つめていたが、濡れている八幡を一度見ればいそいそとタオルを頭にかけ、ワシャワシャとふいてきた。
「濡れたままだとかぜ引くからね。」
「‥‥ありがとう。」
さっきまで和子が見つめていたその地面に目を向ける。そこには皿が置かれており、盛られていたのは割り箸のような木だった。
「これって‥‥」
「送り火。八幡は知ってるかな。ご先祖様が帰って来る目印になるのが迎え火。その反対にご先祖様を送り出すための目印が送り火。こうして焙烙皿にかんば‥白樺の木の皮のことね‥それに火を灯すの。まあ、うちはあんまり厳密にはやってないけれど。今年は迎え火忘れてたぐらいだから。」
「それっていいの?」
「うん。結局は気持ちだから。別に大丈夫。でも困ったわ。うっかり外に置いていたら湿っちゃったのよね。仕方ないから商店まで買いに行ってくるわね。ついでに今日の夕飯も買いたいしね。」
「あ、爺ちゃんはいる?感想文見てもらいたいんだけど。」
「繁さん、今村の会合に行ってて帰りは少し遅いと思うわ。お母さんに見てもらったらどう?」
「‥うん。」
バンに乗り、行ってしまう和子を眺めながら八幡は茶の間に向かう。
母はテーブルで氷枕をセッセと準備していた。八幡はなんとなくその理由を悟ったが、昨日の晩に書き終えた感想文と走れメロスを片手に一応口にはしてみた。
「母さん、これ読書感想文なんだけど見てくれない?」
「ごめんね、八幡。ちょっと小町、熱っぽいのよ。後で見るからテーブルに置いて頂戴。あ、それかお父さんに見てもらうとか‥‥」
「いや、いいよ。」
父は見ない。そういう人間ではない、と八幡は知っていた。良くも悪くも放っておくのがあの人なのだ。それは時にとても楽で、時に辛い事でもある。今は、きっと後者だろう。
原稿用紙を握る手が強くなる。シワになるほどに。虚しい。心にポッカリ穴がジリジリと空いてくるようで、いても立ってもいられなかった。
小町の枕変えてくるね、と母は部屋に入っていく。襖を閉めるその音が鳴った瞬間、八幡はまるで何かから逃げるように玄関に向かっていた。
「おい、八幡。どうした雨降ってるぞ!」
父の呼び掛けだろうか、八幡の後ろから聞こえる。だが動き出した足はもう止まらない。
八幡が向かったのはバス待合所だった。雨は強さを増し、地面はぬかるみ始めて一歩がひどく重く感じた。それでも彼が歩きを止めなかったのは妙な〝予感〟がしていたからだ。
もう、三十分
もう、四十五分
もう、一時間
時間は驚くべきほど早く過ぎていくように八幡には感じていた。
ザク、ザク、ザク
雨音の中から音がする。一歩一歩、こちらに近づいてくる。
「やっぱり‥‥」
「また会ったね。八幡くん。帰れなくなっちゃった。」
真紀は差していた青い傘を置き、ベンチに座る。
途端に胸が熱くなる。それでも八幡は黙って、暗い田舎道を眺めた。
「雨、だね。」
「うん。」
「なんかあったの?」
「‥うん。」
雨の音が聞こえる。この音が八幡を素直にしてくれる気がした。
「‥‥俺、いつも一人なんだ。学校でも、家でも。学校では友達もいない。母さんも父さんもいつも小町ばっかりで、俺のことなんて見てくれない。」
「寂しい、んだね。」
「どうすればいいのか、分かんない。俺が悪いのかな。」
「悪くないよ。八幡くんは。分からない人が悪い。こんなにしっかりした優しい人、いないよ。きっとお父さんもお母さんも甘えてるんだよ。しっかりしてるから。」
彼女を八幡は見つめる。優しい目だ。綺麗で一点の曇りもないその瞳に吸い込まれそうだった。
「そうかな。」
「そうだよ。いつか傷ついた犬に優しくさすりながら読み聞かせてくれたでしょ。」
真紀は立ち上がる。いつの間にかトタン屋根に落ちてきた雨粒の音が穏やかになっていた。
「君はいったい‥‥」
「雨があがるよ。これでやっと火を灯せる。だからもうお別れ。私は行ってしまうけど、忘れないで欲しいことがあるの。私はいつだって側にいるから。一人じゃないよ。」
そう彼女は立ち上がる。彼女の言う通り、雨はあがっていた。
「待って!」
咄嗟に手に持っていた文庫本を八幡は真紀に差し出す。
「これ、持ってて欲しい。」
「私、もう返せないよ。」
「それでも、持ってて欲しい。」
差し出されたその本を真紀は何も言わずに受け取る。雨が上がり、たちこめていた雲の隙間から月明かりが漏れる。照らされた彼女の目からは涙が溢れていた。
「やっぱり君は優しいね。ありがとう。じゃあ、私もこれ、渡しておくね。」
月光に照らされた彼女の手には朝顔の押し花が目立つ栞があった。彼女が本を読むときに使っていたことを八幡は思い出していた。
真紀は八幡に近づく。次の瞬間、八幡の額に自分の額をくっつけた。
八幡は急激な眠気に襲われる。ベンチに座り込み懸命に戦うが、力が抜けていく。
〝さよなら〟
彼女の声が頭の中にこだましていく中で、八幡は意識を失っていくのだった。