夏の追憶   作:レスキュー係長

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朝顔の栞

 

嫌味なほどに長く続いた梅雨が明ける。ただ、今年の梅雨は意外なことに関東では雨が降ることが少なかった。大抵、このツケは後々回ってくるものだ。そういえば去年も梅雨後のゲリラ豪雨が酷かったな、と比企谷八幡は帰りのホームルーム直後、机に頬杖をつきながら実にくだらない考えを巡らせていた。

 

過ぎ去りし梅雨は土産として夏休みを置いていく。高校三年生の夏なんて殆ど受験勉強へ消費されてしまうことなんて分かり切ったことなのに、クラスの中に緊張感なんてものは皆無で、むしろこれから訪れるほんの短い休暇に皆胸を馳せている。逃げたいのだ。迫ってくる大学入試からも、必然的に訪れる別れのその日からも。誰しも後戻りはできない、本当に貴重で、愛おしい時間を自覚しないままに日々を生きていく。

 

比企谷八幡は机の上に置いてある数学の教科書とノートを閉じ、膝の上にのせたバックに詰め込む。教科書はまるで新品のようで、折り目すらついていない。ノートはというと眩しいほどに真っ白である。

 

数学の授業は彼にとって本当に苦痛でしかないのだ。何が楽しくて関数をやらねばならないのか。こたえを求め、仮にそれが正しかったとして、何になるのか。人生に答えなんてないのに。

数学が苦手な人間特有のそれらの言い訳は八幡の常套句だ。

 

 

「ヒッキー、部活一緒に行こう。逃げちゃダメだよ。」

 

 

ふと、顔を上げれば明るめの茶髪が美しい由比ヶ浜結衣がそこにはいた。結衣とは高校三年生になってからも何の因果が同じクラスだった。嬉しくないと言えば、それはウソになる。クラス替えして知り合いがいる、なんてことは今までの八幡の人生でそうあることではない。だから、だろうか。クラス替えの時、無意識的に口角が上がっていたと別のクラスになった戸塚彩加に指摘された時は死にたくなった。

 

何だ、と八幡が目線を少し下げると校則ギリギリであるだろう短いスカートの裾は八幡の机より少し上をいき、程良い肉付きの太ももが八幡の目にはチラリいや、しっかりと収まっていた。

 

 

「あ‥‥」

 

 

八幡の悪い所は声に出してしまうところだ。きっと普通の人なら上手くごまかせるんだろうが、変に不器用な彼にそんなことは到底できない。

その声に気がついた結衣は慌ててスカートを抑える。既に顔は真っ赤だ。

 

 

「いや、待て、これは男の性というか、何というか。」

 

「‥‥ヒッキーのバカ、変態!もう知らない!」

 

 

弁明する暇もなく結衣は教室を後にする。急いで追おうと立ち上がるが、膝を机にぶつけ、鈍い痛みが離れない。

 

 

「痛っ!全く‥‥めんどくさいことになった‥‥」

 

 

結衣が雪乃に一連の流れを話していないことを願いながら、痛む膝を無理やり動かす。

 

 

 

 

 

部室のドアをスライドさせた先には既に雪乃が文庫本片手に読書に励んでいた。その隣には結衣がバックを下ろし、座ろうとしているところだった。結衣は八幡の顔をチラリと見ると目線を逸らす。やはり先ほどのことを引きずっているのだろう。

 

 

「こんにちは、比企谷君。」

 

「‥おう。」

 

 

どうやらまだ結衣との微妙な空気に気づいていないようだ。八幡はいつもの席にいつもと同じ体勢で本を開き、活字の海に身を投じる。一切の雑念を捨て、世界観にドップリと浸かっていたいのだ、彼は。

だが、今日は何かが違う。それはいつもと全く同じだからこそわかる違和感だった。

 

 

「‥‥ない。あれがない。」

 

 

胸の奥底から溢れんばかりの焦燥が押し寄せる。身体中が熱くなる。それは本当に、無くしてはいけないものだったはずなのだ。

八幡の態度が変わったことに気がついたのは結衣だった。

 

「ど、どうしたの、ヒッキー。忘れ物?」

 

「いや、忘れ物じゃない。いつも挟んでた栞がないんだ。朝顔の押し花なんだが。貰い物でな。」

 

「最後に見たのはいつ?」

 

「最後、か。記憶にあるのは昨日の放課後でのここだとは思う‥‥単行本に挟んで置いたはずなんだが‥‥」

 

 

そうバックから荷物を一つずつ取り出していく。筆箱、教科書、生徒手帳にマッ缶のプルタブ‥‥今の八幡にとってどうでも良いものばかりだった。掘り出しても、掘り出しても見つからないことに腹が立ってくる。なぜ無くしたのか。自分の管理の甘さに八幡は思わず歯ぎしりをしてしまう。まるで自分の不甲斐なさを噛み締めているようだった。

 

 

「比企谷君!落ち着いてちゃんと聞いて!」

 

 

ふと我に帰る。大量の荷物が置かれた机の上から見えたのは、長方形の細長い紙を手にした雪乃の姿であった。

 

 

「探しているのはこれかしら。昨日、帰りに少し教室を点検した時に落ちていたのよ。返すわ。」

 

 

雪乃から渡されたのは朝顔の押し花をあしらった栞だった。青とピンクの花びらがが美しく鏤められたそれは八幡の記憶の奥底にある遠い夏の思い出を思い起こさせる。

 

 

「‥‥ありがとう。助かった。」

 

 

雪乃と結衣は顔を見合わせる。というのも彼が今までに見たことがない表情だったからだ。栞を手にした彼は、どこか懐かしんでいるのか、いつになく優しく微笑んでいた。

 

 

「ねえ、ヒッキー。それ誰から貰ったの?」

 

 

果たして聞いても良かったのか。結衣は問うた後に後悔していた。もしかしたらデリケートな問題かもしれない。踏み込み過ぎた。自分の考えのなさに少し落ち込む。

 

だが、八幡はその発言に嫌な顔をせず、口を開く。不思議とそこに抵抗感などは一切なかった。きっと今までならば有耶無耶にしていたところであろう。二人との信頼の積み重ねがあるからこそ、包み隠さずに話せるのだ。

 

 

「‥‥昔、貰ったんだよ。まだ小学五年生だったっけか‥‥その時だと思う。」

 

 

本当に忘れかけていた何かが戻ってくる。甘酸っぱくて、暖かい。

 

 

「比企谷君、もしかして女の子から貰ったのではないのかしら。朝顔の栞なんて男の子から貰うはずないもの。」

 

「へぇ、ヒッキーも小学生の時は女の子とちゃんと話せたんだ。」

 

「おい、今も話せてるだろうが。」

 

「いやいや、今でこそ大丈夫になったけど最初の頃は酷かったよ。ブツブツ言ってて何言ってるか分かんなかったし。」

 

 

酷い言われようだと思ったが実際のところ言われている通りなんだろう。八幡は栞を大切に文庫本に挟み込む。

 

 

「でもさ、そんなに大切だったってことはもしかしてヒッキーの初恋の人からのプレゼント‥‥だったり‥‥して。」

 

 

初恋。先程から八幡の心を甘酸っぱく染めているのはそれが原因なのだが、いまいち八幡はピンときていない。あの思い出がはたして初恋だったのか断定できなかったのだ。

 

 

「比企谷君に初恋なんてとんでもイベントあったのね。私ですらなかったのに。」

 

「え、ゆきのん、初恋ないの!私はね、幼稚園のころの蒲田くんって子でね‥‥あ、ゴメンねヒッキー。私の話にいつの間にかなっちゃった。」

 

「いや、別にいいぞ。だいたい俺なんか初恋だと断定できないレベルだしな。ただ不思議な話でな‥まるで夢みたいなんだ。」

 

「まあ、どうせ暇を持て余しているくらいだから話してくれないかしら。お茶請けくらいにはなるでしょ。紅茶入れるわね。」

 

 

事前に準備していたのだろうか。美しく焼き上げられたクッキーを机の中央に置き、電気ケトルに水を入れてスイッチを入れる。

 

クッキーあるならお茶請けなんて要らないだろうに、とツッコミでも入れようかとも思ったが間違いなくややこしくなるのを見越して止め、八幡は遠い夏の追憶に意識を集中させる。

 

夏の青々とした稲が風になびく田園風景。エアコンなんてないはずなのに日陰であるというだけでなぜだか涼しい日本家屋。屋根のついたバスの待合場と横にある古びた自動販売機。そして、浮かんだ水色のリボンがついた麦わら帽子。

 

思い出が噴水のように湧き出てくる。八幡はそんな思い出に肩まで浸かり、口を静かに開いた。

 


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