さぁ、行くぞスコッパー。コーヒー豆の貯蔵は十分か?
み~んみんみんみんみん・・・。
空は快晴。青く澄み渡る天上では今日も元気に太陽が核融合に励んでいる。その光と熱を遮る雲も無く、強力な直射日光が地表に突き刺さり、地面ではその暑さに空気が陽炎のように揺らめいている。
蝉が全力で求婚の言葉を叫んでいる8月の夏真っ盛り。地球温暖化の影響か、ヒートアイランド現象か。テレビでは連日のように史上最高気温が日本のどこぞで更新されたことや熱中症患者が病院に運び込まれたことがニュースで報道されている。
うだるような熱気に道行く人は汗を流し、手に扇子やハンカチを持っていたり、自前の水筒を用意していたりと暑さ対策に余念が無い。
そんなただ立っているだけで暗澹とした気分になってきそうな8月2日の駅前に、1つの人影があった。
短く切り揃えた金髪んと蒼い瞳が特徴的なその人物は、身長が170センチメートルを超えているので、高校生を越えた年齢に見えなくも無い。だが、整っているその顔の、まだ大人になりきっていない幼さが、その人影が中学生の少年であることを周囲の人間に理解させていた。
その少年の名前は風林寺翔。昨日15歳となったばかりの少々どころか大きく普通とはかけ離れている中学生である。
だが、普通とは違うといっても中学生は中学生。今は世間一般には中学生は夏休みと呼ばれる長期休暇に入っており、翔と言えども例外ではない。
ただ、普通とは違う人間の夏休みも普通からはかけ離れているわけで。普通の中学3年生が受験勉強に勤しんでいる中、翔は武術の修行に勤しんでいた。
何しろ日中の学校から解放される夏休みのこと。普段は出来ない修行ということで、とことん追い込まれたり、
そんな修行浸りの翔がなぜ駅前にいるのかと言えば、今日は完全休養日だからである。
夏休みに入り密度が上がった修行とそれにより体と心が悲鳴を上げていたこと、そして昨日が誕生日だったことも考慮されてプレゼントされたのである。
(んっん~♪)
完全休養日を言い渡されて現在駅前に立っている翔はといえば、誰の目から見ても浮かれている様子であるのが伺える。何とか表情を引き締めようとしているようだが、ニヘラと崩れた表情を見る限り成功しているとは言い難い。
何故こんなにも翔がご機嫌なのかというと、この年代の男子中学生が浮かれる理由なんて限られるわけで。翔もご多分に漏れず思春期男子だったというわけだ。
(黒歌さんとプールデート♪黒歌さんの水着姿♪楽しみだなぁ。)
自らの恋人の水着姿を想像して翔の表情がだらしなく緩む。これも悲しい男の性ということだろう。
そう、翔がこんなに浮かれている理由は久々に恋人である黒歌デート出来るからである。倦怠期に入っているならともかく、未だラブラブ(死語)状態の恋人とのデートで浮かれない男子中学生はいないだろう。
しかも、翔と黒歌は付き合って2ヶ月強経っているものの、デートは数えられるほどしか出来ていない。翔も黒歌も現在は達人に教えを授けられている身。平素は修行で時間をとられる。
黒歌が翔の家に居候しているため、2人で居る時間が多いといえば多いが、デートにあまり行けていないのも事実なのだ。
そんなわけで、有頂天になっている翔は集合時間30分前から炎天下の下恋人を待っているのである。
しかし、同じ家で暮らしている恋人同士である。恋人気分が味わいたいからと敢えて待ち合わせしているが、翔がこんなに早くから待っていることも当然黒歌は把握しているわけで、自分も準備を早く終えて早めに来るのも当然というわけだ。
「ごめ~ん。待ったかにゃ?」
そんな台詞とともに翔の前に駆け寄る黒歌。その顔に浮かんでいる笑みには翔はいつもドキリとさせられる。とは言え、いつまでも見惚れているわけにもいかないので、意識して平静を保ちつつも返事をした。
「いや、今来たところだよ。」
そう言って黒歌と見つめ合い、そして次の瞬間には2人してプッと吹き出し笑い合う。あまりにもベタな「恋人同士の待ち合わせのやりとり」に可笑しく感じたようだ。
そのまましばらく笑っていた2人だが、どちらからともなく手を握り合い歩を進めだした。
目的地は電車で20分ほど行ったところにある大きなプールである。
◇◇◇◇◇◇
翔たちがやって来たのは、子供用の浅いプール、大人用の深いプール、流れのあるドーナツ状のプール、波の起こるプール、噴水、人工の滝、設置型の水鉄砲、子供用の滑り台、年齢制限のあるウォータースライダーなどなどが1通り揃っている、どこの地方都市にも1箇所はありそうな水のテーマパークである。
早速着替えのために男女別の更衣室に別れ、準備に入る。男のほうが女よりも準備に時間が掛かるのという定説通りに黒歌よりも早く準備を終えた翔は、しばらくの間更衣室を出たところで待つことになった。
天然特有の綺麗な金髪に青い瞳、そして端正な顔立ちと更には鍛えこまれ一切の無駄なく引き締められた、見せるためのものとは一線を画す実用本位の筋肉。それらが相俟って男たちからは羨望の、女たちからは熱い視線を送られていたが、最愛の恋人を待っている途中の翔は一切気にしていなかった。(勿論気づいてはいた。)
「翔~~!。」
「はい、黒歌、さ・・・ん。」
翔が周囲の視線を一身に浴びながらしばらく待っていると、背中のほうから声がかけられる。その声と気配から自分が待っている人だとわかっていた翔は笑みを浮かべ振り返り、そして硬直した。
パッチリとした大きな瞳を長い睫毛が縁取り、その下にスッとした鼻梁が通っている。ぷっくりとした桜色の唇は弧を描き、その人物の今の気分がいいことを明瞭に表していた。興奮のせいか薄っすらと紅潮している頬を落ちていっている水の雫が何とも色っぽい。
たわわに実った胸は、しかし自力で重力に負けることなく綺麗な形を保っている。男であれば誰しもその果実を収穫しむしゃぶりつきたいという欲求にかられ視線をはずせなかった。
まるで繊細なガラス細工のように力を込めすぎたら壊れてしまいそうな印象を見るものに与える細い腰。しかし、女性特有の柔らかさの下には薄っすらと筋肉を備えている。
一目で安産型だと分かる桃のようなお尻は、指をめり込ませたらどこまでも沈んでいきそうなほど柔らかそうだ。
そんなお尻を支えている太ももは、猫科の猛獣を連想しそうな程にしなやかに鍛え上げられており、それが健康的な色気を発散している。
そんな10人中10人が魅力的と評価するであろうプロポーション抜群の肢体はシンプルな白のビキニに包まれており、それが烏の濡れ羽色と評されるであろう黒髪と絶妙なコントラストを描いている。
そんな、恋人の艶やかな水着姿に翔はただ見蕩れることしか出来ず、顔を真っ赤にしたまま黙り込んでしまった。
「うにゃ?翔、どうしたかにゃ?」
言葉の途中で黙り、以降硬直したままの翔を疑問に思ったのか、黒歌が首を傾げながら聞いてくる。
妖艶さと健康的さを同居させた色気を周囲に振りまいているにも関わらず、無垢な少女のような、あるいは小動物のような仕草をするというギャップ。
その圧倒的な戦闘力に翔は敗北寸前だった。
(ちょ、黒歌さん、それ反則・・・!)
しかし翔とてまだ中学生とは言え一端の男。敗北寸前とは言え意地でも言わねばならないことがある・・・!
「く、黒歌さん。似合ってますよ、その水着。」
顔を真っ赤にし、視線を逸らしつつ、どもりながらの翔のなんともありきたりな褒め言葉。どうにも情けない感じだが、黒歌はそれでも嬉しかったようだ。
「にゃはは。そう言われると、ちゃんと選んだ甲斐あったかにゃ?」
黒歌の照れ笑い!翔に1000のダメージ!
頭を掻きながらのテレテレとした、それでも嬉しそうな笑みに翔はもうタジタジだ!
(落ち着け、落ち着くんだ、僕。素数だ。素数を数えて落ち着くんだ。2、3、5、7・・・。素数は1と己でしか割ることの出来ない孤独な数字。僕に勇気を与えてくれる、らしい。)
11、13、17、・・・。と平常心を保つ為に頭の一部を使いながら、空気を変える為に話題を振る。
「それで、黒歌さん。これからどうしますか?僕はここに来たことありますから、黒歌さんのやりたいことをしますよ。」
(よし!だいぶ落ち着いてきた。これで・・・。)
素数を数えていることと話題を変えたことが功を奏したのか、幾分落ち着いてきた翔。これで普通にデートを楽しめるかな、と思っていたが甘かった。
黒歌の攻勢はまだ終わっていなかったのである。
翔の提案に黒歌が俯いてしまう。翔が疑問符を頭に浮かべた直後、掠れるような声が翔の耳に届いてきた。
「・・・いが・・にゃ・・・。」
「え?黒歌さん、何ですか?」
翔のその言葉に黒歌は面を上げた。その顔は羞恥で赤く染まってしまっている。よほど恥ずかしいのか目に涙を浮かべながら、両手の人差し指同士をツンツンしていた。
「だから、お願いがあるにゃ・・・。」
黒歌の涙目上目遣い+指ツンツン!!翔に1500×2のダメージ!!
(ぐはぁっ!!)
多大なダメージを被りながらも、翔は笑顔を取り繕ってみせた。すさまじい精神力である。並みの男ならすでに敗北していただろう。
「な、何かな?黒歌さんの頼みならよほどのことじゃない限り聞くよ?」
その言葉を聞いた黒歌は、周囲に話を聞かれたくないのかキョロキョロと周りを伺い、それでも安心できないのか翔に身を寄せ、背伸びをして翔の耳元で囁いた。
「私が猫又だって、翔は知っているにゃ?だから、私は泳げないんだにゃ。翔、私に泳ぎ方を、教えてくれないかにゃ?」
黒歌のダイレクトアタック!!!翔に10000と2000のダメージ!!!
密着する体、相手から伝わってくる体温、黒歌の胸が自身の胸板で押しつぶされている光景とその感触、そして耳にかかる黒歌の息遣いと艶っぽい囁き。その全て感覚が翔の思考をしっちゃかめっちゃかにした。
(うわ、体柔らか、胸、スゴッ!!てか息、息が耳に掛かって!!)
翔の思考をかき乱した黒歌は、まだ離れずにいた。むしろより翔に密着しながらトドメを刺しにいった。
「もし、教えてくれたら・・・。ご褒美、上げるわよ。」
もうやめて!!翔の
(馬師父。もう、
顔を真っ赤にし、目をグルグルと回して後ろに倒れこみ、意識を手放しながらも翔が見た光景は、「計画通り。」と全体に貼り付けられている、嗜虐心を満たした愉悦に歪んでいる黒歌の笑顔だった。
◇◇◇◇◇◇
「まったく、あまりからかわないでくださいよ、黒歌さん。」
「いや~、顔を真っ赤にした翔が可愛かったから、つい。」
何とか数分で復帰した翔はあまり反省した様子を見せない恋人につい溜め息を吐いてしまう。前からそうだったが、この恋人のからかい癖にはいつも振り回されっぱなしだ。
特に恋人になってから、今回のようにスキンシップを使ったからかいを交えてくるようになったので、健全な思春期男子の翔としては堪らない。いや、別の意味で溜まってはいるが。
だが、恋人のそんな様子には黒歌も思わず溜め息を吐いてしまう。確かに翔をからかうのは黒歌の猫又故の嗜虐心も多分に理由に含まれているがそれだけではないのだ。
ようするに、あれだけスキンシップを多用しているのはそういう意味で誘いをかけているのである。
(まったく、翔のその紳士的なところは美徳だと思うけど、恋人になったんだからもうちょっと積極的になってもいいのに。全部悉くスルーしてくれるんだもん。)
そんな互いにちょっとした、それでも微笑ましい不満を抱きつつも2人がたどり着いたのは流れのあるドーナッツ状(実際は枝分かれしたり、うねっていたりするが)のプールである。
「あれ?なんでここに来たんだにゃ?てっきり普通のプールだと思っていたんだけどにゃ。」
「確かに、普通泳ぎを教えるならそっちの方がいいんだろうけど、僕的にはこっちの流れがある方が教えやすいんだ。」
「そうにゃのか。」
実は、黒歌の泳げない宣言は本当だったのである。まぁ、水が苦手な猫の妖怪である猫又なので仕方ないとも言える。さっきはからかい混じりに本当のことを言っただけなのだ。・・・いちいちからかうところに根本的に奔放的な黒歌の性格が表れているといえる。
そんなわけで泳ぎを教わろうとしていた黒歌にとって、流れのあるプールとは意外だったのである。
そこで、何故流れのあるプールなのか、翔が説明を始めた。
「うん。僕も昔は泳げなくてね。そこでしぐれさんが教えてくれたんだけど、それが流れのある川でのことだったんだ。でも、それまで敬遠してたのが嘘みたいにすぐに泳げるようになってね。だから、しぐれさんの教えを参考にしてみようかな、と。」
翔は、前世での記憶、あるいは記録とも言えるが、その記録から水が苦手になり、泳ぐのが無理なカナヅチとなっていた。それも人間は泳げるようにはできていないと、ある意味で開き直るほどには、である。
それでは困る。どうしよう、と悩んだ翔の師匠たちは、かつて同じようにカナヅチだった兼一に泳ぎを教えた香坂しぐれに任せたらいいんじゃ?ということになり、そして実際に翔はしぐれの教えにより泳げるようになった、というわけである。
閑話休題。
翔はあれほど泳ぐのを嫌っていた自分ですら泳げるようになったしぐれの教えなら、黒歌も泳げるようになると思ったのであった。
「それじゃ、まずは入ってみようか?」
「わ、わかったにゃ。・・・翔、手、離さないでね?」
「うん。勿論だよ。」
ゴーグルを装着した2人は手を繋ぎながらプールに入っていく。しかし、黒歌はやはり水が怖いのか足をつけては離してを繰り返している。
そんな黒歌に翔は微笑みながら握っている手に力を込めた。
「大丈夫だよ、黒歌さん。水は、怖がって流れに逆らおうとするおそってくるんだ。だけど、流れに身を任せたら何もしてきはしないよ。ほら、きて、黒歌さん。」
「にゃっ!?」
ぐいっ。
先にプールに入った翔が黒歌をプールの中に引き連れる。思わず硬直してしまう黒歌だが、翔に手を握られていることを思い出して冷静になった。
「ほら、黒歌さん。力を抜いて流れに身を任せてみて。」
その言葉に黒歌は素直に従う。そうして力を抜くと、水の流れに従って足の方から体が流れ出した。
そのことに恐怖を感じ、また体が硬くなろうとしたが、その寸前で翔が黒歌の体を突付いた。
黒歌がその方向に目を向けてみると、完全に力を抜いて流れるままになっている翔の姿。そしてその翔に繋がれている手の存在。それを思い出して黒歌は完全に力を抜いた。
そうすると、黒歌の体が流されながらも水の中で浮いた。黒歌の下に回った翔が黒歌に拍手をする。ゴーグル越しにそれを見た黒歌はあることに気づいた。
(あ、すごい。進んでる。いや、手足を動かせば・・・もう、泳げてる?)
試しに足を動かしてみる。膝を軽く曲げながら左右交互に上下に動かすだけの簡単な動作だが、それだけで黒歌の体は流れに逆らってその場に留まった。
(すごい!私、泳げてる!)
その興奮のままに水面から顔を出す。そして隣に浮き上がってきていた翔にその喜びのままに抱きついた。
「翔、やったにゃ!こんなにすぐ、私、泳げるようになったにゃぁ!」
「わ、く、黒歌さん!?」
翔の顔を胸に抱きこみ、喜びを表現する。思いっきり翔の顔が黒歌のその豊満な胸に埋まってしまった。
「ふがっ!ふががっ!!」
「きゃっ。翔、くすぐったいにゃ。」
その胸のあまりの柔らかさという天国と、呼吸が出来ない苦しさという地獄を両方同時に味わっている翔。なんともうらやまけしからんことではあるが、何分窒息の危険もある。
なんとか翔が力を込めて抜け出そうとするものの、素の身体スペックでは未だに悪魔である黒歌の方が強い。よって翔が抜け出せる道理もなく。
水面に顔を出した直後という、酸素を吸い込む前であったことと胸に挟まれた動揺もあり、驚異的な肺活量を誇る翔もあっさり意識を手放した。きっといい気持ちで落ちたことだろう。
「あれ?翔?翔~~~~!??」
「ぶくぶくぶく・・・。」
黒歌はついさっき習得した泳ぎで早速彼氏を運ぶ羽目になり、やっぱり水は嫌いなままになりそうであった。
◇◇◇◇◇◇
とにかく、そんなこんなでトラブルに巻き込まれながら2人はデートを楽しんだ。
2人で浮き輪に乗るタイプのウォータースライダーを滑ってみたり。
「ちょ、何で僕が前なんですか?ていうか、胸が当たってるんですけど・・・。」
「ふふ、何言ってるんだにゃ?・・・当ててるのよ。」
昼食を食べさせ合ってみたり。
「はい、あ~んにゃ。」
「ちょ、恥ずかしいんですけど・・・。・・・あ、あ~ん。」
翔が居なくなった隙に黒歌をナンパしていた男どもを見た瞬間翔が暴走したり。
「胴廻し回転蹴りっっ!!」
「ぎゃああぁぁぁぁ。」
2人で手を繋ぎながら泳いで見たり、とそれはそれは楽しんだのであった。
そんなこんなで思いっきり楽しんだ黒歌は現在、更衣室でシャワーを浴びている。もう帰る時間のため、着替えようとしているわけだ。
シャーワーを浴びている黒歌はデートが成功して楽しかったこともあり、鼻歌を歌うほどには上機嫌である。
「ふふん♪」
(あ~楽しかった。次はどこに行こうかにゃ?)
既に次回のデートのことに思いを馳せながら体を拭き、そのバスタオルで体の前面だけを隠しながら自らのロッカーへ歩いていく。その耳に周囲の喧騒は届いてはいてもその中身には気に掛けていなかったのでわからない。
そうして黒歌が着替えようとしてロッカーを開けると、その中に入っていた携帯が鳴っていた。その着信音が告げる相手は翔である。
(もう着替え終わったかにゃ?だとしたら待ってもらわないと。)
そんなことを思いながら電話に出ると、結構切羽詰った翔の言葉が聞こえてきた。
『黒歌さん!さっきサーゼクスさんから電話があったんだけど、この付近に神器を使って犯罪を起こしてる人が潜伏してるみたいなんだ!』
「っ!?・・・詳細は?」
翔の言葉に驚くが、すぐに落ち着いた様子で話を促す。その心の内で戦いの可能性を視野に入れながらもまずは情報を聞くことにする。
実は、翔がこんな風にサーゼクスからの依頼で裏の犯罪者を相手にするのは珍しくない。サーゼクスは魔王であり自然権限も大きくなるが、魔王であるが故にどうしても動けないときというのは存在するのだ。
そういう時、そのことを放置すると被害が甚大になると予想される事態を解決するために、サーゼクスは月に2,3回のペースで翔に依頼を出してくる。
そして、黒歌に恋人を1人で危険に向かわせるようなことをする気はない。黒歌はそういう依頼では翔についていき、そして手助けをするのが毎回のこととなっている。
今回もその類かと思っていると、翔の口から犯罪者の詳細が話された。黒歌はごくりと生唾を飲み込む。
『その犯罪者の名前はチチオ=モンデヤル。
「にゃっ!?」
身構えていた黒歌はその馬鹿らしさに思わず転げてしまった。
「ってふざけているのかにゃ!?」
『それが本当のことらしい。余りにも鮮やかな手並みに
「な、なんなのにゃ、その馬鹿らしすぎる2つ名は・・・。」
黒歌が思わず脱力していると、周囲の喧騒がより一層大きくなる。いや、今までも同じ大きさだったが、脱力したことで黒歌の耳に入ってくるようになったようだ。
「ちょっ!ブラジャーが無いんだけどっ!?」
「私も!??」
「ちょ、下着泥棒!??」
その他にも聞こえてくる数多の被害報告。・・・どうやら、この更衣室を使用していた全ての女性のブラジャーが盗まれているようだ。
その声に嫌な予感を盛大に刺激された黒歌は自分のロッカーを思いっきり探ってみる。かばん、シャツ、スカート、パンティー、靴などが見つかっていくが・・・。
瞬間。黒歌から膨大な動の気が溢れ出す。その圧倒的な威圧感に周囲に居た女性たちも思わず黙り込み、黒歌の方を注視した。
翔の方でもその気を感知したのか、焦った様子の声は電話口から聞こえる。
『ちょ、黒歌さん!?漏れてる!?動の気が漏れてますって!?』
「・・・た。」
『え?』
「だからっ!!私のブラジャーも盗まれたのよっっ!!!」
『・・・何だって?』
隣の男子更衣室から一瞬だけ怒気が伝わってきて、そして次の瞬間には収まった。どうやら黒歌の報告を聞いて翔が怒り、しかし静の武術家であるため一瞬にしてその感情を飲み込んでしまったようである。
しかし、それでも尋常ではない静の気が隣から感じる限り、翔の怒りも相当であるらしい。今ここに2人の気持ちは完全に一致した。
「『よし、殺そう。』」
それでいいのか活人拳!!
ともかく、ここに1人の犯罪者の末路は決定した。
◇◇◇◇◇◇
ジョージ=フォアマンは基本的には賞金稼ぎをしてお金を稼いでいる。つまり、不定期に仕事をして、その調査や後始末で追われている時間以外は全て休みということだ。
仕事成功率が高いジョージは結構余裕を持って仕事をして、貯蓄などもしているためにお金はある。休みの日もかなり多く、この日もそんな休みの1日だった。
今日は何して過ごすか、ということで悩みはするが、その為の趣味を結構作っているジョージは時間を潰す事柄に困りはしない。
今日は上級の魔術理論書を読みふけって時間を潰している。何とも心休まる穏やかな休日だ。
(ああ、素晴らしい。この平穏。やはり俺の人生はこうでなくては。)
そうしてまったりしていると、ジョージの携帯に着信が。その着信音を聞いて思わずゲンナリとする。
その着信音が示すのは2人のみ。そしてそのどちらもがジョージの平穏を悉く潰していくジョージにとっての天敵であり鬼門である。
(く、出たくねぇ。でも出なかったら後で面倒なことに・・・。)
しばらく考えた末、後の平穏を優先したのか出ることに。そのディスプレイに表示されている発信者は糞猫。それを見たジョージの顔はかなり嫌そうに歪み、電話に出る。携帯の操作速度の遅さが何よりも雄弁にジョージの心境を表していた。
「はい、こちらジョージ。」
「5分以内にこっち来い。」
「・・・・・・・・・っは!?」
開口一番のあまりにも横暴な一言に思わず思考が飛んでいってしまったようだ。何とか現実への帰還を果たしたジョージは文句を口にした。
「ふざけんな!!何で俺が!!」
「いいから。」
「いや、だから!!」
「早く。」
「せめて理由を!!」
「来い。」
「・・・はい。」
「5分以内な。」
ピっ。ツーツーツー。
通話が切れた電話の、その音が何だか物悲しさを感じさせジョージは泣きたくなった。
「グッバイ、平穏なる毎日・・・。こんにちは、胃薬が友達の日々・・・。」
ジョージは転移とタクシーを駆使して何とか5分以内で着くことが出来た。でも何にも嬉しくなかった。
◇◇◇◇◇◇
チチオ=モンデヤルは上機嫌だった。その理由はその手に握るかばんの中に入っている。
(フヒヒ・・・大漁大漁。)
今回のチチオの犯行は何と大胆にもプールの更衣室に入り込んでの下着泥棒だ。しかもブラジャーのみである。
チチオはその神器を駆使して様々なことをシテきた。自らを透明にしての覗き、痴漢。服を透明にしての猥褻物陳列。扉を透明にしてのピッキングを利用した不法侵入に下着ドロ。
今回は体を透明にして女性更衣室に侵入。扉を透明にして使用しているロッカーを特定。鍵の外側を透明にして鍵の構造を把握しそして磨いた腕を使ってのピッキングをつかってロッカーを開けてブラジャーのみを拝借したというわけだ。
(フヒ、今回は当たりだなぁ。)
チチオは今回、使用している全てのロッカーからブラジャーを盗んだが、やはりチチオにも好みがある。今回は大分女性のレベルが高かったのでチチオもご満悦だ。
(フヒ、あの黒髪に白のビキニを着たナイスバディーなお姉さん。・・・恋人がいたようだけど、彼女が使っていたブラジャーを手に入れたってだけで、僕は、僕はもう・・・!!)
恍惚とした表情でプルプルと震えるチチオ。その様はかなり気持ち悪かったが今彼は自身を透明にしているので彼に気づくものは居なかった。
そうやって満足感に浸っている彼は気づかなかった・・・。自分が己の死刑執行書にサインしてしまったということを。
そう、いつも通りなら彼は無事だっただろう。・・・だが彼は知らなかった、今回の被害者の知人に、
ドドドドドドドド・・・。
まるで猛獣の群れが走っているような轟音が聞こえてきたことでチチオはその存在に気づいた。
(何だ?っひ!?)
その轟音を立てるものの正体はものすごい速度で走っている黒髪の女性だ。遠くからでも感じる怒気が、その女性が怒っていることを如実に示している。
チチオはもしかしたら自分の犯行がばれたんじゃ?と恐怖したが、直後に自分が今透明になっていることを思い出し安堵の息を吐いた。
(大丈夫、僕は透明になっているんだ・・・。
人、それをフラグという。
再び前を向いて走り出したチチオの前の地面に影が浮かぶ。それを見たチチオはその正体を見ようと後方を見上げて、その顔に靴がめり込んだ。
「ティオティトラチャギリィィィーーっっ!!!」
「ぶへぇぇぇぇええええ!??」
空中で綺麗に回転して、遠心力が乗りに乗った後ろ回し蹴り。そのあまりの威力にチチオが宙を舞い、そして10メートル以上は吹き飛んだ。
その様子を見てもまだ怒りが収まらないのか、フーッフーッと息を吐き出しながらチチオに近寄るその女性。ぶっちゃけ黒歌が口を開いた。
「安心しなさい。殺しはしないわ・・・。」
「ヒッ!?」
その声を聞いてチチオはむしろ恐怖を覚えた。・・・何故殺されないと聞いてこんなにも恐怖する?震えがとまらない?
その答えが黒歌の口から放たれた・
「むしろ、生かし続けてずっと地獄を味合わせてやるから♪」
「ヒイイイィィィィィィ!?!?!?」
その言葉にチチオが逃げようとするが、・・・全ては遅かった。
「乙女心を弄んだ報い、しかとその身に刻み込みなさいっ!!」
「ぎゃあああああああああああああああああああああっっ!!!!」
黒歌の強烈な蹴りが放たれる。何度も、何度も、何度も・・・。しかし、チチオが死ぬことは無い。それほどまでに精密な力加減をしているからだ。
それを遠くから眺めるジョージは、しかし相手に同情する気は一切湧かなかった。・・・全ては黒歌を敵に廻した自業自得である。
そうしてしばらく蹴っていた黒歌が、一際大きく蹴り上げた。そして自身も大きくジャンプしてチチオのところまで上昇する。
足を大きく振り上げる。柔らかな股関節により上下に180度開脚する様は美しく感じられたが、まるで死刑囚の首を刎ねるギロチンのようにも見えた。・・・実際、そう間違ってないだろう。
「チッキ!!」
そのまま足が見えなくなるほどの速度で振り落とされた踵は、チチオを地面に叩き落した。
空中に飛び上がっていた黒歌はフワリと着地すると、まるで養豚場の豚を見るような目でチチオを見たあとにその脳内裁判の判決結果を告げた。
「判決!死刑!!にゃ!!」
そう言ってジョージと翔の方に振り返った黒歌はそれはそれはイイ笑顔だったという。
◇◇◇◇◇◇
チチオ=モンデヤルをジョージに託した後にジョージが今回盗んだブラジャーをプールのサービスセンターに届けた2人は、帰路についていた。
手を繋ぎながらも今回のデートの感想を言い合う様は、何とも中睦まじい恋人そのものだ。
「はぁ、折角のデートなのに最後にケチがついたにゃぁ。」
「まぁ、あんな騒動に巻き込まれるってのが、ある意味僕ららしいって言えばらしいけどね。」
「そうだけど、デートくらいは普通に楽しみたいにゃ。」
「それもそうだね。」
家の最寄り駅からの道を歩いていく。もうすぐこのデートも終わりに近づいている。住んでいる家が同じだからいつでも一緒に居られるとはいえ、なんだか祭りが終わったあとのように寂しい気分が湧き上がってくる。
楽しい時間はすぐ過ぎていくという言葉どおりに、すぐに家に到着した2人翔が鍵を開け、家に入ろうとしたとき黒歌が話しかけた。
「翔。」
「?何かな、黒歌さ」
チュッ
話をするために振り向こうとした翔の唇に触れる暖かい感触。目の前いっぱいに広がる黒歌の顔。それらを認識した瞬間翔の思考は停止した。
5秒か、10秒か、あるいは1分か。ともかく翔にとっては永遠にも感じられる時間のあと黒歌が離れた。その顔は赤くなっているが上機嫌そうだ。
「ふふっ。私がいくら誘ってるのに翔が乗ってこないから、私からすることにしたわ。一応、初めてなんだからね?」
そう言って黒歌は家に入っていく。しかし、翔は思考停止から回復することは出来なかった。
その後、1時間後に母親が料理が出来たことを伝えに来るまで、翔は固まり続けていたのだった。
おまけ
その長い黒髪に黒の瞳、そして黒スーツを来た全身黒ずくめの男は至極真面目な様子で問いを投げかけた。
「すみません。よく効く胃薬ってありますか?」
頑張れジョージ=フォアマン!君の胃痛がなくなるその日まで!!
副題元ネタ・・・To loveる
甘いデート回に出来てたでしょうか?今回のために恋愛小説とか呼んでみたんですけど。