サトシ「幕末以降の日本史もわかんねえ!」【解説】 作:ぽかんむ
スイレン「今回は幕末! 長かった武家政権にもついに終わりの時が近づいたね」
サトシ「やるぞ!」
スイレン「どこから話せばいいのか迷うけど......1844年にオランダ国王が日本に開国を勧めた。理由はお隣の清(中国の王朝名、当時東アジア最強)がアヘン戦争でイギリスにぼこぼこにされたから」
マーマネ「しかし幕府はこれを拒否!」
リーリエ「一応天保の薪水供給令を出したりはしていましたけどね。これはそれまでに存在した異国船打払令を取っ払って、漂流した外国船は助けましょうというものです」
カキ「更に1846年にアメリカのビッドルが浦賀に来て開国を要求したが、これも日本は拒否した」
マオ「そんななか、満を持して彼が現れる。1853年、アメリカ東インド艦隊司令官のペリーが軍艦四隻を引き連れて浦賀に来航。世に言う黒船来航だね」
スイレン「この頃に流行った歌にこんなのがあるよ。"太平の眠りを覚ます蒸気船 たった四杯で夜も眠れず"蒸気船と上喜撰(お茶)をかけていて、上等なお茶のせいで夜眠れないのと、黒船のせいで夜安心して眠れないという意味だよ」
マーマネ「これに対して幕府は、翌年までに答えるからと約束。時間稼ぎをしたわけだね。そして時の老中であった阿部正弘は当時としては異例なことをしたんだ」
サトシ「異例? なんだろう?」
スイレン「彼は朝廷や緒藩の大名、幕臣にこの事を相談して意見を求め、挙国的に対策をたてようとしたの。そして幕府の独裁が揺らいでいった」
マオ「そして偶然にも同年にロシアからもプゥチャーチンが長崎にやって来た。こっちも同じように"来年までに答えるから"と時間稼ぎしたよ」
リーリエ「そして翌年の1854年に日米和親条約が締結されました! 中身は下田と函館の開港、アメリカを片務的な最恵国待遇、下田にアメリカ領事を置くなどです」
サトシ「ごめん、言ってる意味がわからん」
カキ「まず開港だが、これは貿易ではなくこの二か所の港でアメリカの船が、薪水、食料、石炭などの補給ができるということだ」
スイレン「片務的な最恵国待遇だけど、片務的とは一方的なって意味。最恵国待遇は簡単に言うと......?」
マオ「例えば私がスイレンから方務的最恵国待遇を与えられているとする。そして私とスイレンとの間で"スイレンは登校するときに週2回私をおぶっていかなくてはならない"と約束してたとするよ」
マーマネ「だけどこのあとに僕とスイレンの間で"スイレンは登下校するときに週3回僕をおぶっていかなくてはならない"と約束したとする。つまりマオより僕の方が有利な待遇だよね。するとマオも僕と同じ約束に変わるんだ」
サトシ「なるほどな......でもそれだとスイレンは週に1回、二人も背負って登下校しなきゃならないな」
リーリエ「一方でロシアのプゥチャーチンも下田に再来、そして日露和親条約が結ばれました。こちらの中身は下田、箱館、長崎の開港、国境を択捉島より南を日本領、ウルップ島より北をロシア領、樺太は両国人雑居─日本人もロシア人もいてよい場所─となりました」
カキ「1856年にはアメリカ人のハリス(アメリカ初代総領事)が下田に着任、条約の交渉が始まった。当時の幕府の老中・堀田正睦は条約を結ぶために勅許(天皇の許可)を求めたが、孝明天皇はそれを拒否した」
マーマネ「しかーし! その後、大老となった井伊直弼は勅許を得ないままある条約を調印したんだ。時は1858年、その名は日米修好通商条約」
スイレン「神奈川条約とも呼ばれている。中身は神奈川(後に横浜に変更)、長崎、新潟、兵庫の開港、江戸・大阪の開市、領事裁判権の承認、関税自主権の欠如。後者二つは明治後期まで引きずることになる不平等条約だよ」
カキ「後にオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を結んだ。それぞれ日蘭修好通商条約とか、日露修好通商条約、日英......のような感じだ」
リーリエ「正確にはフランスだけ他の国より少し遅いんだけどそれはいいでしょう。これらは安政の五カ国条約と呼ばれております」
スイレン「1859年には横浜、長崎、箱館で貿易が開始された。主な相手国はイギリス、主な貿易港は横浜、貿易は港の中の居留地で行われた」
カキ「日本の主な輸出品は生糸、茶、蚕卵紙などの原料や半製品。一方で輸入品は毛織物、綿織物、軍需品などといった工業製品が多かったな」
リーリエ「その結果大幅な輸出超過となってしまい、国内は品薄に。そして物価が上昇しました」
スイレン「そしてそれを何とかするために出されたのが、五品江戸廻送令。五品とは雑穀、水油、ろう、呉服、生糸。江戸問屋の保護と流通を規制するのが狙いだった」
カキ「そういえば、この頃日本と外国での金と銀の交換レートは違ったんだ。日本は1:5、対して外国は1:15。その結果国内の金がどんどん外国にいってしまった」
マオ「この頃の日本は金がよく取れたからね」
マーマネ「幕府は金の質を落とした、万延小判を鋳造したのだけど、さらに物価が上がってしまったんだ」
マオ「あとは......1860年に新見正興が渡米、それから幕臣・勝海舟等が咸臨丸でアメリカに行ったんだ! 一万円札で有名な福沢諭吉もこの船に乗っていたよ」
マーマネ「1866年の関税約書により輸入税が引き下げられた。それによりこれまでは輸出超過だったのが一気に輸入超過になってしまった」
スイレン「さて、次は近代化をするために幕府がしたことを挙げるね。まず江戸に開成所(蕃書調所から改名された)を建てた」
マーマネ「これは洋学について教育する機関。
それから砲術・洋式訓練を教えるための講武所も作られた」
カキ「長崎には海軍伝習所ができた。勝義邦・榎本武揚が参加したぞ」
マオ「そして横須賀には横須賀製鉄所が作られた」
リーリエ「福井藩では政治顧問の横井小楠が藩政改革を行いました。彼は開国・公武合体を主張しました。公武合体についてはまた後程ご紹介します」
リーリエ「薩摩藩では藩主・島津斉彬が藩政を改革しました。具体的には集成館の設置などです」
スイレン「それから肥前、薩摩、水戸などで反射炉(大砲を作る施設)が建設されたりした」