世間一般において火竜といえば、あらゆる物語に登場するほどに有名なモンスターである。しかし、その名の普及率に反して実物を見たことがある人はほとんどいない。個体数の少なさや、そもそも人の暮らしと関係が薄いなど理由は様々。
そして、あの恐ろしく強大な竜を本気で見てみたいなどと思う人間も極々小数である。出会ってしまったが最後、高火力でウェルダンに焼かれ美味しく食べられてしまうことは想像に難くない。
幸い火竜らも人にはそこまで興味がないようで、お互いに不干渉の平穏は保たれている。村が襲われるなんてことはそれこそ物語の中だけの話である。現実の火竜はその見た目同様、王者のごとく雄大かつ悠々と生きており、アプトノスなどの草食竜と比べて可食部が少ない人間をわざわざ狩りはしない。
生態系の王である彼らにとって危険と呼べるものはおらず、従ってランポスら小物のようにやたらに騒ぎ立てたり喚き散らすような品のない真似はしない。する必要がない。
もし仮に、食物連鎖の頂点に君臨する火竜が雄叫びを上げる局面があるとすれば、それは繁殖期における求愛戦争が起こったか、或いは、彼らの生を脅かすほどの危険因子が近くにあるかの二択となる。どちらにせよ人とは関わりのない、稀有なものだ。
ましてや火竜の出現報告すらない場所でその咆哮を聞くだなんて、到底あり得ることではない。
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夜闇を引き裂くように鳴り響いた雄叫びに、カルロは飛び起きた。
完全に眠っていた状態から臨戦態勢で外に転がり出るまでを一秒で済ませる。
岩壁に囲まれたキャンプ地からでは周りの様子は分からないが、カルロは先ほどの咆哮が夢の中のものではなく、現実に起こったことなのだと断定していた。
カルロと同じテントで寝ていたハンターの三人が彼のあとに続いて出てくる。
「なんだってんだ、一体」
一人が混乱した様子でカルロに尋ねる。カルロがなにか言おうとするが、それよりも早く再び爆発的な咆哮が大気を揺るがした。
この依頼の中心人物であるアニータも大慌てで専用のテントからパジャマ姿のまま駆け出してくる。動揺するあまり足がもつれて転びそうになるのをカルロが受け止め、そして深刻な表情で告げた。
「火竜だ。それも、激怒している」
事態がまだ飲み込めないのか唖然としている周囲を見回してみる。アニータさえすぐに外へ出てきたというのに、彼女の執事と護衛兵たちの姿がない。彼らが寝ているはずのテントを開けてみるが、そこには人の気配すらなかった。
「こいつら、どこに行ったんだ」
寝床が冷たく、しばらく前から不在だったことを確認しつつ、カルロが呟く。
ハンターチームのリーダー格がそれに答えた。
「俺が最後に見たのは、火の番を変わったときだ。護衛兵のやつらが起きてきてな。代わらせてくれって言うんで、お言葉に甘えて俺らも寝させてもらったのさ」
カルロはキャンプ場の中心で焚いている火を見た。消えかけで、燃えカスに僅かな赤い光が残り燻っているだけだ。彼らがいなくなってから結構な時間が経っているらしい。
アニータが何か言おうと口をパクパクとさせる。しかし言葉にならない。事態は彼女の常識を遥かに上回っていて、少女に処理できるものではなかった。
そんな彼女を座らせて、カルロが言った。
「火竜の咆哮といい、明らかに異常だ。俺が様子を見てこよう」
「一人で大丈夫かい」
リーダー格の男にカルロは頷いて見せる。
「むしろ動き回るのは俺一人の方がいい。お前らはここでそいつを守っていろ」
カルロが顔色を蒼白にさせて震えているアニータを顎で指す。ハンターの三人は二つ返事で了承した。
「それから必要な荷物をまとめておけ。いざってときに、すぐに逃げられるようにな」
いざってとき。
それが具体的に何なのかは、アニータには想像がつかない。しかし彼女でさえも、その時は自分の命がいつ散ってもおかしくないのだろうと予感した。
カルロはただ怯えるだけの依頼主に歩み寄り、片膝を地面につけて彼女と目線を近づけた。近づけてなお数十センチもある背丈の差は埋まらず、アニータは空を仰ぐようにカルロを見上げる格好になる。
少女は今にも泣きそうだった。純粋無垢な瞳が溜め込んだ涙で潤んで、自分を覗きこむ大男を映している。わけの分からぬ状況の中ですがるようにカルロを見つめる少女は「置いていかないで」と言っているようであった。
カルロはらしくもなく罪悪感に躊躇ったが、踏ん切りをつけてアニータにあるものを手渡した。
「お前は武器なんて持っていないだろう。困ったらこれを使え。導火線に火をつけるだけでいい」
アニータの両手には、紐付きの小さな球体が四つとマッチの箱が乗っている。ハンター御用達の音爆弾と煙玉だ。
適切に使う自信などアニータには無いが、渡されたこれは、彼女の心細さを僅かにでも和らげようとしたカルロの思いやりだ。
何の可愛らしさもない使い捨ての道具。しかし無愛想な男の気遣いとしては妙に似合っている。アニータは「大切にします」などと本末転倒なお礼を言った。
「咆哮は森の奥から聞こえてきた。まずはそっちに向かって火竜の様子と爺さんたちの所在を確かめてくる」
そうしてカルロは松明をかざして、夜の森へと駆け出した。
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森丘の森部分を担うシルクォーレは樹海のような様相をしている。磁石を狂わせる磁場などは持たないが、その迷宮ぶりは幾人ものハンターたちを泣かせてきた。
カルロはそんな森を、闇の中でも迷わず進んでいく。松明の火に足元を照らされているとは言え、地図を頭に叩き込んでいるとは言え、夜の密林を鹿のように軽やかに駆けることは並大抵のことではない。
三度目の雄叫は聞こえてこなかった。火竜への驚異は過ぎ去ったということか。だが情報が何もかも足りていないカルロは発端の地に行き確かめるしかない。
カルロには火竜がいる場所の検討が付いていた。雄叫びが聞こえてきた方角は森の奥地、ベースキャンプからでもその頂上が見える、この辺りで一番高い岩山だ。その中にはベースキャンプとは比べ物にならないほどの規模の洞窟があるという。そこに火竜が居を構えている可能性は非常に高い。
しかしなぜギルドは『危険生物の報告なし』などという情報を寄越してきたのか。火竜なんて一級の危険を見逃すなどと、彼らの仕事ぶりはそんなにザルだっただろうか。これではもう、ギルドから離れてG級の称号も返還してフリーのハンターとなる方が良いのかもしれない。
そんなことを考えて走っていれば、森を抜けて岩山に続く丘を登るところまで来ていた。ここからは山の中腹辺りも見えて、火竜の巣があるだろう場所の周りも様子を見るくらいならできそうだった。
実際に岩山まで行き、巣を覗いてみようなんて気は全くない。いくらG級でも火竜と何の準備もせず出会すなんて、自殺行為だ。交戦だけは絶対に避けなければいけない。
目をつけられまいと松明を消し、雲の合間から覗くうっすらした月明かりで観察しようとする。
その時だった。
何かがこちらに近付いてくる気配がする。夜の暗がりで輪郭がボヤけた影が、しかしはっきりとカルロに向かって歩いて来ているのが見えた。
それはどう見ても人間であり、さらに近寄ってくれば、その人影はカルロが探していた者であった。
「おやおや。お早いお着きですな、カルロ様。さすがはG級ハンターでございます」
闇の向こうから現れた人物、リオハート家の執事が温和な口調でカルロにそう言う。
彼が生きていることに一瞬安堵したカルロだったが、そのすぐあとに疑問を持った。
「あんたか。無事そうでなによりだ。それより、こんなところで何してるんだ。五人の兵士どもは何処にいる」
こんな真夜中になぜ外に出て、森を抜けたところまで来たのか。その疑問は当然、キャンプ地を出発する前からあった。
彼らが何らかの用で連れ立って外出し、火竜に襲われたという最悪の展開までは予想していた。執事がこうして一人で現れたのは、護衛兵たちが火竜の餌食となったことを示しているのかとも思った。
しかし、執事の態度は実に穏やかで、火竜に襲われた様子は一切ない。それなのに護衛兵の姿は見えない。
よしんば執事と護衛兵たちが全く別の意図で別々に行動していたとして、それでも火竜の咆哮を聞いたであろう執事の落ち着きぶりは異常に思えた。一般人にとっては未曾有の恐怖なはずだ。
不可解に不可解が重なり、事態の真相を謎に包んでいる。カルロはきな臭さを感じていた。
「彼らですか。そうですねぇ、そのこともお伝えしなくてはなりません。ですが、まあまずは一つ、ビジネスについてお話ししましょう」
執事は明朗な声で、要領が掴めぬことを言う。
カルロが何も言わず執事の様子を伺う一方、執事は一呼吸置いた後、まっすぐカルロの目を見た。
「契約を変更しませんか」
「......なんだと?」
聞き返すカルロに、執事は話を続けた。
「ですから、契約の変更でございます。現在カルロ様が受け持っているお嬢様の護衛という契約を取り止め、私と新たに契約を結んでほしいのです」
何を言っているんだこの爺は。
その思いを全面に出してカルロは言った。
「意味がわからん。一体、何の話だ」
具体的に言えと睨み付けるカルロに対して、執事の姿勢は変わらない。むしろより笑みを深くした。
「ふむ、以外に察しが良くありませんな。あまり品性を損なう言い方をしたくはないのですが、仕方ありませんね。率直に申し上げます。
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時は遡り、まだ真夜中のキャンプ地が平穏で満たされていたあたりのことである。
護衛兵たちが、火の番をしていたハンターに代わる旨を告げ、火を取り囲むようにして座っていた。
「感心ですな、皆さん」
彼らに続いてテントから起き出してきた執事が言った。護衛兵の一人が苦笑する。
「あなたが提案してくれたのではないですか。皆で火を守るべきだと。こんな大人数でやることでもないでしょうがね」
「いえいえ。一人では心細くなりますよ。さっ、せっかく男だけで火を囲んでいるのです。お嬢様の前では出来なかった話などもここでは許されますよ」
愚痴とかね。
執事がそう言ったのを皮切りに、護衛兵たちのお喋りは段々と盛り上がっていった。アニータの眠りを妨げぬよう小声ではあるが、日頃の鬱憤から始まり、ちょっとした下世話ネタまで話し合う。
しばらくそうしていて、護衛兵の中でも一際真面目な兵士が眉をつり上げて呻いた。
「しかし、なんなんだあいつは。あのカルロとかいう、お嬢様が雇われたハンター。何様なのだ」
酒で少し酔っているようで、顔が赤い。彼に同調するように他の者も愚痴をこぼす。
「まったくだ。G級だからって、偉そうに」
「ありゃならず者の類いと一緒だよ。粗雑な振舞い、お嬢様に対してもあの無遠慮な話し方。忌々しい限りだ」
「料理は美味かったけどさ」
「お嬢様も我々がいるというのに、何故あんな者を選んだのかなぁ」
不平不満は言い出せば歯止めが効かない。
それもそのはずで、彼らは今日、何一つ仕事らしい仕事ができなかったのだ。お荷物の自覚が芽生え始め「何故俺たちはここにいるのか」と歯軋りを立てていた。
さらにはアニータがカルロにくっついて離れず、なんでもかんでも頼っている様が面白くないのだ。蚊帳の外に出されるというのは辛いものである。
そんな護衛兵たちの鬱憤は溜まりに溜まり、その矛先は嫉妬と一緒にカルロに向けられた。とにかく、蔑ろにされている自分達の立場が気に入らなかった次第である。
カルロの悪口を羅列する護衛兵たちに微笑んで、執事は話に割って入った。
「皆さん、相当腹に据えかねているようですね」
「当たり前ですよ。あんな鼻持ちならない奴はいません」
しばらく間を置いて、執事が「そうだ」と人差し指をピンと立てた。兵士らは自然とその先に注目する。
「良いことを思い付きました。ねえ皆さん、名誉挽回のチャンスです」
劣等感の塊となっていた護衛兵たちは、執事のもたらした垂涎の話に積極的に耳を傾けた。
執事の言う策とはつまり、以下のことである。
「いいですか。このまま普通にキャンプを過ごしてしまっては、お嬢様の中でのあなた方の存在価値は朝靄のごとく霧散してしまうでしょう。しかるに、逆転の手を打たねばなりません」
「そんなものがあるのですか」
「ありますとも。実は私が密かに入手した情報によりますと、この森丘にそびえる岩山には、かつて火竜が住み着いていたらしいのです。ギルドの報告では現在はいないようですが、そこには彼らの生活の痕跡が残っていることでしょう」
「ふむ。それでどうするのです」
「察しが悪いですねえ。火竜、それも巣を守るならば雌火竜リオレイア。その鱗が落ちている可能性が高いのですよ。やるべきことは一つでしょう」
何人かが「おおっ」と感嘆の声をあげる。
「リオレイアと言えば力の象徴。我らがリオハート家の家紋にもなっています。お嬢様も、そんなモンスターへの興味は大変強く持ってらっしゃいます。もし、この度リオレイアの鱗を貢げたのなら、必ずやあなた方の扱いは一変することでしょう」
護衛兵たちはこのトレジャーハント計画に唸った。
確かにそんな素晴らしい贈り物さえあれば、あのネームバリューで良い気になっているカルロめをギャフンと言わせられるに違いない。
色めき立つ護衛兵たちに執事は最後の発破をかけた。
「それでは、善は急げ、今から行きましょう」
「ええっ、今からですか。さすがに性急すぎるのでは」
「昼間ではカルロ様の目があります。私たちが勝手に遠くまで足を伸ばすことは許さないでしょう。彼を出し抜く必要があるのです」
明日がどうなるかなど分からん。好機はすぐ目の前にある。
そんな風にして口先のみで護衛兵たちを束ね、執事は雌火竜の元住処である岩山への案内を開始した。
それから多大な時間と労力をかけ、森を抜けて岩山をよじ登った。途中で落ちそうになったりもしたが、若く体力もあった彼らは助け合いながら進む。
老人と言って差し支えない執事は先頭に立ち、一人で難なく目的の山頂に辿り着いた。
「さあさあ。お入りくださいな」
「わっ、わっ、押さないでくださいよ」
不気味に大口を開けている洞窟に躊躇う兵士たちの背中を執事が押す。松明を持った五人は、暗がりに怯えながら固まって進む。
そして暫く進み、足元を見て歓声を上げた。
「う、鱗だ、ほら!」
「おおおっ、なんとも頑丈だな。これが火竜の鱗なのか」
「見ろっ、奥に行くほどたくさん落ちているぞ」
護衛兵たちは四つん這いになり、地面を舐めるようにして鱗を夢中で拾い集めていった。もはや前は見ず、ひたすらお宝探しに執心する。
アニータへの貢ぎ物としてはもちろんのこと、火竜の鱗はその一枚を持って帰っただけでもまとまった金になる。目の前に金貨が散らばっているような状況に彼らは血眼になった。
そうして奥へ奥へと這って行き、そこかしこに鱗が落ちている場所まで来た。
「おい、なんだか随分温かいな」
真面目な一人が言った。
「そうかあ?あまり変わらない気もするが」
「風がないからだろ」
「いや、確かに洞窟にしちゃ温かいぞ」
そんな会話をする護衛兵たちの後ろから風切り音と共に何かが飛来した。振り向くより早く、それは彼らの脇を通り抜け、暗闇にぶつかった。
ぶつかると同時に小規模な爆発が起きる。
火薬の臭いが立ち込め、その爆発が人工のものであることを示した。
何事かと護衛兵たちが慌てたその時、洞窟内の温度が明らかに上昇した。
どんより覆っていた雲が晴れていき、天井に空いた穴から洞窟内へ月明かりが差し込む。
そして彼らは畏怖と驚愕に目を見開いた。
火竜が以前住んでいただなんて、とんでもない。それならば鱗が誰にも採られず手付かずのまま放置されているのは不自然過ぎたのだ。
薄い月光に、現役の鱗がきらめく。荘厳な二つの瞳は、強かに侵入者を見下ろしている。爆発物を突然叩き付けられた“彼女“にとって、目の前にいる有象無象の人間どもは、文句なく我が家を脅かす敵である。
雌火竜リオレイアが咆哮をあげた。
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執事の口から語られた話を、カルロは苦虫を噛み潰したような気持ちで聞いていた。
淡々と語る執事には仲間を失った悲しみも、化け物に襲われた苦しみも見られない。まるで予定通りと言わんばかりの態度である。
「なぜ、そんなことを」
カルロの質問に、傷を負うどころか服さえほとんど汚れていない執事が、穏やかな笑顔を全く崩さずに答えた。
「もちろん邪魔だったからです。それに、彼らも亡くなった方が後々の言い訳がしやすいのですよ」
邪魔と言ったか。
カルロの背筋に冷たい汗が伝う。少しずつ話の整合性を取るうちに、最悪の予想が首をもたげてくる。
それを表情には出さず、あくまで冷静に話を続けた。
「それだけのために、随分と回りくどい手を取ったな」
「一石二鳥でしたので。彼らを退場させるにも、それなりの舞台は必要でしょう。それに、あなたはこうして、お嬢様から離れて来てくださった」
疑心が膨れ上がる。執事が投じた一石によって落ちた鳥は二つ。護衛兵たちと、そしてカルロだ。
アニータとカルロを引き離すことの意味。不可解な出来事。執事の暗躍めいた行動の正体。それらの辻褄を合わせた先にある答えは一つしかない。
「......今回のキャンプを企画したのは、確かお前だったな」
「はい」
「お前が雇った三人のハンター。依頼書にあった日付では、奴等とけっこう前から連絡を取っていた」
「そうですな」
「この森丘を指定したのもお前か?なら、不可解な出来事は全て……」
「その通りです」
執事、もとい老年の暗躍者は躊躇うことなくあっさりと肯定していった。
カルロの疑念が確信となる。やられたと思うには、もはや遅すぎる。キャンプ地へ、アニータのもとへ駆け戻りたくなる衝動を押さえつけるのに多大な精神力を必要とした。
「目的はなんだ。誘拐して、身代金でも稼ごうって魂胆か?」
淡い期待を持って問いただす。誘拐ならば、少なくとも命は繋がっている。まだ何とかなる道もあるかもしれないと、そんな蜘蛛の糸にしがみつく気持ちで言った。
しかし老人は首を振り、今度はカルロの言葉を否定した。
「誘拐ですか。残念ながら、違いますな。人質を取れるような仕事でしたら、こんな大それた仕掛けなど必要なかったのですが」
一縷の望みを絶たれて顔をしかめたカルロに、老人は語りかける。その笑顔は穏やかだったものから、だんだんと深くなってきている。
「後ろめたさは無いのか。相手は少女で、しかも長年仕えてきた人間だろう」
「どうでしょう。少なくとも、リオハート家に仕えてきたのは今日のためです。貴族と水面下の抗争は切っても切り離せません。跡取りを絶って衰退させるなんて、いつの時代も使われる常套手段でしょう」
カルロが押し黙る。
「カルロ様は聡明でいらっしゃいますから、もうお分かりですよね。すでに、あなたのクエストは失敗しているのです」
護るものもないのに強情を張ってどうするのだ。老人は言外に告げていた。
「さあ、決めてください。この件を口外せず、私共と口裏を合わせていただくだけで結構なのです。当然、世間からの風当たりはありますが、このまま帰るのと、情報を操作して被害を減らすのとでは雲泥の差がありますぞ。もちろん契約ですので、こちらから謝罪も含めた報酬を弾みましょう」
あなたには、メリットしかないはずです。
老人はそう締め括ってカルロの反応を待った。それ以上急かすこともなく、悠然と大男の答えの行く末を見守っている。
カルロはしばらく黙ったままだった。単に迷っているだけなのか、それとも、メリットについて思案しているのか。
強い風が吹いた。背丈の低い草木を煽り、巨体のハンターと老年の暗躍者の間を荒涼と吹き抜けていった。
「断る」
カルロの答えに、老人は一片も動揺は見せない。むしろ面白がるようにさらに笑みを深めて「何故です」と聞いた。
「俺をお前らの基準で測るな。メリットだなんだと小賢しくて反吐が出る」
侮蔑のこもった啖呵を受けて、老人は手を叩いて褒め称えた。執事が仮の姿であるにも関わらず、実に優雅な仕草である。
「さすが、さすがは孤高のカルロ様。一人の男として尊敬申し上げます」
そして拍手の余韻を残したまま、右手を外套の中に入れる。
「しかしながら現実として、契約を結んでいただけなければ、私はあなたの敵にならざるを得ません。あなたを始末するのは骨が折れそうですから、避けたかったのですがね」
懐から取り出した手には銃が握られていた。ハンターが使うボウガンを極限まで軽量化した、片手でも取り回せる代物。その射線がカルロの額にぴたりと合わせられ微動だにしない。
カルロは大嫌いな道具を見て眉間にシワを作る。人間同士のいさかいにしか役に立たぬ物なんて、唾棄すべきだと思っていた。
銃口が向けられても動じることもなく、敵となった老人を睨み付ける。
「私が連れてきた三人は、この手の仕事に秀でています。無論、私も。四人の暗殺者から逃げ切る自信はおありですか?」
「返り討ちにしてくれる」
雄々しい即答。老人の笑みは、もはや悪魔的に歪んでいた。
凄い速さで流れる雲に伴い、月明かりが一触即発の二人の上で明滅する。
緊張が最大限に膨らみきり、まさに老人の指が引き金を引かんとした時であった。
「カルロさんっ!」
あり得るはずのない声が響いて、両者を呆然とさせた。それは少女のものであり、既にこの世から去っているはずの声だった。
アニータ・リオハートが息を切らして駆けてくる。
彼女はカルロを見つけた安堵から笑顔になり、その後に、カルロに対して銃を構えている執事を見て、困惑の表情を浮かべて立ち止まった。
判断は一瞬で下された。銃口がカルロから、呆然としているアニータに向く。老人は躊躇せず、すぐさま発砲した。
鮮血が夜闇に散った。