『平和は歌を聴きに来ない』   作:-)

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日常を持つ者たち

揺れる身体に、クリスは目を覚ました。

篭った革の臭いと硝子越しに見えた流れ行く景色に、自分が今車の中にいることを理解した。

両手を組み、両足を絡め、双方向から身体をうんっと上下に伸ばす。胸に押され、首元のギアが少し跳ねた。

 

「おざっす姐さん。お勤めご苦労やんした」

 

運転手が声を掛けてくる。戦場までヘリで送ったのと同じ男だ。

特異災害対策二課の所属となって半月あまりが経過したクリスだったが、未だに彼の名を覚えていなかった。そもそもクリスがここでノイズ退治をするようになってから覚えたことなど、”傷の増やし方”以外では数える程にもないが。

 

「……今何時(なんどき)だ?」

 

「へい、そろそろ21時の飯時って頃合いでさぁ。一応この後に今日の件についてミーティングがありますが……」

 

運転手はバックミラー越しにクリスの表情を見遣る。お世辞にも良い顔色とは言えない。近頃続いた度重なる出動のせいで、あまり眠れていないのだろう。

 

「どうします? ふけちまいましょうか? 司令殿だって」

「タコ抜かせ。そうも行くかよ。アタシの荷物は?」

 

クリスは無下に言い、両手で身を起こし座り直った。所作といい言葉といい、あまりに自分を気にかけていない言葉で、運転手は「席の後ろです」と求められるまま荷物の場所を答えるしかなかった。

座席に手を当て身を乗り出し、指に引っかけ手繰り寄せる。そうして膝へと置いた鞄から、クリスが取り出したるはパックの牛乳にあんパンの合わせて200円ちょっとの夕食である。

 

「姐さんなんかいっつもそれ食ってません?」

「こいつら二つで完全食だ。糖分が頭を、カルシウムが身体を支えてくれる」

 

企業戦士じみたことを言いながらも、あんパンを食み牛乳で流し込む様は年相応の幼さで、運転手は自分の頬が緩むのを禁じ得なかった。

 

「……んだよその顔は」

「いやいや何もねっすよマジで! まぁその超緊急臨時本部までまだちょいと掛かるんで、ゆっくり休んだって下さいよ」

 

クリスの100万ボルトなジト目を受けながらも、ハンドルを握る手に乱れはない。ノリは軽くもプロだった。

クリスは物言いたげにあんパンを一口かじる。と、何かを思い出したようで、慌てあんパンを飲み込み、運転席を掴んで前に身を乗り出し尋ねた。

 

「なぁ、この車ってテレビ見れたか?」

「えぇいけますぜ。エッチデーデーの奴が入ってるんで」

 

応えながら、片手で前席中央の端末を操作する。その間も視線は常に前方を向き続け、車の走りにも一つの乱れさえない。

 

「何見ます? そういや今日の金曜名画劇場は”燃えよNINJA”のデジタルリマスター版が」

「いやそれはいい。確か歌の特番あったろ。それ頼む」

 

ほぅ、と運転手は声を漏らした。

”歌”という点だけ汲めばクリスに縁深いものだが、今日やる歌の特番と言えば、確か今流行りのアイドルやミュージシャンらを中心に扱う番組であったと記憶していた。どちらかと言うと流行を気にかけるミーハー向けの番組である。

運転手がクリスとも組むようになって日は浅いが、彼女から受ける仕事に偏重したストイックなイメージとはあまりそぐわない。

そこまで考えて、運転手は一つの可能性に思い至る。クリスより前に一緒に仕事をするようになった、元気に手足が生えたかのような装者の少女だ。

 

「もしやアレですかい、お友達に勧められでもしたんですかい?」

「友達ィ?」

 

問いへの返しは、予想に反した部分への不審さに満ちたものだった。

思わず二の句が口からついて出る。

 

「えっ、いや、ほらあの立花某ちゃんの」

「あーなんだそっちか……いやあいつもその、友達っつーかなんつーか」

 

そわそわと腕を組んだりそっぽを見たりと、ようやく思い描いていた反応を見られて運転手はホッと息を吐いた。

しかし、クリスの次の言葉にまたも驚かされてしまう。

 

「それにアレだかんな? アタシがあの馬鹿と会ったのって、行動制限解除の時が最後だかんな結局」

「えっ……なんかあったんスか?」

「何かって言うか――」

 

 

果てがない。

これ程の絶望が他にあるだろうか。

この要素一つを加えるだけで、本来幸せな筈な食事でさえも悪夢と化す。

そうであるのに、その果てなき物が自身の天敵となれば、それは則ち――

 

「呪いだ……これは私だけを殺すために在る呪いにあって他ならないぃ……!!」

「まぁ全科目追試なんてさぁ、あんたを置いて他にいないっていうのは事実かもね。いまどきアニメでもないってー」

「しかしまぁついてないよねビッキーも。せっかく無事で帰って来たと思ったら、次の瞬間にはハイ試験だもの」

「ナンデ!? 校舎吹き飛んどいてつつがなく授業進行ナンデ!?」

「あそこにはいなくてもリディアン校歌からのナイスな大逆転を知った生徒は多かったらしいです。その人たちの後押しもあり、一週間足らずで次の校舎の手配から授業の日取りまでトントンと」

「実際あの頃の学校内の学習意欲というか、愛校精神? 色々と半端なかったよねー。何アニメだよこれって感じで」

「そうは言ってもあんなことがあってすぐだし。前期はカリキュラムを少し縮めて、試験も早めて夏季休暇を長めにしようってわけなんだってさ。異例中の異例なもんで外部からは色々言われたみたいだけど」

「ごめんね響……私が試験のこと伝えるのすっかり忘れちゃってたから」

「いやいや未来は何の一つも悪くはなくてですね、じゃあ誰が悪いって言ったらまぁうん3週間ごはん&ごはんだけで過ごしてたワタクシデゴザイマスネハイ。翼さんが何か勉強してるえらいなーと思ってたらアレ試験勉強だったんすねぇ……」

「い、一応他の子よりは追試まで長い時間取ってもらえるんだし、頑張ろ響!」

「よーし、それじゃあごはんの次は数式詰め込みましょうねー」

「その次は音楽史ねー。やったねビッキーさながら満漢全席だ」

「和食が……好きです……」

「それではナイスな日本史を」

「ああああああああああああああああああああ私呪われてるうううううううううううあああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!」

「響……がんばって……」

 

 

「と、いう状況だってのをあの馬鹿のツレのあの娘から聞かされたな。電話で」

「中々どうして大変なんスねあの子も」

「まぁ、らしい苦しみというか、ノイズ相手に戦うよか幾らか健全だろ」

 

 言って、不健全に肩まで使ったクリスはその身を座席に深々と沈めた。呆れた口調、しかしその目に宿った年相応の暖かみを運転手は見逃さなかった。

 テレビでは動画サイトでの活動からデビューしたというアイドルグループが、大縄を飛びながら歌を唄っている。曰く引っ掛かった娘は脱退らしい。

 クリスはその様を手に汗を握り楽しむこともなく、むしろ世の無情を憂うかのように引き攣った表情。やはり、クリスが好き好んでこれを視聴ているといわけでもないようだ。

 

「姐さん、誰か気になるアーティストでもいるんスか?」

「ん……」

 

小首を傾げるようにして、クリスはそっぽを向いてもたれ直した。どうもごまかしているつもりのようだった。

ならば無理に問いただす必要もあるまいと、運転手が考えた時だった。

大縄を歌の最後まで跳びきって抱き合い喜ぶ少女らから場面が変わり、それと同時に空気もまたガラリと変わる。

スタジオ内のオーディエンスらも、先程までの宴会じみた雰囲気と打って変わり、心なしか背筋が伸びている。

その様子に、運転手はピンときた。

なるほど、”今話題”となれば、彼女を呼ばない理由はない。

『一時の休息の後、海外への飛翔を告げて再び姿を隠していた現代の天照が、今再びこの地に降り立ちます!』

 

画面のMCが彼女を語る。その語調には、内で高ぶる熱量と興奮が隠しきれず宿っている。

 

『我らが歌姫! ”風鳴翼”! 曲は”FLIGHT FEATHERS”!!』

 

舞台が輝く。

歓声が湧く。

その中心に立つのは、ただ一人。

 

――――風鳴 翼。

 

日本でも指折りのトップアーティスト。

それと同時に、クリス同様人知れずノイズを討つシンフォギア装者。

嘘のような肩書きを背負い、しかし楽しそうに歌う姿は、紛れもなく十代の少女の華やぎ。

 

(ああ、そういう)

 

歌う翼の姿から、彼女もまたクリスと関わる同じ年の頃の少女と再認識する。

それに加えて自分も出演るのだ。となれば、

 

「姐さん姐さん、よもや姐さんにこの歌番見るように勧めたのは翼の姐御……」

「まぁ、な」

 

少女らの少女らしい連なりを想像し、心が温かくなる。

 

 だが、ふと気付く。

 

クリスは先程、視聴を勧めた相手に対し、どういう反応をしていたか。

 

チラ、とクリスの方を見遣った。

 

じっと、画面を見つめている。

口は一文字に閉じられ、目は細まり瞳の色は覗けない。

画面の向こうの、熱狂しているオーディエンスらの反応とは掛け離れた静けさだ。

聞き惚れているようにも見える。

だが、 細めた目も、閉じた口も、内から溢れる何かを必死に押し隠そうとしていることだけは、確かに思えた。

 

「姐さん、翼の姐御とは、どうなんです?」

「ん……」

 

一瞬、間があく。

目は見えないが、視線を反らしたためであると感じさせる間であった。

 

「思いの外に、お節介な女だな」

 

関係より先に、評価を口にした。

本当はどう思っているのかを隠したいがため、というのは裏を読みすぎているだけか否か。

 

「あの馬鹿と同じで会ったのはあの時が最後だが、何かっていうと連絡飛ばして来やがる。これを見ろっていうのもそうだし、何より煩わしいと言やぁ……」

 

そこまで言って、はたと止まる。

クリス自身、”話している”のでなく”吐き出している”かのようであったと気付いたらしい

 

「姐さん?」

「悪いな、急に疲れが来た。少し休む」

 

クリスはそう言うと、目を閉じた。

翼の歌はもう終わっていた。場面も変わっている。

運転手はそっと端末の画面を落とした。

 

 

 

 「さてと、全員揃ったところで、少し遅いがミーティングを始める」  

 「…………」 

 

 風鳴弦十郎の精悍な物言いを、ミーティング最後の到着者であるクリスは冷めた目で見つめていた。

 

 上座にて腕を組み、部下達を見渡すその姿は、まぁ確かに様になったものである。 

 しかしあまりにロケーションが悪く、与える印象が何百度捩曲がったか分からぬ程に変貌している。 

 具体的に言えば、”頼れる僕らの司令官”から”優しい僕らのお父ちゃん”と化している。いい考えがあるとは言ってくれそうにない。似たような声で料理は作ってくれそうだが。 

 

 「藤尭、施設内の調査結果は上がったか?」 

 「はい、先程。ですが結果としてはこれまでと大差ありませんね……」 

 

 二課メンバー藤曉が口惜しげに言う。 

 しかしその前に生姜をおろす手を止めるべきだろう。 

 お前が口にしたいのは報告でなく別の何かだろ食い物的な意味でなどとぐだぐだ邪推したくなる。 

 

 「ズルズルッ! ズルーッ!」 

 

 お前はなんか色々論外だと、着席後から一度として麺を啜る手を止めない連れ合いにはもう目も向けたくなかった。 

 そもそもなんで作戦後ミーティングに一介の運転手が参加しとるんだと言えば場の空気と言う他ない。 

 

 そうだ。全ては”場”が悪いのだ。 

 

 「あのよぉおっさん」 

 「ん? どうしたクリスくん。何か気になったことでもあるか」 

 

 紙の資料から目を上げて、弦十郎がクリスを向く。 

 その面がどうにも気に食わなんだものだから、気持ち強めに言い放つ。 

 

 「あぁ在るともさ。さっきから目につき鼻につきだこの野郎」 

 「ほぅ、それは有り難い。今やどんな取っ掛かりでも手が喉を裂いて出かねないぐらいだ」

 「ええいその出来る大人な面をやめろ! っーか場違いだろ! おかしいだろ! 色々事情を鑑みてもこいつは許しちゃならんだろ!?」 

 

 ぐいっとクリスが立ち上がる。しかしすぐ崩れる。 

 雪音クリスの日本的名称に反し海外風情な暮らしに漬かってきた彼女には、短時間でも膝を立てない胡坐は少し辛かった。 

 

 おのれ日本家屋。おのれ畳。

 

 そうだ。そうとも。そうである。全ては”ここ”が悪いのだ。 

  

「いくら前の本部が吹っ飛んだからって……なんだっておっさん家を本部にしちゃったこん畜生っ!!?」 

 

○ 

 

 ――ルナアタック。

 

 端的に言えば、“月の一部が地球に落ちかける”という、つい数週間前に起きかけた大災害を指す言葉である。 

 

 短く言えばその程度、しかしその事件で失われた物はあまりに多く、また、生まれたものもまた数知れない。 

 

それらが正しくは災害でなく、人に手により起こされた大事件であり、月の破砕からその欠片の落下未遂まで全てが一人の女の情念によって成されたことを知る者は少ない。 

 

 その情念に、野望に、真っ向から挑み、そして危機を打開した何人かの少女や大人たちの活躍も、多く者は知ることがない。

 

 そして……その過程で知らぬ間に超兵器に改造されてあげそれを所持する組織の構成員にぶっ壊された哀れな秘密基地が存在したことなど、より一層に誰も知りはしないことなのであった。 

 

○ 

 

 「そうは言うがなクリスくん、機密を交えた会議を行える場所となると中々限られてくるものでなぁ」 

 

 諭すような口調の弦十郎だった。が、問題はそこじゃない。というか、それ以前の問題があるからこそのクリスの激昂激怒な咆哮である。

 

 「いやいやじゃなくてだな、なんだっておっさんが手前の味噌で進めてんだよ。機密話をするんだろ? それが漏れたら不味い誰かしらが用意するのが筋ってもんじゃねぇのかよ?」 

 「ほぅ、そこを聞くか」 

 

 不敵な笑みがクリスを射貫いた。爽やかさとは対極にある、擬音を当てればにやにやな笑みである。

 あからさまに面倒な話がめっちゃ早口で押し寄せるであろう面構えだった。

 つい少しばかり身を引くクリスだがもう遅い。司令官クラスの踏み込みは十分に足りたものなのだ。切って払うことなど叶いはしない。 

 

 「実はな、現在上にちょっとした“おねだり”をしているところでなー」 

 「あんたの面とたっぱで“おねだり”はどうだ」 

 「待望期待の果ての果て、正真正銘本当の“機動”本部だ! どうだロマンだろ?」 

 「聞けや。っつか、は? えっ……何本部?」 

 「機動本部だ! その名に偽り一つもなしのな!」 

 「えぇ……?」 

 

 言葉の意味は分からないのに興奮度合いはやたらに分かる。おそらく最も人をドン引かせるであろう会話術の炸裂に、目がチカチカしてしまう。眼球の問題でなく、頭の問題と瞬時に理解させられる。 

 瞬間的グロッキーを耐えながら、どう話を戻そうかと思案するクリスは、すっかり戻すべき話題を失念してしまっていた。もはや頭の中では機動と本部の二語が追いかけっこに勤しむばかりである。 

 

 「っつーことはアレっすか? 今度の本部は飛ぶんスか!?」 

 「いやそこは惜しくも違うんだ。俺としてもやはり本命は空中要塞だったんだが、それはどうも渋られてなぁ」 

 「しかし司令、水中移動基地もそれはそれで隠密組織たる二課の本懐を成しているようで悪くはないものだと思います!」 

 「そうだな藤尭! 緊急浮上の四文字もまた結構な魅力に満ちている! 口に出して叫びたい日本語だ!」 

 「緊急浮上!」 

 「緊急浮上!」 

 「敵影発見!」 

 「敵影発見!」

 

 男共の織りなす馬鹿がやたら遠くに感じられてくる。近寄りたくないという願望を脳が疑似的に叶えてくれているのかは知らないが、もうそれに甘えて自分もまた素麺を啜る機械と化してやろうかと、目の前の広い食卓に目を遣る。 

 

 と、その視界に、横からそっとグラスが差し出された。透けた茶色の液体の中で、沈んだ氷がカランと涼し気な音を立てた。 

 

 クリスがそちらに目を移せば、温和な雰囲気の女性――友里あおいの柔らかく微笑みかけていた。 

 現状において、唯一クリスと同じ女性である。なんとなく安らぎを感じさせる。 

 

 「雪音さん、あったかいもの、どうぞ」 

 

 その言動には男共となんら変わらないエキセントリックが詰まっていたが。

 

 言葉の出ないクリスに変わって、グラス内の麦茶に沈む氷がカランと鳴った。自己主張にしては、些か控えめに過ぎた。 

 

 「あ、あったかい? もの、ど、どうも…………」 

 

 どうにかこうにか、お約束じみた言葉を返す。受け取ったグラスからはしっかりとした冷気が伝わってきた。 

 まぁ、おそらく、自分には到底理解の及ばない比喩だか揶揄だかなんだかなのだろうと、麦茶を飲み干し、浮かんだ疑問も一緒に腹へと押し戻す。ツッコミ役に徹するつもりはないのだ。 

 

 そんなクリスの様子を見て、友里は改めてにっこりとほほ笑んだ。 

 

 「あー、ともかく、おっさんの話を整理するに」 

 

 見守られているような感覚が居心地悪く、それを突き崩すようにクリスは問うた。 

 

 「新しい活動拠点についてかなり無理言ったもんだから、お上はその用意に掛かり切りになっちまって今しばらくの拠点にまで手が回らなくなった……ってことでいいのか?」 

 「うん。その通り」 

 「でー、仕方なしにあんたら自身で用意した拠点がおっさんの家だった……ってのが全く以て分からねぇんだよなぁ」 

 

 理解不能の事柄に増していく頭の重さのまま、盛大に首を傾げるクリスだった。

 友里が苦笑しつつ言う。

 

 「まぁ気持ちは分からなくもないけど、そこはほら、あの司令の家って考えればもうそこ以上に安全無欠な場所ないと思いません?」 

 「それは、まぁ」 

 

 チラリと、運転手や藤尭らと防衛組織の秘密基地のあるべき形を討議している弦十郎を見遣る。 

 

 ミーティングの目的を見失っているとしか思えないその有様からは想像もできないが、そのポテンシャルが人外の域にあることは、クリス自身一度目の当たりにしている。 

 胸に悪徳を宿す者がいれば気配で分かる……などと言いだしたとしても、さして違和感はないだろう。 

 

 「それに、司令だって決して太くはないロープの上を歩いていることは理解していると思いますよ」 

 「そうかー?」 

 「ええ、もちろん」 

 

 友里は強い信頼を感じさせる笑みを見せた。

 自分には程遠い表情だなと、クリスは殆ど無意識に考えていた。 

  

 「周辺の家の人たちは昔から司令と恣意な間柄みたいだし、その人たちにしたって不用意に家に上げるようなことはしないもの」 

 「皆様方~追加の御素麺が茹で上がりましたよ~」 

 「おい早速年老いた部外者が夏の定番と一緒に上がりこんできたぞおいどういうことだおい」 

 

 友里はもう一度にこっと笑顔を見せた。

 

 風が吹き、彼女の青みがかった髪が少し揺れた。

 涼し気な雰囲気が、夏の空気に良く映えている――そう称賛するかのように、風は風鈴を鳴らし、リンと音を立てたのだった……。 

 

 「いやいやいやいや。誤魔化されねぇよ? 一夏のおもひでってな空気感を出しても何の一つも誤魔化せねぇよ?」 

 「あ、駄目でした? 今度の合コンはこういうキャラ付けで行こうかと思ってたんですけど」 

 「ごうこ……? ああもう合体コンテストだかなんだかしらんがなぁ? この風ってよくよく考えると窓も開けっぱじゃねぇか機密ってなんだどこが密だ何が密だ」 

 「”でざぁと”がですよお嬢さん、よく知ってたわねぇ餡蜜用意してるってことなんて」

 

  クリスと友里の間に、横から年老いた見当違いがすっ、と入ってきた。クリスは思わず背筋が伸びた。 

  

 「あら、驚かせちゃったかしら」 

 「あ、えっと……」 

 

 老女はころころと笑う。

 

 その笑顔に、クリスは返すべき言葉を見つけられずにいた。

 なにせ記憶にある中で顔を合わせてきた人間は、殆どが敵か死者かのどちらかばかりだった。初対面との穏やかな日常会話など、圧倒的に経験値が足りない。 

 

 「ありがとうございます留子さん、いつもご馳走になるばかりですみません」 

 「あらあらお気になさらないで? 旦那様のお友達ならいつでも歓迎いたしますよぉ」 

 

 笑顔で会釈する友里に、なるほどああやって答えるのかと頭に刻んでいく。とはいえ自分に出来る気もあまりしないクリスであったが。 

 

 自分を観察するクリスの視線を、友里は別の意味で受け取ったらしかった。老女――友里は先ほど留子と言った――を手で指し示しながら、クリスに言う。 

 

 「クリスちゃん、こちら楳畑(うめはた) 留子(りゅうこ)さん。風鳴の家……司令や翼さんのお家に長くに渡って勤めてきたお手伝いさんで、二課でも随分お世話になってるの」 

 「ふぅん……」 

 

 にしては随分とまともだな、と思わず考えてしまう。大変に不躾であるが、名の挙げられた二人が二人なだけに誰もそう文句は言えまい。

 

 クリスのあまりにあまりな思考を余所に、留子の表情は相変わらず温和そのもので、クリスに笑い掛けつつ言った。 

 

 「あららお嬢ちゃん、あんまりお箸進んでないみたいだけど、遠慮なんていいからドンドンお食べんしゃいね」 

 

 友里のものとも違う笑顔だ。こちらの全てを肯定してくれているような暖かい感覚がある。 

 クリスにとっては、遠い記憶の彼方にようやく見つけられる類の感覚であって、完全な未知以上に上手く受け止めることができなかった。

 

 「あ、ああ。ありがとぅ……ございます」 

 

 昇って来ていた怒気を見る間に萎ませ、借りてきた猫とばかりの様相になり言われるまま素麺を口にした。しかし上手くすすれず、箸で強引に口に押し込んでいく。

 

 そんな様子に、老女はより一層朗らかにクリスを眺めた。すっかり勢いを失ったクリスだったが、元悪役の意地を総動員し目つきだけは尖らせていた。 

 

 「そんな顔しなくって、誰も取りやしませんよ」 

 

 留子がほほほと笑った。

 

 素麺を頬張り周りを睨めつけていれば、そりゃ周りからすれば食い意地の張ったガキにしか見えない。 

 そうと気付いた時にはもう遅い。朗らかで生暖かい笑顔はもはや老女からだけでなくその場にいる全員から向けられていた……中には下を向いて口を抑えながら肩を震わす不届きな運転手もいたが。 

 

 さながら末の娘、ともすればペットのハムスターにも似た扱いは、クリスにとって到底我慢出来るものではなかった。 

 

 雪音クリスは今、ノイズを討つシンフォギア装者としてこの席にいるのだ。 

 

 そこに朗らかな空気も視線も、増してや素麺も薬味もめんつゆも不要の長物である。田舎のおばぁちゃんなど以ての他だ。というかそれ以前に間違いなく部外者だ。 

 

 口に詰まった素麺を、強引に飲み込む。飲み物など要らない。”暖かいもの”などなおのこと……というか冷たいし氷入ってるし。 

 

 「……もう十分だ。帰らせてもらう」 

 

 冷たい声色で終わりを告げて、すっくと立ち上が――れはしない。あいも変わらず足はがっくがくのぶっるぶるである。 

 

 蹴つまずきかけて、テーブルに手をつきどうにか堪える。

 細腕で己が身を支える姿は何か強く周囲に訴えかける健気さがあったが、生憎とクリスが欲しい説得力とは大分趣が違う。 

 

 「おいおい、大丈夫か?」 

 「問題あるかよ、後で何か情報が出れば送ってくれればいい……まぁ、そんなんがあるとは思えんが」 

 

 弦十郎の気遣いを、途中退席への杞憂として強引に解釈し直しおまけに捻りのない皮肉で括っておく。なんとも三下の悪役上がりに相応しい振る舞いではないかと、クリスは内心鼻を鳴らす。

 

 とは言え相変わらずまともに立ててはいないし、歩けないので右手を必死にちょいちょい振り運転手を呼び出しているもんだから何の格好もついてはいない自覚はあったが。 

  

 「あらあらまぁまぁ、無理しちゃ駄目よお嬢ちゃん。お素麺まだあるから」 

 「いらねぇ」 

 

 引き止める老女の手を払う。気持ち弱めに、しかし、確たる拒絶の意思は強く。

 払った手の力は老女の見た目相応に弱く、胸の隙間に罪悪感が差し込んでしまう。

 

 (……いや、ここで迷うようでは)

 

 自身の元に走り寄ってきた運転手の体を手繰り、クリスは立ち上がる。

 しかし寄り掛かっていたのは立ち上がる一瞬のみ。すぐに自らの両の足で立ってみせていた。

 

 確かに未知な感覚だ。

 足に力が入らず、自らが立っている感覚さえあやふやになる。

 

 (だけど、こんなもん、戦場での痛みに比べれば……!!)

 

 戦場での痛みと、正座した後の足のしびれ。

 世の中を探してもそうは見れない珍奇な対戦カードがクリスの中で繰り広げられていた。シュールギャグとしてしか思えない思考回路である。およそ普通の少女では思い至らないセンスだ。

 

 ――――だが雪音クリスは大真面目だった。

 

 普通の少女なら可愛らしいく悶える感覚を、戦場の記憶で踏みにじって黙らせた。

 そこに何の意図もない。

 何の意図もなく、思考も薄く、極自然に戦場を想起した。

 

 それが、今の雪音クリスだった。

 

 誰にも頼らず、痺れた足で歩いていき、クリスは食事の席を後にする。

 後ろから幾つもの呼び止める声がして、するりと胸の隙間に入ってくる。

 クリスは強く床を踏み締め、その足で以て隙間を踏み閉じながら、ズンズンと歩いていった。

 





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