当たり前の後ろの外側   作:吉椿

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東京マラソン

「おい! 見てるか、東京マラソン!」

 二月最後の日曜日の朝、突然祐二がグループメッセージを送りつけてきた。興味もないので今日が開催日だということすら知らなかった。

「テワタサナイーヌちゃんが出てる! かわいい!」

 すっかりテワタサナイーヌの虜になってしまった祐二に付き合ってテレビを点ける。

 ちょうどマラソン先導の白バイ隊員の紹介をしているところで、画面にはテワタサナイーヌが大きく映し出されていた。

 真っ赤なジャケットに白いパンツというただでさえ目を引く服装に、犬の耳のように二つの三角形が突き出た白いヘルメットを被っている。これでもかというほどビジュアルを押し出しているな、と渉は感心した。似合っているので嫌味も感じないし、これには祐二も興奮するはずだ。獣毛に覆われたあの顔が見える。赤いフレームのメガネをかけているのには、新鮮さを感じた。

 アナウンサーが経歴を読み上げ、画面には「テワタサナイーヌ警部補」という名前と、簡単なプロフィールが表示されている。

 並走する白バイ隊員と親子だというが、名字の表記はない。「知らない人にお金を手渡さない」というメッセージからしてテワタサナイーヌは本名ではないのだろう。半ば冗談のような「テワタサナイーヌ」という名前と「警部補」という階級が並ぶのは何だか現実離れしていたが、彼女に関しては一から十まで現実離れしているので、そんなものなのだろうと納得できた。

 プロフィールには年齢も表示されていた。三十歳。思っていたより上だった。全国放送で年齢を公表されることや、年齢と見た目との関係や、それについて祐二はどう思っているのかなど、思うことはいろいろとあったが、とりあえず

「だいぶ歳上みたいだし、これからはさん付けした方がいいんじゃないのか」

と返信をしておいた。

 

 

 日曜日の朝といっても特にすることもなく、そのまま何となくマラソン中継を眺めていた。

 先頭集団とともに映り込むテワタサナイーヌはやはり目を引く。画面に現れるたびに祐二がはしゃいでいるのかと思うと可笑しくなる。

 いつの間にか先頭を争うランナーは二人だけになっていた。駆け引きがあったのか、体力的なものなのか渉には分からなかったが、あんなに団子になっていたのがこうして決着がついていくものなのだなと感心していた。

 コロン、と木琴を叩いたような音がした。スマートフォンが鳴ったような気がして取り上げる。

 画面にはメール着信の通知が出ていた。

「【犯罪抑止アプリ】防犯ブザーが使用されました」

 思わず立ち上がる。

 メールを開いてみると、

「只今、真奈実さんが防犯ブザーを使用しました」

というメッセージと一緒にインターネット地図のURLが表示されている。

「真奈実」

 頭に浮かぶと同時に声に出していた。走り始めた汽車のように徐々に心拍数が上がっていく。じわじわと不安が押し寄せてくる。

 どうすれば。

 まずは確認だ。

 頭が瞬時に切り替わる。

 メールやメッセージを打っている余裕はない。電話機能を呼び出して、真奈実にかける。

 呼び出し音が一つ、二つ、三つ。出ない。何かの間違いだろう。うっかり押してしまったのかもしれない。だから早く出てくれ。

 ワンコールが長く感じる。途切れる度に次のコールは鳴らないでくれと祈るが、また次が鳴る。

 諦めてメールに表示された場所に駆けつけるべきなのか。耳からスマートフォンを離そうか逡巡しているうちに

「もしもし」

と応答があった。

「真奈実! 大丈夫か!」

 普段は感情を表に出すことがほとんどない渉が大声を出す。

「あ、あの……」

 低いトーンの女性の声が聞こえてきた。どこかよそよそしさを感じる。真奈実ではないのだろうか。

「私、溝口医院の山本といいます。恐れ入りますが、あなたは……」

「俺は真奈実の……」

 こういう場合、何と名乗ればいいのだろうか。一瞬迷ってから

「彼氏です。高嶋といいます」

と答えた。

「そうでしたか。実は真奈実さん、目の前の通りで暴漢に襲われまして」

「えっ!」

「あっ、幸い軽い怪我で済みましたし、犯人も取り押さえられたんですけど、今、当院で手当てをしてまして」

 それで代わりに出たのだ、と相手は説明する。

 怪我の程度は軽いといっても怖い目にあってショックを受けているのではと居ても立ってもいられなかった。

「今から行きます」

 そう告げて電話を切り、取るものも取り敢えず渉は部屋を出た。

 急いでいてもテレビを消すのは忘れなかったが、急に転進し先導から離れるテワタサナイーヌの姿と、それを伝えるアナウンサーの声を認識する余裕はなかった。

 

 

 溝口医院というのは真奈実が住むアパートからすぐのところにある診療所だ。目印にしていたのでよく覚えている。真奈実のアパートは駅の反対側にあって、歩いて十五分ほどかかる。それほど遠いとは思っていなかったが、今日ばかりはこの十五分の道のりが果てしなく遠いように思えた。迷うことなく走る。

 溝口医院の目の前というと、真奈実は家を出てすぐに襲われたことになる。待ち伏せでもしていたのか、たまたま運悪く鉢合わせてしまったのか。どちらも嫌だがせめて前者ではないようにと願う。相手は一体誰で、どんな人間なのだろう。

 俺の大事な真奈実になんということをしてくれたのだ。取り押さえられたと言っていたが一発殴ってやらなければ気が収まらない。

 走りながら渉は怒りを募らせた。

 最後の角を折れると、煉瓦に囲まれた植込みの中に溝口医院の看板が見える。その前にぽつんと立っている人影を見つけた。

 その瞬間、渉の頭の中を占めていた怒りの感情がすっかり消え去り、真奈実のことでいっぱいになった。

「真奈実!」

 きれいなオフホワイトのコートを着て、こちらを向いていた真奈実が、声をかけられて少し顔を背けた。

「真奈実、大丈夫か」

 息を切らしながら両肩を掴み、顔を覗き込む。よかった。顔に傷はないようだ。

「あの、あのね……」

 全身を隈なく確認する渉に、真奈実は恐る恐る声をかける。

「なんだ、どうしたんだ」

 感情が薄いと言われる渉の口調がいつもよりも柔らかい。

「ごめんなさい!」

 真奈実が勢いよく頭を下げ、肩に置いた渉の手が空中で取り残された。

「え?」

「ごめん! 全部ウソなの! 襲われてもいないし、怪我もしてない!」

 勢いよく体を起こすと、真奈実は医院の入口を指す。

「ほら! 病院も休みだし!」

 下ろされたグリルシャッターの向こう側には「本日休診」と赤い文字で書かれた札が下げられている。道端で襲われた急患を介抱して帰らせたにしては確かに手際がよすぎるし、医療機関として人情味に欠けているように思える。

 渉は混乱した頭を整理するのに一生懸命だった。一言も発することができずに、ただ目を泳がせる。

「本当にごめんね?」

 申し訳なさに顔を歪めて、真奈実が下から覗き込むように見上げてくる。

 だらんと下げられていた渉の手がゆっくりと上げられる。叩かれる、と覚悟した真奈実はぎゅっと目を閉じた。

「……よかった」

 感じたのは鋭い痛みではなく、腕の上から締め付けてくるじんわりとした痛みと苦しさと、温かさと、心地よさだった。

「怒らないの?」

「真奈実が無事ならそれでいい」

 口調はいつもの無表情に戻っていたが、抱き締める力は緩まなかった。

(ちょっと恥ずかしいな)

 天下の往来で熱い抱擁を交わすのは気恥ずかしかったが、自分で招いた結果なので真奈実は黙ってされるままにしていた。

 

 

「いやぁ、うっかり鳴らしちゃったんだよね」

 紅茶の準備をしながら真奈実は笑った。溝口医院の前で抱き合っていた二人は、しばらくして二月の冷たい空気を思い出し、真奈実の部屋に引き上げて来たのだった。

「防犯ブザーのところ触っちゃって、あっ、ヤバい! とは思ったんだけど、そのまま戻ればいいのになんかパニックになっちゃって、画面触っちゃった」

 デジポリスの防犯ブザーは二段階操作で起動するようにできていた。大きなベルのマークが表示された状態で画面をタップするとブザーが鳴り、事前に登録した相手に自動的にメールが送信される仕組みだ。

「すぐ『今のは間違い!』ってメッセージしようと思ってたら渉から電話が来ちゃって。そしたらなぜか、いたずらしてみたくなっちゃったんだよねー……」

 渉の表情を伺うように、語尾を伸ばした。渉は笑うでも顔をしかめるでもなく穏やかに、こたつを差し挟んで座っている。少なくとも怒ってはいないようだ。

「分からなかったんだ、声。真奈実のような気もしたし、でもやっぱり別人のような」

「ああ、看護師さんのフリしたやつ? えー、バレると思ったんだけどなぁ」

 真奈実の計画では、声で気付かれて、そこで冗談だと明かすつもりだった。

「焦ってたからかもしれない」

「私の演技力もなかなかだったってことじゃない?」

 真奈実は顎に手を当てて、ニヤリと笑ってみせる。

「でもねー、嬉しかった」

「嬉しかった?」

「うん」

 膨らんだバラのつぼみのように丸いフォルムのポットを傾けた。同じセットの丸いカップを満たしていく紅茶に、愛おしそうに目を落とす。いい香りがふんわりと立ち上った。

「走って来てくれたじゃん、私のために。渉はいつも感情を表に出さないけど、私のことすっごく大事にしてくれるし、私のこと好きなんだなって分かってるから、わざわざ言われなくても安心していられる。でも不安になることもあるんだよね。やたら醒めてるところ、あるじゃん。だからなんか、あんなに一生懸命になって走って来てくれて、ああ、やっぱり大事に思ってくれてるんだなーって、なんか感動しちゃったんだよね」

 照れ臭そうに目を上げる真奈実がたまらなく愛おしくて、渉は自分と真奈実との間を隔てるこたつを忌々しく思った。これさえなければ今すぐ抱き締めるのに。

「真奈実に何かあったら、いつだって走って行くよ」

 代わりに手を伸ばして、ポットを持つ真奈実の手を包み込むように握る。まっすぐに真奈実の瞳を見つめた。真奈実は一瞬目を丸くしたが、すぐに「へへ」と頬を緩ませる。

「ありがと」

 ポットを置いて、渉の手の上にもう一方の手を重ねた。

 束の間見つめ合っていたが、真奈実が「あああ~」と力の抜けた声を出して、こたつの上に崩れ落ちるように突っ伏した。

「でもやっぱり罪悪感。だってあんなに、走ってまで来てくれたってことは相当心配させちゃったんでしょう? こっちはほんの軽い気持ちなのに、こんな、騙すことになっちゃって。本当にごめん! あーもう二度としない!」

 顔を伏せたまま謝る。ごん、と額が当たる鈍い音がした。

「いいんだ、気にしてない」

 渉の普段通りの声に、真奈実は顔を上げて身を乗り出す。

「えっ、だって騙したのに?」

「真奈実が無事ならそれでいい」

「本当に怒ってない?」

「不思議なほど怒りが湧いて来ない」

「渉、私のこと好きすぎだよ」

 逆に心配になる、と真奈実は呆れ顔を作り、ひょいと立ち上がった。こたつを回り込むと渉の隣にごく自然な動作でちょこんと腰を下ろした。その身軽さを自分も見習うべきだ、とほんのり温かくなった胸で渉は思う。

「はい」

 真奈実がこたつの上にあったカップを引き寄せて渉の前に置き、自分の分を両手で持って一口すすった。

「はー、おいし」

 

【挿絵表示】

 

 それに倣って渉も紅茶を口に含む。僅かな渋みと清涼な香りが広がり、まだ熱い紅茶が血管を伝って全身に沁み渡るようだった。

「うまい」

と漏らすと「ねー」と肩に頭をもたせ掛けてきた。腕をするりと外して真奈実の肩に回す。

 真奈実は

「んふふ」

と幸せの笑みをこぼした。渉も笑みこそこぼれなかったが、温かい気持ちで満たされていた。

「そういえばテレビにテワタサナイーヌが出てた」

 気持ちが落ち着いたからか、急に思い出した。

「えっ! なんで?」

「東京マラソンの先導で白バイに乗ってた。まだやってるんじゃないか」

「えっ、見る見る!」

 真奈実がいそいそとテレビのリモコンに手を伸ばす。レースはまだ続いていたが、先導する白バイは見慣れた青いジャケットを着た隊員一人になっていた。

「この人?」

「いや違う。この人はテワタサナイーヌのお父さんらしい」

「お父さん! 普通の人なんだ!」

 はしゃぐ真奈実のそばで、事情を知らない渉は首を捻っていた。

 いつかまた映るかもしれないからと点けたままにしたテレビ画面に、テワタサナイーヌは確かに戻ってきた。しかしそれはマラソン中継ではなく、爆発物所持の疑いがある不審者のバッグの中身を嗅ぎ分けたというニュースだった。マラソン中継の紹介シーンから鮮やかな急転回、サイレンを鳴らしながら飛ぶように走り去る姿まで、テワタサナイーヌのプロモーションビデオのような映像が何度も流される。

「すごいね! かっこいいね!」

中継を見逃した真奈実も満足し、渉のスマートフォンにも祐二から大興奮のメッセージが送りつけられた。

 

 

 翌日、渉は母親に電話した。気になることがあったからだ。

「はい、高嶋です」

「あ、おれ」

 言いかけて

「渉だけど」

と言い直した。

「あら、何よ。一か月に二回も電話くれるなんて珍しいじゃない」

 母親は嬉しそうだ。

「あのさ、俺、今まで仕送りしてくれって言ったことないだろ」

「何よ急に」

 突然の話に訝りながらも「まぁそうね、ないよね」と相槌を打つ。

「もし俺が、今月ちょっと苦しいから追加で仕送りしてくれないかって言ったら、どうする」

「えっ、どうかしたの?」

「いや、例えばの話で」

「そりゃあ出してあげるよ。そんなにいっぱいは無理だけど」

「電話だけで?」

「だって急いでるんでしょ? わざわざ電話で頼んでくるってことはさ」

 渉の深い嘆息が、電話の向こうにも伝わった。

「なーんでため息つくのよ!」

「あのさぁ、こないだ電話した時、母さん、俺が名乗る前に俺だって気付いただろ」

「そりゃ息子だもん。声で分かるわよ」

「こないだもそう言ってた。俺もそういうもんだと思ってた。でも昨日分かったんだけど、電話の声は当てにならないこともある」

 真奈実が看護師になりすましていたのを聞き分けられなかった。他人が身内を演じるオレオレ詐欺と逆ではあるけれども、声を聞き分けられないという意味では同じなのではないかと渉は考えたのだ。

「大学生になりすますオレオレ詐欺があるのかは知らないけど、もし俺が電話だけで仕送りを頼もうとしてきたら、その俺は俺じゃないから」

 言ってから、これはテワタサナイーヌのラップの歌詞そのままだな、と気付いた。

「じゃあもし本当に必要だったらどうすんのよ」

「取りに行くよ、自分で」

 どうせ電車で二時間もかからない場所だ。毎日通うのは無理でも、用事で行って帰るぐらいのことならすぐにできる。

「だから電話で金の話が出たら、まずは怪しんでくれ」

 言いながら、これもテワタサナイーヌにもらった紙に書かれていたことだと思い出す。

「そうだねぇ、言われてみればお金のことを、顔も見ずにほいほい決めちゃうのはよくないんだろうねぇ」

 それまで懐疑的だった母親の口調が柔和になった。

「まぁ、先のことは分からないし、多分これからもないとは思うけど」

「そうね、そう願いたいわ。それよりも詐欺が来ないようにね」

「そうだな」

 そういえば、と切り際に訊ねた。

「成田山って、いつか行ってみたいものなのか?」

「はあ? 何の話?」


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