口が裂けてもいえないこと   作:茶蕎麦

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第五話 華子

 じゃらりという鎖の音で、少女は目を覚ました。目を開けて、まず始めたのは頬の痛みを思い出すこと。手を伸ばしてつい撫で擦ってしまった左のほっぺたは赤を超えて青黒く腫れている。思わず、触れてしまった小さな指先は、頬に走った激しい痛みに応じて反射的に放れた。そして、その先が鎖された喉元から走る、冷たい鉄の鎖に触れたことで、起き抜け早々に現況の全てを思い出し、彼女は今を理解する。

 

「う、うぅ……」

 

 もう何度目になるだろう。彼女は泣いた。しかし、溢れる感情全てを吐き出すように泣き叫ぶことは出来ない。それは、痛みによって思い知らされているから。騒ぐと、また頬を張られる。そのことが怖くて、彼女は胸の中の思いすら自由に出来ない。今も扉の先に、あの怖い男が居るのではないかと恐怖に駆られて、おこりに罹ったように震えて怯える。

 

「たっ、助けて、よ、お兄、ちゃん……」

 

 小さく口から漏れたその助けを呼ぶ言葉は、虚しくその場で消えた。そう、誰の目の届かない場所に閉じこめられていては、幾ら呼んでも助けは来ない。しかし、何度も何度も、同じことを繰り返して、それだけ裏切られても、少女は兄を信じて言葉を紡ぐ。

 普段から四六時中纏わりついて、迷惑を掛けていることは知っていたけれども、それでも一度だって兄が自分に酷く当たったことがないから、彼女は何度だって近寄った。優しく留められるその度に、家族愛を実感して笑う、そんな日々が何時迄も続くものだと少女は思い込んでいたのだ。

 

 しかし、今や愛は遠く。痛みと冷たさばかりが少女を虐めた。それでも、離れ離れになってから十日も無情に過ぎた今も、未だに少女は兄を信じている。

 

「……勇二、お兄ちゃん」

 

 はなこ、とまた呼んで欲しくて、彼女は空に向かって呼びかけ続ける。そう、少女の名前は足立華子だった。

 白く、無機的な檻の中に華子はいた。トイレと洗面台、そしてバスタブが揃ったユニットバスの中にて、彼女は一メートル足らずの鉄の鎖にて首元を戒められている。

 そんなあんまりな現実に思わず頭を振れば、喉の南京錠が高い音を立てた。目を閉じたことで強く感じる臭気の源泉を、華子は再び見開くことで確認する。

 

「まだ、ある……」

 

 宵闇の中から見つけたそれは、昨日自分からなるべく離れるように置いた、購入先がコンビニであろう弁当の残骸。何時か助かるために嗚咽と共に内容物を飲み込んだその三色弁当は臭うばかりでもう何もないというのは分かっている。起きる身を支える為に伸ばした手の隣に転がっている、赤いコップの中にも何もないということは分かっているのだ。

 

「怖い……」

 

 しかし、バスルームの先に何があるか、何が居るかが分からないがために、華子は震える。その先に何もないならよかった。しかし、確かにその先には居るのだ。彼女を閉じ込めて痛めつける存在が。

 

 

「はぁ……どうしてこんなことになっちまったんだよ」

 

 そして、その先の1DKの住居スペースにて、件の悪人が項垂れていた。大分草臥れた様子のスーツを着て、乱雑に髭を伸ばし過ぎているがために分かり難いが、彼は年の頃は二十を過ぎて少ししか経っていないような若者のようである。そんな、少年時代を未だに引き摺っているような存在は、後悔に足をとられて今にも崩れ落ちそうになっていた。

 

「ったく、誰が悪いって、そりゃオレが悪いけれどさ……ああ、ちくしょう! どうすれば良かったんだよ!」

 

 急に叫び、ソファから起き上がってから、彼は手近にあったゴミ箱を蹴飛ばす。ゴロゴロと、中身のないそれが転がる音を聞いて、華子が悲鳴を飲み込む。だがそのために隣室から漏れ出た声などどこにもないというのに、罪悪感から怯える少女の存在を思い浮かべて、男は大きく舌打ちをした。

 

「アイツ、アイツが勝手にぶつかったってのに泣き喚くから!」

 

 そう、怒りに任せて放つ彼の独白も、大いに間違ってはない。そも、発端に悪意はさらさらなく、彼は巻き込まれた側とすら言えた。

 事の起こりは些細なもの。友達の家へと向かおうとした華子が、路肩に停めてあった自動車の脇をすり抜けようとして、よそ見をしていたがために開いていたドアに激突したのが原因。そして、彼女が痛みに泣いてしまったのが問題である。そんな自業自得を、しかし車の持ち主である男は応え、慰めようとあやしたが、泣き声は大きくなるばかり。これでは人が集まってきてしまう。何も悪い事なんてしていないというのに、幼子を泣かす成人男性という図はそれだけで勘違いされ糾弾されるに違いなくて、困ると男は思う。ちょうどその時男は一人で、また正常な判断が下せるか微妙な辺りまで日常に疲れてもいた。

 だから、ついついその声を隠したくて間違い、車の中に、華子を引きずり込んでしまったのだ。一拍後にあれ、と正気に返ってからではもう遅い。人攫いと勘違いした華子は、手の中で助けてと大きな声で叫び始めて大いに暴れる。そのことであまりに困惑し、常態から逸脱してしまった男は、黙らせる為についつい手を出してしまった。

 そこから先は、泥沼である。泣く度に頬に手を挙げ、そして僅か正気に返った時に腫れた顔のまま帰すわけにはいかないと、男は焦って家まで連れ去り隠してしまう。そうしてから、自分の行いが拉致監禁に相当するのではと遅まきながら気づいたが、もう手遅れだった。

 

「何で、どうしてオレがこんな事に……」

 

 華子が泣き叫ぶ度にあげた右手。それが、非常に重く感じられる。何も、叩こうなんて思っていなかった。そも、人を痛めつけて喜ぶような趣味なんてない。しかし、そうしなくてはいけないと誤認したから、家でも隣近所に届くかもしれない声を華子があげる度に暴力を振るようになった。そうやって黙らし隠してばれなければ大丈夫だと、子供のように思いたいのだが、それが無理であるとは知っている。

 

「人一人を一生隠し通せるもんかよ、馬鹿かオレ……」

 

 力尽くで、悪事を誤魔化す。そんな大人になりたくないと、男はずっと思っていた。しかし、今自分が行なっていることは、どうだ。自分の間抜けの結果を認められなくて、幼子に暴力を振るってまでして十日も隠している。それは、明らかな、逃避だ。

 果たして、隠し続けてからどうするのか。ほとぼりが冷めるまで経ってから、口止めして華子を逃がす、なんてことを考えたが直ぐに頭を振って彼は下らない案を打ち捨てる。その程度の隠蔽では直ぐに足がついて少女の保護をするだろう警察に捕まることは想像に難くない。それは嫌だと、男は思う。

 

「いや、嫌だからって、それだけで、オレは最低のままどうするんだ?」

 

 そも、何を恐れているのか。自業自得であるのだから、罰は受けるべきであると、彼だって思わなくもない。

 しかし、幼少期からの、悪い事があったら見つかるまで隠すという悪癖、それが男の自首の邪魔をする。点数の悪い答案を隠した際のつかの間の安堵。偶々隠し通せた時の悦び。

 忘れられない過去の類例通りに、全てなかったことには出来ないか。そう願い、しかし我に返れば現実に阻まれ苦悩する。そんな繰り返しを疲れ果てるまでに彼は行っていたのだった。

 

「もう、十日だぞ……捜査がオレの近くに及んでいないとは思えない……三日前からずっと無断欠勤しているオレなんて、そろそろ怪しく思われる頃合いじゃないか? 早く、どうにかしないと自首すら出来ないままに捕まっちまう……」

 

 そして思考は悪へと傾く。断罪への恐れは道徳を忘れさせて、次第にそこから逃げるための方法を探るために頭を働かせるようになる。

 堕ちるほど自ずと思考を働かせてしまうのは、恐怖を手放せないがため。一体何が、怖いのか。そう、華子に何よりも恐れられている彼は、未来が不明な闇に塗りつぶされるのを恐れていた。石膏ボードに拠る遮蔽を過信することも少女の自粛も信用出来なく、華子を閉じ込めたアパートメントから僅かな時間だけしか離れることをしなかった理由は、捕まった先の未来が恐ろしいまでに不明だから。一寸先が闇では、怖くて一歩も踏み出すことも出来はしない。無知の闇が罪につながることも、ままあるのだろう。

 このままだと果たして自分はどうなってしまうのだろうかという恐怖のあまり、彼は華子の心を鑑みることすら出来なくなっていた。そして、往々にして相手に心を認めなければ、その値打ちを見下げてしまうもの。もはや、男にとって、少女はただの邪魔者に過ぎない。

 

「アイツが最初から、騒いだりしなかったら。もしそうだったのならこんな事にはならなかった……いや、そうだ。別に今からでも遅くないんだ。あいつが、これからずっと黙ってさえいたら……」

 

 そして、悪魔の囁きは彼の脳裏に届く。そう、生物であるからこそ、隠蔽が難しいのだ。もし、華子が静物になってくれさえすれば。だが自然にそうなる可能性がありえないのであれば、どうすればいいのだろう。その問いには、問題が起きた最初の方から脳裏に浮かんでいて常に目を逸していた、非常に簡単で無慈悲な選択肢の一つを認めさえすれば答えられた。

 

「ああ、やっぱり。隠し切るためなら、俺がこの手で……」

 

――――殺さなくてはならないのか。

 

 その一言だけは、彼も未だ口には出せなかった。

 

「きゃぁあああああっ!」

「なっ」

 

 だがしかし、時は止まらない。結論を出す前に、バスルームの扉の奥から大きな悲鳴が聞こえてきてしまった。半狂乱の少女の声が、彼の思考を更に乱していく。

 

「大声出すなって、言ったろ!」

 

 彼は知らない。華子が閉じ込められた一室。隠すため【誰の目も届かない場所にうち棄てられた】少女を見つけ。そして、それを覗く怪人が扉越しに現れていたことなんて。

 怒りのまま、彼は扉を開けた。

 

 

 思いの外、鎖というものは重い。鉄輪が繋がり戒めと成しているのだから、それも当然のことなのだろうが、その事実以上にそんなものを大げさにも子供を鎖すために用いて封じようとする、そんな意思の強さに華子は重みを感じていた。

 暗闇の中の自分を歪めて映す銀色は、まるで沢山の監視の目のよう。百々目の化物に首元まで纏わりつかれているような妄想までして、華子は益々恐怖を募らせる。

 

「嫌だ……怖い……助けて」

 

 痛みで壊れ、恐怖に熨された少女の心は、もう一向に安定することはない。ゴミのように棄てられている華子は、浴室にて独りきりで震えた。過去の幸せの記憶と現状の断崖は絶望的で、すがるように思い出す家族の姿が、今は遠い。

 慣れることのあり得ない虐待者の住居の中での孤独。目と鎖の届く場所以外全てが未知の暗黒の中で、ストックホルム症候群を患うことすら出来ずに、華子はただ予感する死の影に怯え続ける。

 

「お父さん、お母さん、勇二お兄ちゃん……なんで、来てくれないの?」

 

 折戸の型板ガラスから漏れてくる光の端を指でなぞりながら、華子は疑問を呈した。自分が悪いせいだ、そう自虐する時間は等に過ぎていて、あるのはただの純粋な疑いばかり。

 近かった、愛は何処に行ってしまったのだろう。肝心要な大事の今に、誰も優しくなんてしてくれはしない。自分を待ち構えているのは、叩く掌ばかり。見捨てられてしまったのではないか、そう華子が思い始めてしまうのも無理はない。

 

「私のこと、嫌いになったんだ……嫌な子なんて、誰も見たくないものね」

 

 同い年の嫌われ者を思い出して、華子はそう結論付ける。勿論それは間違いだ。家族の誰もが大好きな少女を求めている。でも、そんなことは閉ざされ捨てられてしまっていては分からない。

 

「私、もう助からないのかな」

 

 漏れ出た小さな声に答える者は、何処にもいない。

 果たして、意図的に隠された少女を、見つけられる者などあるのだろうか。捜査の手は未だ遠く。誰の望みも届かない。嘆きばかりが積もっていく。しかし、ずっと勇二は諦めずに願っていた。誰かが見つけてくれるように、と。

 光明は、一つ。それは、高子という怪人への請願。はるか高みから覗く瞳は、少女独りを捕まえられるのだろうか。ハナコが確約したその通りに、彼女はどうやって見つけるのだろう。

 

「くつくつくつ」

 

 それは曖昧から響き渡る。華子は、暗がりのその奥に、目を向けた。大粒の黒目は、今までなかったはずの、開かれた窓の先へ。

 そして、そこには少女を観る者があった。勿論それは、高子である。

 どうして、という言葉は彼女にとってありきたりのもの。高子は怪人。至るための道理など実はどうでもいいのだった。契約によって呪われたその繋がりを辿る、それだけで見つけることは可能である。そしてまた、少女の居場所が良かった。孤独で、誰の目も存在しない暗中。果たしてそれは、ハナコと勇二、そして高子が居るゴミ捨て場に相似していやしないか。そう、二所には見向きもされない寂しいところ、そういう繋がりがあって。だから、高子はここに至ることが出来る。

 そう、隙間すらなかった高所から。高子はあるはずもない丸い窓から華子を観て、嗤うことが出来るのだった。

 

「くつくつくつくつくつ」

「ひっ」

 

 契約したからには見捨てはしない。だから、見つめる。怪人の閲覧。それを受けるのが、勇二よりもまともにモノを受け取ることの出来る状態の華子であったのが、不幸の再開である。

 

「いやぁっ!」

 

 それは、救助の始まりでもあったのだが、しかし、華子は知らずにそれを否定した。もっとも、知っていた所で、こんなに異形な助けの手をとることなどあり得ないだろうが。

 そう、異なる形のヒトガタ。怪なる人物。そうであることなんて、一目見れば分かる。だって、高子の顔は、何よりも理解しがたい不明であったのだから。部位が揃って整列している顔面が、どうしてこうも恐ろしいのか、それすら少女には分からない。

 

「くつくつくつくつくつくつくつ」

 

 華子はずっと、状況を打破してくれるような他人を望んでいた。それは、間違いない。しかし、誰が笑う化け物の出現を願っていたというのだろうか。

 

「やぁ……」

 

 再び漏れ出した悲鳴は体の震えによって、かき消される。密室には、笑い声ばかりが木霊していた。

 殴られるよりも、無視されるよりも、何よりも華子の心は萎縮してしまう。のっぺりとした女の顔は、そこに定まっているかのようにちっとも動くこともない。ただ、不明に笑って恐怖をあおる。

 笑顔は美しい。誰がそう決めたのだろう。この上なく不気味な哄笑は、ユニットバスの合間に充満し、そこから溢れることなく響き渡っていく。

 平均的な顔というものは、よくも悪くもあるだろう。自分の容姿に不満を持つのは人の常。意匠によって少しずれることで、容貌は美醜のどちらかに属していくものだ。しかし、図ったかのようにそれがピタリと普通に不通にハマってしまったとしたら、印象すらどこにもなくなってしまう。意図して作られた、その顔は誰の記憶にも残らない。瞬きとともに、その醜さも美しさも忘れてしまうのだ。ただ、歪んだ口元ばかりが頭から離れなくて気持ち悪い。

 そんな、醜悪な歪みからはほど遠い顔は、怪人にしてみれば際立って美しく映るのかもしれないが、人間にとってはあまりに理解し難い代物だった。明確に映る朧気な顔。そんな視覚情報が、華子の頭に心をキリキリと軋ませる。

 

「う、ううぅ……」

 

 首を竦ませた際に鳴ったジャラリ、という音に華子は少しだけ気を取り戻した。そして、威嚇するようにうめき声を上げて、丸く空いた窓から這いつくばって逃げる。しかし、そんな小さな逃避行は鎖されているがために、首元の痛みと共に留められた。

 

「っ、ひぃ」

「くつくつくつくつくつくつくつくつくつくつ」

 

 怪人に逃げることすら許されない状況。絶望に目を瞑ろうとする華子に対し、高子はそれすら許さないと言わんばかりにぞろりと穴から身を露わにする。頭に乗せた麦わら帽を揺らしながら、彼女はアパートメント三階の壁面に空いた窓から身体を乗り出した。

 高子は【八尺】はあろうかと伝えられている長身の怪人。しかし、今彼女はそんな数字なんて関係ないと言わんばかりに更に背を伸ばす。ろくろ首等もう古い。しかしそれくらいの高見なんて容易いもの。

 そう、高子は上から覗いて嗤う怪異。彼女を見つけた人の結末は取り殺されるばかり。今回は勇二がハナコを基に繋がって特別な契約を結び付けているがために、そんなつまらない終わりにする気は高子にはないのだが、口にせずに真意が伝わるはずもなく。

 

「きゃぁあああああっ!」

 

 ついでにと、高子が助け出すために伸ばした痩せぎすの手は、あまりに恐れられて。華子の喉にて詰まっていた叫びをとうとう発させることになった。

 

「くつくつ……やっぱりこうなっちゃったか」

 

 残念そうに高子が呟いた言葉は、チャンネル不一致のために、ノイズと成って華子に届くことはない。不気味な嗤い声だけを最後に残して、彼女は消えた。闇となって、窓ほど空いた隙間ごと何もなかったかのように、嗤い声はもう響かない。

 

「大声出すなって、言ったろ!」

 

 そして、後に残るは少女から止めどなく溢れる叫び声ばかり。クローズド・サークルの中で起きたホラーを知らない加害者の男は、それにただ怒りを覚えて怒鳴る。しかし、そんな矮小な威嚇などで、もう華子は怯えない。なにしろ、もっと怖い怪人が先程まで目の前にあったのだから。

 

「いや、いやぁああ!」

「くっ、どうしたってんだよコイツ。この、打つぞ。いいのか? くそ、このっ!」

「ぐ、うう。やああぁ!」

 

 そして、うっ血した左頬は、抵抗むなしくまた叩かれる。しかし、痛みに止まるでもなく華子のがむしゃらといっていい何かに対する抗いは続いて、一時男は突き放されて倒れてしまったくらいだ。

 それでも、大人と子供の力の差は大きく。暴れる両手足は男の四肢にて拘束され、叫び続ける口元は大きな手で塞がれた。無論、そんな非道は華子の中で爆発した恐怖を更に煽るだけであったが。

 

「むぅー……うぅー……」

「この、この……泣き止まねえ、どう……すれば」

 

 男が手放せば、また近所全体に響くくらいに叫び声が轟くだろう。短針が天辺を迎えたこんな夜間。独り者の家から子供の大声が聞こえてくるのはおかしいと思われるに違いない。

 どうすれば。短慮な男の考えは上手く纏まることなく、マシな方から潰れていき。そうして最悪ばかりが残った。そして、それを行うために、男の手は空の洗面器へと伸びて行く。

 

「くそ、お前が、悪いんだからな」

 

 自身の悪逆を忘れ、他人に行為の責任をなすりつける、男はあまりに愚かだった。彼は片手で至近にあった蛇口から水を出して、それを洗面器の中へと充満させる。そして、溜まりきるのを待たず、彼は水の中に華子の頭を突っ込んだ。

 

「ゴボゴボ」

 

 顔面一杯水中に没し、騒ぐのも呼吸するのも封ぜられた華子は慌てた。しかし、今は錠と鎖以上に、男の両腕が強く彼女の動きを戒めている。暴れても、空気を吸えずに華子は陸上で溺れた。このままだと程なく、彼女は亡くなってしまうだろう。男の望み通りに。

 加虐趣味がないという自己認識は、果たして正しかったのだろうか。男の顔は怒りに歪んでいて、まるで笑っているかのようだった。

 

 加害者の視線はさ迷う。

 上から下へとずれていき、止まることなく左右にぶれる。焦点なんて、とっくに合ってはいなかった。

 見定める力なんてなく、だから過小に他人を評価する。その恐ろしさを、彼は知らなかった。

 

 暴れる少女が怪人と繋がりを持ってしまっているということを知らずに、その縁が呪いとして命取りに繋がることも想像出来ずに、ただ必死に少女の殺害を目論む。

 

「ぐわっ!」

 

 だから、横槍に気付くことも出来ずに、男は細い足に蹴り飛ばされて、真白いバスパネルに身体を強かにぶつけることとなった。

 

「ゲホ、ゲホッ」

「……ギリギリセーフ、ってところかな?」

 

 そして、寸でのところで呪いは届き。力の天秤は残酷なまでに逆しまへと傾いた。

 

 

 


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